![]() |
説教日:1999年3月7日 |
すでに、ハーロウの実験で用いられた猿の赤ちゃんのことを例にとってお話ししたことですが、「母親に向けて」造られている猿の赤ちゃんの猿としての本性のうちには、「母親を求める性質」が植え付けられています。それで、猿の赤ちゃんは母親との関係の中で育ちます。実際の母親がいなければ、母猿の人形を母と見立てて、その人形の存在に支えられながら育っていきます。 人間も同じように「母親に向けて」造られており、人間としての本性のうちには「母親を求める性質」が植え付けられています。人格的な存在である人間の場合には、「母親を求める性質」も人格的なものです。それで、これまでそれを「母親への思い」と呼んできました。 聖書は、人間は神のかたちに造られていると教えています。確かに、人間は「母親に向けて」造られています。また、友だち、仲間、家族、伴侶など、その他の人間とのさまざまな社会的な関係を築くものとして、「他者に向けて」造られています。しかし、聖書は、人間の本質の核心にあるもの、人間の最も奥にあって、人間の在り方を最も深いところで決定するものは、神のかたちに造られていることであると教えているのです。 人間の場合には、結婚関係も、家族関係も、友情も、さらには国家の在り方さえも、人間が神のかたちに造られているということの上に成り立っています。この世の権力者たちは、素早くこのことに気づいて、国家や社会を統一するために、宗教を用いてきました。また、人間が結婚や誕生を宗教と関わらせてきたのも、結婚や誕生に何か神秘的なものを感じ、自分たちを超えた意味を感じ取っているからでしょう。 人間が神のかたちに造られているということは、人間は「神に向けて」造られており、心の奥深くに「神への思い」を植え付けられているということです。言い換えますと、人間は造り主である神さまとの交わりのうちに生きるものとして造られているということです。そして、この神さまとの交わりに生きることが、永遠のいのちの本質です。 私たちが考えています祈りは、この、造り主である神さまとの交わりの具体的な現われのひとつです。 このように、神さまは人間を神のかたちにお造りになり、人間の心の奥深くに「神への思い」を植え付けてくださり、人間をご自身との交わりに生きるものとしてお造りになりました。その場合、神のかたちに造られている人間は人格的な存在であり、自由な意志をもっていて、自分自身の在り方に対して造り主である神さまに対して責任を負っています。それで、神さまと神のかたちに造られている人間の交わりは、人格的なものです。 このような、造り主である神さまと神のかたちに造られている人間の間にある人格的な交わりの土台となっている関係を、聖書は「契約関係」として示しています。 ある交わりにおいて、お互いのことを「夫」とか「妻」とか呼ぶことができるのは、結婚した夫婦の間だけです。つまり、そこに結婚による「夫婦の関係」があるときに、夫と妻の交わりが成り立ちます。先に、法的に「夫婦の関係」が確立されて初めて、夫と妻の交わりが生まれます。 親と子の間の交わりもそうです。誕生や養子縁組によって、「親子関係」が確立されていて初めて、実際の、親と子の交わりが成り立ちます。 神さまと私たちの交わりも同じです。神さまが、レビ記26章12節に記されていますように、 わたしはあなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる。 という関係を確立してくださって初めて、神さまと神さまの民の間の交わりが成り立ちます。そして、神さまが、 わたしはあなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる。 という形で確立してくださった関係が「契約関係」です。この契約関係の上に立って、私たちは神さまとのいのちの交わりに生きることができます。 聖書に記されている契約は、近代の市民社会における契約とはかなり違った性格を持っています。近代市民社会における契約は、契約を結ぶ者たちが対等の立場に立って、双方の合意によって結ばれるものです。けれども、聖書が記された時代と文化の中では、契約は、主権者が一方的にその権威の下にある「臣民」を契約関係に入れてしまうものでした。このことは、聖書に記されている神である主の契約にも反映しています。 神さまの契約は、神さまと私たちが合意して結ばれたものではなく、神さまがその一方的で主権的なみこころによって確立してくださったものです。これまでお話ししてきたことに当てはめて言いますと、神さまの契約は、神さまが人間を神のかたちにお造りになり、人間の心の奥深くに「神への思い」を植え付けてくださって、ご自身とのいのちの交わりに生きるものとして造ってくださった創造の御業によって、確立されたということです。 このように、神さまの契約は、神さまの主権的なみこころによって与えられたものです。人はそれを信じて受け入れているだけです。 そうしますと、その、神さまの主権的なみこころがどのようなものであるかが問題となります。それについては、色々なところで明らかにされていますが、エペソ人への手紙1章3節〜5節を見てみましょう。そこでは、 神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。 と言われています。 神さまは永遠のご計画のうちで、私たちを キリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。 また、 私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。 神さまは、このような永遠のみこころにしたがって、また、そのみこころを実現するために、天地創造の初めに人を神のかたちにお造りになりました。それによって、人をご自身との契約関係にあるものとして、ご自身との愛の交わりに生きるものとしてくださいました。 このように、聖書の契約は、神さまが、永遠の前からの一方的で主権的な愛と恵みによって、私たちをご自身の子として御前に立たせてくださり、ご自身とのいのちの交わりに生きるものとしてくださるというみこころを実現してくださるためのものです。これを「契約」という法的なものによって示してくださったのは、私たちのためです。 今もそうですが、その当時も、人間の社会の取り決めの中で最も確かで永続的な取り決めは、「契約文書」に基づいてなされました。実は、聖書は神さまの契約の「契約文書」としての意味をもっています。聖書に示されている、神さまの契約は、神さまご自身の「真実さ」と、神さまの私たちに対する愛と恵みの「真実さ」を表現するものであり、神さまの私たちに対する愛と恵みが変わらないものであることを、私たちの考え方にそって示してくださり、保証してくださっているものなのです。 「契約」と言いますと、何か冷徹な感じがします。しかし、そのイメージは、契約が多くの場合に「取り引き」の場において結ばれていることによって生まれたのではないでしょうか。しかし、神さまの契約は和とか差との間の「取り引き」のために与えられたものではありません。それがどのような契約であっても、契約の本質は、契約の当事者の「真実さ」を保証することです。 結婚における「誓約」も一種の契約です。それは、お互いの愛の「真実さ」をあかしするものです。その「誓約」によって確立された「結婚関係」(誓約の関係)の上に立って、夫と妻が夫婦の交わりをすることができるのです。ですから、契約は愛を支えるものでもありうるのです。そして、それが神さまの契約の趣旨です。 神さまは天地創造の初めに人間を神のかたちにお造りになり、その心の奥深くに「神への思い」を植え付けてくださり、ご自身との交わりに生きるものとしてお造りになりました。これによって、ご自身と人間の間に契約関係を確立してくださいました。このようにして、神さまが創造の御業によって確立してくださった契約を「創造の契約」と呼びます。これは、伝統的に「業の契約」と呼ばれている契約に当たります。 伝統的な「業の契約」の理解は、創世記2章16節、17節に記されている「善悪の知識の木」をめぐる禁令が与えられたときに、その契約が結ばれたという理解の上に成り立っています。これは、近代社会の契約の理解に基づいて、神さまと人間がどこかで合意しているはずだと考えたことにもよっています。そうしますと、その契約が結ばれる以前の神である主と人間の関係は、どういう関係であったのかという問題が生じます。 これに対して、「創造の契約」では、神さまは天地創造の御業の中で、人を神のかたちにお造りになったときに、人をご自身との契約関係の中にあるものとしてお造りになったと理解しています。ですから、神のかたちに造られている人間は、初めから神さまとの契約関係にあるのです。 神さまの「律法」も、神さまがご自身の民との間に確立してくださった契約の枠の中にあるものです。 ローマ人への手紙2章14節、15節で、 律法を持たない異邦人が、生まれつきのままで律法の命じる行ないをするばあいは、律法を持たなくても、自分自身が自分に対する律法なのです。彼らはこのようにして、律法の命じる行ないが彼らの心に書かれていることを示しています。彼らの良心もいっしょになってあかしし、また、彼らの思いは互いに責め合ったり、また、弁明し合ったりしています。 と言われていますように、神のかたちに造られた人間の心のうちには、神さまの律法が書き記されています。現実には、「心に書き記されている律法」は、罪による堕落によってかなり歪められ曇らされてしまっていますが、これによって、この世の法律や道徳などが築かれています。この罪による腐敗のために、この世の法律や道徳などは造り主である神さまを中心とすることがないわけです。 この、人間の「心に記されている律法」は、神のかたちに造られて、すでに神さまとの契約の中にある人間に、神さまの契約の民の在り方を示し、神さまとのいのちの交わりを導く指標です。言い換えますと、神さまが人間の心の奥深くに植え付けてくださった「神への思い」に、具体的な方向性を与えているものです。ですから、律法はすでに神さまの契約の中にある者に与えられているものであって、それを守ることによって主の契約の民としていただくためのものではありません。 「律法主義者」は、この点を誤解しています。律法主義者は人間は罪を犯して堕落しているために、律法を完全に行なうことができないという、人間の現実を見失っているだけでなく、この点を誤解して、律法を守ることによって神さまとの契約関係に入れてもらえると考えています。 このように、神さまの律法は、神のかたちに造られて、すでに神さまとの契約の中にある人間に、神さまの契約の民としての在り方を示しています。ですから、神さまの律法を突き詰めていきますと、マタイの福音書22章37節〜40節にありますように、 心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。 という戒めと、 あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。 という戒めに集約されることになります。 この二つの戒めは、人間の罪による堕落の後に与えられた「律法」の中にあるものですが、その趣旨と目的は、創造の初めに神のかたちに造られた人間の「心に記された律法」と同じです。主の一方的な愛と恵みによって主との契約関係のうちにあり、主のご臨在の御前にあって、主とのいのちの交わりに生きている者たちは、全身全霊を傾けて主を愛し、隣人を愛しなさいということです。 神さまは、創造の御業において、人を神のかたちにお造りになり、その心のうちにご自身の律法を書き記してくださったことによって、契約関係を確立してくださいました。しかし、人間は罪を犯して堕落したことによって、創造とともに与えられた契約を破ってしまいました。 けれども、神さまは、先ほどのエペソ人への手紙1章3節〜5節に記されている、 私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。 また、 私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。 という永遠のみこころを変えられることはありませんでした。 罪による堕落によって、創造とともに与えられた契約の違反者となっている私たちを、ご自分の子どもとして迎えてくださるためには、ご自身の御子イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いが必要となっても、そのためには、ご自身が直接、御子の上に永遠の刑罰を下さなければならなくなっても、そのみこころを変えられませんでした。そして、その主権的なみこころにしたがって御子イエス・キリストを私たちの贖い主として立ててくださいました。 この神さまの主権的なみこころによって、ご自身の民のための贖い主を立ててくださり、その贖いの御業によって私たちをふたたびご自身との愛の交わりのうちに回復してくださることを、約束し、保証するものとして与えられたのが、伝統的に「恵みの契約」と呼ばれている契約です。先ほどの、「創造の契約」という呼び方に合わせれば、「救済の契約」となるでしょうか。 私に主の契約についての目を開かせてくださったロバートソン先生は、これを「贖罪の契約」と呼ぶことを提案しておられます。けれども、「贖罪の契約」ということばは、組織神学で、永遠において御父と御子との間にかわされたと考えられていた契約を指すのに用いられてきました。今日では、このような契約があったと考える人は余りいませんが、それでも、誤解を避けるために「贖罪の契約」ということばは使わない方がいいのではないかと思います。それで、私はこれを「救済の契約」と呼んだらいいのではないかと考えています。 この「救済の契約」(「恵みの契約」)は、さらに二つの面があります。神さまが贖い主を約束してくださった契約を「古い契約」と呼び、その約束を成就してくださった御子イエス・キリストの血によって確立された契約を「新しい契約」と呼びます。ですから、「古い契約」というのは「救済の契約」(「恵みの契約」)の古い契約のことであり、「新しい契約」というのは「救済の契約」(「恵みの契約」)の新しい契約のことです。 このことから、神さまの契約の目的は、創造の契約(業の契約)においても救済の契約(恵みの契約)においても、同じであることが分かります。それは、 私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。 また、 私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。 という神さまの永遠のみこころを実現するためのものである、ということです。 神さまが私たちを神のかたちにお造りになったのは、私たちをご自身の子どもとして御前に立たせてくださり、ご自身との交わりに生きるものとしてくださるためでした。また私たちがご自身に対して罪を犯して御前に堕落してしまった後に、御子イエス・キリストを贖い主として遣わしてくださり、ご自身の御手で私たちの罪が生み出した永遠の刑罰を御子の上に下されたのも、私たちをご自身の子どもとして御前に立たせてくださり、ご自身との交わりに生きるものとしてくださるためでした。 それが、神さまの契約をとおして一貫して示されている、神さまの永遠のみこころです。 いろいろな機会にお話ししてきました、イザヤ書52章13節〜53章12節に記されている「苦難のしもべ」の歌に続いて、54章1節からは、主の契約にそむいて罪を犯し続けて極みにまで至り、主のさばきを招いた民に対する、主の一方的な恵みによる、あわれみの回復が約束されています。それは、その「苦難のしもべ」の打ち傷による癒しに他なりません。 54章7節〜10節では、 「わたしはほんのしばらくの間、 あなたを見捨てたが、 大きなあわれみをもって、あなたを集める。 怒りがあふれて、ほんのしばらく、 わたしの顔をあなたから隠したが、 永遠に変わらぬ愛をもって、 あなたをあわれむ。」と あなたを贖う主は仰せられる。 「このことは、わたしにとっては、 ノアの日のようだ。 わたしは、ノアの洪水を もう地上に送らないと誓ったが、 そのように、あなたを怒らず、 あなたを責めないとわたしは誓う。 たとい山々が移り、丘が動いても、 わたしの変わらぬ愛はあなたから移らず、 わたしの平和の契約は動かない。」と あなたをあわれむ主は仰せられる。 と言われています。 この主の永遠に変わることがない愛と恵みによるあわれみは、「苦難のしもべ」の成就として、私たちの罪を贖うために十字架にかかって死んでくださった御子イエス・キリストにおいて実現しています。 神さまはご自身の契約において、ご自身の一方的で主権的な愛と恵みを示してくださり、それが真実なものであることを保証してくださいました。そして、その愛と恵みは、私たちの不真実にも揺るぐことがなく、私たちがどんなに深い罪の中にある者であってもなお、私たちを愛してくださっていることを、御子イエス・キリストの十字架の血による新し契約のうちに示してくださっておられます。 神さまの契約のみことばを信じている私たちは、神さまがご自身の主権的な愛と恵みをもって確立してくださった契約の民として、そして、御子イエス・キリストの十字架の血による新し契約の民として、神さまのご臨在の御前に近づいて、神さまとのいのちの交わりに生きています。 その、神さまとのいのちの交わりの具体的な現われのひとつが、御子イエス・キリストの御名による祈りです。 |
![]() |
||