(第20回)


 

説教日:1999年10月3日
  聖書箇所:エペソ人への手紙4章17節〜24節

 神さまは、永遠の聖定において、ご自身の無限、永遠、不変の愛に基づいて、私たちを「御前で聖く、傷のない者」とし、「ご自分の子」としてくださるように定めてくださいました。これは、私たちをご自身の御前に近づいて、ご自身との愛の交わりに生きる、神の子どもとしての身分を持つように定めてくださったということです。
 さらに、神さまは、神の子どもとしての身分を持つように定めてくださった私たちの実質が「御子のかたちと同じ姿」となるように定めてくださいました。
 神さまは、この「永遠のみこころ」を、創造の御業と贖いの御業を通して実行に移されました。
 天地創造の御業の中で、神さまは人間を「神のかたち」にお造りになりました。すでにお話ししましたように、「神のかたち」の本質は、自由な意志を与えられている人格的な存在であることにあります。この自由な意志によって、神さまとの愛の交わりに生きるための愛が生み出されます。



 エペソ人への手紙4章23節、24節では、

またあなたがたが心の霊において新しくされ、真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした。

と言われています。
 これは、罪を犯して堕落してしまっている人間が、イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いを通して「神のかたち」の本来の姿に回復していただくことを述べるものです。
 このことから、最初に、創造の御業によって造られた「神のかたち」の人格的な特性は、「真理に基づく義と聖」であったと考えられます。そして、その状態においては、人間の自由な意志と、そこから生み出される愛は、「真理に基づく義と聖」によって特徴づけられていたと考えられます。
 このように、「真理に基づく義と聖」という、「神のかたち」の人格的な特性を持つ者として造り出された時の人間は、「義」である状態にありました。
 ところで、「義である」ということは、基本的に、神さまとの関係が、本来の正常な関係にあることを意味しています。「神のかたち」に造られた人間が「義である」ということは、人間が、神さまの御前に立って、神さまとの愛の交わりの中に生きている状態にあるということです。
 さらに、この神さまと「神のかたち」に造られた人間の関係は、すでにお話ししましたように、契約関係です。それで、「義である」ということは、神さまとの契約関係において、本来の正常な関係にあることを意味しています。
 初めに「神のかたち」に造られた時の人間が「義である」状態にあったということは、人間が、初めから、神さまとの契約関係の中にある者として造られていることを意味しています。それで、人間には、神さまとの契約関係にあって、神さまとの愛にある交わりの中に生きるために必要な、「真理に基づく義と聖」という「神のかたち」の人格的な特性が与えられていたのです。
 きょうのお話に関わることですが、神さまの御前に「義である」状態にあるということは、神さまとの契約関係が本来の正常な関係であることを意味しています。この場合の「義」は神さまとの契約関係のあり方において「義である」ということで、「法的な義」です。
 これに対しまして、そのような、神さまとの本来の正常な関係にある人間にふさわしい、「真理に基づく義と聖」という人格的な特性の「義」は、法的に「義である」状態にある者の実質のことで「実質的な義」です。
 最初に「神のかたち」に造られた時の人間は、法的にも、実質的にも「義である」状態にありました。
 また、詳しい説明は省きますが、「真理に基づく義と聖」というときの「聖」(ホスィオテース)も、「神のかたち」の人格的な特性である実質的な聖さ(聖)です。

 さて、私たちは、今、どのような状態にあるのかということですが、私たちは、私たちの罪を贖うために十字架にかかって死んでくださったイエス・キリストを贖い主として信じています。それで、神さまが御子イエス・キリストを通して備えてくださった罪の贖いにあずかって、義と認められています。ローマ人への手紙3章21節〜24節では、

しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。

と言われています。
 義と認められている人は、神さまとの契約関係において、本来の正常な関係にあります。そのような状態にある人のことが、ローマ人への手紙5章1節では、

ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。

と言われています。また、ガラテヤ人への手紙3章26節では、

あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。

と言われています。
 私たちが「神との平和」を持っていることも、「神の子ども」であることも、「信仰によって義と認められた」こと、すなわち、神さまとの契約関係において、本来の正常な関係に回復されていることの結果です。
 私たちが「信仰によって義と認められた」ことは、法的なことですから、すでに、百パーセント私たちの現実となっています。今、私たちは徐々に義とされつつあるというようなプロセスにあるのではなく、すでに、イエス・キリストを神さまが遣わしてくださった贖い主として信じて、自分を罪あるままで、イエス・キリストにお委ねしたことによって、義と認められています。そして、その結果、「神の子ども」とされていますし、神さまとの契約関係において、本来の正常な関係にあって「神との平和を持っています」。言い換えますと、神さまの御前に立って、神さまとの愛の交わりに生きる者として回復されているということです。
 お気づきのように、このことのうちに、神さまが永遠の聖定において、私たちを「御前で聖く、傷のない者」とし、「ご自分の子」としてくださるように定めてくださったことに示されている「永遠のみこころ」が実現しています。

 これらの、いわば、法的な祝福は、神さまが一方的な恵みによって備えてくださったものを、私たちが信じて受け取った時に、百パーセント私たちのものとなっています。
 また、このような法的な祝福は、「神のかたち」の人格的な特性が罪によって汚染されているために罪を犯してしまう私たちのために、神さまが備えてくださり、私たちが御子イエス・キリストを信じた時、直ちに、また百パーセント、与えてくださったものです。ですから、たとえ私たちが罪を犯しても、私たちから取り去られることはありません。私たちは、自分の罪を悔い改めて告白するなら、いつでも、その罪を赦していただけます。ヨハネの手紙第一・1章9節で、

もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。

と言われているとおりです。
 神さまが永遠の聖定において、私たちを「御前で聖く、傷のない者」とし、「ご自分の子」としてくださるように定めてくださったことに示されている「永遠のみこころ」は、私たちの罪の現実の前でも揺らぐことはありません。
 このように、これらの法的な祝福は、神さまの一方的な恵みによって、すでに百パーセント与えられていますから、私たちは、自分がすでに義と認められていることを信じて、「神の子ども」として「神との平和」のうちを歩み続けることが大切です。
 ところが、私たちは、自分が、すでに義と認められており、神の子どもとされていること、そのために、神さまとの完全な平和を持っていることを信じることができなくなってしまうことがあります。それは、御子イエス・キリストを、神さまが備えてくださった贖い主として信じていないからではありません。また、イエス・キリストが十字架にかかってくださったことによって成し遂げられた罪の贖いが、私たちのすべての罪を贖って余りある贖いであることを信じていないからでもありません。
 むしろ、神さまがイエス・キリストを通して備えてくださった贖いが完全なものであることを信じているからこそ、自分が、すでに義と認められており、神の子どもとされていること、そのために、神さまとの完全な平和を持っていることを信じることができなくなってしまうことがあるのです。それは、神さまがイエス・キリストを通して備えてくださった完全な贖いを信じて、それにあずかっているはずの自分が、なおも、罪を犯してしまうという現実があるからです。
 しかも、私たちそれぞれには、それぞれにとって固有の弱さがあります。その弱さから、私たちの罪が表われてきます。それで、私たちは、同じような罪を繰り返しやすいものです。そのことが、一層私たちの苦しみを深くします。何度も、神さまの御前にその罪を悔い改めて告白したのに、そして、赦していただいたのに、また同じ罪を犯してしまうという苦しみです。
 そのような苦しみは、罪に対して敏感であり、罪を恐れる人が感じる苦しみです。また、常に、真実に自分のことを振り返って見る人の苦しみです。
 これに対しまして、よく耳にすることは、「そんなに真剣になって悩むことはない。神さまは愛の神なのだから、もっと気楽に考えた方がいい。」というような「解決策」です。これは、神さまを恐れないこの世の人々が考えている「解決策」をキリスト教的に焼き直したものです。神さまの愛を理由にして、自分の罪を「気楽に」受け止めることを勧めるものです。福音の御言葉には、そのような、罪のことを「気楽に」考えるようなことを勧める教えはありません。
 イエス・キリストも、

もし、あなたの手か足の一つがあなたをつまずかせるなら、それを切って捨てなさい。片手片足でいのちにはいるほうが、両手両足そろっていて永遠の火に投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。また、もし、あなたの一方の目が、あなたをつまずかせるなら、それをえぐり出して捨てなさい。片目でいのちにはいるほうが、両目そろっていて燃えるゲヘナに投げ入れられるよりは、あなたにとってよいことです。
マタイの福音書18章8節、9節

と言われて、罪は断固退けなければならないものであることを教えておられます。



 それでは、神さまが御子イエス・キリストを通して備えてくださった完全な贖いを信じて、それにあずかっているはずの自分が、なおも、罪を犯してしまうという現実があるということに対して、どのように考えたらいいのでしょうか。
 これについては、先ほどお話ししました、「法的な義」と「実質的な義」とを区別して理解する必要があります。そして、私たちの確信の根拠を、「実質的な義」ではなく「法的な義」に置くということが大切です。
 私たちがイエス・キリストを信じる信仰によって義と認められているというときの義は、「法的な義」です。また、契約関係における神さまとの関係が本来の正常な関係に回復されていること、そして、神の子どもとされており、神さまとの平和を持っていることは、すべて、法的な祝福です。これらは、すでに、神さまの一方的な恵みによって、百パーセント私たちに与えられていますし、私たちは、信仰によってそれを受け取っています。私たちは、自分が、すでに義と認められており、神の子どもとされていること、そのために、神さまとの完全な平和を持っていることへの確信の根拠を、この、神さまがすでになしてくださっていることの上に置くべきなのです。
 これに対しまして、「実質的な義」は、一度に百パーセント私たちに与えられるものではありません。「実質的な義」とは、神さまとの本来の正常な関係にある者にふさわしい「真理に基づく義と聖」という「神のかたち」の人格的な特性のことです。そのような人格的な特性は、私たちが成長し成熟するに従って、徐々に身に付けていくべきものです。
 そのことを述べているエペソ人への手紙4章22節〜24節を見てみますと、

その教えとは、あなたがたの以前の生活について言うならば、人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てるべきこと、またあなたがたが心の霊において新しくされ、真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした。

と言われています。
 ここで言われている「人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てる」ことと「真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着る」ことは、一度になされて終わってしまうことではなく、私たちが日々になし続けなくてはならないことです。
 私たちに「真理に基づく義と聖」という「神のかたち」の人格的な特性を与えてくださるのも、神さまの一方的な恵みによっています。ただ、私たちは、自由な意志を与えられている人格的な存在です。ですから、神さまの一方的な恵みによって与えられるといっても、私たちの人格的な特性が育てられることですから、ロボットやコンピュータにプログラムを組み込むように、自動的に、あるいは機械的に与えられるのではありません。神さまは、私たちの自由な意志を生かしてくださいます。そして、私たちを成長し成熟させてくださいます。それで、私たちは、「人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てる」プロセスと「真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着る」プロセスの中にあるのです。
 私たちは、いまだ完全に「人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨て」てしまってはいません。私たちの中には、なおも罪の性質が残っており、実際に、罪を犯してしまいます。ヨハネの手紙第一・1章8節で、

もし、罪[単数・罪の性質]はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。

と言われており、さらに、10節で、

もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません。

と言われているとおりです。


 ですから、私たちのうちには罪の性質があり、私たちは実際に罪を犯してしまいます。それは、私たちが、今もなお、完全に「人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨て」てしまってはいないからです。そのような私たちのために神さまは、先ほど引用しましたように、

もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。

という約束を与えてくださっています。
 同時に、それは、私たちが「真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着る」プロセスの中にあることをも意味しています。その中で、「実質的な義と聖さ」を私たちのものとしてゆくことを、「聖化」と呼びます。そして、「神のかたち」の人格的な特性である「真理に基づく義と聖」を身に付けて成長し成熟することによって、最終的に到るところは、「御子のかたちと同じ姿」、イエス・キリストに似た者となることです。
 このような「聖化」のプロセスの中にある私たちは、消極的には、罪を犯してしまいますので、絶えず、自分の罪を悔い改めて、その罪を赦していただくとともに、罪の力から解放していただかなくてはなりません。しかし、この消極的なことでさえ、神さまが備えてくださっている恵みです。この神さまの一方的な恵みを覚える私たちは、自分ばかりを見て、自分の罪を嘆くことで終わってしまってはなりません。そこから目を転じて、イエス・キリストの十字架を仰いで、罪が赦されていること、さらに、罪を赦していただけることの幸いを感謝とともに噛みしめる必要があります。
 それだけではありません。私たちは、積極的に、「真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着る」歩みの中で、「御子のかたちと同じ姿」に造り変えていただいているのです。
 確かに、私たちは、自らのうちに罪の性質があり、実際に罪を犯すことを嘆きつつ苦しみます。しかし、その嘆きと苦しみは、絶望で終わるものではありません。「聖化」のプロセスの中にある私たちには希望があります。私たちは、やがて、完全にきよめられて、全く「御子のかたちと同じ姿」に造り変えていただくようになります。

愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします。
ヨハネの手紙第一・3章2節、3節

 私たちは、神さまの永遠の聖定によって、「御前で聖く、傷のない者」とし、「ご自分の子」としてくださるように定めていただいています。そして、神の子どもとしての実質においては、「御子のかたちと同じ姿」にあらかじめ定めていただいています。この神さまの「永遠のみこころ」は、罪を犯して堕落してしまっている私たちにおいては、「ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められる」という、御子イエス・キリストにある贖いの恵みにおいて実現しています。
 この神さまが御子イエス・キリストにあって成し遂げてくださったことが、神さまの私たちに向けられている愛に対する、私たちの確信の根拠です。
 今なお、私たちは、「人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てる」プロセスと「真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着る」プロセスの中にあります。そのために、しばしば自らの罪の現実に苦しむことがあります。しかし、私たちは、これを「聖化のプロセス」と捉えます。そして、この「聖化のプロセス」を通して、神さまが私たちを「御子のかたちと同じ姿」に造り変えてくださるということに、希望を持っています。

そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。私たちは、この望みによって救われているのです。
ローマ人への手紙8章23節

 


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