(第11回)


説教日:1999年7月11日
聖書箇所:ローマ人への手紙8章28節〜39節


 神さまは、私たちを永遠の前から愛してくださり、「永遠のみこころ」によって、私たちを「御前で聖く、傷のない者」としてくださり、「ご自分の子」としてくださるように定めてくださり、私たちが「御子のかたちと同じ姿」となるように定めてくださいました。
 それで、この世にあって生きている私たちに対する神さまのみこころがどのようなものであっても、それは、私たちを「御前で聖く、傷のない者」としてくださり、「ご自分の子」としてくださるように定めてくださり、私たちが「御子のかたちと同じ姿」となるように定めてくださっている、神さまの「永遠のみこころ」と調和しています。
 また、この世において、私たちに対して起こるすべてのことは、当面、悲しく苦しいことであっても、最後には、この神さまの「永遠のみこころ」を実現することに役立つようになっています。その確信を述べているのが、ローマ人への手紙8章28節、29節の、

神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。

という御言葉です。
 ローマ人への手紙8章の流れを見ますと、これは、この世にあって、イエス・キリストと苦難を共にしている神の子どもたち──神さまのみこころに従うために味わう労苦にうめいている神の子どもたちのことを述べたものです。
 そして、この確信は、31節、32節の、

では、これらのことからどう言えるでしょう。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。私たちすべてのために、ご自分の御子をさえ惜しまずに死に渡された方が、どうして、御子といっしょにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがありましょう。

という問いかけから始まって、38節、39節の、

私はこう確信しています。死も、いのちも、御使いも、権威ある者も、今あるものも、後に来るものも、力ある者も、高さも、深さも、そのほかのどんな被造物も、私たちの主キリスト・イエスにある神の愛から、私たちを引き離すことはできません。

という、確信の告白に至ります。
 28節、29節では、神さまが、ご自身の「永遠のみこころ」に従って、すべてのことを私たちの「益」となるように導いてくださること──すべてのことを働かせて、私たちが「御子のかたちと同じ姿」となるように定めてくださった「永遠のみこころ」を実現してくださることが告白されていました。そして、この38節、39節では、私たちに対する神さまの愛が──神さまに対する私たちの愛でなく、神さまの私たちに対する愛が、どのような場合にも、変らないことが告白されています。
 これは、先週お話ししました、神さまが、私たちを「御前で聖く、傷のない者」としてくださり、「ご自分の子」としてくださるように定めてくださり、私たちが「御子のかたちと同じ姿」となるように定めてくださったのは、私たちに対する、神さまの永遠の愛によっている、ということと符合しています。また、天地創造の御業が、三位一体の神さまのうちに永遠に通わされている愛を、ご自身の外に向けて表わしてくださるものであるので、造られた世界にあって、神さまの愛を受け止める存在として、私たち人間を「神のかたち」にお造りになった、ということとも符合しています。
 同じような確信は、『ハイデルベルク信仰問答』問1の、

生きている時も、死ぬ時も、あなたのただ一つの慰めは、何ですか。

という問への答でも、

わたしが、身も魂も、生きている時も、死ぬ時も、わたしのものではなく、わたしの真実なる救い主イエス・キリストのものであることであります。主は、その貴き御血潮をもって、わたしの一切の罪のために、完全に支払ってくださり、わたしを、悪魔のすべての力から、救い出し、また今も守ってくださいますので、天にいますわたしの父のみこころによらないでは、わたしの頭からは、一本の髪も落ちることはできないし、実に、すべてのことが、当然、わたしの祝福に役立つようになっているのであります。したがって、主は、その聖霊によってもまた、わたしに、永遠の生命を保証し、わたしが、心から喜んで、この後は、主のために生きることができるように、してくださるのであります。

と告白されています。



 神さまは、創造と摂理の御業を通して、ご自身の愛に基づく「永遠のみこころ」を実行に移してくださっています。
 神さまは、天地創造の初めに、人間を「神のかたち」にお造りになって、ご自身との愛の交わりのうちに生きるものとしてくださいました。
 人間が神さまとの愛の交わりに生きるようになるためには、神さまの栄光の御臨在の御前に近づくことができなければなりませんし、神さまの栄光の御臨在の御前に近づくものは、それにふさわしい聖さと義と栄光をもっていなくてはなりません。それで、神さまは、人間に、ご自身の御前に出るために必要な聖さと義と栄光をお与えになりました。それが、「神のかたち」の聖さと義と栄光です。
 人間が「神のかたち」に造られているというとき、「神のかたち」の中心にあるのは、人格的な存在であることです。神さまが人格的な方であるので、「神のかたち」に造られている人間も人格的な存在であるのです。
 「人格的」ということは、「機械的」とか「本能的」ということと対比されます。私たちは、ある程度、「機械的」、「本能的」であったり、「反射的」、「習慣的」であったりするところがあります。それによって、かえって助かっている面もあります。しかし、神さまには、機械的なところや本能的なところはありません。神さまには、「気がついてみたらこうなっていた」とか、「ついうっかりと」とか、「習慣だから」というようなことはありません。すべては、ご自身の確かな意志に基づいています。
 手塚治虫の漫画に、容貌が醜くて女性から相手にされなかったので、人の住む世界から離れた所に住んでいる科学者のことが出てきます。彼は、自分を見ると、「好き」とか「愛している」とか「すてき」とか、自分に気に入ったことだけを言ってくれるアンドロイドの女性をいくつも作りました。そのようなアンドロイドに囲まれて生活していても、その科学者は満足したことはありません。アンドロイドは、プログラムされているとおりに動いているだけだからです。
 このように、機械的・本能的にプログラムされているところや、権力や経済力など、外側の力によって強制されたり強要されているところからは、愛は生まれてきません。
 愛は、自由な意志をもつ人格的な存在から生まれてくるものです。あるいは、自由な意志をもつ人格的な存在から生まれてくるもののうちで、最も大きなものは愛であると言ったらいいでしょうか。それで、神さまとの愛の交わりの中に生きるものとして造られている人間は、自由な意志が与えられている人格的な存在なのです。
 人間は、自分の自由な意志によって、自分の在り方と生き方を選び取ることができる人格的な存在として造られています。その人間が、自らの自由な意志に基づいて生み出す最大のものは、やはり、愛です。「神のかたち」に造られている人間は、この愛において、造り主である神さまに向くように造られているのです。


 このように、「神のかたち」に造られたことが、私たちを「御前で聖く、傷のない者」、「ご自分の子」としてくださり、「御子のかたちと同じ姿」にしてくださるように定めてくださった、神さまの愛に基づく「永遠のみこころ」の実現の第一歩でした。
 注意すべきことは、それがゼロからのスタートではないということです。人間は、初めから、「神のかたち」の栄光と尊厳性を与えられたものであり、自由な意志をもつ人格的な存在として、神さまとの愛にある交わりのうちに生きていました。この「神のかたち」の栄光の豊かさを無視してしまったり、割引して考えてはなりません。──それで、これまで、「神のかたち」の栄光の豊かさとと尊厳性の高さについて、かなり詳しくお話ししてきたのです。
 天地創造の初めに、「神のかたち」に造られたときの人間が担っていた「神のかたち」としての栄光の豊かさと尊厳性の高さと、それに基づく、神さまとの愛の交わりに生きる特権の豊かさは、決して、無視してはなりませんし、割り引いてはなりません。そうではありましても、神さまの「永遠のみこころ」に照らして見ますと、人間は、造られたときの状態に留まっていてはならなかったのです。神さまの御前において、さらに豊かな栄光を与えられて、神さまの御臨在にさらに近づいて、さらに豊かないのちの交わりに生きるようになることが、神さまの「永遠のみこころ」です。
 その、さらに豊かな栄光は、「御子のかたちと同じ姿」と言われている栄光です。また、神さまの御臨在の御前にさらに近づくというときの近さと、愛の交わりの親しさは、「御前で聖く、傷のない者」としての近さであり、「ご自分の子」としての親しさです。──ですから、神さまの「永遠のみこころ」において定められている、「御前で聖く、傷のない者」となり「ご自分の子」となることや、「御子のかたちと同じ姿」となることは、天地創造の初めに、「神のかたち」に造られた人間が至るべき最終的な目標です。


 マタイの福音書10章29節、30節で、

二羽の雀は一アサリオンで売っているでしょう。しかし、そんな雀の一羽でも、あなたがたの父のお許しなしには地に落ちることはありません。また、あなたがたの頭の毛さえも、みな数えられています。

と言われていますように、神さまは、ご自身がお造りになったすべてのものを、ご自身の「永遠のみこころ」に従って支えてくださり、導いてくださいます。それを「摂理の御業」と呼びます。
 その摂理の御業の中でも、特に、「神のかたち」に造られている人間を、さらにまさった栄光と尊厳性を担い、神さまとの豊かないのちの交わりに生きるものとなるように導いてくださるお働きを、「特別摂理」と呼びます。神さまの特別摂理の御業は、私たちを「御前で聖く、傷のない者」、「ご自分の子」としてくださり、「御子のかたちと同じ姿」にしてくださる御業です。
 そして、この、神さまの特別摂理の御業は、ご自身の契約に基づいて遂行されます。
 神さまの契約は、神さまと人間の合意に基づいて調印されたものではありません。神さまの主権的な意志によって、いわば、一方的に確立されたものです。神さまが、天地創造の初めに、人間を「神のかたち」にお造りになったことによって、人間は、神さまとの「契約関係」にあるものになりました。ちょうど、生まれてくる子どもが、両親との「親子関係」にあるものとして生まれてくるように、人間は、神さまとの「契約関係」にあるものとして造られました。
 「神のかたち」に造られている人間は、本来、自由な意志をもつ人格的な存在として神さまに向かい、神さまの愛を受け止め、神さまを愛するものです。そして、神さまとの愛の交わりにおいて成長し、ついには、「御前で聖く、傷のない者」、「ご自分の子」としていただき、「御子のかたちと同じ姿」にしていただくべきものです。
 このような、私たちと神さまの愛の交わりの土台が、神さまの契約です。


 「神のかたち」に造られた人間は、本来、自分を自覚するようになったその瞬間から、自分が造り主である神さまとの契約関係にあって存在していることを自覚しました。罪を犯して堕落し、心が神さまから離れてしまっている状態の人間は、そういうわけにはいきませんが、本来、人間にとって、自分を意識することは、造り主である神さまとの関係にある自分を自覚することでした。
 なぜそのように言えるのかといいますと、「神のかたち」に造られている人間の心のうちには、「神への思い」が植え付けられており、神さまの「律法」が書き記されているからです。──きょうは、そのうちの、「神への思い」のことだけを取り上げてお話しします。
 すでに、ハーロウの実験のことをお話ししましたが、猿は、「母親への思い」を植え付けられているものとして生まれてきます。それで、生まれるとすぐに──誰から教えてもらうのでもないのに、母親を求め、母親に向かいますし、母親との関係の中で成長します。しかし、その実験で用いられた猿の赤ちゃんは、生まれてすぐに本当の母親から引き離されてしまいました。それで猿の赤ちゃんが「母親」を求めることはないかというと、そうではなく、やはり、「母親」を求めます。そして、自分の近くにある猿の人形を「母親」に見立てて、その人形との関係で成長していきました。
 「神のかたち」に造られている人間の心の奥底には、「母親への思い」だけでなく、また、「仲間への思い」だけでなく、「神への思い」が植え付けられています。それこそが、人間が人間であるゆえんです。
 人間が罪を犯して堕落してしまったために、心が造り主である神さまから離れてしまっているとしても、それで人間の心のうちから「神への思い」が消えてしまったわけではありません。ちょうど、生まれてすぐに本当の母親から引き離されてしまった猿の赤ちゃんが、それでも「母親への思い」があるために「母親」を求めるのと同じように、人間は、自らのうちにある「神への思い」を満たすために「神」を求めます。そして、罪のために、造り主である神さまを見失っている人間は、自分で「偶像」を造り出して、「神への思い」を満たそうとしています。
 この世に、実にさまざまな「偶像」が作り出されていることは、逆に、「神のかたち」に造られている人間の心の奥底に植え付けられている「神への思い」が、いかに強いものであるかを物語っています。そのような、人間が人間であるかぎり決して消すことができない「神への思い」は、「神のかたち」に造られている人間が、造り主である神さまに向けて造られていることのあかしです。──猿の赤ちゃんが、また、人間の赤ちゃんが、生まれてすぐに「母親」を求めることが自然なことであるように、「神のかたち」に造られている人間が、そして、自らのうちに消すことができない「神への思い」をもっている人間が、自らの造り主である神さまを求めることは、最も自然なことなのです。


 このように、「神のかたち」に造られて、心の奥底に「神への思い」が植え付けられている人間は、造り主である神さまとの交わりを求め、神さまに向きます。けれども、神さまは、私たちの感覚で捉えることができません。たとえば、私たちの目に見えるものは、物質的な質量と広がりがあるために光を反射して、私たちの目の網膜に像を結ぶものですが、神さまには、この造られた世界の中にあるものの特徴である物質的な要素はありません。
 私たちの感覚で、どこにいるかを確かめることができる存在の場合には、そちらの方を向くということは簡単なことです。また、人間同士の交わりのように、お互いに同じような形で向き合うことができる場合には、交わりが成り立っているかどうかを確かめることはすぐにできます。しかし、私たちの感覚では捉えることができない神さまとの交わりということになりますと、そのようなわけには参りません。
 それは、人間が罪を犯して堕落してしまったから生まれた問題ではなく、人間が造られたこの世界の中にある存在であり、神さまがこの世界と私たち人間の造り主であることによって生まれてくる問題です。
 もちろん、無限の霊であられる神さまは、この世界のどこにでもおられます。そして、この世界のすべてのものを知っておられますし、支えておられます。そのように、神さまがどこにでもおられることを、神さまの「遍在」と呼びます。けれども、神さまは生きた人格的な方です。人間的な言い方をしますと、ご自身の意志に従って、あるものに御顔を向けてくださり、あるものから御顔を背けられます。そのように、神さまが、私たちと愛の交わりをもってくださるために、私たちに親しく御顔を向けてくださる形で共にいてくださることを、神さまの「御臨在」と呼びます。
 私たちが神さまの方に向いたつもりになっていても、また、長いこと祈ったとしても、そして、どんなに満足感があったとしても、そこに神さまがご臨在しておられなければ、それは、宗教的な自己満足でしかありません。
 そうしますと、私たちの問題は、私たちが神さまとの交わりを求めて、神さまの方に向いたとしても、神さまが確かにここに御臨在してくださって、私たちに愛の御顔を向けてくださっているかどうかを、私たちが感覚的に確かめることができないということです。
 そのような私たちのために神さまが備えてくださったのが、神さまの契約です。すでに色々な形でお話ししてきましたが、神さまの契約は、基本的に、二つのことを約束してくださっているものです。一つは、身分に関わることで、契約の神である主が、ご自身の契約の相手、すなわち、契約の民の神となってくださり、契約の民をご自身の民としてくださるということです。もう一つは、契約の神である主の御臨在に関わることで、神である主が、ご自身の契約の民とともにいてくださるということです。
 この二つは、一つのことの裏表です。まとめますと、神さまは、ご自身の契約の民との愛にある交わりのために、契約の民の間にご臨在してくださるということです。──これが「神さまは私たちとともにおられる」(インマヌエル)という、御子イエス・キリストの誕生について預言的に語られていた名前の意味するところです。神さまは御子イエス・キリストにおいて、私たちとともにいてくださいます。
 私たちは、このような、神さまの契約に基づいて、「神さまは私たちとともにいてくださる」と信じて、神さまに向きます。それで、私たちと神さまの交わりの土台は、神さまの契約であり、私たちと神さまの交わりは、神さまの契約に基づく交わりなのです。
 


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