(第13回)


 

説教日:1999年7月25日
  聖書箇所:コリント人への手紙第二・3章4節〜18節

 今この地上に生きています私たちに対する神さまのみこころは、永遠の「聖定」と呼ばれる、神さまの「永遠のみこころ」を源としています。神さまの「永遠のみこころ」は、神さまが、すべてのものの在り方を、初めから終わりまで、永遠において定めておられるものです。それは、無限、永遠、不変の神さまの、無限、永遠、不変のみこころであり、私たちの思いをはるかに超えたものです。
 ただ、神さまは、私たちを永遠の愛をもって愛してくださり、その愛に基づく「永遠のみこころ」において、エペソ人への手紙1章4節、5節の言葉で言いますと、私たちを、「御前で聖く、傷のない者」としてくださり、「ご自分の子」としてくださるように定めてくださり、ローマ人への手紙8章29節の言葉で言いますと、私たちが「御子のかたちと同じ姿」となるように定めておられることを、私たちに啓示してくださいました。
 この二つのことは、実質的に同じことを述べています。
 エペソ人への手紙1章4節、5節で言われていることは、私たちを、「御前で聖く、傷のない者」として、神さまの御臨在の御前の最も近いところに立たせてくださり、「ご自分の子」として、神さまの愛に包まれて、神さまとのいのちの交わりに生きるものとしてくださるということです。
 実は、人として、すでに、そのような祝福に入っている方がおられます。それは、言うまでもなく、「人の性質」を取ってこられて、私たちの罪を贖うために十字架にかかって死なれ、3日目に死者の中からよみがえられ、父なる神さまの右の座に着座された、御子イエス・キリストです。
 ローマ人への手紙8章29節で神さまが、「永遠のみこころ」において、私たちが「御子のかたちと同じ姿」となるように定めておられるということは、この御子イエス・キリストの栄光の御姿に似た者となるように、定めておられるということです。──その意味で、これは、エペソ人への手紙1章4節、5節で言われていることと同じことです。
 今の私たちにとっては、「御子のかたちと同じ姿」となるということは、すでに、栄光をお受けになって、父なる神さまの御臨在の中心にあって、豊かな愛によるいのちの交わりの中におられるイエス・キリストに似た者となるということを意味しています。それで、父なる神さまの御前におけるいのちの交わりは、「単なる約束で、その現実はない」というようなものではありません。イエス・キリストにあって、歴史の現実となっています。



 これと同じことを、具体的な歴史の状況の中で触れている、ペテロの手紙第一・5章10節では、

 あらゆる恵みに満ちた神、すなわち、あなたがたをキリストにあってその永遠の栄光の中に招き入れてくださった神ご自身が、あなたがたをしばらくの苦しみのあとで完全にし、堅く立たせ、強くし、不動の者としてくださいます。

と言われています。
 ここで、「あなたがたをキリストにあってその永遠の栄光の中に招き入れてくださった神」というときの「キリストにあって」(「キリストにある」)は、文法の上では、新改訳のように、「キリストにあって(その永遠の栄光の中に)招き入れてくださった」と理解することもできますし、「キリストにあるご自身の永遠の栄光の中に(招き入れてくださった)」と理解することもできます。おそらく、ここには、この両方の意味が込められていると考えられます。
 その場合、「キリストにあってその永遠の栄光の中に招き入れてくださった」ということは、私たちが、イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いと、死者の中からのよみがえりにあずかることを通して、神さまの「永遠の栄光」にあずかるようにしていただいていることを示しています。
 一方、「キリストにあるご自身の永遠の栄光の中に招き入れてくださった」ということは、私たちがあずかるようにと招き入れていただいている神さまの「永遠の栄光」は、すでにイエス・キリストがご自身のものとしておられる栄光であるということを示しています。──そのどちらも、今の私たちに当てはまることです。
 仮に、そのどちらかの理解を選ぶとしましても、私たちがあずかるようにと招き入れていただいている神さまの「永遠の栄光」が、すでに、イエス・キリストにあって、私たちと同じ歴史の現実となっているということが踏まえられていることには、変りがありません。


 また、このペテロの手紙第一・5章10節で、「キリストにあってその永遠の栄光の中に招き入れてくださった」、あるいは、「キリストにあるご自身の永遠の栄光の中に招き入れてくださった」と言われていることは、私たちとイエス・キリストとの深い結びつきを示しています。それは、エペソ人への手紙1章4節、5節で、

神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。

と言われていることにも見られますし、当然、ローマ人への手紙8章29節で、

なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。
 
と言われていることにも見られます。
 この、御子イエス・キリストとの結びつきは、ただ単に、存在としてつながっているということだけではなく、人格的な結びつき、すなわち、愛にあるいのちの交わりを意味しています。私たちは、イエス・キリストにあって、また、イエス・キリストによって──イエス・キリストと一つに結び合わされて──、神さまの「永遠の栄光」にあずかるようにしていただいているのです。それも、私たちが、神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きるようになるためです。
 繰り返しお話しすることになりますが、私たちが、神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きるようになることが、神さまの「永遠のみこころ」の中心ですし、御子イエス・キリストを通してより具体的に示されているみこころの中心です。このことを離れて神さまのみこころを考えることは、神さまのみこころを根本から誤解することになります。


 このように、神さまは、私たちへの愛に基づく「永遠のみこころ」において、私たちを、イエス・キリストにあって、御前に近づけてくださり、ご自身との愛によるいのちの交わりに生きるものとなるように定めてくださいました。
 神さまは、「永遠のみこころ」を、創造の御業と摂理の御業を通して実現してくださっています。神さまの「永遠のみこころ」は、造られたすべてのものの在り方を永遠に定めておられるものです。その中で、特に、私たちに対するみこころ──私たちを、「御前で聖く、傷のない者」としてくださり、「ご自分の子」としてくださるように定めてくださり、私たちが「御子のかたちと同じ姿」となるように定めてくださったみこころ──は、天地創造の初めに、人を「神のかたち」にお造りくださったことと、ご自身との交わりを保証してくださる契約関係の中に置いてくださってことを通して実現してくださいます。
 神さまは、ご自身の契約において、私たちとともにいてくださることを約束し保証してくださっておられます。
 天地創造の初めに人間を「神のかたち」にお造りになったというのは、人間を「神のかたち」の栄光において、神さまの栄光の御臨在の御前に近づくことができる者にお造りくださったということです。それと同時に、神さまは、ご自身の契約によって、「神のかたち」に造られている人間とともにいてくださり、ご自身との愛にある交わりにあずからせてくださることを保証してくださったのです。
 それは、神さまの「永遠のみこころ」の実現の始まりでした。「神のかたち」の栄光に造られている人間は、その栄光の度合いに従って、神さまの御臨在の御前に近づくことができます。神さまが人間にご自身の契約を与えてくださったのは、人間が、ご自身との交わりの中に生きることにおいて、より栄光あるものとなり、神さまの御臨在により近く近づくものとなるようにしてくださるためでした。──その最終的な目標が、「御子のかたちと同じ姿」の栄光です。


 コリント人への手紙第二・3章18節では、

私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。

と言われています。
 これは、これに先立つ7節と13節に触れられていることで、出エジプト記34章29節〜35節に記されている、モーセがシナイの山の上で主と語り合ったために、「顔のはだが光を放った」(29節、30節)こととの対比で語られています。今お話ししていることと関係があることだけをお話ししますが、これは、契約の神である主の御臨在の御前で神さまとの交わりにあずかる者は、その交わりを通して、栄光ある者に造り変えられるという原則を示しています。
 旧約聖書を読んでいきますと、気づかされますが、神さまの御臨在の栄光に触れる者には、二つのことのどちらかが起こります。その栄光を汚す者として、撃たれて滅ぼされてしまうか、その栄光の御前に立つのにふさわしい栄光をもつ者に造り変えられるかの、どちらかです。──そのうち、主の栄光の御前に立つのにふさわしい栄光をもつ者に造り変えられるのは、言うまでもなく、主の(救済の)契約によって備えられている贖いの恵みによっています。


 天地創造の初めに「神のかたち」に造られて、契約の神である主の御臨在の御前でのいのちの交わりにあずかっていた人間は、その交わりを通して、ますます主の栄光の「みかたち」に似た者に造り変えられつつ、成長していくべきものでした。──その最終的な「栄光のかたち」が、「御子のかたちと同じ姿」です。
 しかし、実際には、人間は罪を犯して堕落してしまいました。それによって、神である主の御臨在の御前に近づくことがあれば、栄光を汚す者として、滅ぼされてしまうものとなってしまいました。それで、神さまは、人間がご自身の御前で滅ぼされてしまうことがないために、人間を、ご自身の御臨在の場である「エデンの園」から追放されました。
 創世記3章24節で、

こうして、神は人を追放して、いのちの木への道を守るために、エデンの園の東に、ケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置かれた。

と言われているのは、罪によって堕落してしまっている人間が、ご自身の栄光に触れて滅びてしまうことがないようにされた神さまのお取り計らいでした。
 その一方では、モーセの場合のように、神である主の栄光の御臨在の御前に近づいて、神さまとの交わりにあずかった者が、その栄光の御前に近づくのにふさわしく、栄光ある者に造り変えられるということも示されています。
 このことを通して、私たちを「御前で聖く、傷のない者」としてくださり、「ご自分の子」としてくださるように定めてくださり、私たちが「御子のかたちと同じ姿」となるように定めてくださったみこころが実現する道が残されていることもあかしされていました。
 その二つのこと──主の御臨在の栄光に触れる者が、その栄光を汚す者として、撃たれて滅ぼされてしまうか、それとも、その栄光の御前に立つのにふさわしい栄光をもつ者に造り変えられるかの、二つのことが、同時に起こったと考えられるのは、有名な、預言者イザヤの「召命体験」です。
 イザヤ書6章1節〜10節には、

ウジヤ王が死んだ年に、私は、高くあげられた王座に座しておられる主を見た。そのすそは神殿に満ち、セラフィムがその上に立っていた。彼らはそれぞれ六つの翼があり、おのおのその二つで顔をおおい、二つで両足をおおい、二つで飛んでおり、互いに呼びかわして言っていた。
 「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。
 その栄光は全地に満つ。」
 その叫ぶ者の声のために、敷居の基はゆるぎ、宮は煙で満たされた。そこで、私は言った。
 「ああ。私は、もうだめだ。
 私はくちびるの汚れた者で、
 くちびるの汚れた民の間に住んでいる。
 しかも万軍の主である王を、
 この目で見たのだから。」
 すると、私のもとに、セラフィムのひとりが飛んで来たが、その手には、祭壇の上から火ばさみで取った燃えさかる炭があった。彼は、私の口に触れて言った。
 「見よ。これがあなたのくちびるに触れたので、
 あなたの不義は取り去られ、
 あなたの罪も贖われた。」
 私は、「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう。」と言っておられる主の声を聞いたので、言った。「ここに、私がおります。私を遣わしてください。」すると仰せられた。
 「行って、この民に言え。
 『聞き続けよ。だが悟るな。
 見続けよ。だが知るな。』
 この民の心を肥え鈍らせ、
 その耳を遠くし、
 その目を堅く閉ざせ。
 自分の目で見、自分の耳で聞き、自分の心で悟り、
 立ち返って、いやされることのないために。」

と記されています。
 イザヤは、罪ある者が栄光の主の御臨在の御前に近づくなら、その栄光にふさわしくない者、主の栄光を汚す者として滅ぼされてしまうという恐ろしい危機に直面し、自らの滅びを実感して、絶望の叫び声をあげました。
 しかし、主の贖いの恵みの備えのある祭壇から、汚れたものをふき聖める「燃えさかる炭」が取られて、それがイザヤに適用されました。これによって、イザヤの罪は聖められました。そればかりか、イザヤは、「だれが、われわれのために行くだろう。」という主の御言葉に示されている、歴史を支配される栄光の主の御前の「会議」の一員に加えられています。そして、神である主が遂行される救いとさばきの御業に参与するようになっていきます。

 ヨハネの福音書12章39節〜41節では、ユダヤ人がイエス・キリストを信じなかったことについて、

彼らが信じることができなかったのは、イザヤがまた次のように言ったからである。「主は彼らの目を盲目にされた。また、彼らの心をかたくなにされた。それは、彼らが目で見、心で理解し、回心し、そしてわたしが彼らをいやす、ということがないためである。」イザヤがこう言ったのは、イザヤがイエスの栄光を見たからで、イエスをさして言ったのである。

と言われています。

主は彼らの目を盲目にされた。また、彼らの心をかたくなにされた。それは、彼らが目で見、心で理解し、回心し、そしてわたしが彼らをいやす、ということがないためである。

という言葉は、先ほどの、イザヤ書6章9節、10節からの引用です。それで、

イザヤがこう言ったのは、イザヤがイエスの栄光を見たからで、イエスをさして言ったのである。

という言葉は、イザヤが「召命体験」の時に、主の神殿で見た、そこに御臨在される栄光の主の本体は、人の性質を取って私たちの間に「ご臨在された」御子イエス・キリストであったということを示しています。
 御子イエス・キリストは、イザヤが幻のうちに見た、ご自身の神殿にご臨在される栄光の主ご自身であり、「燃えさかる炭」によって象徴的に示されている罪の聖めを、ご自身の十字架の死による罪の完全な贖いによって、最終的に成就された恵みの主です。
 さらに、イエス・キリストは、イザヤを、ご自身の御前における「栄光の会議」に連ならせて、救いとさばきの御業に参与させてくださるほどまでに、栄光ある者に造り変えてくださった主です。

 また、コリント人への手紙第二・3章13節で、

そして、モーセが、消えうせるものの最後をイスラエルの人々に見せないように、顔におおいを掛けたようなことはしません。

と言われていますように、モーセがシナイの山で主と語り合ったとしても、それは、旧約の「影」あるいは「写し」の限界の中でのことでした。それで、モーセの「顔のはだが光を放った」といっても、それは表面的で一時的な現象でした。──モーセは、主の栄光が消え去ることを見せないようにと、「顔におおいを掛けた」のです。
 これに対して、先ほど引用しました18節では、

私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。

と言われていました。
 私たちは、古い契約の消え去るべき「影」や「写し」に関わる、表面的で一時的な栄光ではなく、御子イエス・キリストの血よる新しい契約によって、栄光の主の御臨在の御前に近づくのにふさわしい栄光をもつ者とされています。
 「栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます」ということは、「御子のかたちと同じ姿」に造り変えられていくということに他なりません。
 神である主の契約は、一貫して、神さまの御臨在を保証してくださるものです。真実な主は、そのために、ご自身の方から贖いを備えてくださいました。すべて、私たちをご自身との愛の交わりに生かしてくださるためです。
 そのように、神さまの永遠の愛に基づいて、私たちを「御前で聖く、傷のない者」としてくださり、「ご自分の子」としてくださる「永遠のみこころ」は、御子イエス・キリストにあって、私たちの間で実現しています。
 


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