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説教日:1999年10月17日 |
私たちに対する神さまのみこころは、すべて、神さまの永遠の聖定から出ています。そして、私たちに関する神さまの永遠の聖定の根底にあるのは、私たちに対する神さまの無限、永遠、不変の愛です。 神さまは、ご自身の愛に基づく永遠の聖定において、私たちを「御前で聖く、傷のない者」とし、「ご自分の子」としてくださるように定めてくださいました。これによって、私たちがご自身の御前に近づいて、ご自身との愛の交わりに生きる神の子どもとしての身分を持つように定めてくださいました。さらに、神さまは、永遠の聖定において、神の子どもとしての私たちの実質が「御子のかたちと同じ姿」となるように定めてくださいました。 天地創造の御業は、神さまが永遠の聖定を実現してくださるための御業でした。神さまは、私たちに関する永遠の聖定を実現してくださるために、人間を「神のかたち」にお造りになり、人間の心にご自身の律法を書き記してくださいました。これによって、人間をご自身との契約関係にあって生きる者としてくださいました 親と子の間に通わされる愛は、誕生によって成り立つ親子関係に基づいています。夫と妻の間に通わされる愛は、結婚によって成り立つ夫婦関係に基づいています。そのように、人格的な存在の間に通わされる愛は、それが一時的なものでないなら、何らかの永続する「関係」に基づいて通わされるものです。神さまと私たちの間の愛の通わしは、神さまの契約による「契約関係」に基づくものです。 今、私たちが神の子どもとしての身分を与えられているのは、神さまが、御子イエス・キリストが十字架の上で流された血によって確立してくださった契約に基づくことです。また、今、私たちが神さまとの愛の交わりの中に生きているのも、同じ契約に基づくことです。 私たちが神の子どもとしての身分を与えられたのが、御子イエス・キリストの血によって確立された契約によるということに、違和感を覚える方がおられるかもしれません。それは、子どもであることは誕生によると考えるからでしょう。 確かに、ヨハネの福音書1章12節、13節では、 しかし、この方[イエス・キリスト]を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。この人々は、血によってではなく、肉の欲求や人の意欲によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。 と言われています。また、イエス・キリストが、ユダヤ人の指導者であるニコデモに、 まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。 ヨハネの福音書3章3節 と言われたように、十字架にかかって死んでくださった神の御子イエス・キリストを信じて救われている者は、みな、新しく生まれています。 けれども、ここでは、「神によって生まれ」て「神の子どもとされる特権」を与えられているということの意味を注意深く、慎重に考えなくてはなりません。というのは、「神によって生まれた」「神の子ども」ということによって、無限、永遠、不変の神さまと、神さまによって造られた私たち人間との間にある「絶対的な区別」が曖昧にされてしまってはならないからです。 ヨハネの福音書1章12節、13節の御言葉に基づいて、私たちが「神によって生まれた」と言うことは正しいことです。けれども、そのことから、神さまが上におられ、私たちが下にあるというように、私たちと神さまの間に上下の段階的な区別しかないかのように考えられてしまってはならないのです。罪によって造り主である神さまを見失ってしまっているだけでなく、「神」と人間の区別が曖昧にされてしまっている日本の文化の中で育ってきた私たちには、神さまを自分たちと余り変わらない方のように考えてしまう危険があります。 無限、永遠、不変の神さまから生まれた「神の御子」は、ご自身が無限、永遠、不変の神であられる御子イエス・キリストお一人です。── 厳密に言いますと、御子がお生まれになったのは、この世界の時間の流れの中でのことではありませんから、「御子がお生まれになった時」はありません。御子は、永遠に「御父から生まれた方」です。 先ほどの、ヨハネの福音書1章12節では、 この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとされる特権をお与えになった。 と言われていました。ギリシャ語の原文では、この「神の子ども」(複数形)という言葉(テクナ・トゥー・セウー)は、御子イエス・キリストを表わすときに用いられる「神の御子」という言葉(ホ・フイオス・トゥー・セウー)とは違います。ここでは、ご自身が無限、永遠、不変の神であられる御子イエス・キリストと、「神によって生まれた」「神の子ども(たち)」が、区別されています。 また、コリント人への手紙第二・5章17節では、 だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。 と言われています。これは、イエス・キリストにあって、その贖いの御業にあずかって新しく生まれている人のことを述べているものです。つまり、私たちが「新しく生まれる」のは、神さまの再創造の御業によることなのです。 神さまは、イエス・キリストが十字架にかかって私たちの罪をすべて贖ってくださり、完全に清算してくださったことに基づいて、私たちを新しく造ってくださいました。そして、イエス・キリストが、渡される夜に、 これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。 マタイの福音書26章28節 と言われましたように、私たちが、イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いにあずかるのは、イエス・キリストの血による新しい契約によっています。 このように、私たちは、イエス・キリストがご自身の一方的な恵みによって流してくださった血によって確立してくださった新しい契約にあずかって、罪を贖っていただいています。そして、その罪の贖いに基づいて新しく造られることによって、新しく生まれ、神の子どもとしての身分を与えられています。ですから、私たちが神の子どもとしての身分を与えられているのは、御子イエス・キリストの血によって確立されている新しい契約によっています。 後ほど触れますが、私たちが、イエス・キリストの血による新しい契約によって神の子どもとしての身分を与えられていることは、聖書の中では、私たちは「養子」とされた神の子どもであるという形で示されています。 このことと関連して、神さまがアブラハムを通して与えてくださった、一般に「アブラハム契約」と呼ばれている契約の祝福についてのパウロの教えを見てみましょう。 「アブラハム契約」は、「相続人である子」に関する契約です。ご存知のように、アブラハムとサラの間には、子どもがありませんでしたが、創世記17章15節〜17節に記されていますように、神さまは、アブラハムが百歳でサラが9十歳の頃に、イサクが生まれる約束をしてくださいました。そして、そのイサクについては、 すると神は仰せられた。「いや、あなたの妻サラが、あなたに男の子を産むのだ。あなたはその子をイサクと名づけなさい。わたしは彼とわたしの契約を立て、それを彼の後の子孫のために永遠の契約とする。」 創世記17章19節 と約束してくださいました。 これを受けて、ローマ人への手紙4章13節では、 というのは、世界の相続人となるという約束が、アブラハムに、あるいはまた、その子孫に与えられたのは、律法によってではなく、信仰の義によったからです。 と言われています。そして、16節〜25節では、 そのようなわけで、世界の相続人となることは、信仰によるのです。それは、恵みによるためであり、こうして約束がすべての子孫に、すなわち、律法を持っている人々にだけでなく、アブラハムの信仰にならう人々にも保証されるためなのです。「わたしは、あなたをあらゆる国の人々の父とした。」と書いてあるとおりに、アブラハムは私たちすべての者の父なのです。このことは、彼が信じた神、すなわち死者を生かし、無いものを有るもののようにお呼びになる方の御前で、そうなのです。彼は望みえないときに望みを抱いて信じました。それは、「あなたの子孫はこのようになる。」と言われていたとおりに、彼があらゆる国の人々の父となるためでした。アブラハムは、およそ百歳になって、自分のからだが死んだも同然であることと、サラの胎の死んでいることとを認めても、その信仰は弱りませんでした。彼は、不信仰によって神の約束を疑うようなことをせず、反対に、信仰がますます強くなって、神に栄光を帰し、神には約束されたことを成就する力があることを堅く信じました。だからこそ、それが彼の義とみなされたのです。しかし、「彼の義とみなされた。」と書いてあるのは、ただ彼のためだけでなく、また私たちのためです。すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、その信仰を義とみなされるのです。主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。 と言われています。 ここでは、「アブラハム契約」の祝福が、「約束の子」イサクをひな型として示された、「世界の相続人」となることにあることが示されています。そして、23節〜25節で、 しかし、「彼の義とみなされた。」と書いてあるのは、ただ彼のためだけでなく、また私たちのためです。すなわち、私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる私たちも、その信仰を義とみなされるのです。主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。 と言われていますように、「アブラハム契約」の祝福にあずかっている「世界の相続人」とは、「私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられた」「私たちの主イエスを死者の中からよみがえらせた方を信じる」信仰によって義と認められた者のことであることが示されています。──言い換えますと、「アブラハム契約」はイエス・キリストの血による新しい契約において成就しており、「アブラハム契約」の祝福は、イエス・キリストの贖いの御業によって実現しているということです。 ローマ人への手紙の流れでは、この後、信仰によって義と認められた者が「アブラハム契約」の祝福にあずかっている「世界の相続人」である、ということのうち、まず、信仰によって義と認められた者についての教えがあります。その間、「世界の相続人」であることは、一旦、背後に退いています。そして、8章14節から、「世界の相続人」のテーマが取り上げられています。8章14節〜17節では、 神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父。」と呼びます。私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。 と言われています。 ここに、一旦、背後に退いていた「世界の相続人」であることのテーマが、再び取り上げられています。その意味で、8章14節から、「相続人」である「神の子ども」のことが出てくるのは、決して、突然のことではありません。 15節には「子としてくださる御霊」(プニューマ・フイオセシアス)という言葉が出てきますが、厳密に言いますと、これは「養子としてくださる御霊」です。このことは、私たちが子とされることがイエス・キリストの血による新しい契約に基づく「養子縁組」であることを示しています。 すでに、4章では、「アブラハム契約」の祝福にあずかる「相続人」である「神の子ども」は、イエス・キリストを信じる信仰によって義と認められた者のことであることが示されていました。これは、いわば、「相続人」である「神の子ども」としての「身分」のことです。 これに対しまして、この8章14節〜17節では、「相続人」である「神の子ども」の「実質」のことが中心となっています。そして、私たちのうちに、「相続人」である「神の子ども」の実質を生み出してくださるのは、「神の御霊」であると言われています。 このことを受けて、続く18節〜23節では、 今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。 と言われています。 ここに述べられていることは、天地創造の初めに「神のかたち」に造られた人間に「歴史と文化を造る使命」が委ねられたことと、「歴史と文化を造る使命」を委ねられた人間が罪を犯して堕落してしまったことによって、「神のかたち」に造られている人間との一体にある「被造物が虚無に服した」ことを背景としています。そして、もし、「神のかたち」に造られた人間が、その罪を贖われて「神のかたち」の本来の姿を回復された神の子どもとして現われてくるなら、「被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられ」ると言われています。 このことを、「アブラハム契約」の祝福にあずかっている「世界の相続人」ということとの関わりで見ますと、「世界の相続人」が相続する「世界」とは、実は、天地創造の初めに「神のかたち」に造られた人間に委ねられている「被造物」「世界」のことであることが分かります。 「アブラハム契約」の祝福は、神さまがアブラハムに語られた、 わたしは、この、わたしの契約を あなたと結ぶ。 あなたは多くの国民の父となる。 あなたの名は、 もう、アブラムと呼んではならない。 あなたの名はアブラハムとなる。 わたしが、あなたを多くの国民の 父とするからである。 わたしは、あなたの子孫をおびただしくふやし、あなたを幾つかの国民とする。あなたから、王たちが出て来よう。わたしは、わたしの契約を、わたしとあなたとの間に、そしてあなたの後のあなたの子孫との間に、代々にわたる永遠の契約として立てる。わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神となるためである。わたしは、あなたが滞在している地、すなわちカナンの全土を、あなたとあなたの後のあなたの子孫に永遠の所有として与える。わたしは、彼らの神となる。 創世記17章4節〜7節 という言葉に示されています。 神さまが委ねてくださった「歴史と文化を造る使命」の、 生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。 という言葉に沿うように、人類は地に増え広がりました。けれども、その一方で、それは、創世記11章1節〜9節に記されているバベルでの出来事のように、人間の罪に対する神さまのさばきの結果としての分散で、分裂と対立を伴うものでした。 しかし、そのように散らされた諸国の民の中から、「アブラハム契約」の祝福にあずかって神の子どもとなる人々が現われてくるようになるというのです。その人々は、存在としては諸国に散らされたままでしょうが、「アブラハム契約」の祝福との関わりでは、「世界の相続人」として、散っているのです。それは、いわば、「生めよ。ふえよ。地を満たせ。」という「歴史と文化を造る使命」が、本来の姿に回復されていることを意味しています。それによって、当然、「地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」という「歴史と文化を造る使命」の戒めも、本来の姿に回復されて実現していくことが期待されます。 そのようなわけで、アブラハムに約束されている「カナンの全土」は、「アブラハム契約」の祝福にあずかっている神の子どもたちが相続する「被造物」「世界」を指し示す、地上的なひな型でした。 さらに、「アブラハム契約」の祝福は、それで終わるものではありません。先ほどの創世記17章7節で、 わたしがあなたの神、あなたの後の子孫の神となるためである。 と言われていますように、神さまが「アブラハム契約」を与えてくださった目的は、神さまが「アブラハム契約」の祝福にあずかって神の子どもとされた私たちとともにいてくださり、私たちをご自身との交わりに生かしてくださることにあります。そして、神の子どもたちが相続する「世界」は、神さまの御臨在があり、神さまと神の子どもたちの愛による交わりがなされる「世界」のことです。 私たちは、御子イエス・キリストが十字架の上で流された血による罪の贖いによって実現してくださった「アブラハム契約」の祝福にあずかって「世界の相続人」である神の子どもとされています。 それとともに、私たちが「アブラハム契約」の祝福にあずかって、「世界の相続人」である神の子どもとされていることは、天地創造の初めに人間を「神のかたち」にお造りになって、「歴史と文化を造る使命」を委ねてくださった神さまの創造の御業の目的を実現することです。 それは、さらに、神さまが永遠の聖定において、私たちを「御前で聖く、傷のない者」とし、「ご自分の子」としてくださるように定めてくださり、神の子どもとしての私たちの実質が「御子のかたちと同じ姿」となるように定めてくださったみこころを実現することです。 |
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