(第17回)


説教日:1999年9月5日
聖書箇所:ヨハネの手紙第一・3章1節〜3節

 エペソ人への手紙1章4節、5節にありますように、神さまは、ご自身の永遠の愛に基づく永遠の聖定によって、私たちを「御前で聖く、傷のない者」とし、「ご自分の子」としてくださるように定めてくださいました。
 それは、私たちをご自身の御臨在の御前に近づく神の子どもとしてくださり、ご自身との愛にある交わりに生かしてくださるためです。──この、神さまとの愛にある交わりこそが、私たちの永遠のいのちの本質です。
 そのように神さまとの関係において、神さまとの愛の交わりに生きるように定めていただいた、私たち自身の姿については、ローマ人への手紙8章29節で、神さまは、私たちを「御子のかたちと同じ姿」にあらかじめ定めてくださったと言われています。
 神さまは、その永遠の聖定に従って、天地創造の初めに、私たち人間を「神のかたち」にお造りになり、「歴史と文化を造る使命」を委ねてくださいました。創世記1章26節〜28節において、

そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」

と言われているとおりです。



 神さまは、私たちが神の子どもとして、神さまの御臨在の御前において、神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きるようになるという、永遠の聖定を実現してくださるために、人間を「神のかたち」にお造りになって、ご自身との契約関係の中にあるものとしてくださいました。
 神さまは、ご自身の契約によって、人間とともにいてくださることを約束し、保証してくださっています。これによって、人間は神さまの御臨在の御前に近づくことができるようになりました。
 また、人間が「神のかたち」に造られていることの中心は、人間が自由な意志をもつ人格的な存在として造られていることにあります。そして、愛は、自由な意志をもつ人格的な存在から生まれてくるものです。神さまは、ご自身との契約関係にある人間が、ご自身との愛にある交わりに生きるようになるために、人間を自由な意志をもつ人格的な存在にお造りになったのです。
 神さまは、さらに、「神のかたち」にお造りになった人間の心に、ご自身の律法を記してくださいました。
 律法は、神さまとの交わりのあり方を示すものです。人間と神さまの交わりは、神さまの契約を土台とするものですから、律法は、神さまとの契約関係のあり方──神さまの契約を土台とする交わりのあり方を示すものです。
 神さまは混乱のない方です。それで、神さまの律法は、どれほど多くの定めや規定があっても、矛盾がなく、全体として調和が取れており、一つのまとまりをなしています。
 事実、マタイの福音書22章37節〜40節にありますように、神さまの律法の全体は、

心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。

という戒めと、

あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。

という戒めに集約され、まとめられます。
 神さまの律法のあらゆる戒めは、この二つの戒めを具体的な状況に適用しているものです。そのため、どのような戒めも、この二つの戒めと調和しています。そして、この二つの戒めは、神さまとの契約関係にある者の「基本的なあり方」──神さまとの交わりのあり方を示しています。


 天地創造の初めに「神のかたち」に造られた人間の心に神さまの律法が記されていることは、先週も取り上げましたローマ人への手紙2章14節、15節の、

──律法を持たない異邦人が、生まれつきのままで律法の命じる行ないをするばあいは、律法を持たなくても、自分自身が自分に対する律法なのです。彼らはこのようにして、律法の命じる行ないが彼らの心に書かれていることを示しています。彼らの良心もいっしょになってあかしし、また、彼らの思いは互いに責め合ったり、また、弁明し合ったりしています。──

という御言葉から分かります。
 「律法を持たない異邦人」というときの「律法」は、神さまがモーセを通して与えてくださった「律法」を中心とする「律法」です。それは、旧約聖書に記されている「律法」のことで、さまざまな定めと規定として、いわば、自分の外側から与えられた「律法」です。人は、それを学んで身につけていかなければなりません。
 この「律法」は、「律法を持たない異邦人」という言葉がありますように、それを受け取っていない人もいます。ところが、「律法を持たない異邦人が、生まれつきのままで律法の命じる行ないをするばあいは」と言われていますように、旧約聖書に記されている「律法」を受け取っていない「異邦人」でも、「生まれつきのままで律法の命じる行ないをする」ことがあると言われています。そして、その場合には、「自分自身が自分に対する律法」となっていると言われています。いわば、自分自身の判断が、そのまま自分自身に対する「律法」となっているということです。
 そして、このことを指して、

彼らはこのようにして、律法の命じる行ないが彼らの心に書かれていることを示しています。

と言われています。ですから、人間の心に神さまの律法が記されているということは、「自分自身が自分に対する律法」となっていること、すなわち、自分自身の判断が、そのまま自分自身に対する「律法」となっていることを指しています。このような意味で、人間の心に神さまの律法が記されていることは、旧約聖書に記されている「律法」を受け取っていない人にも当てはまることです。


 私たちは、「自分自身が自分に対する律法」となっている状態は、人間中心、さらには、自己中心の状態であると考えがちです。しかし、それは、人間が罪を犯して堕落して、心が自己中心的に腐敗してしまったためのことであって、初めからそうであったのではありません。このことを理解するためには、人間の心に神さまの律法が記されているということを、天地創造の初めに、「神のかたち」に造られた時の人間の状態において、考えてみる必要があります。
 先週もお話ししましたが、人間の心に神さまの律法が記されているということは、天地創造の初めに、神さまが人間を「神のかたち」にお造りになった時に、神さまの律法が、そのまま「人間の本性」となっている状態にお造りになったということです。そのために、人間の本性は、自然と、神さまの律法に沿うようになっていました。人間が思うこと、考えること、そして、行なうことが、そのまま、神さまの律法に一致していました。言い換えますと、人間が思うこと、考えること、そして、行なうことが、そのまま、神さまの律法を映し出していたのです。──これが、天地創造の初めに、「神のかたち」に造られた時の人間の状態であり、「神のかたち」の本来の状態です。
 この本来の状態においては、人間は、神さまの律法がどのようなものであるかについて、他の人から教えてもらう必要はありませんでした。この、自分が思うこと、考えること、そして、行なうことが、そのまま、神さまの律法に一致しており、神さまの律法を映し出している状態が、本来の「自分自身が自分に対する律法」となっている状態です。
 この、本来の「自分自身が自分に対する律法」となっている状態では、先ほど取り上げました、

心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。

という戒めと、

あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。

という戒めが、そのまま、人間の、自然な思いであり、願いであるのです。それは、人間が、特に改まらなくても、自然と、神さまを愛し、神さまを中心として生きるとともに、隣人を愛する状態にあったことを意味しています。


 このような、人間が思うこと、考えること、そして、行なうことが、そのまま、神さまの律法に一致しており、神さまの律法を映し出している状態にあることを、聖く、義である状態にあると言います。
 この意味で、「聖さ」や「義」は、基本的に、神さまとの契約関係の在り方のことを表わしています。神さまを離れた、人間だけの「聖さ」や「義」というようなものはありません。聖く、義である状態は、神さまの律法と一致している状態にあることですが、それは、神さまとの契約関係が正常な状態にあること──神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きていることを意味しています。
 天地創造の初めに「神のかたち」に造られた時の人間は、聖く、義である状態にありました。その「義」を「原義」と呼びます。人間は、もともと、聖く、義である状態に造られ、神さまの契約に基づいて、神さまとの愛にある交わりの中に生きていたということを意味しています。
 このように、天地創造の初めに「神のかたち」に造られた時の人間は、「自分自身が自分に対する律法」となっている状態にありましたが、それは、人間中心になることでもなく、自己中心的になることではありませんでした。むしろ、造り主である神さまを愛して、神さまを中心として生きるとともに、隣人を愛する状態にあったのです。そして、それが、本来の、心に神さまの律法が記されている状態です。


 天地創造の初めに「神のかたち」に造られた人間の心に神さまの律法が記されていて、人間が思うこと、考えること、そして、行なうことが、そのまま、神さまの律法に一致しており、神さまの律法を映し出している状態にあるということは、今日のコンピューターになじんでいる世代の人々には、神さまがプログラムされたとおりに人間が動いていたかのように感じられるかもしれません。しかし、神さまの律法が心に記されているということは、そのようなことではありません。なぜなら、「神のかたち」に造られている人間は、「人格的な存在」であり、自分自身の自由な意志、あるいは、意志の自由を与えられているからです。
 人間が作るコンピューターや、それによって制御されているロボットには意志がありませんので、外から(外部から)プログラムされ、入力されるとおりに動きます。プログラムされ、入力されるとおりに動かなくなると、故障したと考えられます。しかし、「神のかたち」に造られていて人格的な存在であり、自由な意志を与えられている人間が、マインドコントロールとまではいかなくとも、強制や強要や脅迫などの外側からの「心理的な操作」のとおりに考えたり、行動したりするようになることは、「神のかたち」としての人間の栄光と尊厳性が損なわれていることを意味しています。
 私たち人間を「神のかたち」にお造りになった神さまのみこころは、私たちが、何を考えるにも、また何をするにも、自由な意志を与えられている人格的な存在として、自分の意志で考え、自分の意志で行動することにあります。
 「神のかたち」に造られている人間は、自由な意志を与えられている人格的な存在であるとともに、心に神さまの律法が記されていますので、「自分自身が自分に対する律法」となっている状態にあるのです。
 「神のかたち」に造られている人間は、「自分自身が自分に対する律法」となっている状態にありましたが、それは、神さまとの契約関係にあって、自分の意志で神さまを愛し、神さまを中心として生きるとともに、隣人を愛する状態にあった、ということを意味していました。
 すでにお話ししましたように、造り主である神さまを愛する愛も、隣人を愛する愛も、外側からの「心理的な操作」によっては、決して生まれてくることはありません。愛は、「神のかたち」に造られている人格的な存在の自由な意志によって生み出されるものです。
 ですから、神さまが、「神のかたち」にお造りになった人間の心に、

心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。

という戒めと、

あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。

という戒めに集約さる律法を記してくださったということと、その人間を、自由な意志をもつ人格的な存在としてお造りになったということは深く結び合っています。
 そのようにして、人間が考えること、人間が行なうことは、本来、神さまの律法に一致しており、人間は、自然と、造り主である神さまを愛して、神さまを中心として生きるとともに、隣人を愛する状態にあったのです。


 もちろん、これは、天地創造の初めに「神のかたち」に造られた時の人間の状態であり、「神のかたち」の本来の状態のことです。実際には、人間は、罪を犯して堕落してしまいました。それによって、造られた時の聖さと、義を失ってしまいました。私たちは、自分自身を含めて、罪を犯して堕落してしまっている状態にある人間に接しており、それになじんでいます。それで、「神のかたち」に造られている人間の「本来の状態」、「本来の姿」ということは、分かりにくいことかもしれません。
 けれども、御言葉の光の下に、神のかたち」に造られている人間の「本来の姿」を知ることは、とても大切なことです。というのは、これまでにお話ししてきましたように、神さまは、御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによる贖いの御業をとおして、私たちを、「神のかたち」の本来の姿に回復してくださいますし、さらに、「神のかたち」に造られている人間の目的である「御子のかたちと同じ姿」に造り変えてくださるからです。
 事実、イエス・キリストは、ご自身の十字架の死をとおして贖いを成し遂げてくださいました。そして、それに基づいて、御霊を遣わしてくださり、御霊によって、私たちを「神のかたち」の本来の姿に回復してくださり、さらに、「御子のかたちと同じ姿」に造り変えてくださっています。コリント人への手紙第二・3章18節に、

私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。

と記されているとおりです。
 しかし、このことは、自動的になされることではありません。私たちの意志に反して、あるいは、私たちの同意なしに、私たちを造り変えてしまわれるというようなことはありません。このことは、私たちが、信仰によって、絶えずイエス・キリストの贖いの恵みにあずかり、御言葉をとおして示されている「神のかたち」の本来の姿がどのようなものであるかを理解して、実際に、「神のかたち」の本来の姿にふさわしく生きることをとおして実現していきます。
 もちろん、地上にある間は、私たち自身のうちに残っている罪によって、しばしば、「神のかたち」の本来の姿に反することを考えたり、行なったりしてしまいます。そのときにも、真実な悔い改めとともに、御子イエス・キリストの贖いの恵みに信頼して、「神のかたち」の本来の姿を回復されている者として生きるのです。


 それは、人間の力や努力によって自分を造り変えるということではありません。私たちを「神のかたち」の本来の姿に回復し、「御子のかたちと同じ姿」に造り変えてくださるのは、御子イエス・キリストの贖いの御業に基づいて働いてくださる、御子の御霊です。
 けれども、御霊は、私たちの意志を無視されません。私たちが、御言葉をとおして示されている、神さまのみこころを受け入れないのに、機械的に、私たちを「神のかたち」の本来の姿に回復し、「御子のかたちと同じ姿」に造り変えてしまわれるということはありません。私たちが、御子イエス・キリストの贖いの御業をとおして、私たちを「神のかたち」の本来の姿に回復し、「御子のかたちと同じ姿」に造り変えてくださるという、神さまのみこころを信じ、御霊のお働きに信頼しなければなりません。
 これは、単なる「気持ち」の問題ではなく、生き方の問題でもあります。実際の歩みの中で、「神のかたち」の本来の姿に反する生き方をしながら、御霊が、自分を「神のかたち」の本来の姿に回復し、「御子のかたちと同じ姿」に造り変えてくださるように願っていると言うなら、自分の歩みが、その言葉、あるいは「気持ち」を裏切っています。
 私たちの望みと実際の歩みが一致すべきことについて、ヨハネの手紙第一・3章2節、3節では、

愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします。

と言われています。


 私たちは、今、御子イエス・キリストの血による新しい契約の中に入れていただいて、贖いの恵みに包まれています。それで、イエス・キリストの贖いに基づいてお働きになる御霊は、私たちが、神さまを愛し、神さまを中心として生きるとともに、隣人を愛する愛の中に生きるように導いてくださいます。この御霊のお働きによって、神さまの律法が、私たちのうちに、また、私たちの間で、全うされるようになります。ローマ人への手紙8章4節で、

それは、肉に従って歩まず、御霊に従って歩む私たちの中に、律法の要求が全うされるためなのです。

と言われているとおりです。
 そして、その御霊のお導きに従って歩む中で、私たちは、「神のかたち」の本来の姿に回復していただき、さらに、「御子のかたちと同じ姿」に造り変えていただくのです。
  


【メッセージ】のリストに戻る

「みこころを知るために」
(第16回)へ戻る

「みこころを知るために」
(第18回)へ進む

(c) Tamagawa Josui Christ Church