説教日:1999年2月14日
聖書箇所:エペソ人への手紙6章18節〜20節
説教題:霊的な戦いと祈り(6)


 エペソ人への手紙の最後に記されている霊的な戦いについての教えは、6章18〜20節に記されている祈りについての戒めをもって締めくくられていると考えられます。
 これまで、ここに記されていることを取り上げる前のこととして、霊的な戦いの状況の中で神の子どもたちの祈りがどのような意味をもっているかについて、エペソ人への手紙全体の枠の中で考え、さらには、神である主の贖いの御業の大きな流れとの関わりで考えてきました。前回は、少し視点を変えて、神の子どもたちが祈ることの根底にある、神のかたちに造られている人間と、造り主である神さまとの関係の在り方について、一つのことをお話ししました。
 講壇交換が続きまして間が空いてしまいましたのと、とても大切なことなのに余り注目されないことなので、前回のお話の復習をしながら、今日のお話に入ります。


 人が神のかたちに造られていることの中心にあるのは、人が人格的な存在に造られているということです。それは、人が「自分」というものをもっているということであり、意志の自由をもっている「倫理的な主体」であるということです。言い換えますと、自分の意志と自分の責任で自分の在り方を選び取る存在であるということです。
 この「人格的」ということは、「機械的」とか「本能的」ということと対比して考えると分かりやすいと思います。
 ちょっと古い風景ですが、おなかを空かせた猫が路地裏を歩いていたら、誰かがコンロで焼こうとしたさんまが置いてあったとします。おなかの空いている猫は、当然、そのさんまを取って食べてしまいます。その時、自分はこれを食べていいかどうかというようなことを考えることはありません。空腹感といい臭いという刺激に反応して食べるだけです。それは、「条件反射」と言われる反応です。
 人間にも「条件反射」はありますが、さらにその上に(あるいは、その奥に)倫理的なわきまえがあって、自分の目の前にあるものを食べていいかどうかを自分で判断します。そして、さらに、自分の意志で、食べること、あるいは食べないことを選び取ります。
 おなかの空いた猫が目の前のさんまを見て、それを取って食べようとするときに、きょろきょろと辺りを見回すのは、本能的に、何かわなでもありはしないかと、身の危険に注意してのことでしょう。おなかの空いた人間が目の前にある食べ物を取って食べようとして、きょろきょろ見回すのは、誰かに見つからないようにという思いからで、それがよくないことであることを、わきまえているからです。
 前回、詳しくお話ししたことですが、おなかが空いているときに目の前にあるものを食べていいかどうかの判断をすることは、行ないの善し悪しを判断することです。このような判断は、「道徳的」な判断です。神のかたちに造られている人間が自由な意志を与えられている「倫理的な主体」であるということは、これよりさらに広い意味のことです。
 前回も取り上げた例ですが、目の前にある花を見て、きれいであると感じることに対して、誰も、それは、道徳的に許されない行為である、とは言いません。むしろ、なごやかで、いいことである、と言います。その点は、まったくそのとおりです。しかし、このことを造り主である神さまとの関係で見てみますと、このことの奥には、これとは別の一面があることが見えてきます。
 私たちは、どうして目の前の花をきれいだと感じるのでしょうか。それは、この世界をご自身の聖さの中にある「美」を表現するものとして、調和のとれた美しい世界にお造りになった神さまが、この世界に美しい花をお造りになられたからですし、その美しさを受け止める力を私たちに与えてくださったからです。
 私たちは花を見て美しいと感じるときにも、何かを食べて美味しいと感じるときにも、改めて考えなくても、自然に、それが神さまの御手の作品であり、神さまのご配慮によるものであることを認めています。それは、私たちの心の一番奥深くにある「基本的な思い」が、造り主である神さまの方を向いているために、すべてのことを神さまを中心にして受け止めるようになっているからです。
 ですから、私たちは花を見て美しいと感じることを通して、造り主である神さまの御業のすばらしさを感じ取ります。何かを食べて美味しいと思うことを通して、造り主である神さまの慈しみの御手を受け止めます。それは、ごく自然なことであって、ことさらに心を操作して、そのように仕向けなければならないわけではありません。
 しかし、私たちは初めから心の「基本的な思い」が造り主である神さまの方に向いていて、神さまを中心にしてすべてのことを受け止めていたわけではありません。
前回も取り上げましたが、詩篇14篇1節では、

  愚か者は心の中で、「神はいない。」と言っている。

と言われています。これは、自分自身のうちにある罪のために、造り主である神さまから離れてしまっている人々の心が、

  神はいない。

という「基本的な思い」を中心として、また、

  神はいない。

ということを原理原則として働くようになっていることを示しています。
 私たちもかつてはそのような状態にありました。花を見て美しいと感じても、その花はたまたまそこにあるものとしか思えませんでした。物事が機械的に発生するこの世界にたまたま発生したものだ、と思っていたわけです。そのように、かつての私たちは、花を見て美しいと感じることを通して、

  神はいない。

という、心の「基本的な思い」(原理原則)を表現していました。それが、

  愚か者は心の中で、「神はいない。」と言っている。

ということです。
 私たちが花を見て美しいと感じることは、道徳的には、決して悪いことではありません。しかし、造り主である神さまとの関係においては、神さまの御手を身近に感じる信仰を表明することとなるか、

  神はいない。

という心の「基本的な思い」(原理原則)を表現することになるかのどちらかに別れてしまいます。そして、このような「道徳的な関係」より広い意味での、造り主である神さまとの関係を、「倫理的な関係」と呼びます。
 私たちは罪を、造り主である神さまとの関係を中心として見ないで、人間を中心として見る傾向をもっています。そのために、罪といえば、道徳的な罪だけが問題になってしまいがちです。確かに、道徳的な罪は分かりやすいので、罪を理解するためには、道徳的な罪を認めることから始めた方がいいでしょう。しかし、それで、私たちの罪がすべて分かってしまったかのように錯覚してはなりません。
 私たちは造り主である神さまの御手のさまざまな賜物に囲まれ、それによって支えられて生きていながら、

  神はいない。

という心の「基本的な思い」(原理原則)に従って生きるというような罪も犯していたのです。
 そのような私たちが花を見て美しいと感じることを通して、造り主である神さまの御手を身近に感じ取り、心の「基本的な思い」に深く根差している神さまへの信仰を表明する者に変えられたのは、御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによる罪の贖いを通して罪を赦されて、造り主である神さまと和解しているからです。そして、私たち自身も、心の奥底からきよめられているからです。
 前回もお話ししましたが、この場合、心の奥底からきよめられているということは、罪を犯さないようになったということではなく、心の「基本的な思い」が神さまに向いて、神さまを中心としてすべてのことを受け止めるようになっているということを意味しています。罪を犯しても、その罪を神さまとのかかわりで受け止めて、神さまの御前に悔い改め、神さまの備えてくださっているイエス・キリストの十字架の死による罪の贖いを信じて、罪の清算をします。
 このように、神のかたちに造られている人間と造り主である神さまとの関係の在り方は、ただことばや行ないの善し悪しという道徳的なことだけで量られるものではありません。日常生活の上で必要不可欠な事柄においても、神さまとの関係の在り方(倫理的な関係)が問われています。
 コリント人への手紙第一・10章31節で、

こういうわけで、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現わすためにしなさい。

と言われているとおりです。
 このような広い意味での神さまとの「倫理的な関係」ということから理解すべきと思われるみことばを、もう一つ見てみましょう。
 マタイの福音書24章37節〜41節には、

人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。洪水前の日々は、ノアが箱舟にはいるその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。そして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。人の子が来るのも、そのとおりです。そのとき、畑にふたりいると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。ふたりの女が臼をひいていると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。

というイエス・キリストの教えが記されています。
 ここでイエス・キリストは、世の終わりにおいて起こることを、ノアの時代の洪水によるさばきをモデルとして教えておられます。というのは、ノアの時代の洪水によるさばきは、これまでの人類の歴史の中で一度だけ起こった、人類のすべてに及ぶ「終末的なさばき」で、世の終わりの最終的なさばきを指し示すひな型(模型)であるからです。
 洪水前のノアの時代状況を記す創世記6章11節、12節を見てみますと、そこでは、

地は、神の前に堕落し、地は、暴虐で満ちていた。神が地をご覧になると、実に、それは、堕落していた。すべての肉なるものが、地上でその道を乱していたからである。

と言われています。洪水前のノアの時代の人々が、どんなに堕落していたかがうかがわれます。
 これに対して、イエス・キリストは、同じ、洪水前のノアの時代の状況を述べるのに、

洪水前の日々は、ノアが箱舟にはいるその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。

と言われました。人々は暴虐に満ちて不道徳な生活をしていた、と言えば分かりやすいのですが、イエス・キリストはそのようには言われませんでした。
 もちろん、実際には、人々は暴虐に満ちて不道徳な生活をしていたのです。しかし、イエス・キリストはそのことをあえて取り上げられませんでした。むしろ、「飲んだり、食べたり、めとったり、とついだり」という、ごく日常の必要不可欠のことがらで、道徳的にはまったく問題のないことを取り上げられました。
 その上で、

そして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。

と言われて、人々の問題をはっきりとされています。
 もし、人々が神さまとの関係に生きていたら、自分たちがどのような状況にあるかを理解できたはずですから、

そして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。

というようなことはなかったはずです。
 事実、創世記6章8節で、

ノアは神とともに歩んだ。

とあかしされているノアは、自分が置かれている時代状況を造り主である神さまとの関わりで見ていましたから、終末的なさばきが執行されるということを知らされたときに、それを信じることができました。

洪水前の日々は、ノアが箱舟にはいるその日まで、人々は飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。

と言われているときの、「洪水前の日々は、ノアが箱舟にはいるその日まで」ということばは、終末的なさばきが執行されるということが、ノアが箱舟を造っているという事実を通して、その時代の人々にあかしされたことと、それにもかかわらず、人々はそれを信じなかったということを伝えています。
 ノアの時代の人々の問題は、ごく日常の生活のために必要不可欠のことを、造り主である神さまと無関係にしていたことにありました。言い換えますと、「飲んだり、食べたり、めとったり、とついだり」という日常生活に必要不可欠のことをすることを通して、

  神はいない。

という心の「基本的な思い」(原理原則)を表現していたのです。
 そのように、あらゆることにおいて、

  神はいない。

という心の「基本的な思い」が表現されていたので、道徳的にも腐敗し堕落して、

地は、神の前に堕落し、地は、暴虐で満ちていた。神が地をご覧になると、実に、それは、堕落していた。すべての肉なるものが、地上でその道を乱していたからである。

というような状況が生み出されてしまったわけです。
 イエス・キリストは、

人の子が来るのも、そのとおりです。そのとき、畑にふたりいると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。ふたりの女が臼をひいていると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。

と言われました。世の終わりにおいても、洪水前のノアの時代の人々と同じことが起こるというのです。
 同じ畑にいて、同じように耕している人が二人います。同じように臼を挽いている女性が二人います。畑を耕すことも、臼を挽くことも、日常生活を続けるうえで必要不可欠のことです。一方は熱心で、他方は怠けているとか、一方は道徳的に悪い人で、他方はいい人だというようなことは、まったく問題になっていません。それなのに、

ひとりは取られ、ひとりは残されます。

と言われています。
 何が問題であるかは、もうお分かりですね。これまでのことばで言いますと、一人は、畑を耕すことを通して、あるいは臼を挽くことを通して、

  神はいない。

という心の「基本的な思い」を表現しているのです。もう一人は、同じことをしながら、造り主である神さまの御業に現れている愛と慈しみを受け止めて、その心の「基本的な思い」に深く根差している神さまへのの信仰を告白しているのです。
 このことを、改めて、人間が神のかたちに造られていることを記している、天地創造の記事に照らして見てみたいと思います。
 創世記1章1節〜2章3節に記されている創造の御業の記事においては、植物や生き物たちは、みな「おのおのその種類にしたがって」造られた、と言われています。このことには色々な意味がありますが、今日のお話との関わりで言いますと、生き物たちは、自分たちの間で一種の「完結性」をもっているということです。自分たちが群れをなしていれば、それで一応完結していて、それ以上の不足はないということです。
 もちろん、1章28節に、

神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」

と記されていますように、生き物たちは、神のかたちに造られた人間の手に委ねられていますから、人間との関わりをもつようになります。しかし、生き物たちが「おのおのその種類にしたがって」造られた時は、まだ人間が造られる前でしたから、それに先立って、それぞれが群れをなし、一種の完結性をもって存在していたのです。
 これに対しまして、人間の場合には、「その種類にしたがって」造られたとは言われていません。1章27節で、

神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。

と言われていますように、神のかたちに造られたと言われています。
 「おのおのその種類にしたがって」造られた生き物たちは、初めから、自分たちで群がっていれば、そこに一種の「完結性」がありました。そして、その後に、神のかたちに造られた人間の手に委ねられたことによって、人間との関わりにおいても生きるようになりました。しかし、神のかたちに造られた人間は、人間だけで群がっていれば、それで一応の「完結性」をもっているものとして造られてはいません。初めから、造り主である神さまとの交わりにあって生きるものとして造られています。
 ですから、動物たちの間には、群れのボスはいても、自分たちを越える超越者に対する「思い」はありません。仮に、人間がその群れに入っていって、その群れの中心になっても、群れのボスになるだけであって、超越者になるわけではありません。言い換えますと、どんなに高等な動物であっても、そこには宗教はありません。
 しかし、神のかたちに造られている人間は、初めから、造り主である神さまとの交わりにあって生きるものとして造られています。神さまに向かって開かれているものとして造られています。人間の心の中には、「神への思い」が植え付けられています。そのために、人間は、どうしても、神を求めてしまいます。それで、どんな未開といわれる文化にいっても、そこには宗教があります。
 神のかたちに造られている人間は、初めから「造り主である神さまに向けて開かれた存在」として造られています。それで、人間の心には「神への思い」が植え付けられています。その「神への思い」は、人間がさまざまな経験を通して獲得した思いではなく、創造の初めから人間に植え付けられている思いです。
 それで、人間は、たとえ罪を犯して神に背いているとしても、この「神への思い」をぬぐい去ることはできません。
 先ほどの詩篇14篇1節では、

  愚か者は心の中で、「神はいない。」と言っている。

と言われていました。これは、「神への思い」をぬぐい去ることではありません。むしろ、その人のうちに「神への思い」があるからこそ、

  神はいない。

という反応が出てくるのです。もし、人間のうちから「神への思い」がぬぐい去られてしまうことがあるとしたら、

  神はいない。

という反応が出てこないばかりか、どのような宗教も生まれてきません。当然、祈りも生まれてきません。
 このように、神のかたちに造られている人間は、初めから、造り主である神さまとの交わりにあって生きるものとして造られており、その心の中には、「神への思い」が植え付けられています。祈りはこのことから生まれてきます。祈りは私たちが神のかたちに造られていることの現われです。
 同時に、神のかたちに造られている私たちは、自由な意志をもっている人格的なものです。そして、本来の神のかたちのあり方において、この自由な意志を導いているのが、神のかたちの本質的な特性である愛です。それで、私たちの祈りも本来は条件反射的なものではなく、神さまへの愛に基づく人格的な交わりとしての意味をもっています。御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業にあずかって、父なる神さまとの愛の交わりのうちに生きるものとされている私たちの間では、本来の祈りも回復されているのです。

 


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