(第23回)



説教日:1999年10月31日
聖書箇所:マタイの福音書22章34節〜40節


 私たちに対する神さまのみこころは、すべて、神さまの永遠の聖定から出ています。そして、私たちに関する神さまの永遠の聖定の根底にあるのは、私たちに対する神さまの無限、永遠、不変の愛です。ですから、私たちに対する神さまのみこころのいちばん奥にあって、すべてのみこころを貫いているのは、私たちに対する神さまの無限、永遠、不変の愛です。それで、神さまが私たちに願っておられる第一のことは、私たちが神さまの愛をしっかりと受け止め、その愛のうちに生きるようになることです。
 神さまは、ご自身の愛に基づく永遠の聖定において、私たちを「御前で聖く、傷のない者」とし、「ご自分の子」としてくださるように定めてくださいました。私たちがご自身の御前に近づいて、ご自身との愛の交わりに生きる神の子どもとしての身分を持つように定めてくださったのです。さらに、神さまは、永遠の聖定において、神の子どもとしての私たちの実質が「御子のかたちと同じ姿」となるように定めてくださいました。

 神さまは、ご自身の永遠の聖定を、天地創造の御業と贖いの御業を通して実現してくださいました。
 神さまは、天地創造の初めに、人間を「神のかたち」にお造りになりました。人間は「神のかたち」としての聖さと義を持つものに造られていますので、神さまの御前に近づくことができます。また、神さまの本質的な特性は愛です。人間は愛である神さまの「かたち」に造られているので、人間の本質的な特性も愛です。それで、人間は、神さまとの愛にある交わりのうちに生きることができます。
 すでにお話ししてきましたように、「神のかたち」の本質は、自由な意志を持つ人格的な存在であることにあります。「神のかたち」に造られている人間は、自分の考えや生き方を自分自身の意志で決定する自由を持っており、そのようにする責任を負っています。そのことのうちに、「神のかたち」としての人間の栄光と尊厳性があります。
 「神のかたち」に造られている人間は、自由な意志を与えられていますので、誰かを愛することができます。そのような意志の自由がないロボットのような存在からは、人格的な愛は生まれてきません。人間が自由な意志を持つ人格的な存在に造られているのは、人間が神さまとの愛の交わりに生きるようになるためです。言い換えますと、私たちが「神のかたち」に造られているのは、私たちが自分の自由な意志によって、神さまを愛し、神さまとの愛の交わりに生きるようになるためです。

 そのような意志の自由を与えられている私たちが、自分の思想や信条、すなわち、考えていることや信じているところに従って自分のあり方や生き方を決定する自由のことを、「良心の自由」と呼びます。──特に、私たちは、自分の信仰に従って生きますので、それを「信仰の良心の自由」と呼ぶことがあります。
 「神のかたち」に造られていて、人格的な存在である私たちには、意志の自由が与えられています。その自由な意志は、私たち自身の思想や信条に従って働きます。自分の考え方や信じているところに従って、自分で考え、行動し、生きることに、良心の自由があります。
 ですから、良心の自由は、意志の自由を土台として、さらに、その自由な意志を導く自分自身の思想や信条があって初めて成り立ちます。もし私たちが、自分の思想や信条をもっていなければ、良心の自由はありません。
 「神のかたち」に造られている人間の自由は、この「良心の自由」を中心とする自由です。人間の良心の自由がこのようなものであれば、良心の自由を中心とする人間の自由は、何でも好きなことをすることができる自由ということではありません。私たちの良心の自由は、「神のかたち」としての人間の良心の自由です。
 それがどういうことかを理解するために、一つの問題を考えてみましょう。「善いことだけをするというのは窮屈である。善いことも悪いこともする方が幅があって、より自由な状態である。」というような考え方があります。これは、世間では普通の考え方です。そこから、「クリスチャンは悪いことができないから、窮屈で、不自由である。」というようなことさえ言われます。このような考え方に対して、どのように答えたらいいのでしょうか。

 自由は、何ものによっても束縛されないところにあると考えられがちです。けれども、実際には、そのような、何の規制もない自由はありません。たとえば、魚は、水の中にあって初めて自由に泳ぎ回ることができます。「水の中にいなくてはならない。」という束縛を越えて、陸の上に上がるとしますと、たちまち自由を失ってしまいます。
 それは、「魚に限界があるからだ。」と言われるかもしれません。確かに、魚には「水の中にいなくてはならない。」という限界があります。けれども、その限界の中でこそ、魚は自由であることができるのです。ですから、その限界が魚を不自由にさせているわけではありません。
 さらに、何の限界もない、いわば、絶対的な自由をもっておられる神さまのことを考えてみましょう。人間は、さまざまな能力の限界がありますので、何でも自由にできるわけではありません。自分で空を飛ぶことはできないし、自分の背丈を一センチでも伸ばすこともできません。けれども、全知全能の神さまは、どのようなことでも、おできになります。神さまを外側から規制し、制限を加えるものは何もありません。神さまは絶対的に自由な方です。
 そうであれば、たとえば、神さまは、ご自身がお造りになった人間をおもちゃのように扱って、気ままに、生かしたり殺したりすることができるかと言いますと、そのようなことはおできにななりません。それでは、「神さまの自由は絶対的な自由ではないのではないか。」と言われるかも知れません。しかし、神さまの自由は絶対的な自由です。
 神さまが、人間をおもちゃのように扱って、気ままに、生かしたり殺したりすることがおできにならないのは、神さまの本質的な特性が愛であるからです。
 神さまの能力という点では、神さまはどのようなことでもおできになります。一瞬のうちにこの宇宙を無にすることもおできになります。けれども、その全能の力は、常に神さまのご意志(みこころ)にしたがって働きます。そのようなことは絶対にありえないのですが、もし、神さまの力が神さまのご意志に反して「暴走」するようなことがあるとしたら、神さま以上の力があるということになり、神さまには絶対的な自由はなくなります。
 さらに、神さまの本質的な特性は愛です。神さまは、ご自身の本質的な特性である愛に従って、すべてのことを意志されます。もし、神さまの意志が、ご自身の本質的な特性である愛に反して働くようなことがあるとしたら、神さまには完全な意志の自由はない、ということになってしまいます。
 先ほどの、魚が水の中にあることによって自由であることができるということも、魚の本質的な特性が、水の中にあって生きることにあるからです。そのような、魚の本質的な特性に反して、陸の上に上がってしまえば、たちまち、魚はその自由を失ってしまいます。
 ですから、自由であるということは、自らの本質的な特性を十分に表現することにあるのであって、自らの本質的な特性に反するようなことをする(しなくてはならない)ときには、自由であるとは言えないのです。
 そうであれば、愛を本質的な特性とする「神のかたち」として造られている人間の自由は、「神のかたち」の本質である意志の自由をもつ人格的な存在であることから生まれてくる、愛のうちに生きることにあります。それが、「神のかたち」としての人間の良心の自由を全うすることです。

 神さまは、天地創造の初めに、人間を「神のかたち」にお造りになりました。このことは、すべての人間を、最も深いところで規定しています。
先ほどの例で、魚が水の中にあるべきものであることが、魚のあり方を最も深いところで規定しているのと同じくらい、神さまとの愛の交わりのうちに生きることが、「神のかたち」に造られて、自由な意志を持つ人格的な存在である人間のあり方を最も深いところで規定しているのです。
 それで、聖書は、人間のいのちが、造り主である神さまとの愛にある交わりのうちにあると教えています。イエス・キリストは、父なる神さまへの祈りの中で、

その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。
ヨハネの福音書17章3節

と言われました。この「あなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。」の「知ること」は、ヘブル的な発想での「知ること」で、「愛による交わりの中で知ること」です。また、詩篇36篇9節では、

いのちの泉はあなたにあり、
私たちは、あなたの光のうちに光を見るからです。


と歌われています。
 そのように、「神のかたち」に造られている人間を最も深いところで規定しているのは、造り主である神さまとの愛にある交わりに生きることです。魚を生かす環境が水の中であるように、「神のかたち」に造られている人間を生かす「環境」は、造り主である神さまとの愛にある交わりです。
 それで、神さまは、「神のかたち」である人間の本性の中に、すなわち、人間の心に、「愛の律法」を書き記してくださいました。人間の心に神さまの律法が記されていることは、ローマ人への手紙2章14節、15節で、

律法を持たない異邦人が、生まれつきのままで律法の命じる行ないをするばあいは、律法を持たなくても、自分自身が自分に対する律法なのです。彼らはこのようにして、律法の命じる行ないが彼らの心に書かれていることを示しています。彼らの良心もいっしょになってあかしし、また、彼らの思いは互いに責め合ったり、また、弁明し合ったりしています。

と言われていることに示されています。
 そして、イエス・キリストは、神さまの律法について、

「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。」これがたいせつな第一の戒めです。「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。
マタイの福音書22章37節〜40節

と言われました。神さまの律法は、

心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。

という第一の戒めと、

あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。

という第二の戒めに集約されるというのです。
 神さまの律法は、「愛の律法」です。神さまと隣人の愛を受け入れ、神さまと隣人を愛することを求める律法です。それは、「神のかたち」に造られている人間の本質的な特性が愛であるからです。愛を本質的な特性とする「神のかたち」に造られ、神さまとの愛の交わりのうちに──すなわち、神さまとの契約関係の中に──造り出された人間にとって、神さまと隣人を愛することは、最も自然なことであるのです。神さまと隣人を愛することは、「神のかたち」としての本質的な特性の自然な現われであるのです。
 「神のかたち」に造られている人間にとって、神さまと隣人を愛することは、外側からの規制(外側から要求されること)ではなく、自分自身の内側からの規制(自然な要求)です。それが、「愛の律法」が「神のかたち」の本性に──人間の心に書き記されているということです。

 先ほど、絶対的な自由をもっていらっしゃる神さまのことをお話ししました。
 それを繰り返しますと、神さまは、絶対的な自由を持っておられますが、ご自身がお造りになった人間をおもちゃのように扱って、気ままに、生かしたり殺したりすることはおできになりません。それは、神さまの本質的な特性が愛であるからです。神さまの能力という点では、全知全能の神さまは、一瞬のうちにこの宇宙を無にすることもおできになります。けれども、その全知全能の力は、常に神さまのご意志にしたがって働きます。もし、神さまの力が神さまのご意志に反して「暴走」するようなことがあるとしたら、神さまには絶対的な自由はなくなります。
 さらに、神さまの本質的な特性は愛です。神さまは、ご自身の本質的な特性である愛に従って、すべてのことを意志されます。もし、神さまの意志が、ご自身の本質的な特性である愛に反して働くようなことがあるとしたら、神さまには完全な意志の自由はない、ということになってしまいます。
 同じことは、愛を本質的な特性とする「神のかたち」に造られている人間にも当てはまります。愛を本質的な特性とする「神のかたち」に造られている人間にとって、神さまと隣人を愛することは、外側からの規制(外側から要求されること)ではなく、自分自身の内側からの規制です。「神のかたち」に造られている人間の自由な意志が、自分自身の本質的な特性である愛によって導かれているのです。
 このように、自分の自由な意志が、自分自身の本質的な特性である愛によって、あるいは、自分自身のうちにある「愛の律法」によって導かれている状態にあるとき、私たちは良心の自由を発揮している状態にあります。

 ところが、人間は、実際には、造り主である神さまに対して罪を犯して堕落してしまいました。そのために、人間の本性が罪によって腐敗してしまい、さまざまな罪を犯すようになってしまいました。特に、愛を本質的な特性とする神さまの「かたち」としての本性が、罪によって腐敗してしまいました。──愛がなくなってしまったのではなく、愛が罪の自己中心性によって歪められてしまったのです。
 先ほど引用しました、ローマ人への手紙2章15節では、

彼らはこのようにして、律法の命じる行ないが彼らの心に書かれていることを示しています。彼らの良心もいっしょになってあかしし、また、彼らの思いは互いに責め合ったり、また、弁明し合ったりしています。

と言われていました。言うまでもなく、これは、罪のために自分自身の中に分裂が生じて、良心の自由が損なわれている状態にある人間の姿を記しています。
 「神のかたち」に造られている人間の本性には、「愛の律法」が記されています。それは、隣人との関係では、

他の人を愛する者は、律法を完全に守っているのです。「姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな。」という戒め、またほかにどんな戒めがあっても、それらは、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」ということばの中に要約されているからです。愛は隣人に対して害を与えません。それゆえ、愛は律法を全うします。
ローマ人への手紙13章8節〜10節

ということになります。何か悪いことをした時に良心が痛むのは、自分自身のうちにある「愛の律法」が良心を導いて、自分自身を告発するからです。

 このように、愛を本質的な特性とする「神のかたち」に造られている人間にとって、自由とは、神さまと隣人を愛するという自分自身のうちにある「愛の律法」に従って、「神のかたち」の本質的な特性である愛を十分に表現することのうちにあります。──その意味で、「愛の律法」は、また、「自由の律法」(ヤコブの手紙1章25節、2章12節)でもあるのです。
 ところが、私たちの罪は、「神のかたち」の本質的な特性である愛を自己中心的に歪めて、腐敗させるものですから、私たちを自由にするどころか、イエス・キリストが、

罪を行なっている者はみな、罪の奴隷です。
ヨハネの福音書8章34節

と言われるように、私たちを奴隷化するものです。
 このことは、そのまま、先ほどの、「善いことだけをするというのは窮屈である。善いことも悪いこともする方が幅があって、より自由な状態である。」というような考え方に対する聖書の御言葉に基づく答となります。──愛を本質的な特性とする「神のかたち」に造られている人間にとって、愛を生み出さない自由は本当の自由ではないのです。
 しかし、聖書の御言葉に基づく答は、それで終わるものではありません。というのは、聖書の御言葉は、神さまが、御子イエス・キリストの十字架の死をもって、私たちの罪を完全に清算してくださり、私たちを罪と死の力から贖い出してくださったことを、私たちに伝えているからです。ここには、積極的な答があります。
 神さまは、御子イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いを通して、私たちの罪を完全に清算してくださり、私たちを「神のかたち」の本来の姿に回復してくださいました。私たちのうちに「神のかたち」の本質的な特性である愛を回復してくださり、「愛の律法」が私たちの自由な意志を導くようにしてくださいました。そして、私たちをご自身のと愛の交わりのうちに生かしてくださっておられます。
 これは、私たちが、「神のかたち」に造られている人間の本来の「良心の自由」を持つものへと回復されていることを意味しています。
 このことに基づいて、ガラテヤ人への手紙5章1節では、

キリストは、自由を得させるために、私たちを解放してくださいました。ですから、あなたがたは、しっかり立って、またと奴隷のくびきを負わせられないようにしなさい。

と言われています。そして、13節では、

兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。
と戒められています。

 私たちは、これらの点において、いまだ完全なものとなってはいませんが、神さまは、必ず、これを完成に至らせてくださいます。なぜなら、それが、神さまの永遠の聖定において定められた、私たちを「御前で聖く、傷のない者」とし、「ご自分の子」としてくださることと、神の子どもとしての私たちの実質が「御子のかたちと同じ姿」となることが実現することだからです。


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