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説教日:1999年10月10日 |
神さまは、永遠の聖定において、私たちを「御前で聖く、傷のない者」とし、「ご自分の子」としてくださるように定めてくださいました。これによって、私たちがご自身の御前に近づいて、ご自身との愛の交わりに生きる神の子どもとしての身分を持つように定めてくださったのです。 さらに、神さまは、永遠の聖定において、神の子どもとしての私たちの実質が「御子のかたちと同じ姿」となるように定めてくださいました。 すべては、私たちに対する、神さまの愛から出ています。神さまの永遠の聖定を導いているのは、神さまの愛です。神さまは、永遠の聖定において定められたみこころを、創造の御業と贖いの御業を通して実現してくださいました。創造の御業を導いているのは神さまの愛ですし、贖いの御業を導いているのも神さまの愛です。 私たちは神さまの御手によって造られたものですから、無限、永遠、不変の神さまと絶対的に区別されます。神さまは、その存在ばかりでなく、あらゆる点において、無限、永遠、不変の方です。それで、神さまの愛も無限、永遠、不変です。これに対しまして、私たちは、あらゆる点において、有限であり、時間的であり、変化してゆくものです。私たちの存在も、また、愛も有限であり、時間の流れとともに変化していくものです。 あらゆる点において、有限であり、時間的であり、変化してゆくものである私たちは、神さまの無限、永遠、不変の存在がどのような存在であるかを理解することができません。それと同じように、神さまの無限、永遠、不変の愛がどのような愛であるかをも理解することができません。 人間同士の場合であっても、私たちは、自分に示されている愛に気がつくことができないことがよくあります。また、気がついたとしても、自分の受け止め方が浅いために、受けている愛にふさわしい受け止め方ができないことも珍しいことではありません。まして、私たちが、神さまの無限、永遠、不変の愛を、そのまま、何の曇りもなく受け止めるというようなことは、全く不可能なことです。 そのために、神さまは、私たちの限界に合わせて、私たちに分かるようにご自身の愛を私たちに表わしてくださっておられます。私たちは、神さまが私たちの限界に合わせて、私たちに分かるように表わしてくださっている愛を受け止めるほかはありません。 神さまの愛は無限、永遠、不変です。神さまは、その愛をもって私たちを愛してくださっておられます。けれども、私たちはその愛がどれほどのものであるかを、自分自身の限界の中でしか受け止めることはできません。そのことは、私たちが神さまによって造られたものである以上避けることができないこと、やむを得ないことです。神さまが、そのことで私たちを責めるようなことは決してありません。むしろ、神さまは、私たちに合わせて、私たちに分かるように、ご自身の愛を表わしてくださいます。 キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。 ヨハネの手紙第一・3章16節 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。 ヨハネの手紙第一・4章9節、10節 このように、御子イエス・キリストを通して表わされた神さまの愛は、神さまがご自身の愛を、私たちに合わせて、私たちに分かるように表わしてくださったものです。 もちろん、それは、私たちの罪の贖いのためであり、私たちをご自身との愛の交わりのうちに生きる者として回復してくださるためのことですが、その贖いの御業を導いているのは、神さまの無限、永遠、不変の愛です。 神さまが私たちに合わせて、私たちに分かるように、ご自身の愛を示してくださっておられるので、私たちは、神さまの愛を受け止めることができます。また、その愛を受け止めることが、私たちと神さまとの交わりの初めとなります。 その際、私たちは、私たちにはそのまま受け止めることはできないけれど、神さまの私たちに対する愛は、私たちの思いをはるかに超えた、無限、永遠、不変の愛であるということを、心に留めておく必要があります。神さまの愛を、有限な私たちの狭い心の枠の中に閉じこめてしまってはならないのです。 狭い窓枠から見ることができる景色は限られています。そこから見える景色がどんなにきれいであっても、実際の景色は、それ以上の広がりをもっています。私たちが、自分の限界の中で神さまの愛を受け止めるというのも、それと同じようなものです。 ちょうど、窓から見える景色の素晴らしさに感動するように、私たちは、私たちが受け止めることができた神さまの愛に感動します。 私たちが神の子どもと呼ばれるために、──事実、いま私たちは神の子どもです。──御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。世が私たちを知らないのは、御父を知らないからです。 ヨハネの手紙第一・3章1節 この「御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。」の「どんなにすばらしい」と訳されている言葉(ポタポス)は、「どこの国からの」というような意味合いを伝えています。自分たちの間には見られないほど素晴らしいものであるので、驚いて「どこの国から来たの」と問いかけるような感じです。私たちは、御子イエス・キリストを通して示してくださった神さまの愛の大きさと深さに、ただただ驚き、感動するだけです。 けれども、私たちの驚きと感動がどんなに深くても、それで、私たちが神さまの愛の深さと広がりのすべてを見通しているわけではありません。また、やがて、見通してしまう時が来るということもありません。逆に言いますと、私たちにとって、神さまの愛は、永遠に、常に新鮮であり、常に底知れない深さを持った愛であり続けます。 ですから、私たちは、私たちの罪のために十字架にかかってくださった御子イエス・キリストを通して示してくださった神さまの愛に心を動かされ、揺さぶられる時に、なおも、その愛には、見通すことができない深さと広がりがあることを実感します。その愛を十分に受け止めきることのできない自分であることの前に、謙虚にされます。同時に、神さまが、そのような私たちを、無限、永遠、不変の愛をもって愛してくださっていることの前に、頭をたれて、深い感謝の思いに満たされます。 私たちに対する神さまのみこころは、神さまが、御子イエス・キリストを通して、私たちに示してくださった、神さまの愛を受け止めて、無限、永遠、不変の神さまの愛のうちに留まることに尽きます。私たちがどのようなものであっても、また、私たちの生涯の歩みがどのようなものであっても、それが神の子どもとしての歩みであるなら、何をするよりも前に、まず、神さまの愛のうちに憩うことから始めなくてはなりません。神さまの愛のうちに憩うことは、神さまの愛を知ったことの表われです。 自分がどのようなものであっても、また、自分の歩みがどのようなものであっても、御子イエス・キリストを通して示してくださった、神さまの愛に憩うことから始めるということは、自らの罪の深さによって、自分自身に絶望してしまっている人にも、そのまま当てはまります。というより、神さまの愛が、「私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を」遣わしてくださったことを通して示されているのであれば、自らの罪によって、自分自身に絶望してしまっている人にこそ当てはまると言うべきでしょう。罪を犯して悩んでいる人は、「私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を」遣わしてくださった神さまの愛と、「私たちの罪のために、なだめの供え物」となってくださった御子イエス・キリストの恵みを仰いで、心を安らかにしていただくことができます。それは、いつでも、また、何度でも、さらに、犯した罪がどんなに深いものであっても、できることです。 そのように言いますと、「そのように甘い考えでは、罪に対するいい加減な姿勢しか生まれてこないのではないか。」というような疑問が出されます。その心配はよく分かります。パウロも、ローマ人への手紙6章1節、2節で、 それでは、どういうことになりますか。恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。絶対にそんなことはありません。 と言っています。 けれども、このことには、ある意味で、福音の本質とも言うべきことが関わっています。このことををどのように理解しているかによって、私たちの福音の理解がどのようなものであるかが分かるとも言えます。 先週も引用しました、 もし、あなたの手か足の一つがあなたをつまずかせるなら、それを切って捨てなさい。片手片足でいのちにはいるほうが、両手両足そろっていて永遠の火に投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。また、もし、あなたの一方の目が、あなたをつまずかせるなら、それをえぐり出して捨てなさい。片目でいのちにはいるほうが、両目そろっていて燃えるゲヘナに投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。 マタイの福音書18章8節、9節 というイエス・キリストの言葉が示していますように、私たちは、何としても罪を避けるべきです。 その理由は、何でしょうか。もちろんそれは、罪が神さまのみこころに背くことであるからです。ここまではよく分かります。けれども、私たちが神さまのみこころに背いてはならないということには、さらに深い意味があります。それは、「罪を犯すと、神さまが怒るから」ということではありません。神さまの怒りやさばきが怖いから罪を犯さないということにも、それなりの意味はあるでしょう。そして、実際には、それが、私たちが罪を避けることのいちばん一般的な理由かもしれません。しかし、それは、神の子どもたちが罪を避けるべきことの、本当の理由ではありません。 よく考えていただきたいのですが、罪は神さまのみこころに背くことであるというときの、神さまのみこころとは何でしょうか。その場合、神さまのみこころは、私たちが「罪を犯さないこと」にあるのではありません。罪を犯すことは神さまのみこころに背くことです。そして、罪を犯すことは神さまのみこころに背くことであるので、私たちは罪を犯すことを避けなくてはなりません。そうであるとしますと、神さまのみこころは、私たちが罪を犯さないことにあると考えたくなります。けれども、それは、間違っているとまでは言えないとしても、不十分な考え方です。 神さまのみこころは、私たちが「罪を犯さない」という、消極的なことで終わるものではないのです。私たちに対する神さまのみこころは、もっと積極的なものです。 たとえて言いますと、お母さんが自分の子どものために、かわいいいお人形を作ってあげたとします。その子どもが、お人形をすぐに壊してしまうことは、お人形を作ってあげたお母さんの思いに背くことです。けれども、お人形を作ってあげたお母さんの思いは、子どもがお人形を壊さないようにすることにあるのではありません。むしろ、そのお人形を喜び、そのお人形で遊んだりすることにあります。 すでに繰り返しお話ししてきましたように、神さまは、ご自身の永遠の聖定において、私たちを「御前で聖く、傷のない者」とし、「ご自分の子」としてくださるように定めてくださいました。そして、神の子どもとしての私たちの実質が「御子のかたちと同じ姿」となるように定めてくださいました。さらに、神さまは、この永遠の聖定において定められた「永遠のみこころ」を実行に移されて、人間を「神のかたち」にお造りになりました。これが、神さまの私たちに対するいちばん大事で、根本的なみこころです。 先週取り上げましたエペソ人への手紙4章23節、24節の言葉で言いますと、「神のかたち」に造られた人間は、「真理に基づく義と聖」という、「神のかたち」の人格的な特性を持つ者です。そして、人格的な神さまの愛と恵みに満ちた栄光を映し出すものです。 人間は、このような「神のかたち」の栄光を担うものとして、神さまの御前に近づいて、神さまとの愛の交わりのうちに生きる者として造られました。ですから、人間を「神のかたち」にお造りになった神さまのみこころは、私たちが、神の子どもとして、神さまの御前に近づいて、神さまとの愛にある交わりに生きるようになることにあります。そして、神さまの御前に近づいて、神さまとの愛にある交わりに生きることが、「神のかたち」に造られている者のいのち、すなわち、永遠のいのちの本質です。 ですから、私たちの罪が神さまのみこころに背くというときの、神さまのみこころは、私たちが、「神のかたち」の栄光を担う神の子どもとして、神さまの御前に近づいて、神さまとの愛の交わりに生きるいのちを持つことです。罪は「神のかたち」の栄光を腐敗させるものです。そして、完全な義と聖であられる神さまと、罪によって「神のかたち」の本性が腐敗してしまっている人間の交わりは、断絶してしまいます。罪が神さまのみこころに背くものであるということの意味は、この点にあります。 私たちは、「神のかたち」の栄光を担う神の子どもとして、神さまとの愛にある交わりのうちに生きるべきものです。それが、私たちが永遠のいのちを持っているということです。私たちの罪は、この神さまとの愛にある交わりを妨げるものとして、私たちを死と滅びへと転落させてしまいます。 先ほど引用しましたイエス・キリストの教えの中で、 片手片足でいのちにはいるほうが、両手両足そろっていて永遠の火に投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。 と言われている「いのち」は、神さまとの愛にある交わりを本質とする永遠のいのちのことです。また、「永遠の火に投げ入れられる」ことは、罪によって神さまとの交わりを断ち切ってしまっている者が刈り取る滅びのことです。 このように、罪が神さまとの愛にある交わりを妨げるものとして、私たちを死と滅びへと転落させてしまうものであるので、神さまは、私たちの罪を悲しまれ、さらには、私たちの罪をお怒りになります。そこには、私たちに対する神さまの愛が働いているのです。そして、私たちが罪を避けなくてはならない本当の理由も、罪が神さまとの愛にある交わりを妨げるものとして、私たちを死と滅びへと転落させてしまうものであるからであるということにあります。 私たちは、このことを踏まえたうえで、罪は神さまのみこころに背くものであるから、何としても、罪を避けなくてはならないと言っていますし、罪は神さまを悲しませるものであるから、何としても、罪を避けなくてはならないと言っているのです。あるいは、罪は神さまの怒りを引き起こすものであるから、何としても、罪を避けなくてはならないと言っているのです。── 繰り返しになりますが、これらすべてのことの背後には、神さまの、私たちに対する愛が働いています。 このことを踏まえないままに、ただ、神さまの怒りやさばきが怖いから、罪を犯してはならないと考えたり、感じたりすることは、かえって、神さまのみこころを理解しないことになってしまいます。 ですから、私たちが、どのような時にも、また、たとえ罪を犯してしまった時にも、神さまの愛の深さを理解して受け止め、神さまの愛のうちに憩うことは、私たちが罪を犯すことを助長するものではありません。 御子イエス・キリストを通して示されている、私たちに対する神さまの愛の深さに打たれた者は、その愛の前に、深い畏れの念を持つようになります。 確かに、私たちすべてには、神さまの愛と恵みにつけ込むようなところがあります。どうせ赦していただけるのだから、ということで、罪をいい加減に考える傾向があります。それで、私たちは、自分の中にあるそのような傾向を警戒しなくてはなりません。 しかし、よくよく振り返ってみますと、そのような神さまの愛と恵みにつけ込んでしまう時は、御子イエス・キリストを通して示された、神さまの愛を受け止めて、神さまの愛に対する深い畏れの念とともに、神さまの愛のうちに深い憩いを味わっている時のことではありません。それは、観念的に、神さまの愛を考えていたり、神さまは愛の神であると、漠然と考えているだけの時です。 先ほども言いましたように、私たちは、私たちの罪のために十字架にかかってくださった御子イエス・キリストを通して示してくださった神さまの愛に心を動かされ、揺さぶられる時に、なおも、その愛には、見通すことができない深さと広がりがあることを実感します。その愛を十分に受け止めきることのできない自分であることの前に、謙虚にされます。同時に、神さまが、そのような私たちを、無限、永遠、不変の愛をもって愛してくださっていることの前に、頭をたれて、深い感謝の思いに満たされます。 そのように、神さまと神さまの愛と恵みの驚くべき深さの前に、畏れの念をもって、なおも、深い感謝の中にある時には、私たちは、その神さまの愛のうちに留まり、神さまとの愛の交わりが許されている神の子どもとされていることの幸いを、深く噛みしめることができます。その時初めて、私たちは、真の意味で、罪を避ける思いと力を与えられます。 私たちが神の子どもと呼ばれるために、── 事実、いま私たちは神の子どもです。── 御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。 ・・・・ 愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします。 ヨハネの手紙第一・3章1節〜3節 |
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