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説教日:1999年8月22日 |
私たちに対する神さまのみこころは、永遠の聖定と呼ばれる、神さまの「永遠のみこころ」から出ています。神さまの聖定は、この世界のすべてのものの在り方を、その複雑な関わりをも含めて、初めから終わりまで、永遠に定めておられるものです。それは、無限に複雑なみこころで、私たちの限りある理解力を無限に超えています。 人間は、何の理由も目的もなく、何かの弾みに、この世界に出現したものではありません。人間は、神さまの「永遠のみこころ」に従って、造られたものであり、神さまの「永遠のみこころ」に従って、御手によって支えられ、導かれています。それで、人間の存在自体が神さまのみこころを映し出しています。 私たちが、神さまのみこころを知ることとの関わりで言いますと、私たちがどのようなものとして造られているかを知ることが、神さまのみこころを知ることの第一歩です。 私たちがどのようなものとして造られているかということでいちばん基本的なことは、創世記1章26節、27節の、 そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。 という御言葉に示されていますように、「神のかたち」に造られており、「歴史と文化を造る使命」を委ねられているということです。 私たちが「神のかたち」に造られており、「歴史と文化を造る使命」を委ねられているということは、私たちに対する神さまのみこころの最も基本にあって、その他のすべてのみこころの土台であり、その他のすべてのみこころを規定しています。言い換えますと、私たちに対する神さまのみこころは、私たちが「神のかたち」に造られており、「歴史と文化を造る使命」を委ねられているということの枠の中にあり、そのこととつながっています。 それで、私たちは、自分が「神のかたち」に造られており、「歴史と文化を造る使命」を委ねられているということを離れて、あるいは、それを無視して、神さまのみこころを正しく受け止めることはできません。 これに対しまして、聖書の御言葉を通して示されている神さまのみこころの中でいちばん基本的で大事なみこころは、人が救われることであり、そのことを離れては、神さまのみこころを正しく受け止めることはできないのではないか、と主張されるかもしれません。 確かに、テモテへの手紙第一・2章4節〜6節では、 神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。これが時至ってなされたあかしなのです。 と言われていますように、神さまは、「すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます」。そして、そのために、イエス・キリストは「すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。」 また、確かに、このことは、私たちのあかしの中心です。パウロも、続く7節で、 そのあかしのために、私は宣伝者また使徒に任じられ ──私は真実を言っており、うそは言いません。──信仰と真理を異邦人に教える教師とされました。 と述べています。 けれども、神さまは、何のために、人間をお造りになったのでしょうか。繰り返しになりますが、そのことを示しています創世記1章26節では、神さまは、人間を「神のかたち」にお造りになり、これに「歴史と文化を造る使命」をお委ねになったと記されています。 神さまが人間を「神のかたち」にお造りになって、これに「歴史と文化を造る使命」をお委ねになったのは、人間がご自身との愛の交わりにあって生きるようになるためです。 神さまのさまざまなご性質をまとめて総合的に表わすものは、神さまの愛です。すでに色々な機会にお話ししましたが、三位一体の神さまは、御父と御子と御霊の永遠の愛の交わりのうちに充足しておられます。そして、神さまがこの世界をお造りになったのは、神さまがご自身の愛をご自身の外に向けて表現されるためです。 無限に豊かであり、完全な愛のうちに、永遠に充足しておられる神さまは、その愛をもってお造りになったものを満たしてくださいます。すべてのものは、神さまの愛と恵みの御手によって造られ、その御手によって支えられています。 まことに、主のことばは正しく、 けれども、すべてのものがそのことを知っているわけではありません。そのことを知っているのは、「神のかたち」に造られている人間です。人間は、この世界に向かって表現されている神さまの愛を受け止めて、その愛に応答することができるものとして、「神のかたち」に造られています。 人間が救われなくてはならないのは、人間が欠けのあるものとして造られたからではありません。人間が救われなくてはならないのは、人間が造り主である神さまに対して罪を犯して、神さまとの愛の交わりにあるいのちを失ってしまい、死と滅びの中に転落してしまったからです。ですから、人間は、救われるために造られたのではありませんし、救われるべきものとして造られたのでもありません。 不幸にして、子どもが事故に遭って大怪我をしてしまったとします。その時、親の願いは、子どもの怪我が治ることです。そのために、子どもを入院させて怪我を治そうとします。その意味では、子どもの怪我を治すことは、親の願いです。しかし、怪我が治ることは、その子どもが生まれてきた理由ではありません。その子が生まれてきたのは、家族の愛の中にあって成長し、その子らしく生きるためです。 それと同じように、人間が神さまに対して罪を犯して、神さまとの愛の交わりにあるいのちを失ってしまい、死と滅びの中に転落してしまったので、神さまは、「すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます」。そして、そのために、イエス・キリストは「すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。」けれども、救われることは、人間が「神のかたち」に造られた理由ではありません。 先ほどの例で言いますと、怪我が治った子どもは、再び、家族やお友だちとの交わりの中に生きるようになります。治療を受けて怪我が治ることは、家族やお友だちとの交わりの中に生きるようになるためです。(もちろん、怪我をして入院している状態でも、家族やお友だちとの交わりはできます。これは、あくまでも、もののたとえです。) それと同じように、私たちが救われるのは、それによって、私たちが「神のかたち」に造られた本来のいのちを回復していただいて、神さまとの愛の交わりの中に生きるようになるためです。ですから、罪と死の力に縛られている人々が、滅びへの道から救い出されることは神さまのみこころですが、それは、天地創造の初めに神さまが人間を「神のかたち」にお造りになったことに表わされているみこころを実現してくださるためです。 神さまが、ご自身の「永遠のみこころ」に従って、私たちを「神のかたち」にお造りになり、「歴史と文化を造る使命」を委ねてくださったのであれば、私たちに対する神さまのみこころは、基本的には、神さまが私たちを「神のかたち」にお造りになり、「歴史と文化を造る使命」をお委ねになってくださった、ということを受け入れて、そのことに忠実であることにあります。 このことは、私たちの間の、「統一性」と「多様性」という二つの方向で考えていく必要があります。(1) まず、「多様性」という点から言いますと、私たち一人一人は、さまざまな点で違っています。それぞれが違った個性をもっていますし、違った立場にあります。そして、神さまは、私たちそれぞれの個性や立場の違いをすべてご存知であられますし、それぞれにふさわしいみこころをもっておられます。それで、神さまのみこころも、私たちそれぞれに対して違ったものとなるはずです。 有限であるばかりでなく、罪の自己中心性のために、人を手段化しがちな人間の場合には、全体主義的になって、ある目的のためには個々の違いを無視して、十把一からげの扱いをしてしまうということがあります。しかし、神さまにはそのようなことはありませんし、私たちそれぞれに、それぞれの特性と立場を与えてくださっておられることを、ご自身が踏み破ってしまわれるようなことはありません。 このことは、神さまのみこころを受け止めるうえで、どうしてもわきまえておかなくてはならないことです。 私たちそれぞれのこととしましては、私たちそれぞれが自分自身のことをよく理解し、自分自身と自分に与えられている特性や賜物を認めて受け入れるとともに、それを大切にすることが神さまのみこころです。 このようなことに疑問を持たれる方がおられるかもしれません。──自分自身と自分に与えられている特性や賜物を大切にするとは、自己中心となることではないか、というような疑問です。確かに、実際には、自己中心的な動機と方法で、自分自身と自分に与えられている特性や賜物を大切にしようとすることがあります。けれども、それは、人間が罪によって堕落して、罪の自己中心性が、私たちを支配するようになってしまったことによっています。 けれども、御子イエス・キリストの十字架の死による贖いの御業にあずかって、罪を贖われている者は、自分が造り主である神さまによって造られたものであり、自分に与えられている特性や賜物は神さまからの賜物であることを認めています。そして、そのことを理由として、自分自身と自分に与えられている特性や賜物を大切にするのです。 神さまがこのようなものとしてお造りになった自分自身と、与えてくださった特性と賜物を受け入れて、それを大切にして磨いていくことは、神さまを自らの造り主として告白することにつながっています。そこから、神さまを中心とした生き方が生まれてきます。 また、改めて申すまでもないことですが、私たちが、自分自身と自分に与えられている特性や賜物を大切にすることは、私たちの罪をもそのまま受け入れるということではありません。なぜなら、私たちの罪は、本来の私たち自身と賜物を腐敗させ、自己中心的に歪めるものだからです。むしろ、そのような罪を、御子イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いによって贖っていただき、罪の聖めを通して、本来の姿を回復していただくことが、自分自身と自分に与えられている特性や賜物を大切にすることです。 先ほどお話ししましたように、限りがあるだけでなく、罪によって汚染されている人間は、全体主義的になって、ある目的のために、それぞれの違いを無視して、十把一からげの扱いをしてしまうということがあります。この世においては、事業の成功のためという名目で、効果や効率が第一のこととされますので、このようなことが起こります。 しかし、御子イエス・キリストが治めておられる神の御国では、そのようなことはありません。なぜなら、イエス・キリストは、決して、私たちを「事業」のための手段とされることはありませんし、十把一からげにして扱うことはなさらないからです。また、私たちそれぞれの特性や賜物の違いを無視して、皆が画一的なものとなったり、画一的な考え方をするように導かれることはないからです。 教会は、イエス・キリストをかしらとして、神の御国を表現します。ですから、教会では、私たちそれぞれが、自分が造り主である神さまによって造られたものであり、自分に与えられている特性や賜物は神さまからの賜物であることを認めて、自分自身と自分に与えられている特性や賜物を大切にするとともに、お互いに対しても、そのことを当てはめて、それぞれの特性と賜物を大切にしなくてはなりません。──人が自分のように考えないからとか、自分のようにしないからとかいうことで、先走って、さばいたりしてはならないのです。特に、「大切な事業」をしているということが理由になって、そのようなことが起こりがちですが、もしその「事業」が主の栄光のためであるなら、全体主義的になってしまう危険を注意深く避けなくてはなりません。 それと同時に、私たちの間の「統一性」という点からしますと、私たちは、みな、「神のかたち」に造られており、「歴史と文化を造る使命」を委ねられているという点で、共通しています。 私たちすべては、「神のかたち」に造られており、「歴史と文化を造る使命」を委ねられていますので、神さまを愛し、神さまを崇めるべきですし、お互いに愛し合い、仕え合うべきであるのです。また、私たちが、神さまに対しても、お互いに対しても、真実であるべきであるのも、あらゆる機会に、聖さと義と平和を追い求めるべきであるのも、私たちが「神のかたち」に造られており、「歴史と文化を造る使命」を委ねられているからです。 先ほどお話ししましたように、私たちは、それぞれ違った特性と賜物を与えられていますので、それを大切にして磨かなければなりません。それは、決して自己中心的なことではありませんし、個人的なことでもありません。むしろ、それによって、「神のかたち」に造られ、「歴史と文化を造る使命」を委ねられているものとして、神さまを愛して神さまに仕え、お互いを愛してお互いに仕え合うようになるのです。コリント人への手紙第一・12章4節〜7節で、 さて、御霊の賜物にはいろいろの種類がありますが、御霊は同じ御霊です。奉仕にはいろいろの種類がありますが、主は同じ主です。働きにはいろいろの種類がありますが、神はすべての人の中ですべての働きをなさる同じ神です。しかし、みなの益となるために、おのおのに御霊の現われが与えられているのです。 と言われているとおりです。 (1) この「統一性」と「多様性」ということは、「全体」と「個」とか、「一」と「多」という形で、人間の思想の歴史の中で、その調和の原理が問題となってきました。実は、「統一性」と「多様性」の完全な調和は、三位一体の神さまご自身の在り方に見られるものです。 神さまの「本質」あるいは「実体」は一つであるという意味で、神さまはただおひとりです。それと同時に、神さまは、御父、御子、御霊の、3つの位格(人格)において存在されます。御父は神であり、御子は神であり、御霊は神です。また、御父と御子と御霊は、それぞれ別の位格(人格)です。けれども、神さまの本質あるいは実体は一つです。三位一体の神さまにあっては、神さまの本質あるいは実体は一つであるという「統一性」と、神さまは御父、御子、御霊の、3つの位格(人格)において存在されるという「多様性」が、完全に調和しています。 この世界の「統一性」と「多様性」の源は、三位一体の神さまご自身です。──この世界が、驚くばかりの変化と多様性に満ちていながら、そこにさまざまな法則があるように統一性のある世界であることは、三位一体の神さまの在り方が、神さまがお造りになった世界の在り方に反映しているということであると、考えられます。(本文に戻る) |
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