説教日:1999年4月11日
聖書箇所:エペソ人への手紙6章18節〜20節
説教題:霊的な戦いと祈り(12)


 エペソ人への手紙6章18節〜20節には、霊的な戦いの状況の中にある神の子どもたちの祈りについての戒めが記されています。前回は、6章18〜20節に記されている戒めそのものについて一つのことをお話ししました。
 その後、改めて、これまでお話ししたことを振り返りながら、父なる神さまの永遠のみこころと、今ここにある私たち神の子どもの立場について、言い残してしまったことがあることに気がつきました。きょうは、少し戻る感じになりますが、神さまの永遠のみこころと、今ここにある私たち神の子どもの立場について、これまでお話ししてきたことに加えて、一つのことをお話ししたいと思います。


 すでにお話ししましたように、エペソ人への手紙は、父なる神さまの永遠のみこころを明らかにすることから始まっています。1章3節〜5節では、

私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。

と言われています。
 「世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び」とか「愛をもってあらかじめ定めておられた」ということばは、父なる神さまの私たちに対する愛が、一方的で主権的な愛であることを伝えています。神さまの目からご覧になって、私たちに何か訴えるものがあるから、それを理由にして、神さまが私たちに対する愛をもつようになられたということではなく、私たちに何もないときから、まず、神さまが私たちを愛してくださったということです。
 また、このことばは、父なる神さまの私たちに対する愛が、一方的で主権的な愛というだけでなく、永遠の愛であることを伝えています。「世界の基の置かれる前から」ということは、神さまが世界を造り出される前からということです。私たちが感じ取っている時間は、この世界の時間です。この世界がなければ時間もありません。ですから、時間は神さまがこの世界をお造りになったときから始まったものです。その意味で、「世界の基の置かれる前から」ということは、そもそも時間というものがない時すなわち、「永遠において」ということです。「時間というものがない時」というのはおかしいのですが、そう言う他はないのが私たちの限界です。
 この世界の一部分であり、この世界の時間の流れの中に身を置いている私たちは、すべてのものが時間とともに変化していくものであると感じています。私たちの存在も含めて、この世界のすべてが移り変わっていくものです。それで、私たちは、愛というものも、だんだんと変わっていってしまうものであると感じています。
 しかし、それは、私たちの愛のことです。私たち自身が時間とともに移り変わるものであるので、私たちから出てくる愛も移り変わるものなのです。けれども、『ウェストミンスター小教理問答書』の問四への答で、

神は霊であられ、その存在、知恵、力、聖、義、善、真実において、無限、永遠、不変のかたです。

と告白されていますように、神さまは、その存在とすべての属性において、無限、永遠、不変の方です。それで、神さまの私たちに対する愛も、無限、永遠、不変です。このことが、これからお話しすることの根底にあります。
 エペソ人への手紙では、1章4節、5節に述べられている

神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。

という父なる神さまの愛に基づく永遠のみこころは、それに先立つ3節に述べられている、

神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。

という、私たちに対する神さまの永遠の祝福とともに生み出されていることが示されています。
 すでに詳しくお話ししたことですが、私たちを「御前で聖く、傷のない者」とし、「イエス・キリストによってご自分の子にしよう」とされたという、父なる神さまの愛に基づく永遠のみこころは、神さまの天地創造の御業を通して歴史の中に実現しました。具体的には、人間を神のかたちにお造りになり、ご自身とのいのちの交わりに生きるものとしてくださったことによって歴史の中に実現しました。
 繰り返しのようになりますが、神さまは、この世界と、この世界に属する私たち人間を、時間とともに変化するものとしてお造りになりました。それは、今の私たちの目からは、この世界にあるものが移り変わっていって、変質してしまうものであることを意味しているように思われるかもしれません。ただ変化するだけではなく、変質してしまうということです。
 しかし、ローマ人への手紙8章20節で、

それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。

と言われていますように、この世界にあるものが移り変わっていって、変質してしまうのは、人間の罪による堕落の結果、この世界に虚無が入ってきたためのことです。創造の初めからそうであったのではありません。
 創世記1章27節、28節では、

神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」

と言われています。
 天地創造の初めに、神さまは人を神のかたちにお造りになって、ご自身がお造りになった被造物世界を治める使命を人にお委ねになりました。

生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。

という、神さまの祝福のことばは、人間にとっては「歴史と文化を造る使命」ですが、それは、同時に、被造物を神のかたちに造られた人間とのつながりにおいて祝福してくださるものでした。神のかたちに造られている人間は、神さまの祝福を自らが受け継いで、それをさらに被造物に伝える役割を委ねられているのです。
 ところが、人間が罪を犯して堕落したことによって、人間との結びつきの中に置かれている被造物世界も、「虚無に服した」のです。これが、ローマ人への手紙8章20節の言うところです。
 そして、続く21節では、

被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。

と言われています。私たち神の子どもたちが、御子イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いにあずかって、「神の子どもたちの栄光の自由」を獲得するときに、被造物全体も、その恵みにあずかることになります。
 これによって、

生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。

という、天地創造の初めに、神のかたちに造られた人間に祝福として委ねられた「歴史と文化を造る使命」が、御子イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いを通して真の姿を回復し、実現するようになることが示されています。
 このことから分かりますように、神さまが、この世界と、この世界に属する私たち人間を、時間とともに変化するものとしてお造りになったということは、この世界にあるものを、変質してしまうものとしてではなく、むしろ、造り主である神さまのご栄光をより豊かに写し出すようになるものとしてお造りになった、ということを意味しています。
 神さまがお造りになったこの世界は、目的もなくただ移ろい、変化するだけの世界ではありません。神さまがお造りになった世界は、より高い目的に向かって進んでいく、歴史的な世界として造られています。言うまでもなく、そのより高い目的とは、造り主である神さまのご栄光を、さらに豊かに現わすようになる、ということにあります。
 そのことは、神さまの祝福の中に示されています。
 創世記1章1節〜2章3節の創造の記事において、神さまがお造りになったものを祝福されたことが最初に出てくるのは1章22節です。そこでは、

神はまた、それらを祝福して仰せられた。「生めよ。ふえよ。海の水に満ちよ。また鳥は、地にふえよ。」

と言われています。これは、最初に造り出された生き物たちに対する祝福です。これによって、造り主である神さまの祝福が「いのちのあるもの」への祝福であり、いのちの豊かさをもたらすものであることが分かります。
 創世記の記事においては、1章1節で用いられている「創造した」ということば(バーラー)は、その後、1章21節で、生き物たちが造られたことを記すときに用いられるまで用いられていません。つまり「いのちのあるもの」の創造によって、神さまの創造の御業が新しい段階を迎えたことを表わしています。それは、神さまが生きておられる方であることを表わす「いのちのあるもの」の創造であるからです。神さまの祝福は、この「いのちあるもの」への祝福です。
 次に祝福を受けているのは、1章28節に、

神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」

と記されていますように、神のかたちに造られている人間です。ちなみに、これに先立つ27節では、

神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。

と言われていて、「創造した」ということば(バーラー)が三回繰り返して用いられています。これによって、人間が神のかたちに造られたことによって、創造の御業がさらに新しい段階を迎えたことが示されています。
 この祝福も、神のかたちに造られている人間のいのちの豊かさに関わる祝福です。その点は、他の生き物たちに対する祝福と同じです。
 同時に、この祝福は、「歴史と文化を造る使命」であり、神のかたちに造られている人間に委ねられている使命の遂行にも関わっています。
 さらに、他の生き物たちは、神さまの祝福の下にありますが、その祝福のことばは一方的な宣言であり、生き物たち自身に向かって語られてはいません。しかし、人間の場合には、その祝福のことばが人間に向かって語りかけられています。人間は、自分たちが神さまの創造の御業によって造り出されただけでなく、神さまの祝福の下にあることを受け止めて、神さまに応える人格的な存在です。
 人間のいのちの特徴は、ただ、自分たちが生まれて、地に増え広がっていくことにあるだけのものではありません。造り主である神さまの永遠の愛と恵みを、いつも新しく受け止めて、それに応えて生きるところにあります。
 それで、「神さまの祝福は『いのちのあるもの』への祝福であり、いのちの豊かさをもたらすものである」ということは、神のかたちに造られている人間の場合には、神さまの祝福とともに与えられた「歴史と文化を造る使命」を遂行することの中に実現してきます。
 創世記2章3節では、

神はその第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた。それは、その日に、神がなさっていたすべての創造のわざを休まれたからである。

と言われています。神さまは、創造の第七日を「祝福し、この日を聖であるとされ」ました。この創造の第七日は、造り主である神さまの祝福と聖別によって、他の創造の日と区別されています。
 創世記1章5節では、

こうして夕があり、朝があった。第一日。

と言われています。創造の第一日は閉じて、第二日目が始まっています。このように一つの日が閉じて、次の日が始まることは、創造の第六日まで続いています。しかし、創造の第七日については、このように言われていません。つまり、創造の第七日は、まだ閉じていないのです。
 創世記1章31節で、

そのようにして神はお造りになったすべてのものをご覧になった。見よ。それは非常によかった。こうして夕があり、朝があった。第六日。

と言われていますように、第六日目に、創造の御業によって造られた世界は完成しています。
 神のかたちに造られている人間が造り出す歴史は、造り主である神さまが祝福して聖別された創造の第七日の中にあるのです。
 これらのことを、先ほど見ました、エペソ人への手紙の初めの部分に記されている、

神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。

という、私たちに対する、父なる神さまの永遠の祝福との関わりで見るとどうなるでしょうか。
 創造の初めに、神のかたちに造られた人間に祝福とともに委ねられた「歴史と文化を造る使命」は、この、父なる神さまの永遠の祝福を具体的に表現するものでした。
 人間が罪を犯して堕落した後では、「歴史と文化を造る使命」を遂行することには、多くの労苦が伴うようになりました。しかし、本来、「歴史と文化を造る使命」は、

神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。

という、父なる神さまの永遠の愛に基づくみこころを、この世界で実現するために与えられたものであったのです。
 先ほどお話ししましたように、ローマ人への手紙8章18節〜23節では、

被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。

という望みの中にあるということが記されています。
 実は、これに先立つ、8章14〜17節では、御子イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いにあずかっている私たちが、「子としてくださる御霊」を受けており、その「御霊によって、『アバ、父。』と呼びます。」と言われています。これは、エペソ人への手紙の初めに記されている、

神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。

という、父なる神さまの愛に基づく永遠のみこころが、御子イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いを通して、私たちの間で実現していることを示しています。
 そして、ローマ人への手紙8章18節〜23節では、このこと、すなわち私たちが「子としてくださる御霊」によって「アバ、父。」と呼ぶ者とされていることを受けて、

被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。

という望みが実現していくと言われています。
 そして、これは、すでにお話ししましたように、

生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。

という、天地創造の初めに、神のかたちに造られた人間に委ねられた「歴史と文化を造る使命」の真の姿を回復し、また、実現するものです。
 私たちは、このことから、

生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。

という、天地創造の初めに、神のかたちに造られた人間に委ねられた「歴史と文化を造る使命」は、

神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。

という、父なる神さまの永遠の愛に基づくみこころを実現するための使命であったことを、改めて知ります。
 さらに言いますと、

生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。

という「歴史と文化を造る使命」は、人間の神さまに対する奉仕の原点です。
 そうであれば、神さまへの奉仕の本来の意味と目的は、

神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。

という、父なる神さまの永遠の愛に基づくみこころを実現することにあるということになります。そうであって初めて、奉仕が、「神さまの祝福は『いのちのあるもの』への祝福であり、いのちの豊かさをもたらすものである」という、神さまの祝福となります。
 そのような、奉仕の目的と精神が、見失われてしまいますと、いたずらに重荷を負わせるだけの奉仕が、神である主の御名のもとに生み出されることになります。  


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