説教日:1999年3月21日
聖書箇所:エペソ人への手紙6章18節〜20節
説教題:霊的な戦いと祈り(11)


 エペソ人への手紙6章10節〜20節に記されている、霊的な戦いについての教えと戒めは、18節〜20節の祈りについての戒めをもって締めくくられています。
 これまで、この戒めそのものからは少し離れて、霊的な戦いの状況にある神の子どもたちの祈りについて、いくつかのことをお話ししてきました。
 今日は、6章18節〜20節の戒めそのものに注目して、お話を進めていきたいと思います。


 新改訳では、18節、19節、20節のそれぞれが独立した戒めとして訳されています。けれども、ギリシャ語の原文では、19節と20節で「祈ってください」と訳されたことばはありません。とはいえ、19節と20節で、この手紙を書いたパウロが、自分のために祈ってくれるようにと、祈りの要請をしていることは、「祈ってください」ということばがなくてもはっきりしていますから、新改訳の訳文がおかしいということではありません。
 文法の上では、18節〜20節の中心は、18節前半の「祈りなさい」と訳されていることばと、18節後半の「目をさましていて」と訳されていることばですが、どちらも現在分詞で表わされています。これらの現在分詞をそのまま生かして18節を直訳調に訳しますと、

すべての祈りと願いを通して、あらゆる機会に御霊によって祈りつつ、そしてこの目的のために、すべての聖徒たちのためのあらゆる忍耐と願いにおいて、目を覚ましつつ

となるでしょうか。
 それで、この18節〜20節が、その前の部分とどのようにつながるかについて、色々な見方があります。
 第一に、18節の「祈りつつ」と「目を覚ましつつ」という分詞を命令形の代用と取る人々は、これが独立した命令であると理解しています。つまり、18節には新しい命令が記されているというのです。
 第二に、18節の「祈りつつ」と「目を覚ましつつ」という分詞が、直前の動詞にかかるとすれば、17節の「受け取りなさい」にかかることになります。そうしますと、「あらゆる機会に御霊によって祈りつつ」また「すべての聖徒たちのためのあらゆる忍耐と願いにおいて、目を覚ましつつ」「救いのかぶと」と「御霊の剣である神のことば」を「受け取りなさい」と戒められているということになります。
 第三に、15節、16節の「腰には真理の帯を締め」、「胸には正義の胸当てを着け」、「足には平和の福音の備えをはき」、「これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取り」は、すべて分詞で表わされていて、14節の「立ちなさい」にかかっています。それと同じように、18節の「祈りつつ」と「目を覚ましつつ」という分詞も、14節の「立ちなさい」にかかる、という見方があります。
 この見方では、「神のすべての武具」を取って武装することによって「しっかりと立つ」だけでなく、「あらゆる機会に御霊によって祈」ることによって、また「すべての聖徒たちのためのあらゆる忍耐と願いにおいて、目を覚まし」ていることによって「しっかりと立つ」ようにと戒められているということになります。
 これらのうちのどの見方をとるべきかの判断は、とても難しいのですが、おそらく、18節の「祈りつつ」と「目を覚ましつつ」という分詞を命令形の代用と取って、この部分は独立した戒めであると理解するのがいいのではないかと思われます。そして、これが新改訳の理解です。
 というのは、14節〜17節では、当時のローマの兵士の武装をたとえとして、霊的な戦いのための「神のすべての武具」を身に着けることが語られています。けれども18節〜20節の祈りについての戒めには、そのような当時の兵士の武装を思わせる描写がないからです。それで、18節〜20節に記されている祈りについての戒めは、それに先立つ14節〜17節に記されている霊的な戦いのための武装についての戒めとは区別されると考えられます。
 同時に、この18節〜20節がまったく独立した命令であることを示すためには、単純に、命令形を用いて表わせばいいのに、わざわざ前の部分とのつながりをにおわせる分詞を用いていることには、意味があると考えられます。これによって、この戒めが、その前の部分全体と緩やかにつながっていることを示していると思われます。
 それで、18節〜20節の祈りについての戒めは、それに先立つ霊的な戦いのための武装についての戒めからは区別されるけれども、霊的な戦いについての戒めの一部であると考えられることになります。そうしますと、霊的な戦いのためには、神の子どもたちが「神のすべての武具」を身に着けるだけでは十分ではなく、それとともに、すべての聖徒たちのために、いつも目を覚ましていて、御霊によって祈り続けなくてはならないと教えられているということになります。
 このことの意味を考えるために、6章10節〜17節に記されている霊的な戦いについての教えと戒めを簡単に復習しながらお話ししたいと思います。
 まず、6章10節では、

終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。

という基本的な戒めが記されています。
 これに続いて、11節と12節では、

悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。

と言われています。これによって、霊的な戦いの相手が血肉ではなく、悪魔をかしらとする「主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊」であることが明らかにされています。
 それで、11節と13節では、そのような敵と戦うためには、「神のすべての武具」を身に着けなくてはならないと戒められています。そして、続く14節〜17節では、「神のすべての武具」を一つ一つ取り上げて説明しています。
 18節〜20節の戒めに記されている祈りは、神の子どもたちが「神のすべての武具」を身に着けて武装して「しっかりと立つ」ことと、いわば、同時並行的になされることです。それも、霊的な戦いの敵が、血肉ではなく、悪魔をかしらとする「主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊」であることによっています。自分たちが「神のすべての武具」を身に着けて武装していれば十分であるということはなく、その上になお、すべての聖徒たちのために、いつも目を覚ましていて、御霊によって祈り続けなくてはならないということです。
 これに続く、「神のすべての武具」を一つ一つ取り上げて説明している14節〜17節は、原文の文法の上では、14節〜16節と17節の二つに分けられました。
 14節〜16節は長い一つの文で、14節の「しっかりと立ちなさい。」という戒めが中心です。霊的な戦いにおいて「しっかりと立つ」ために、「腰には真理の帯を締め」、「胸には正義の胸当てを着け」、「足には平和の福音の備えをはき」、「これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取り」なさいと戒められています。
 ここで語られているのは、イエス・キリストの贖いの恵みにあずかって新しくされている神の子どもたちの人格的な特性、すなわち、人となりのことです。このことから、霊的な戦いのために必要な「神のすべての武具」を身に着けることは、私たちの神の子どもとしての成長と成熟をもたらすことが分かります。
 17節は独立した一つの文で、「受け取りなさい」という戒めがその中心です。新改訳の「救いのかぶとをかぶり」の「かぶり」ということばは原文にはなく、17節では「そして、救いのかぶとと御霊の剣である神のことばを受け取りなさい。」と言われています。確かに「救いのかぶと」を受け取った後にそれをかぶるのですから、「救いのかぶとをかぶり」と訳してもいいのですが、ここでは「受け取ること」が強調されています。
 これによって、「救いのかぶと」と「御霊の ・・・・ 剣である、神のことば」は、私たちの人格的な成熟の度合いによって左右されるものではないことが示されています。神さまが御子イエス・キリストにあってすでに完成してくださっている「救い」と、人間が付け加える必要もないし付け加えてはならない完全な「神のことば」を、そのまま受け取るということです。イエス・キリストの贖いにあずかって神の子どもとなったばかりの人にも、長いこと神の子どもとしての歩みを続けてきた人にも、完全で欠けたところのない「救い」と「神のことば」が与えられています。
 このように、「神のすべての武具」を身に着けて武装することによって、私たちは神の子どもとして成長します。また、私たちは、完全で欠けたところのない「救い」と「神のことば」を受け取っています。
 けれども、そこには、私たち自身の罪と限界が関わっていて、影を落としています。
 神の子どもとして成長しているということは、成長の過程にあるということで、完全に成熟しているということではありません。ヨハネの手紙第一・3章2節で、

愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。

と言われていますように、その完成は、世の終わりの日にイエス・キリストが再臨される時に実現します。
 その完成の時までは、神の子どもたちは、自らのうちになお罪の性質を宿しており、罪を犯します。ヨハネの手紙第一・1章8節で、

もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。

と言われており、さらに、10節で、

もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません。

と言われているとおりです。
 8節の「」は単数形で、そこからさまざまな形の罪が生まれてくる「罪の性質」を表わしています。10節では、その「罪の性質」から、実際に、さまざまな罪が生まれてきていることを示しています。
 このような神の子どもたちの現実を踏まえて、ヨハネの手紙第一・5章16節では、

だれでも兄弟が死に至らない罪を犯しているのを見たなら、神に求めなさい。そうすれば神はその人のために、死に至らない罪を犯している人々に、いのちをお与えになります。

と言われています。
 もちろん、神の子どもたちの罪が赦されるのは、ヨハネの手紙第一・1章9節で、

もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。

というみことばの約束によっています。その根拠は、ヨハネの手紙第一・2章1節、2節で、

もしだれかが罪を犯したなら、私たちには、御父の御前で弁護してくださる方があります。それは、義なるイエス・キリストです。この方こそ、私たちの罪のための、―― 私たちの罪だけでなく全世界のための、―― なだめの供え物なのです。

と言われていますように、御子イエス・キリストが、義である神さまの、正当で聖なる御怒りを鎮める「私たちのための ・・・・ なだめの供え物」となって完全な罪の贖いを成し遂げてくださったことにあります。
 ですから、私たちが罪を犯したときには、私たち自身が、

もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。

というみことばの約束を信じて、その罪を告白し罪の赦しを受け取らなくてはなりません。
 けれども、そのような私たちは、兄弟たちの執り成しの祈りを必要としています。というのは、私たちは神さまの恵みによらなければ、自分の力で罪を認めて、悔い改めることはできないからです。ですから、

だれでも兄弟が死に至らない罪を犯しているのを見たなら、神に求めなさい。そうすれば神はその人のために、死に至らない罪を犯している人々に、いのちをお与えになります。

というのは、神さまが、兄弟たちの執り成しの祈りに応えてくださって、私たちが自らは認めたくない罪を認めて、悔い改めるようにと導いてくださることを意味しています。
 また、神の子どもたちが完全で欠けたところのない「救い」と「神のことば」を受け取っていると言っても、完全で欠けたところがないのは、「救い」と「神のことば」であって、私たち自身ではありません。私たちがこの「救い」と「神のことば」の中に身を置くかぎり、この「救い」と「神のことば」が完全で欠けたところがないので、私たちは揺るぐことはありません。けれども、霊的な戦いの状態にあっては、たとえば、ペテロの手紙第一・5章8節で、

身を慎み、目をさましていなさい。あなたがたの敵である悪魔が、ほえたけるししのように、食い尽くすべきものを捜し求めながら、歩き回っています。

と言われていますように、「敵である悪魔」が神の子どもたちを「食い尽くそうとして」「歩き回っています。
 「敵である悪魔」の働きは、さまざまな形でなされますが、その目的は、神の子どもたちを「救い」と「神のことば」から引き離すことにあります。
 世間一般では、「悪魔の働き」といいますと、いかにも恐ろしく気味が悪いものであるように考えられています。確かに、脅かしや恫喝のようなことが通用するところでは、そのような手法を取るでしょう。先ほどの、ペテロの手紙第一・5章8節に続く9節で、

堅く信仰に立って、この悪魔に立ち向かいなさい。ご承知のように、世にあるあなたがたの兄弟である人々は同じ苦しみを通って来たのです。

と言われているのは、「敵である悪魔」の働きが、迫害という厳しい試練の形でやって来ることを示しています。
 しかし、そのような試練によっては、かえって、神の子どもたちが、完全で欠けたところのない「救い」と「神のことば」に逃げ込んでいくこともあります。「悪魔」の働きの特徴は、むしろ、欺きを通して、神の子どもたちを、神さまの「救い」と「神のことば」から引き離してしまおうとすることにあります。ある意味では、迫害という厳しい試練も、それによって神の子どもたちを欺いて、神さまの「救い」と「神のことば」から引き離してしまおうとするための手段の一つと言えます。
 悪魔の欺きは、より一般的には、コリント人への手紙第二・11章13節〜15節で、

こういう者たちは、にせ使徒であり、人を欺く働き人であって、キリストの使徒に変装しているのです。しかし、驚くには及びません。サタンさえ光の御使いに変装するのです。ですから、サタンの手下どもが義のしもべに変装したとしても、格別なことはありません。

と言われていますように、人の目に受け入れやすい「キリストの使徒」や「義のしもべ」の姿を取って来る者たちを通してなされるものです。そのような働きを通して、神さまの「救い」と「神のことば」を歪めてしまい、神の子どもたちに、歪められた「救い」と「神のことば」を受け取らせようとするのです。
 さらに、マタイの福音書24章24節で、

にせキリスト、にせ預言者たちが現われて、できれば選民をも惑わそうとして、大きなしるしや不思議なことをして見せます。

と言われていますように、そこでは、誰が見ても、神さまの御業ではないかと思われるような「大きなしるしや不思議なこと」が行われることもあります。
 もちろん、「大きなしるしや不思議なこと」に動かされている人々自身は、自分が欺かれていると感じることはありません。むしろ、マタイの福音書7章22節、23節で、

その日には、大ぜいの者がわたしに言うでしょう。「主よ、主よ。私たちはあなたの名によって預言をし、あなたの名によって悪霊を追い出し、あなたの名によって奇蹟をたくさん行なったではありませんか。」しかし、その時、わたしは彼らにこう宣告します。「わたしはあなたがたを全然知らない。不法をなす者ども。わたしから離れて行け。」

と言われていますように、最後まで、神さまが大いなる恵みを与えてくださったと考えることでしょう。
 このように、神の子どもたちは、自分たちを「救い」と「神のことば」から引き離そうとしている、悪魔の巧妙で恐ろしい攻撃にさらされています。そうであれば、神の子どもたちは目を覚ましていて、あらゆる機会に、御霊によって、お互いのために祈り続けなくてはなりません。
 霊的な戦いについての教えと戒めの最後に、すべての聖徒のために目を覚ましていて、いつも御霊によって祈り続けるようにとの戒めが記されているのは、霊的な戦いの中で、神の子どもたちを取り巻く状況がいかに厳しいものであるかを示しています。
 けれども、その厳しさは、必ずしも感覚的に捉えられるものではありません。マタイの福音書26章41節に記されていますように、ゲツセマネの園で主イエス・キリストから、

誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。

と戒められても、眠り続けてしまった弟子たちの弱さと鈍さは、そのまま私たちの弱さと鈍さでもあります。
 私たちは、私たちの大祭司であるイエス・キリストとともに、すべての聖徒たちのために目を覚まして、祈り続けてくださっている神の子どもたちの祈りに、どれほど支えられてきたことでしょうか。また、今も、どれほど支えられていることでしょうか。
 また、私たち自身も、私たちの大祭司であるイエス・キリストとともに、すべての聖徒たちのために目を覚ましていて、御霊によって執り成しの祈りを祈り続ける恵みの中で、自分自身の置かれている霊的な戦いの状況についても目を覚ましていることができるのです。

 


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(c) Tamagawa Josui Christ Church