これまで、霊的な戦いの状況の中で祈ることが天地創造の御業と神の子どもたちのための贖いの御業に表わされている父なる神さまのみこころとの関わりで、どのような意味をもっているかについてお話ししてきました。
今日も、これまでお話ししてきましたことを復習しながら、さらに一つのことをお話ししたいと思います。
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人間は神のかたちに造られているので祈ります。神のかたちに造られている人間は「神に向けて」造られており、その心の奥深くには「神への思い」が植え付けられています。そのことから祈りが生まれてきます。
創世記1章1節〜2章3節に記されている神さまの天地創造の御業において、生き物たちは「おのおのその種類にしたがって」造られたと言われています。擬人化した言い方をしますと、神さまのみこころのうちにある「それぞれの生き物のイメージ」がモデルとなって、それぞれの生き物が造られているということです。それで、すべての生き物たちは自分たちだけで完結しています。群れをなす生き物であれば、自分たちで群れをなしていれば、それで完結していて、それ以上何かの不足があると感じることはありません。
これに対しまして、人間は「その種類にしたがって」造られたのではなく、神のかたちに造られたと言われています。先ほどのように擬人化した言い方をしますと、神さまは、ご自身をモデルとして、そのイメージ(かたち)を人間に写し出すようにして人間をお造りになりました。もちろん、被造物である人間の限界に合わせてのことであって、人間が存在とすべての属性において、無限、永遠、不変の栄光の神さまを、そのまま写すことはできません。
確かに、人間にも、他の動物たちと同じように、母親を初めとして、「他の人間」に向けて造られているという一面があります。家庭や家族や社会というかたちで「群れ」を形成します。しかし、人間の場合には、それで完結することはありません。神のかたちに造られている人間は「神に向けて」造られており、心の最も奥深いところに「神への思い」が植え付けられています。
人間が神のかたちに造られているということは、「神に向けて」造られており、その心の最も深いところに「神への思い」が植え付けられているということが、人間であることのいちばん深い事実であるということを意味しています。言い換えますと、造り主である神さまとの関係の在り方が、私たちの人間としての在り方を最も深いところで決定しているということです。
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罪による堕落によって、その心が造り主である神さまから離れてしまった後も、人間は神のかたちでなくなったわけではありません。神のかたちの栄光を腐敗させてしまっているだけです。(「だけ」というのはおかしいですね。)神のかたちの栄光を腐敗させてしまい、神のかたちを担うものとしての特権である、造り主である神さまとの交わりのうちに生きるいのちも失ってしまっています。心が神さまから離れてしまっているばかりか、造り主である神さまの御前に罪の責任(主の祈りでいう「負い目」)を負っている者となっています。しかし、そうではあっても、人間が人間であるかぎりは神のかたちであり、心の奥深くに植え付けられている「神への思い」を消すことができません。
それで、人間は心の奥深くに植え付けられている「神への思い」を満たすために、自分たちの心にある「神」のイメージにしたがって、さまざまな「神」、すなわち偶像を作り出して、これを拝み、これに仕え、これに祈るようになってしまいました。その意味では、ある人々が「神が人間を造ったのではない。人間が自分のイメージに合わせて、神を作ったのだ。」と言うのにも一理あります。偶像はまさにそのようなものです。
ローマ人への手紙1章18節〜23節では、そのような人間の姿が、その当時のローマ社会の現実にしたがって、
というのは、不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。なぜなら、神について知りうることは、彼らに明らかであるからです。それは神が明らかにされたのです。神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。というのは、彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。
と述べられています。
20節の、
神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。
ということばは、造り主である神さまが、ご自身がお造りになった自然を通してご自身を示してくださる「自然啓示」のことを述べているものとして知られています。
それと同じように大切なのは、21節〜23節の、
彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。
ということばです。
ここには、罪による堕落の結果、その心が造り主である神さまから離れてしまって、偶像を作り出し、これを拝み、これに祈り、これに仕えている人間の現実が記されています。これを記しているパウロは、そのような人間の現実を述べるに当たって、まず、「彼らは、神を知っていながら」ということを大前提として述べています。
この「彼らは、神を知っていながら」ということは、これに先立って述べられている自然啓示を通して示されている「神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性」を受け止めている人間の現実を述べていると理解されています。それはそのとおりです。しかし、ここで注意したいのは、「彼らは」自分の外にある自然を通して啓示されている神さまの自己啓示に触れるのに先だって「神を知ってい」るからこそ、(自分の外にある)自然を通して啓示されている神さまの自己啓示を受け止めることができるという順序です。
先週は、ハーロウの実験に使われた猿の赤ちゃんが、本当の母親から引き離されて、猿の人形を母親のようにして育ったことを例にとって、猿が「母親に向けて」造られており、猿としての本性のうちに「母親への思い」を植え付けられているということをお話ししました。
「母親に向けて」造られていないために、その本性のうちに「母親への思い」がない魚や昆虫たちは「母親というもの」を知りません。そこに本当の母親がいても、それを自分たちの群れの一員と認めても、母親として認めることはないでしょう。しかし、「母親に向けて」造られていて、その本性のうちに「母親への思い」が植え付けられている猿は、本性的に「母親というもの」を知っています。そのために、実際に、母親との関係を築くことができるのです。
パウロが「彼らは、神を知っていながら」と言っていることの奥には、ただ単に、人間は自分の外側にある自然を通して啓示されている神さまの自己啓示が与えられていて、それに接しているということだけでなく、神のかたちに造られている人間自身の内側に「神への思い」と「神に向かう」本性が植え付けられている。その意味で、人間は「神」を知っているという事実があるのです。
この人間自身の内側に植え付けられている「神への思い」と「神に向かう」本性も、神さまの自己啓示に他なりません。ですから、自然を通して与えられている神さまの自己啓示は、人間の外側にある自然、すなわち「外なる自然」から与えられているだけでなく、神のかたちに造られている人間自身の内側、すなわち「内なる自然」にも与えられています。
神のかたちに造られている人間は、自分自身の内側に神さまの自己啓示を植え付けられていて、神さまの自己啓示の光をもっています。ただし、実際には、罪による堕落と、それに伴う腐敗は、自分自身の内側にある神さまの自己啓示の光を、はなはだしく曇らせてしまっています。
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人間が実にさまざまな「偶像」を考え出し、実際に作り出していることは、ローマ人への手紙1章23節で、
不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。
と言われているとおり、造り主である神さまの栄光をはなはだしく歪めてしまう人間の罪の現われです。
同時に、それは、神のかたちに造られている人間自身の栄光と尊厳性を損なっている罪の現われです。
神さまは、ご自身をモデルとして、そのイメージ(かたち)を写し出すようにと、人間を神のかたちにお造りになりました。それで、人間は、『ウェストミンスター小教理問答書』のことばで言いますと、自らの「存在、知恵、力、聖、義、善、真実」において、神さまを写し出します。それが「神の栄光をあらわす」ということです。ですから、人間は、造り主である神さまの栄光を現わすときに、神のかたちとしての本来の栄光と尊厳性を発揮します。
偶像を作り出して、これを拝み、これに仕え、これに祈ることは、そのような、人間の神のかたちとしての栄光と尊厳性を損なうことなのです。ですから、人間にとって、偶像を作り出し、これを拝み、これに仕え、これに祈ることほど愚かなことで、自らを傷つけることはありません。
先ほどの、ローマ人への手紙1章22節、23節で、
彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。
と言われているとおりです。詩篇115篇4節〜8節でも、
彼らの偶像は銀や金で、人の手のわざである。
口があっても語れず、目があっても見えない。
耳があっても聞こえず、鼻があってもかげない。
手があってもさわれず、足があっても歩けない。
のどがあっても声をたてることもできない。
これを造る者も、
これに信頼する者もみな、これと同じである。
と言われています。
とはいえ、罪によって堕落してその心が造り主である神さまから離れてしまっている人間は、消すことのできない「神への思い」を満たすために、偶像を作り出し、これを拝み、これに仕え、これに祈ってしまいます。それが造り主である神さまの栄光をはなはだしく歪める罪であり、神のかたちに造られている自分自身の栄光と尊厳性を損なうことであるとしても、そのことを認めようとはしないで、偶像を考え出し、作り出してしまいます。
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このような、罪によって堕落して心が造り主である神さまから離れてしまっている人間の「愚かさ」は、祈りにも現われてきます。
一般に、祈りは自分の思いや願いを神に告げて、それが実現することを願うものです。そのこと自体は、神の子どもたちの祈りも同じです。けれども、御子イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いを通して神のかたちを回復していただき、神さまの御許に帰った神の子どもたちにとって、祈りの本質は、神さまとの交わりにあります。この世では、祈りは一方的に自分たちの思いや願いを「神」に向かって言うものです。そこに、必ずしも「神」との交わりがあるわけではありません。しかし、神の子どもたちの祈りでは、神さまとの交わりがなくては祈りにはなりません。
かつて私たちの祈りもそうでしたが、この世では、祈りにおいて表わされる自分の思いや願いは、文字通り、自分のうちから生まれる自分の思いであり、自分の願いです。そこでは、祈る相手である「神」と「神」のみこころは、まったくといっていいほど考えられてはいません。
それもそのはずです。その「神」は、「神」として祀られてはいるけれども偶像だからです。偶像の「神」は、普段は忘れられている存在であり、人間の側の必要に応じて担ぎ出されるものです。突き詰めていきますと、その「神」は、人間の必要に応えるために存在している「人間のしもべ」です。ですから、人間が必要を感じないときには、「神」の出番はなくなってしまいます。
そのようなところでなされる祈りは、人間の思いに「神」を従わせるための手段になってしまいます。それは、人間の都合が悪くなったときや特別な必要があるときに「神」のところに行って、人間の思いや願いを訴えるものです。
その場合に、「神」と人間は一種の「取り引き」をする状態にあります。そこには、人間は「神」を祀ったり宮を建てたりして「神」のお世話をする、すると「神」はそのように自分の世話をしてくれる人間を守ってくれるというような「取り引き」があるのです。
そのような場合には、「利害関係」、「取り引きや綱引きの関係」の中で、「神」のみこころと人間の思いや願いとが対立することになります。祈りがそのようなものになってしまいますと、祈りはなかなか聞かれないものであるというようなイメージができてしまいます。また、そうなりますと、「神」のみこころを祈ることは、自分の思いや願いを押し殺すことであるというようになってしまいます。
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私たちの間でも、祈りが「取り引き」のような祈りとなってしまっているようなことはないでしょうか。もし、そのようなことがあるとしますと、私たちは自分の祈りを通して、神さまを歪めて写し出していることになります。
マタイの福音書6章7節、8節には、なかなか祈りを聞いてくれない「神」を動かそうとして努力する「異邦人」の考え方に従って祈ってはならないという、イエス・キリストの教えが記されています。
また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。だから、彼らのまねをしてはいけません。あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。
神の子どもたちの祈りが「こちらの言うことをなかなか分かってくれない神」、「なかなか応えてくれないことによって威厳を保っている神」を説得するようなものになってしまってはいけないということです。
また、ルカの福音書11章11節〜13節には、
あなたがたの中で、子どもが魚を下さいと言うときに、魚の代わりに蛇を与えるような父親が、いったいいるでしょうか。卵を下さいと言うのに、だれが、さそりを与えるでしょう。してみると、あなたがたも、悪い者ではあっても、自分の子どもには良い物を与えることを知っているのです。とすれば、なおのこと、天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。
というイエス・キリストの教えが記されています。
父なる神さまは、神の子どもたちの祈りになかなか耳を傾けてくださらない「意地悪」なのではありません。
天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう。
と言われていますように、神さまはご自身の子どもたちに、最もよいものをお与えになります。
ですから、祈りは、なかなか祈りに答えようとしない「神」を動かすための手段ではありません。
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それでは、神の子どもたちは自分の思いや願いを祈ることがないのでしょうか。そもそも、祈りとは自分の思いや願いを神さまに申し上げることなのではないのでしょうか。事実、ピリピ人への手紙4章6節、7節では、
何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。
と言われています。
もちろん、神の子どもたちの祈りは、自分の思いや願いを神さまに申し上げるものです。他人の思いや願いを申し上げるだけのものであれば、自分の祈りにはなりません。
そうしますと、神の子どもたちが神さまのみこころを祈り求めるということはどういうことでしょうか。
ここでは、その中心にあることだけををお話ししたいと思います。
神の子どもたちは、イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いを通して神のかたちの栄光と尊厳性を回復され、父なる神さまとの交わりにあるいのちに生かされています。その神の子どもたちは、「御霊の剣であるみことば」を悟ることによって成長します。それとともに、自分のうちから生まれてくる思いや願いが神さまのみこころと一致するようになっていきます。自分のうちから生まれてくる思いや願いが神さまのみこころと一致しているときには、私たちは、神さまのみこころを祈り求めるようになります。
そのような祈りにおいては、ヨハネの手紙第一・5章14節、15節に記されている、
何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださるということ、これこそ神に対する私たちの確信です。私たちの願う事を神が聞いてくださると知れば、神に願ったその事は、すでにかなえられたと知るのです。
という確信において祈ることができます。
そこには、祈りにおける「神との取り引き」や「綱引き」はありません。人間的な言い方になりますが、神さまのご計画とみこころをめぐって「神さまと心を一つにする」ことによる、神さまとの交わりが中心となります。
先ほどの、ピリピ人への手紙4章6節、7節の祈りについての戒めとともに約束されている「人のすべての考えにまさる神の平安」も、そのような「神さまと心を一つにする」交わりの中で与えられるものであるはずです。
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