(第19回)


説教日:1999年9月26日
聖書箇所:ヨハネの手紙第一・4章16節〜19節

 私たちに対する神さまのみこころの出発点は、神さまの永遠のみこころに基づく聖定にあります。無限、永遠、不変の神さまは、無限、永遠、不変の愛をもって、私たちを愛してくださっておられます。神さまはこの愛によって、私たちを「御前で聖く、傷のない者」とし、「ご自分の子」としてくださるように定めてくださいました。それは、私たちをご自身の御前に近づいて、ご自身との愛の交わりに生きる神の子どもとしてくださるためでした。
 また、神さまは、ご自身の無限、永遠、不変の愛に包まれてて生きる私たちを、「御子のかたちと同じ姿」にあらかじめ定めてくださいました。
 神さまは、永遠の聖定においてこのように定めてくださったことを、天地創造の初めに人間を「神のかたち」にお造りになって、「歴史と文化を造る使命」を委ねてくださることを通して実現してくださいました。
 神さまは、ご自身の契約によって、ご自身の愛を一方的に保証してくださり、無限に身を低くして、「神のかたち」に造られた人間の間にご臨在してくださり、ともにいてくださるようにしてくださいました。
 さらに、人間が罪を犯してその恵みと愛を踏みにじってしまった後も、私たちをご自身の御前に近づいて、ご自身との愛の交わりに生きる神の子どもとしてくださるという永遠のみこころを変えられることはありませんでした。それで、神さまは、ご自身の御子を、私たちの罪の贖いのために遣わしてくださいました。
 御子イエス・キリストは、私たちを、ご自身との愛の交わりに生きる神の子どもとしてくださるという父なる神さまの永遠のみこころを実現してくださるために、貧しくなって、人の性質を取って来てくださいました。そして、十字架の上でご自身のいのちを捨ててくださいました。
 これらのことによって、神さまは、私たちが、永遠に神さまのものであり、どのようなことがあってもそれは変わらないことをあかししてくださいました。
 私たちがそれをそれを悟ることができたのは、御霊が私たちの心を照らして、父なる神さまと御子イエス・キリストの愛を悟らせてくださったからです。
 御子イエス・キリストの十字架を通して表わされた父なる神さまの愛を、御霊のお働きによって悟ることは、三位一体の神さまの永遠からの愛を悟ることです。私たちに対する神さまの永遠の愛が無限であり、不変であることと、その愛がこの私に向けられていることを悟ることです。
 この広大な宇宙の中の無数にあると思えるものの全てを支えていても、ご自身からは何も失われることがない、無限に豊かな神さまが、私たちを、そのように愛してくださっておられます。あたかも、私たちがご自身のものでなければすべてが失われてしまうかのように、ご自身の御子のいのちの価をもって、私たちをご自身のものとしてくださいました。



 この、神さまの無限、永遠、不変の愛に包まれていることで、私たちが神の子どもであることのすべては尽くされています。それ以上の何もいりません。というより、「それ以上」というものはありません。
 私たちが「神のかたち」に造られており、神さまの契約によって保証されている愛の交わりのうちに生きるものとされているのは、私たちが、神さまの無限、永遠、不変の愛に包まれているからであり、無限、永遠、不変の愛に包まれ続けるようになるためです。
 神さまが一方的な愛によって御子イエス・キリストを遣わしてくださり、イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いによって私たちを死と滅びの中から救い出してくださったのも、私たちが、神さまの無限、永遠、不変の愛に包まれているからであり、無限、永遠、不変の愛に包まれ続けるようになるためです。
 私たちが御子イエス・キリストと一つに結び合わされて、古い人を十字架につけ、新しい人によみがえっているのも、そして、御子イエス・キリストの血による新しい契約の共同体であり、キリストのからだである教会に連なって生きているのも、私たちが、神さまの無限、永遠、不変の愛に包まれているからであり、無限、永遠、不変の愛に包まれ続けるようになるためです。
 そのことは、私たちが罪を犯して、神さまのみこころを悲しませてしまったとしても、変わることがありません。そのために、神さまは御子を遣わして贖いを成し遂げてくださいました。そして、御子によって実現してくださった贖いは、福音の御言葉によって、いつも私たちに差し出されています。神さまの愛を裏切って、神さまを悲しませてしまっても、いつでも、贖いを通って神さまの愛に帰ることができます。
 どのようなことがあっても、私たちに対する神さまの愛は変わることがないということを確信させてくださるために、神さまは、聖餐において、私たちを、常に、イエス・キリストが十字架の上で裂かれた肉と、流された血の贖いにあずからせてくださっておられます。


 神さまは、これら全てのことを、私たちに対する一方的な愛によって、成し遂げてくださっておられます。それが、ご自身の一方的な愛によっているということは、私たちからの「報い」を期待してのことではないということです。
 私たちは、神さまの愛に報いることは出来ません。私たちに対する神さまの無限、永遠、不変の愛に、有限な人間が報いることは不可能なことです。
 それどころか、私たちは、同じ人間であるお互いの間でも、愛に報いることは出来ません。私たちに出来ることは、自分に示されている愛に応答することです。
 ここで私が言っている「報いること」と「応答するこ」との違いは微妙なものですが、本質的に違います。
 私は、何度か、自分がひどく苦しんだ時に、身近な人々の深いいたわりを受けてきました。そのいたわりを受け取ることは、その愛を受け取ることでありつつ、その愛に応答することですが、私は、それによって力づけられて立ち上がることができました。その場合、私が受け取ったものは、慰めであり励ましですが、そこにはそれ以上に、その人々が「心を込めて私のことを考えてくださった」という事実があります。そのような「心を込めて私のことを考えてくださったということ」は、何かのことで報いることができるというような軽いものではないということを感じています。それに対しては、その愛を受けた者として、愛をもって応答することができるだけだと言うほかはありません。
 これに対しまして、自分が受けた愛を受け入れて、愛をもって「応答する」ことは、その愛に「報いる」ことではないかと言われるかもしれません。
 それはそれでいいのですが、私がここでお話ししていることは、言葉遣いへのこだわりではありません。私が言いたいことは、私たちお互いの間であっても、愛は数量化して量ることが出来ないものであるということです。愛を数量化して量って、それに見合った愛を返す(報いる)というようなことがあるとしたら、その「愛」そのものは変質してしまっているということになるでしょう。
 愛に違いや大小があるということを、否定しているのではありません。しかし、他人が見れば、些細なものに見えることが、愛し合う者にとっては、無限とも思える重みを持つということがいくらでもあります。愛には、愛を与えている者の「心が込められている」だけでなく、愛を受け取る者による、時に無限とも思える「補足」(このような言葉がいいかどうか分かりませんが)があるのです。そのために、愛し合う者の間では、愛を量る尺度が無くなってしまいます。そして、受けた愛に「報いる」というようなことは不可能であると感じるようになります。
 また、御子イエス・キリストの十字架を通して表わされた神さまの愛は、一回限りで終わってしまう愛ではありません。それは、神さまの私たちに対する愛が、無限、永遠、不変の愛であることの表われであり、その愛をあかししています。──その愛が、私たちを本来のいのちに生かしてくださるためには、そして、ご自身との愛の交わりのうちに回復してくださるためには、御子をも遣わしてくださるほどの愛であることと、その愛は今も後もとこしえに変わることがないということを示しています。
 コリント人への手紙第一・13章8節で「愛は決して絶えることがありません。」と言われているように、私たちお互いの愛にも、同じような「継続性」があります。それをどこかで区切って、量るということも出来ません。その意味でも、愛に「報いる」ことは出来ません。
 さらに、愛には、自分が愛している人自身を目的としています。その人を愛することで充足します。それによって、自分が何かを得ようとする「計算」がありません。ですから、愛は、そのような意味での「報い」を求めていません。
 そのようなわけで、私たちお互いの間でも、愛に対して「報いる」ということは出来ません。愛に対しては、愛をもって「応答する」ことが出来るだけです。──それは、お互いに愛し合うということです。まして、私たちは、私たちに対する神さまの愛に「報いる」ことは出来ません。私たちは、ただ、神さまの愛を受け止めて、神さまに愛をもって応答することが出来るだけです。
 マタイの福音書22章37節〜40節に記されている、神さまの律法の全体を集約してまとめる、

心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。

という戒めと、

あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。

という戒めは、愛による応答を求めるものです。


 私たちは、すでに、御子イエス・キリストの十字架を通して示された、神さまの無限、永遠、不変の愛に包まれています。ですから、礼拝も、奉仕も、神さまの愛に応答することです。神さまの愛に報いることやお返しすることではなく、神さまの愛に応答することです。
 そのように、神さまの愛に応答することは、神さまの一方的な愛によって「神のかたち」に造られており、罪による堕落の後には、御子イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いにあずかって「神のかたち」を回復していただき、さらに、「御子のかたちと同じ姿」に造り変えていただいている者の、最も自然な姿です。
 ですから、神さまへの礼拝も、奉仕も、神さまの愛を獲得するための手段ではありません。
 問題は、私たちが、神さまの無限、永遠、不変の愛に包まれていることで、私たちが神の子どもであることのすべては尽くされているということを、その通りに受け止めることができないことです。どうしても、神さまに「報いる」という意味で自分が何かをしなくてはならないのではないかと考えてしまいます。
 そして、そのような発想があるために、神さまにきちんとお返ししていない自分のことを、神さまが「怒って」いるのではないかというような、「おびえ」を感じるようになってしまいます。それで、さらに自分をむち打って、熱心になって、何とか神さまを喜ばせようとします。そのようにできたと思われる時には、神さまが近く感じられますが、そのようにできなかったと思われる時には、神さまが御顔を背けておられるかのように感じられてしまいます。
 それでは、どうして、神さまの愛を信じているはずの私たちが、神さまの愛に「報いる」という意味で、自分が何かをしなくてはならないというような発想を持ってしまうのでしょうか。おそらく、それは、罪によって堕落してしまっている私たちの本性の中に、罪の自己中心性がしみ込んでしまっているからでしょう。そのために、私たちの愛の中にさえも、どこかで「報い」を求める自己中心的な「計算」が潜んでいるからでしょう。
 愛についてのそのような発想をもって神さまの愛を考えることは、神さまの愛を辱めるものです。それは、「神さまの愛は、私たちからの「報い」を求めるものである。」と言うのと同じです。


 そのような、神さまの愛に対して根本的に誤った発想をもって、自分をむち打って、熱心になって、神さまを喜ばせようとすることは、神さまのみこころ行なうことではありません。また、神さまを喜ばせることができたと思われる時には、神さまが近く感じられたり、そのようにできなかったと思われる時には、神さまが遠く感じられたりすることの中で、神さまのみこころを行なおうと思っても、神さまのみこころを行なうことは出来ません。
 神さまのみこころを示す律法の全体は、

心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。

という戒めと、

あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。

という戒めに集約され、まとめられます。
 神さまの愛に包まれて、神さまとの愛の交わりの中に生きることにおいて、お互いに愛し合うことが神さまの基本的なみこころです。そのように愛のうちを歩むことによって、私たちは、御子イエス・キリストの御足の跡を踏み行くことができますし、実際に、「御子のかたちと同じ姿」に造り変えられていきます。ですから、その律法が求めていることは、私たちの成長と成熟のための道筋です。
 けれども、もし、私たちがこの戒めをも誤解して、まず私たちが神さまを愛さなければ、そして、神さまのために熱心に奉仕しなければ、神さまは私たちを愛してくださらないというような考えを持つようになりますと、私たちは、神さまだけでなく、誰をも、この戒めが示している愛をもって愛することができなくなります。


 ヨハネの手紙第一・4章16節〜19節では、

私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。このことによって、愛が私たちにおいても完全なものとなりました。それは私たちが、さばきの日にも大胆さを持つことができるためです。なぜなら、私たちもこの世にあってキリストと同じような者であるからです。愛には恐れがありません。全き愛は恐れを締め出します。なぜなら恐れには刑罰が伴っているからです。恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。

と言われています。
 私たちは、私たちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛のうちにいる者は神のうちにおり、神もその人のうちにおられます。このことによって、愛が私たちにおいても完全なものとなりました。それは私たちが、さばきの日にも大胆さを持つことができるためです。
 と言われていることに見られる大胆さは、先ほどの、「自分がちゃんとやっていないから神さまが怒っているのではないか」という「おびえ」とは全くかけ離れた大胆さです。この大胆さは、神さまの聖さと義や、自分の罪に対する無知や鈍感さから出たものではありません。そうではなく、これに先立つ、4章9節、10節で、
 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
 と言われている、御子イエス・キリストの十字架を通して示された、神さまの私たちに対する愛を信じていることによる大胆さです。
 ですから、まず、御子イエス・キリストの十字架を通して示されている、神さまの無限、永遠、不変の愛に包まれていることを信じて、その愛のうちに充足することから──あるいは、より積極的に、神さまの御前で大胆であることから始まるのです。そのようにして初めて、お互いに愛し合うことができるようになります。

私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。

と言われているとおりです。


 これに対しまして、「自分がちゃんとやっていないから神さまが怒っているのではないか」という「おびえ」を持ったままで、神さまを愛そうとしたり、兄弟を愛そうとすることは、どういうことでしょうか。
 それは、神さまの愛に応答して、神さまを愛し、兄弟を愛することではありません。
 それ以上に、神さまの怒りやさばきが恐ろしいからという「おびえ」から、神さまを愛そうとしたり、兄弟を愛そうとすることは、自分を守るために、神さまを愛そうとしたり、兄弟を愛そうとすることです。その場合には、神さまを愛することや兄弟を愛することは、自分がさばかれないための手段となってしまっています。
 先ほどお話ししましたように、愛は、自分が愛している人自身を目的としています。神さまは、私たち自身を目的として、私たちを愛してくださっています。それで、私たちを本来のいのちに生かしてくださるために、「私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。」
 ですから、神さまの怒りやさばきが恐ろしいからという「おびえ」から、神さまを愛そうとしたり、兄弟を愛そうとすることは、本当に、神さまを愛することではありませんし、兄弟を愛することでもありません。

恐れる者の愛は、全きものとなっていないのです。

と言われているとおりです。
 このように、御子イエス・キリストの十字架を通して示された、私たちに対する神さまの愛が、無限、永遠、不変であること、そして、その愛はどのようなことがあっても、私たちから取り去られることがないことのうちに憩い、その愛のうちに留まることこそが、私たちがなすべきすべてのことの出発点です。このことを欠いては、どのようなことをしても、神さまのみこころを行なうことにはなりません。
 また、この神さまの無限、永遠、不変の愛のうちに憩うことは、神さまの永遠の聖定によって、「御前で聖く、傷のない者」とし、「ご自分の子」としてくださるように定めていただいている私たちの存在の目的でもあります。
  


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