説教日:1999年2月21日
聖書箇所:エペソ人への手紙6章18節〜20節
説教題:霊的な戦いと祈り(7)


 エペソ人への手紙6章18節〜20節に記されている祈りについての戒めは、それに先立って記されている霊的な戦いについての戒めを締めくくるものであると考えられます。それで、まず、より広い観点から、霊的な戦いにおける祈りについてお話ししました。そして、それに続いて、私たちの祈りの根本にある、神さまと神のかたちに造られている私たちの関係の在り方についてお話ししました。今日も、そのことについて、さらにお話しします。


 創世記1章1節〜2章3節に記されている創造の御業の記事においては、植物や生き物たちは「おのおのその種類にしたがって」造られたと言われています。このことは、生き物たちは、自分たちの間で一種の「完結性」をもっているということを意味しています。自分たちが群れをなしていれば、それで完結していて、それ以上の不足はないということです。ですから、どんなに「高等な動物」と言われるものであっても、動物たちの間には宗教はありませんし、祈りもありません。
 これに対しまして、人間は「その種類にしたがって」造られたのではありません。1章26節、27節に、

そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。

と記されていますように、人間は神のかたちに造られています。
 生き物たちは「おのおのその種類にしたがって」造られたものとして、自分たちで群がっていればそれ以上の不足はなく、そこに一種の「完結性」があります。しかし、神のかたちに造られた人間は、人間だけで家庭を築き、社会を形成していれば、それで一応の「完結性」をもっているという存在ではなく、造り主である神さまとの交わりにあって生きるものとして造られているのです。
 人間は神さまに向かうものとして造られており、人間の心の中には、「神への思い」が植え付けられています。そのために、人間はどうしても、神を求めてしまいます。それで、どんな未開といわれる文化にいっても、そこには宗教があり、祈りがあります。
 神のかたちに造られている人間の心の奥深くに「神への思い」が植え付けられているということを理解するために、「ハーロウの実験」のことをお話ししたいと思います。「ハーロウの実験」のことは、もううる覚えのこととなってしまっていますが、心理学の入門コースで8ミリフィルムをとおして見たことがあります。また、その後、本でも読んだことがあります。
 その実験は、子どもが親との関係を築き上げていくうえで、食べ物をとおしての結びつきと、肌と肌とを触れ合う接触による結びつきとでは、どちらが根本的な結びつきであるかを実験的に検証しようとするものだったと思います。そのために人間の赤ちゃんで実験するわけにはいきませんので、猿の赤ちゃんが用いられていました。
 赤ちゃん猿を二つのグループに分けて育てます。その際に、一つのグループは、針金のようなもので作られた猿の人形に「育てられる」もので、その人形に取り付けられた哺乳瓶からミルクを飲みます。もう一つのグループは、ふかふかした毛布で作られた猿の人形に「育てられる」もので、その人形に取り付けられた哺乳瓶からミルクを飲みます。
 その後で、二つのグループの赤ちゃん猿を、針金で作られた人形と毛布で作られた人形のどちらにも接することができる檻に入れて様子を見ます。そうしますと、毛布で作られた人形からミルクを飲んで育った猿だけでなく、針金で作られた人形からミルクを飲んで育った猿も、ほとんどの時間を、毛布で作られた人形のそばで過ごすようになります。
 さらに赤ちゃん猿の行動を観察しますと、たとえば、動く熊の人形を檻の中に入れたりして、猿をおどかしますと、驚いた赤ちゃん猿は、ほとんどの場合に、毛布で作られている人形にしがみついていきます。
 これによって、親と子どもの関係において、単に食べ物をくれるということによって成り立つ関係よりも、肌と肌の触れ合う関係の方がより深い結びつきを生み出すということが分かるということであったと思います。
 この実験のフィルムを見て、その実験の趣旨はそれとして理解しましたが、同時に、それとは別のことも考えてしまいました。この赤ちゃん猿は、母親から引き離されて育てられましたから、本当の母親のことを知りませんし、母親との交流を経験していません。けれども、母親もどきの人形であっても、とにかく自分の母のように接して、それなりの関係を築き上げているということへの驚きです。
 当たり前のことのように思われますが、これが魚か昆虫のようなものですと、そうはなりません。生まれたばかりの魚や昆虫が母親を求めることはありませんし、母親がいないということで、パニックになってしまうというようなこともありません。昆虫や魚には母親に向かう性質が植え付けられていないのです。
 これに対して、猿には、その猿としての本性の中に、母親に向かう性質が植え付けられているわけです。それで、生まれた後に学習しなくても、自然と母親と結びついていくようになっています。そのような、母親に向かう本性的な性質があるので、母親との交流もできるわけです。その母親に向かう性質が、擬人化した言い方をすれば、猿の本性の奥深くに植え付けられている「母親への思い」です。
 さらに考えさせられたことがあります。
 その実験で用いられた赤ちゃん猿は、実験のために母親から引き離されて、猿の人形につけられている哺乳瓶からミルクを飲んで育ちましたので、本当の母親を知りませんし、母親との交流も経験してはいません。それでも、自分がミルクを飲んだその人形を自分の母親のようにしています。
 はたから見ていますととても母親とはいえない単なる人形ですのに、当の赤ちゃん猿にとっては、母親の代わりになっています。動く熊のおもちゃに驚いた赤ちゃん猿は、毛布でできた猿の人形にしがみつきます。しがみついているうちに心が落ち着いてきまして、その人形を改めて観察するかのように見るようにもなってきます。明らかに、その人形が母親の役割を果たしています。
 とはいえ、母親の形をした人形は、人形でしかありませんから、それが赤ちゃん猿の気持ちをくんで何らかの働きかけをしているわけではありません。赤ちゃん猿が一方的にその人形を母親と考えて接しているだけです。それでも、赤ちゃん猿にとっては、その人形は母親のような役割を果たしています。それは、赤ちゃん猿の本性の中に深く「母親への思い」が植え付けられていて、赤ちゃん猿は「母親」なしには生きることができないからです。
 その「母親への思い」の強さは、もし本当の母親がいなければ、猿の人形であっても、それを母親と見立てて、それにすがってしまうし、実際には、その人形の母親が何かをしてくれるわけではないのに、そのことから一種の安らぎを得るほどのものです。
 聖書が、人間は神のかたちに造られているというとき、その中心にある意味の一つは、人間の本性の奥深くに「神への思い」が植え付けられているということです。
 そして、人間の本性のうちに「神への思い」が植え付けられていますので、人間は神なしには生きていくことができません。社会現象的には、どのように未開の文化と言われるものでも、発達した文化と言われるものでも、そこに宗教や宗教に当たるものがあります。また、神を否定している人々も、自分でも気づかないうちに、自分から神に当たるものを生み出して、それに自分を賭けて生きています。
 そのように、人間が造りだす「神」は偶像であって、実際に生きているわけではありません。しかし、先ほどの猿の赤ちゃんが「母親への思い」があるために、生きていて働き掛けてくれることがない人形を母親の代わりにして、その人形から支えを受けているように、自らのうちに消しがたい「神への思い」が植え付けられている人間も、自分が「神」に仕立て上げたものから、宗教的な支えや慰めを受けとることがあるわけです。
 このように、神のかたちに造られている人間は、その心の奥深くに「神への思い」を植え付けられています。
 もちろん、人間の心には「母親への思い」が植え付けられています。さらには、創世記1章27節で、

神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された

と言われていますように、「他の人格への思い」ももつものとして造られています。そのために、夫としてまた妻としての交わりから始まって、家族としての交わり、そして、さまざまな形での社会的な交わりが生み出されます。
 しかし、人間の交わりがそれだけで「完結する」ものであれば、人間は「その種類にしたがって造られた」と言われていたことでしょう。けれども、人間は神のかたちに造られたと言われています。人間の心には、それらの「思い」以上に深く「神への思い」が植え付けられているのです。そのために、人間の心は、どうしても、神に向かい、神を求めるようになっています。そして、その「神への思い」の強さは、神さまを見出すことがなければ、自分たちで「神」に当たるもの、すなわち、偶像を作り出して、それに献身して、いのちを燃やすほどのものです。
 このような、神のかたちに造られている人間の特質を、アウグスティヌスは、人間は「神に向けて」造られていると言っています。アウグスティヌスは、その『告白』の冒頭で、次のように告白しています。

 偉大なるかな、主よ。まことにほむべきかな。汝の力は大きく、その思いははかりしれない。
 しかも人間は、小さいながらもあなたの被造物の一つの分として、あなたを讃えようとします。それは、おのが死の性(さが)を身に負い、おのが罪のしるしと、あなたが「高ぶる者をしりぞけたもう」ことのしるしを、身に負うてさまよう人間です。
 それにもかかわらず人間は、小さいながらも被造物の一つの分として、あなたを讃えようとするのです。よろこんで、讃えずにはいられない気持ちにかきたてる者、それはあなたです。あなたは私たちを、ご自身に向けてお造りになりました。ですから私たちの心は、あなたのうちに憩うまで、安らぎを得ることはできないのです。
           (山田 晶訳・中央公論社)

          *
 神のかたちに造られている人間は、初めから、造り主である神さまとの交わりのうちに生きるものとして造られています。それで、聖書は、人間のいのちの本質は神さまとの交わりにある、と教えています。
 ヨハネの福音書17章3節に記されていますように、イエス・キリストは永遠のいのちについて、

その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。

と教えておられます。

唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。

というときの「知ること」は、ただ単に父なる神さまや御子イエス・キリストについての知識をもつようになることではなく、さらに深くて親しい人格的な交わりをとおして知ることを意味しています。お互いが愛のうちにあって受け入れ合い、常に親しく語り合い、ともに生きることにおいて「知ること」です。
 また、天地創造の初めに神のかたちに造られた人間は、実際に、造り主である神さまとの愛にあるいのちの交わりのうちに生きていました。それは、人間が神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きるために必要な「義」と栄光をもつものに造られたということを意味しています。それで、最初に造られた状態の人間は「原義」をもっていたと言われます。それは、人間が神さまの御前に「義である」状態に造られたということです。
 この「原義」は、人間の罪による堕落とともに腐敗したものとなってしまいました。そのために、人間は造り主である神さまの御前から退けられてしまっています。それでも、人間は「神への思い」を消すことはできません。それで、「神への思い」を満たすために、神ならぬものを神に見立てて、さまざまな偶像を作り出しています。この世にあふれている偶像は、人間が神のかたちに造られており、その心の奥深くに、消すことができない「神への思い」が植え付けられていることを物語っています。
 先ほど引用しました創世記1章26節では、

そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。

と言われていました。
 天地創造の御業を記す創世記1章1節〜2章3節の記事は、唯一の神による創造の御業を記すものです。ところが、1章26節では、神さまが人を創造するに当たって、

われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。

と言われたことが記されています。唯一の神の創造の御業を記す記事の中で、神さまが、

われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。

と言われたというのです。
 そうしますと、この「われわれ」ということばをどのように考えたらいいのでしょうか。この「われわれ」については、色々な見方がありますが、簡単にまとめておきましょう。
 この「われわれ」を、多神教的な見方の名残である、と考えることはできません。とういうのは、もしそのようなものであれば、この創造の記事を記した人物(伝統的には、モーセ)は明らかに唯一神を信じる信仰に立っていますから、自分の手元にある資料を選択するに当たって、多神教的な匂いのすることばを採用するはずがないからです。
 また、この

われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。

という(呼びかけの)ことばの「われわれ」を「尊厳の複数」と見ることはできません。というのは、『ゲセニウスのヘブル語文法』が示しているとおり、「敬意を示す語りかけとしての複数の用法は、ヘブル語にはまったく無縁のものである。」からです。
 これを、自分を客体化して、自分に語りかけるものと見ることについても、そのような用例が神について用いられている例が聖書になく、このような場合には、単数形が用いられているということに基づく反対があります。
 また、御使いたちなど「天の宮廷」に侍る存在たちへの伝達を意味している、という見方にも賛成できません。
 というのは、その場合には、「われわれ」の中に御使いたちも含ませることになります。すると、「われわれに似るように、われわれのかたちに」は、人間が神のかたちとともに「天使のかたち」に造られているということになりますが、そのような思想は、聖書にはありません。
 また、「人を造ろう」という呼びかけは、御使いたちも人間を神のかたちに造る御業に参加することを示すことになりますが、そのような思想も聖書のものではありません。
 さらに、御使いたちが神である主の御業に参与していることを示している記事では、そのことがはっきりと述べられているから分かるのですが、創世記1章26節、27節の文脈にはそのようなことは示されていません。
 創世記1章1節〜2章3節の記事では、すでに、1章2節において、

神の霊は水の上を動いていた。

と言われていて、御霊の存在が示されています。
 このようなことから、この「われわれ」は、唯一の神さまのうちにある「人格の複数性」が示されていると考えたほうがいいと思われます。
 このように、ここでは、造り主である神さまのうちに「人格的な複数性」があることが示されていると考えられます。もちろん、この段階で三位一体の教理が示されていたと言うことはできません。ここでは、神さまのうちにある人格が複数であるということが分かるだけであって、具体的に三つの人格であるということまでは分かりません。
 造り主である神さまのうちに人格の複数性があることは、ヨハネの福音書1章1節〜3節においてよりはっきりと示されています。そこには、

初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。

と記されています。
 1節では、

初めに、ことばがあった。

と言われています。この場合の「初め」は、3節で、

すべてのものは、この方によって造られた。

と言われていることから分かりますように、天地創造の「初め」で、創世記1章1節で、

初めに、神が天と地を創造した。

と言われているときの「初め」に当たります。それでこの「初め」はこの世界の「初め」であり、この世界の時間はこの「初め」とともに始まっています。また、

初めに、ことばがあった。

と言われているときの「あった」ということば(エーン)は過去における継続を表わすもので、この世界の「初め」において、「ことば」はすでに存在していたことを意味しています。ここから、「ことば」はこの世界とその時間を超越した永遠の存在であることが分かります。それで、1節の最後では、

ことばは神であった。

と言われています。
 この「ことば」はただ「あった」だけではありません。1節の真中では、さらに、

ことばは神とともにあった。

と言われています。「ことば」が「神とともにあった」ことは、2節でも、

この方は、初めに神とともにおられた。

というように繰り返されていて、強調されています。この「神とともにあった」(プロス・トン・セオン)ということは、「ことば」が「」すなわち父なる神さまの方に向いていることを示しています。そして、1節〜18節の流れの中では、「ことば」と「」すなわち父なる神さまとの間に愛のか通わしがあったことを示しています。
 「ことば」と「」すなわち父なる神さまの間に愛の通わしがあったということは、この世界の「初め」においてすでにあったことで、永遠のことです。ですから、永遠に「ことば」と「」すなわち父なる神さまの間には愛が通わされているのです。神さまの本質的な特性は愛ですが、その愛は永遠に通わされています。このことは、永遠の人格が少なくとも二つあることを意味しています。
 3節では、

すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。

と言われています。「この方」とは、永遠に父なる神さまとの愛の交わりのうちにおられる「ことば」です。この世界の「すべてのもの」は永遠に父なる神さまとの愛の交わりのうちにおられる「ことば」によって造られました。それは、天地創造の御業が神さまの愛のうちになされたことを示しています。
 このことから、神さまが人間を神のかたちにお造りになるに当たって、

われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう

と言われたことも、神さまのうちにある愛の通わしの中で語られたことばであると考えられます。そうであれば、神のかたちに造られている人間は、神さまのうちにある交わりから生み出される愛にあずかる特権をもつものとして造られているわけです。
 その意味でも、人間のいのちの本質は、

その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。

ということにあります。
 また、ヨハネの手紙第一・1章3節に記されていますように、ヨハネは、私たちの交わりについて、

私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。

とあかししています。
 神のかたちに造られている人間は、造り主である神さまの愛に包まれて、神さまとの親しい語り合いによる交わりをとおして神さまを知るものとして造られました。この、神さまの愛に包まれて、神さまと親しく語り合う交わりが、人間にとっては、祈りとなります。

 


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