(第14回)


説教日:1999年8月1日
聖書箇所:創世記1章1節〜5節

 いま、ここに生きている私たちに対する神さまのみこころは、すべて、神さまの永遠の聖定と呼ばれる「永遠のみこころ」から出ています。
 神さまの永遠の「聖定」は、およそ存在するすべてのものの在り方を、初めから終わりまで、永遠に定めておられるものです。その意味では、神さまの永遠の「聖定」は、私たち人間の在り方だけに関わるものではありませんが、神さまが、すべてのものの在り方を永遠に定めておられることを知ることができるのは、「神のかたち」に造られている人間や御使いのように、人格的な存在だけです。
 神さまは、ご自身の永遠の「聖定」を、天地創造の御業と、摂理の御業によって実現されます。ですから、天地創造の御業と摂理の御業の背後には、神さまの永遠の「聖定」がありますし、どちらの御業も、永遠の聖定によって定められている「永遠のみこころ」に従って遂行されます。
 創造の御業は、神さまが「永遠のみこころ」に従って、この世界とその中にあるすべてのものを無から造り出されたことです。摂理の御業は、お造りになったすべてのものを、やはり、「永遠のみこころ」に従って、支え、導いてくださることによって、この世界をお造りになった神さまの目的を実現してくださるものです。
 私たちに対する神さまのみこころが、すべて、神さまの「永遠のみこころ」から出ているのであれば、私たちが神さまの「永遠のみこころ」を知ることができれば、神さまのみこころが分かってしまうわけです。しかし、無限に複雑で、永遠に定まっている「永遠のみこころ」は、無限、永遠、不変の神さまだけが知っておられるものです。仮に、私たちにそのすべてが示されたとしても、私たちには、それを受け止めるだけの力がありません。
 私たちとしては、神さまが、ご自身の「永遠のみこころ」を実現してゆかれる御業である天地創造の御業と摂理の御業を通して、神さまのみこころを知ることができます。
 神さまが、ご自身の「永遠のみこころ」に従って、天地創造の御業と摂理の御業を遂行されるので、私たちは、神さまがお造りになったこの世界とこの世界の在り方を通して、神さまのみこころを知ることができるのです。



 神さまの天地創造の御業と摂理の御業を通して示されている神さまのみこころは「自然啓示」あるいは「一般啓示」と呼ばれます。これに対して、聖書の御言葉を通して示されている神さまのみこころは、神さまの特別摂理の御業である贖いの御業に関するみこころを示すもので、「超自然的啓示」あるいは「特別啓示」と呼ばれます。
 これら二つの啓示は、同じ神さまのみこころですから、調和しています。ただ調和しているだけでなく、お互いに補足し合っています。ですから、私たちは、創造の御業と摂理の御業を通して示されている神さまのみこころと、聖書の御言葉を通して示されている神さまのみこころを、ともに大切にしていかなくてはなりません。
 私たちは、聖書の御言葉を通して示されている啓示、すなわち「特別啓示」を鍵として、天地創造の御業と摂理の御業を通して示されている神さまのみこころ、すなわち「一般啓示」を理解し受け止めます。
 たとえば、私たちは、聖書の御言葉から、神さまがこの世界をお造りになったことを知るようになりました。それによって、すでに私たちが見ていた、この世界の中にあるものの素晴らしさと、調和の見事さを、神さまの御手によるものとして受け止めることができるようになりました。
 同時に、実際に、神さまがお造りになったこの世界のことをよりよく知ることを通して、すなわち、「一般啓示」に触れることを通して、聖書の御言葉を通して与えられている「特別啓示」の意味をより広く豊かに理解し、受け止めることができるようになります。
 たとえば、聖書の御言葉によって、神さまがこの世界をお造りになったということは分かりますが、実際に、どのような世界をお造りになったのかを、具体的に知るためには、この世界そのものを調べてみる他はありません。


 これらのことを、天地創造の御業を記している御言葉にそって見てみましょう。創世記1章1節〜5節には、

初めに、神が天と地を創造した。地は形がなく、何もなかった。やみが大いなる水の上にあり、神の霊は水の上を動いていた。そのとき、神が「光よ。あれ。」と仰せられた。すると光ができた。神はその光をよしと見られた。そして神はこの光とやみとを区別された。神は、この光を昼と名づけ、このやみを夜と名づけられた。こうして夕があり、朝があった。第一日。

と記されています。
 1章1節の「初めに、神が天と地を創造した。」という言葉は、1章1節〜2章3節の創造の記事全体の見出し文に当たるものです。「天と地」という言葉は、この世界に存在するすべてのもの、しかも、秩序と調和をもって存在しているすべてのものを指しています。それで、「初めに、神が天と地を創造した。」という言葉は、今日の言葉で言う「宇宙」とその中のすべてのものが、神さまの創造の御業によって造り出されたことを示しています。
 2節の初めには、新改訳には訳し出されていませんが、前の部分と直接的にはつながらないことを示す接続詞があります。それで、2節の「地は形がなく」の初めの部分は、「さて、地は」と訳すべきです。つまり、2節からは、視点が「地」に移っているのです。創造の御業は宇宙大の規模で進行しているのですが、2節からは、その関心は「地」に移っています。これによって、この記事は、私たちが住んでいるこの世界が、どのような世界として造られているかを理解するための鍵を示していることが分かります。
 天地創造の初めに、神さまが最初に造り出された「地」は、「大いなる水」に覆われており、さらにその上を「やみ」が覆っていました。神さまは、「光よ。あれ。」という御言葉とともに、そこに「光」があるようにされました。これによって、私たちの住んでいるこの世界が、「光」に満ちた、明るくて暖かい世界となりました。
 新改訳では、「そのとき、神が『光よ。あれ。』と仰せられた。すると光ができた。」と訳されていて、このとき初めて「光」が造られたような印象を与えます。しかし、「すると光ができた。」の「できた」と訳されている言葉は、「光よ。あれ。」の「あれ」と訳されている言葉と同じ言葉です。それで、これは「すると光があった。」と訳したほうがいいと思われます。
 2節からは、視点が「地」に移されていますから、これは、「光」の創造のこと──この宇宙に「光」が存在するようになったこと──ではなく、私たちの住んでいる地上に「光」があるようになったことを示しています。
 これを今日の言葉で言いますと、同時並行的に造られていた「原始の太陽」の「光」が地上に到達するようになったということであると考えられます。


 今日の目から見ますと、太陽が造られれば、その光が地球に届くのは当たり前のことです。それで神さまが「光よ。あれ。」と言われなくても、地上には「光」があるようになったはずだと考えたくなります。そこから、この創世記の記事は、まだ、科学が発達していなかった時代の人々の考えを記している、と主張されるかもしれません。
 創世記の記事が、科学が発達していなかった時代の人々に分かる言葉で記されていることは事実です。しかし、それで、そのような時代の人々の考えを述べているということにはなりません。──創世記に記されていることには、その当時の文化の中で一般的に考えられていることからしますと、全く新しい思想が表現されているという面があります。
 さて、「そのとき、神が『光よ。あれ。』と仰せられた。すると光があった。」と言われている御業の記事は、今日の言葉で言いますと、太陽が造られ、その光が私たちが住んでいる地上に届くようになったことは、造り主である神さまの意志によっているということを示しています。
 言い換えますと、私たちが住んでいる地上に光があるようになるために、神さまは、太陽系をお造りになり、地球と太陽の位置関係を定めてくださっていたわけです。さらに、太陽系を銀河系宇宙の中に定めてくださり、銀河系宇宙を、さらに「大宇宙」の中に定めてくださっているのです。──もちろん、このようなことは、神さまがお造りになったこの世界そのものを見ることから分かることです。
 「光よ。あれ。」という神さまの御言葉に示されているみこころは、基本的に、宇宙の中の点のような存在である地球に関わることです。さらに、それは、その地球の中の点のような存在である人間に関わることです。しかし、永遠の「聖定」という、神さまの無限、永遠、不変のみこころからしますと、それは、少なくとも、太陽系の在り方をも含めたみこころであり、さらには、銀河系宇宙の在り方をも含めたみこころであるわけです。
 そして、大切なことは、無限、永遠、不変の神さまの「永遠のみこころ」においては、私たちには気の遠くなるような、宇宙全体の在り方に関わることも、その中の点にしか過ぎないような地球や、さらに、その中の点にしか過ぎないような人間に関わることも、同じ造られた世界のことであり、すべてが、まったき調和の中にあるということです。
 「光よ。あれ。」という御言葉に示されているみこころは、微視的に、私たちが住んでいるこの地上のこと──地上に光があるようになったこと──として見ることができます。それが、いつの時代の人々にも分かるように記されている、天地創造の御業の記事の基本的な意味です。
 しかし、科学の発達とともに、巨視的な視野が開けてきて、実際に神さまがお造りになった世界の構造が分かってくるにしたがって、地上に「光」があるようになるためには、太陽系のシステムや、銀河系のシステムが関わっていることが分かってきました。これらの、想像を絶するシステムが造られたことも、「光よ。あれ。」という神さまの御言葉に示されているみこころのうちにあったことである、と言うことができます。──より正確には、「光よ。あれ。」という神さまの御言葉に示されているみこころの背後にある、神さまの「永遠のみこころ」のうちにあることです。
 そして、神さまの「永遠のみこころ」に従ってすべてのものを支え、導いておられる摂理の御業を通して、「光よ。あれ。」という神さまの御言葉に示されているみこころが、今日に至るまで、私たちの住んでいるこの世界に対して果たされているのです。

 話が少しそれてしまいますが、このように、私たちの目には余りにも大きすぎることや小さすぎることも、神さまにとっては同じことであるということは、私たちの信仰にとっても意味をもっています。
 イザヤ書40章27節には、

 ヤコブよ。なぜ言うのか。
 イスラエルよ。なぜ言い張るのか。
 「私の道は主に隠れ、
 私の正しい訴えは、
 私の神に見過ごしにされている。」と。

という、主の御言葉が記されています。
 私たち人間は、広大な宇宙に目が行ってしまいますと、足下のことが目に入らなくなります。宇宙とまではいかなくても、何十億という人々の群がっているこの世界の中にあって、自分というたった一人の人間は、人の渦の中にのみ込まれてしまっていると感じてしまうことでしょう。自分がどのように生きたとしても、また、自分がいてもいなくても関係ないかのように、世界が動いているように感じられて、空しくなってしまうことがあるかもしれません。

 私の道は主に隠れ、
 私の正しい訴えは、
 私の神に見過ごしにされている。

と言いたくなるかもしれません。
 しかし、これに先立つ26節では、

 目を高く上げて、
 だれがこれらを創造したかを見よ。
 この方は、その万象を数えて呼び出し、
 一つ一つ、その名をもって、呼ばれる。
 この方は精力に満ち、その力は強い。
 一つももれるものはない。

と言われています。
 神さまは、この宇宙のすべてのものをお造りになっただけでなく、「この方は、その万象を数えて呼び出し、一つ一つ、その名をもって、呼ばれる。」と言われていますように、お造りになったすべてのものを知っておられるというのです。その一つ一つのものを、ていねいに、知ってくださり、支えてくださっているというのです。
 私たちにとって、余りにも大きすぎる世界のことですが、造り主である神さまにとっては、大きすぎて手に負えないというようなものは一つもありません。ですから、私たちは、神さまを人間の尺度で量ってはなりません。
 神さまを愛し、神としてあがめ、その摂理の御手に信頼することが、私たちの信仰の特質です。その信仰によって歩む者には、続く28節〜31節の、

 あなたは知らないのか。聞いていないのか。
 主は永遠の神、地の果てまで創造された方。
 疲れることなく、たゆむことなく、
 その英知は測り知れない。
 疲れた者には力を与え、
 精力のない者には活気をつける。
 若者も疲れ、たゆみ、
 若い男もつまずき倒れる。
 しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、
 鷲のように翼をかって上ることができる。
 走ってもたゆまず、歩いても疲れない。

という、御言葉が響いてきます。


 創世記の記事に戻りますと、4節では、

そして神はこの光とやみとを区別された。

と言われています。
 神さまは、「光」を「光」としてお造りなり、「やみ」を「やみ」としてお造りになりましたから、「光とやみ」の間には、初めから区別がありました。それは、「光とやみ」の性質あるいは性格における区別です。
 ですから、神さまが、その「光とやみ」をさらに「区別された」ということは、「光とやみ」の性質あるいは性格の区別をつけられたということではありません。それは、「光とやみ」のそれぞれに、固有の位置や役割をお与えになったことを意味しています。
 具体的には、5節で、

神は、この光を昼と名づけ、このやみを夜と名づけられた。

と言われていることに示されています。これによって、「光」と「やみ」に与えられている固有の位置と役割が、「昼」と「夜」という意味をもっていることが示されています。
 このように、神さまが「光」と「やみ」を区別してくださって、それぞれに固有の意味と位置と役割を与えてくださったので、そして、それを摂理の御業を通して今日に至るまで保ってくださっておられるので、私たちの生活のリズムを根本から規定している「昼」と「夜」の入れ替わりが一定したものとなっています。
 今日では、「昼」と「夜」の入れ替わりは「地球の自転」によっていることが分かっています。それで、先ほどの話と同じように、神さまが「光」と「やみ」を区別してくださらなくても、「昼」と「夜」の入れ替わりは「地球の自転」によって自動的に行なわれるようになっている、というような主張がなされることでしょう。
 しかし、もう、詳しい説明はいりません。この(特別啓示としての)記事は、そのような、この世界の「仕組み」がどのようになっていて、どのように働くかということの奥にあることを記しています。すなわち、その地球の自転そのものが、造り主である神さまの御手によって造り出されたものであり、摂理の御業を遂行される真実な御手によって支えられている、ということを示しているのです。

 ですから、詩篇136篇1節〜9節で、

 主に感謝せよ。主はまことにいつくしみ深い。
  その恵みはとこしえまで。
 神の神であられる方に感謝せよ。
  その恵みはとこしえまで。
 主の主であられる方に感謝せよ。
  その恵みはとこしえまで。
 ただひとり、大いなる不思議を行なわれる方に。
  その恵みはとこしえまで。
 英知をもって天を造られた方に。
  その恵みはとこしえまで。
 地を水の上に敷かれた方に。
  その恵みはとこしえまで。
 大いなる光を造られた方に。
  その恵みはとこしえまで。
 昼を治める太陽を造られた方に。
  その恵みはとこしえまで。
 夜を治める月と星を造られた方に。
  その恵みはとこしえまで。

と歌われていることは、ただ、科学が発達していなかったために、宇宙の構造がよく分からなかった時代の人々の告白と讃美であるのではなく、科学の発達によって、神さまの御業の様子がよりよく分かるようになった今日においてこそ、より大きな驚きと感謝をもって歌うことができる、告白であり、讃美であるのです。
 私たちにとって、科学の発達によって、この世界のことがよく分かるようになるということは、神さまがお造りになった世界のことがよく分かるようになるということです。もちろん、聖書の御言葉を通して与えられている「特別啓示」を鍵としてのことですが、私たちは、そのことを通して、神さまのみこころを知ることができるようになります。
 それと同じように、私たちに対する神さまのみこころを知るためには、この世界のこととともに、私たち自身がどのようなものとして造られているかを、聖書の御言葉を鍵としながら、自分自身を、さまざまな角度から見つめることによって知ることが大切です。
 


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