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説教日:1999年3月14日 |
先週は、私たち神の子どもたちの祈りは、エペソ人への手紙1章3節〜5節に記されています、 私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。 というみことばに示されている、父なる神さまの永遠のみこころから出ている、ということをお話ししました。 父なる神さまは、 私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。 そして、 私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。 「御前で聖く、傷のない者」ということは、神さまのご臨在の御前に近づけられている者の特徴です。また、「ご自分の子」ということも、父なる神さまとの親しい交わりの中に生きている者のことを指しています。これによって示されている父なる神さまとの交わりの具体的な現われの一つが、神の子どもたちの祈りです。 「御前で聖く、傷のない者」というときの「聖さ」の源と標準は、造り主である神さまです。神さまの聖さは、無限、永遠、不変の聖さです。これに対して、造られたものの聖さは派生的なものですから、造り主である神さまとの関係の在り方によって決まります。 「聖い」といいますと、道徳的なものと考えがちです。しかし、道徳的な聖さは大切なものですが、聖さの一つの面です。もし聖さが道徳的なものであれば、道徳的な存在でないものには聖さということが当てはまらなくなります。けれども、たとえば、創世記2章3節では、 神はその第七日目を祝福し、この日を聖であるとされた。それは、その日に、神がなさっていたすべての創造のわざを休まれたからである。 と言われています。創造の第七日そのものには、道徳的な面はありません。それでも、第七日は神さまによって「聖別され」、聖いものとされています。このことは、「聖い」ということが道徳的な性格を持っていないものにも当てはまるということを意味しています。 神さまによって造られたものの聖さは、聖なる神さまとの関係の在り方にあります。神さまによって造られたものはみな良いものです。その意味で、基本的に聖いものです。その基本的に聖いものが、さらに、神さまのために区別あるいは聖別されて献げられ、特別な意味で神さまのものとなるなら、「御前で聖く」というときの「聖いもの」となります。 人間のように人格的な存在の場合には、造り主である神さまのみこころをわきまえて、自分の自由な意志によって、自分自身を神さまの御前に献げることによって「聖いもの」となります。ただし、今の私たちの現実では、罪による堕落によって本性が腐敗してしまっていますので、このままの自分を神さまに献げることは、罪によって腐敗した自分を神さまに結びつけることになってしまい、神さまの聖さを汚してしまうことになります。それで、御子イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いにあずかって初めて、自分を神さまに献げることができます。 ローマ人への手紙12章1節には、 そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。 と記されています。これは、御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業にあずかっていて初めてできることです。 また、「傷のない」ということば(アモーモス)は、旧約聖書のギリシャ語訳である『七十人訳』では、主の御前に献げられるいけにえのことを表わすのに用いられています。たとえば、ここでは読みませんが、レビ記22章17節〜25節を見てください。 これを受けて新約聖書では、旧約のいけにえの成就であるイエス・キリストを表わすのに用いられています。たとえば、ヘブル人への手紙9章14節では、 まして、キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行ないから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。 と言われています。 さらに、旧約のいけにえの成就であるイエス・キリストの十字架の死による罪の贖いにあずかっている神の子どもたちにも、「傷のない」ということが当てはめられています。たとえば、コロサイ人への手紙1章21節、22節では、 あなたがたも、かつては神を離れ、心において敵となって、悪い行ないの中にあったのですが、今は神は、御子の肉のからだにおいて、しかもその死によって、あなたがたをご自分と和解させてくださいました。それはあなたがたを、聖く、傷なく、非難されるところのない者として御前に立たせてくださるためでした。 と言われています。 長くなりますから引用しませんが、レビ記21章16節〜23節にありますように、この「傷のない」状態にあるべきことは、特に、神である主のご臨在の御前に近づいて、献げものを献げる祭司に求められているものです。レビ記に示されている古い契約の「模型」では、からだに欠陥がないことで、この「傷のない」ことを表わしましたが、新しい契約の下では、ご自身「傷のない」祭司であり、「傷のない」献げものとなられた、イエス・キリストが十字架の上で流された血による罪の贖いにあずかって、イエス・キリストと一体とされている者の状態を指しています。 このように、父なる神さまが私たちを「御前で聖く、傷のない者」にしようとされたのは、私たちをご自身のご臨在の御前に近づかせてくださるためです。そして、御前に仕える祭司として、ご自身との交わりに生きるものとしてくださるためです。このみこころにしたがって、今日、私たちは、御子イエス・キリストにあって父なる神さまのご臨在の御前に近づいて、祈り、また礼拝をささげています。 父なる神さまは私たちを「御前で聖く、傷のない者」にしようとされただけではありません。さらに、 私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。 と言われています。 ここで「子にしよう」と訳されていることば(フイオセシア)は、「養子にすること」や、「(養子縁組の結果与えられている)子としての身分」を表わしています。当時のローマ社会においては、法的に養子として迎えられた子どもには、実子と同じ権利を与えられていました。 エペソ人への手紙の読者たちは、そのようなローマ社会の法律上の理解をもっていましたから、ここでは、そのことは当然のこととして踏まえられています。それとともに、ここでは、神さまの契約によって主の民が「子とされる」ことを指していると考えられます。 主の民が神の子どもとされることの目的は、神さまとのいのちの交わりにあずかるようになることにあります。ガラテヤ人への手紙4章6節で、 そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父。」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。 と言われているとおりです。この「『アバ、父。』と呼ぶ、御子の御霊」による父なる神さまとの交わりが、神の子どもたちの祈りとなります。 ここで特に注意しておきたいのは、 神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。 というみことばに出てくる、「世界の基の置かれる前から」ということばです。このことばは、父なる神さまが、私たちを「キリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされ」、「イエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられた」ということが、父なる神さまの主権的で一方的なみこころによるものであることを示しています。 父なる神さまが、私たちを「キリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされ」、「イエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられた」のは、私たちの側に何かそれに価するものがあったからではなく、ただただ神さまが私たちを愛してくださったからであるというのです。言い換えますと、私たちに何の条件もつけないで、私たちを愛して、ご自身の民とし、ご自身の子どもとしてくださるということです。 「世界の基の置かれる前から」ということは、これとともに、天地創造の御業がなされる前からということですから、「永遠のみこころにおいて」ということを意味しています。時間は移り変わるこの世界の時間です。この世界がなければ時間もありません。「世界の基の置かれる前から」ということは、私たちを「キリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされ」、「イエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられた」という父なる神さまのご計画が、この移り行く世界の時間の中で立てられたものではないし、そのご計画に示されているみこころがこの世界の歴史の流れとともに変わってしまうものではない、ということを意味しています。 移り行くこの世界に属している私たちは、時間の流れとともに移り行くものです。しかも、自分自身のうちに罪の暗やみと腐敗を宿している私たちは、真実なものではなくなりました。自分の事情や都合次第で神さまと人を裏切ることがあるばかりでなく、神のかたちに造られている自分自身にも背きます。しかし、「世界の基の置かれる前から」ということは、たとえ、私たちがそのような不真実なものであっても、私たちを「キリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされ」、「イエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられた」という、父なる神さまの永遠のみこころが変わってしまうことはない、ということを示しています。 これと同じ思想は、 神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。 というみことばの「ただみこころのままに」ということばと「あらかじめ定めておられた」ということばにも示されています。 私たちの信仰が最後にたどり着くところ、そして、そこですべての重荷を下ろして休らうことができるところは、この父なる神さまの主権的で一方的な愛と恵みから出ている、私たちを「キリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされ」、「イエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられた」という永遠のみこころです。 ヨハネの福音書6章38節〜40節に記されていますように、イエス・キリストは、 わたしが天から下って来たのは、自分のこころを行なうためではなく、わたしを遣わした方のみこころを行なうためです。わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。 と言われました。 ここで、イエス・キリストが繰り返し述べておられる「わたしを遣わした方のみこころ」は、イエス・キリストが、ご自身の民のすべてを、永遠のいのちのうちに生きるようにしてくださることにあります。それは最終的には、世の終わりの日にイエス・キリストが再臨されて、ご自身の民をよみがえらせてくださるときに完成すると言われています。 これは、すでにお話ししましたように、私たちを「キリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされ」、「イエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられた」という父なる神さまの永遠のみこころが、人間が罪を犯して堕落してしまったにもかかわらず、御子イエス・キリストの贖いの御業を通して実現することを意味しています。 ですから、私たちが御子イエス・キリストの贖いの御業を信じるということは、父なる神さまの永遠のみこころを信じることに他なりません。イエス・キリストがご自身の十字架の死をもって私たちの罪を贖ってくださったということも、それによって、私たちが死と滅びの道から贖い出されて、神さまとの交わりにある永遠のいのちに生かしていただいているということも、すべて、父なる神さまの永遠のみこころによることであるのです。 このように見ますと、ヨハネの福音書5章24節に記されている、 まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。 というイエス・キリストの教えや、ヨハネの福音書12章44節、45節に記されている、 また、イエスは大声で言われた。「わたしを信じる者は、わたしではなく、わたしを遣わした方を信じるのです。また、わたしを見る者は、わたしを遣わした方を見るのです。 ・・・・ 」 というイエス・キリストの教えがよく分かります。 また、ヨハネの手紙第一・3章1節〜3節に記されている、 私たちが神の子どもと呼ばれるために、 という教えでは、歴史の中で、イエス・キリストが人としての性質を取って来てくださり、十字架にかかって私たちの罪の贖いを成し遂げてくださったことに現われている神さまの愛が視野の中にあることは確かです。 同時に、ヨハネの目は、そのイエス・キリストの贖いの御業が、私たちを「キリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされ」、「イエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられた」という、父なる神さまの一方的な愛と恵みから出ている、永遠のみこころに従って遂行されたことを見据えていると考えられます。そのことは、 キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。 ということばからうかがわれます。これは、同じく父なる神さまの永遠のみこころのことを述べているローマ人への手紙8章29節の、 なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。 というみことばと突き合わせるとよく分かります。 また、ヨハネの、 キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします。 ということばも、私たちを「キリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされ」たという、父なる神さまの永遠のみこころを踏まえたことばでしよう。 私たちも、同じように、御子イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いの御業に表わされている、イエス・キリストの恵みと父なる神さまの愛を通して、私たちを「キリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされ」、「イエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられた」という、父なる神さまの永遠のみこころにまで、私たちの信仰の眼を向けていき、そこで休らうことを学びたいと思います。 そして、今すでに、信仰によって、御子イエス・キリストの贖いの御業にあずかって、父なる神さまの御前に「聖く、傷のない者」として立たせていただき、神の子どもとしていただいている者として、何をするよりも前にまず、父なる神さまの永遠に変わらない愛と恵みの御懐の中で休らうことから始めて、また父なる神さまの御懐に戻ってきて、さらに深く休らうことを目的としたいと思います。 神の子どもたちにとっては、さまざまな痛みと叫びの多い地上の歩みですが、なおも、詩篇131篇1節、2節に記されています、 主よ。私の心は誇らず、 私の目は高ぶりません。 及びもつかない大きなことや、奇しいことに、 私は深入りしません。 まことに私は、 自分のたましいを和らげ、静めました。 乳離れした子が母親の前にいるように、 私のたましいは乳離れした子のように 御前におります。 という、告白に生きたいと思います。 |
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