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説教日:1999年8月29日 |
私たちに対する神さまのみこころは、すべて、神さまの永遠の聖定において定められた「永遠のみこころ」から出ています。すでにお話ししましたが、神さまは、私たちを永遠の前から愛してくださり、「永遠のみこころ」によって、「御前で聖く、傷のない者」としてくださり、「ご自分の子」としてくださるように定めてくださり、私たちが「御子のかたちと同じ姿」となるように定めてくださいました。 神さまは、創造の御業と摂理の御業をとおして、このような「永遠のみこころ」を実現されます。神さまは、「永遠のみこころ」に従ってこの世界のすべてのものをお造りになりましたし、「永遠のみこころ」に従って、すべてのものを支えてくださり、導いてくださっておられます。 それで、神さまは、ご自身の創造の御業と摂理の御業をとおして、私たちを「御前で聖く、傷のない者」としてくださり、「ご自分の子」としてくださるように定めてくださり、私たちが「御子のかたちと同じ姿」となるように定めてくださった「永遠のみこころ」を実現してくださいます。 創世記1節26節〜28節では、 そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」 と言われています。人間、すなわち、私たちすべては、神さまの「永遠のみこころ」に従って、「神のかたち」に造られ、「歴史と文化を造る使命」を委ねられています。 これが、創造の御業を通して私たちに表わされた、神さまの最も基本的なみこころです。その他のすべてのみこころは、この、創造の御業において表わされているみこころを土台としており、これにかかっています。それで私たちが「神のかたち」に造られており、「歴史と文化を造る使命」を委ねられていることを離れては、神さまのみこころを正しく受け止めることはできません。 私たちが「神のかたち」に造られ、「歴史と文化を造る使命」を委ねられたのは、神さまが、私たちを「御前で聖く、傷のない者」としてくださり、「ご自分の子」としてくださるように定めてくださり、私たちが「御子のかたちと同じ姿」となるように定めてくださった「永遠のみこころ」を実現してくださるためです。──言い換えますと、私たちが、「御子のかたちと同じ姿」としていただくことによって、父なる神さまの子どもとなり、「御前で聖く、傷のない者」として、神さまの充満な栄光のご臨在の御前において、神さまとの愛の交わりに生きるものとなるためです。 このように、私たちが造り主である神さまとの愛にある交わりの中に生きるようになるために、神さまは、私たちを「ご自身のかたち」、すなわち、「神のかたち」にお造りになりました。このことによって、神さまは、私たちに3つのことを備えてくださいました。 一つは、すでにお話ししたことで、神さまが私たちの間にご臨在してくださるということです。 神さまは、あらゆる点において、無限、永遠、不変の方です。その存在において無限の神さまは、この世界のどこか限られた所におられるような方ではありません。けれども、神さまは、単なる力やエネルギーのような方ではなく、生きた人格的な方であり、ご自身の意志をもっておられます。それで、擬人化した言い方をしますと、神さまはご自身の意志で、ある者たちに御顔を向けてくださり、ある者たちから御顔を背けられます。つまり、ある者たちとともにいてくださり、ある者たちとはともにいてくださいません。 それは、全く、神さまの主権的なご意志によることであって、人間がそれを左右することはできません。神さまが私たちの間にご臨在してくださるということは、私たちの権利として要求できることではなく、神さまの一方的な恵みによることなのです。──このことは、私たちが、決して見失ってはならないことです。ともすれば、私たちは、自分たちがよい状態にあれば、当然、神さまもともにいてくださると考えます。つまり、人間がお膳立てをすれば、神さまはそれにのってくださると考えます。しかし、そのような考え方には注意しなくてはなりません。 そうではあっても、私たちをご自身との愛の交わりに生きるものとして、「神のかたち」にお造りになった神さまのみこころは、ご自身が私たちの間にご臨在してくださり、私たちを御前に立たせてくださり、私たちに御顔を向けてくださることにあります。神さまは、そのことを、ご自身の一方的な契約によって保証してくださいました。 神さまの契約は、私たちの間の契約と違って、双方に権利があって、その権利のあるもの同士の契約ではありません。それは、神さまの主権的なご意志によって立てられた契約です。神さまは、ご自身の主権的なご意志によって、また、一方的な恵みによって、私たちの間にご臨在してくださり、私たちをご自身との愛の交わりの中に生きることができるようにしてくださっておられます。そして、そのことを、ご自身の契約において保証してくださっておられます。 それで、神さまは、ご自身の契約の御言葉を信じて受け入れて、ご自身の御前に近づく者たちとともにいてくださいます。私たちは、この神さまの契約の上に立って初めて、自分たちが神さまの御許に近づくと、神さまが私たちとともにいてくださると信じることができるのです。それが初めから私たちの権利であったのではなく、神さまの一方的な恵みによって備えられ、ご自身の契約によって保証されていることであるから、私たちはそれを受け取ることができるのです。 神さまの契約が、「神のかたち」に造られた私たちの間にご臨在してくださり、私たちとともにいてくださることを保証してくださるものであるということは、一般的に「業の契約」と呼ばれる「創造の契約」においても、また、一般的に「恵みの契約」と呼ばれる「救済の契約」においても、一貫して変わりません。 救済の契約(恵みの契約)においては、神さまが御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりを通して、私たちの罪を贖ってくださり、私たちを死と滅びの中から贖い出してくださることを約束してくださっているから、その贖いの御業が救済の契約の中心主題であると、言われるかもしれません。 贖いの御業が救済の契約の中心主題であるというのは、そのとおりです。ただ、先週もお話ししましたように、神さまの、御子イエス・キリストを通しての贖いの御業は、私たちを死と滅びの中から贖い出してくださることで終わらないで、それによって、私たちを造り主である神さまとの愛の交わりに生きる本来のいのち、すなわち「永遠のいのち」に生かしてくださるものです。その意味で、神さまの契約が、ご自身が私たちの間にご臨在してくださることを保証してくださり、私たちが神さまのご臨在の御前に近づいて、神さまとの愛の交わりに生きるようになることを保証してくださっているということでは、一貫しています。 「創造の契約」においては、私たちを「神のかたち」にお造りになって、ご自身の御臨在の御前に立つのにふさわしい聖さと義と栄光をもつものとしてくださったことによって、神さまの御臨在の御前に立つことができるようにしてくださいました。「救済の契約」においては、自らの罪によって堕落してしまった私たちを、御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによる罪の贖いを通して、罪をきよめてくださるだけでなく、また、死と滅びの中から贖い出してくださっただけでなく、再び、神さまの御臨在の御前に立つのにふさわしい聖さと義と栄光をもつものに造り変えてくださったのです。 ですから、私たちが、聖餐式において、御子イエス・キリストが十字架の上で裂かれた肉を表わすパンと流された血を表わすぶどう酒にあずかる時には、自分たちがイエス・キリストと一つに結ばれていて、そのいのちによって生かされていることを、信仰によって確認します。それは、今から二千年前に十字架にかかって死んでくださり、死者の中からよみがえってくださったイエス・キリストに結び合わされているだけでなく、その贖いのゆえに、御霊によって、今ここに、私たちとともにいてくださる、父なる神さまと御子イエス・キリストの御臨在を信仰によって確認するのです。 引用はいたしませんが、ヘブル人への手紙8章1節〜10章18節では、「救済の契約」(「恵みの契約」)の古い契約の書である旧約聖書において約束されている、新しい契約の祝福が、イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いを通して実現していることが明らかにされています。そして、それを受けて、10章19節〜22節では、 こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所にはいることができるのです。イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。また、私たちには、神の家をつかさどる、この偉大な祭司があります。そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。 と言われています。やはり、御子イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いの目的は、私たちが神さまの御臨在の御前に近づいて、神さまとのいのちの交わりに生きるようになることにあることが分かります。 また、福音の御言葉を集約するとヨハネの福音書3章16節の御言葉になると言われますが、そこでは、 神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。 と言われています。 ここでは、「それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、」で終わらないで、「永遠のいのちを持つためである。」と続きます。「永遠のいのちを持つ」とは、神さまの御臨在の御前に立って、神さまとの愛にある交わりに生きるようになることに他なりません。 私たちが造り主である神さまとの愛にある交わりの中に生きるようになるために、神さまは、人間を「神のかたち」にお造りになりました。このことによって、神さまが、人間に備えてくださった、もう一つのことは、神さまの律法を心に書き記してくださったということです。 このことは、ローマ人への手紙2章14節、15節で、 ──律法を持たない異邦人が、生まれつきのままで律法の命じる行ないをするばあいは、律法を持たなくても、自分自身が自分に対する律法なのです。彼らはこのようにして、律法の命じる行ないが彼らの心に書かれていることを示しています。彼らの良心もいっしょになってあかしし、また、彼らの思いは互いに責め合ったり、また、弁明し合ったりしています。── と言われていることによって分かります。 人間は、初めから、造り主である神さまとの契約関係にあるものとして、「神のかたち」に造られました。ちょうど、私たちの契約の子どもが、神である主との契約の中に生まれてくるように、人間は、神さまとの契約の中にあるものとして造られたのです。そのようにして、「神のかたち」に造られた人間の心の中には、造り主である神さまの律法が書き記されています。 このことは、人間が罪を犯して堕落し、心が造り主である神さまから離れてしまい、神さまの御前から退けられてしまっているとしても変わりません。 罪による堕落の後も、人間の中には、善悪のわきまえがあり、善を受け入れ、悪は退けるべきである、という感覚は残っています。もちろん、罪によって、心が神さまから離れてしまっているために、人間の心に書き記されている律法は、造り主である神さまを中心とするものではなくなりました。「神のかたち」に造られている人間にとっての「善の基準」は、本来、造り主である神さまのみこころですし、その良心は神さまを中心として働いて、すべてのことを神さまとの関係で判断するものですが、心が神さまから離れてしまっている人間は、そのことを受け入れません。神さまとは無関係に、物事の善し悪しの判断をしています。 そのように、罪による堕落のために、造り主である神さまとの関係が損なわれてしまっていて、自らの良心そのものが、本来の姿を失ってしまっているとしても、人間が「神のかたち」に造られていて、造り主である神さまの律法がその心に書き記されていることには変わりがありません。 私たち人間が、造り主である神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きるものとして、「神のかたち」に造られていて、造り主である神さまの律法が私たち人間の心に書き記されているということは、私たちが神さまのみこころを知る上で、とても大切なことです。 「神さまの律法が私たちの心に書き記されている」ということは、少し分かりにくいかもしれません。それは、神さまの律法が、そのまま、あるいは、自然と、私たち自身のわきまえや願いとなっている状態のことです。 もちろん、実際には、罪によって私たちの心そのものが歪んでしまっていますので、そのようなことはないのですが、最初に人間が「神のかたち」に造られて、神さまの御臨在の御前に立つのにふさわしい聖さと義と栄光をもっていたというのは、人間の心が神さまに向いており、神さまを中心にして働いていたということです。その時には、人間が考えることが、自然と、神さまのみこころと一致していました。それで、人間は、神さまのみこころを自分の外に捜さなくてもよかったのです。それが、心に神さまの律法が書き記されているという状態でした。そして、それが、天地創造の初めに、「神のかたち」に造られたときの人間の姿でしたし、「神のかたち」に造られている人間の本来の姿です。 このように、人間が「神のかたち」に造られており、神さまの律法が心の中に書き記されているということは、人間は、本来、神さまのみこころに対するわきまえをもっていて、そのわきまえ、すなわち、心に書き記された律法に従って、物事を判断し、自分の在り方と生き方を選び取ることができるものであることを意味しています。──言い換えますと、人間は、自分の外側からの指示や規制によらないで、自分自身の自由な判断で、自分の在り方と生き方を選び取るものとして造られているということです。 そして、人間の本来の在り方は、そのように、自分自身の自由な判断にしたがって選び取った自分の在り方と生き方が、自然と、神さまのみこころと一致していたということです。──それが、神さまの御臨在の御前に立つのにふさわしい聖さと義と栄光をもっているという状態でした。 さらに言いますと、神さまが、人間を、そのようなものとしてお造りになったということは、人間が、自分自身のうちにあるわきまえ、すなわち、心に書き記された律法に従って、物事を判断し、自分の在り方と生き方を選び取ることが神さまのみこころであることを意味しています。 人間が、自分自身のうちにあるわきまえ、すなわち、心に書き記された律法に従って、物事を判断し、自分の在り方と生き方を選び取るということは、決して、人間が、ロボットのようにプログラムされているとおりに動くということではありません。もし、ロボットのようにプログラムされているとおりに動いているのであれば、聖さと義と栄光というものは当てはまらなくなります。 それで、私たちが造り主である神さまとの愛にある交わりの中に生きるようになるために、神さまが、人間を「神のかたち」にお造りになったことによって、神さまが、人間に備えてくださった、第3のものは、意志の自由です。人間は、自分の意志で自分の在り方と生き方を選び取ることができるものとして造られています。──その意味で、人間が、自分の意志で自分の在り方と生き方を選び取ることは、造り主である神さまのみこころです。 「神のかたち」に造られて、心に神さまの律法が書き記されている人間の本来の姿は、自分の自由な意志で、自分の在り方と生き方を選び取ることができるというだけでなく、自分の自由な意志で、自分の在り方と生き方を選び取ると、それが、自然と神さまのみこころと一致するという状態にあります。もし、「神のかたち」に造られている人間の本来の状態が、自分の自由な意志で、自分の在り方と生き方を選び取ると、それが、自然と神さまのみこころと一致するということにあるのであれば、人間は、自分自身の自由な選択を通して、神さまのみこころを映し出すものであるということになります。 そのような、本来の状態にあった人間が、自分に委ねられている「歴史と文化を造る使命」を遂行しますと、その使命の遂行が、自然と、神さまのみこころを映し出しつつ、神さまのみこころを実現していったはずでした。 これらの点につきましては、さらにお話ししたいと思いますが、ここで、特に注意しておきたいことがあります。 私たちは、神さまのみこころといいますと、外側からの規制のように感じてしまいがちです。また、そのために、一つ一つのことで「イエス」か「ノー」か神さまの指示を仰いで、自分の判断をしないことが、神さまのみこころに忠実であるように感じてしまいがちです。 けれども、これまでのお話から察せられますように、私たちが、自分自身の自由な意志によって、自分の在り方と生き方を選び取ることを通して、神さまのみこころを映し出すとともに、神さまのみこころを実現することこそが、私たち人間を「神のかたち」にお造りになって、心にご自身の律法を書き記してくださった神さまのみこころです。 |
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