説教日:1999年1月24日
聖書箇所:エペソ人への手紙6章18節〜20節
説教題:霊的な戦いと祈り(5)


 エペソ人への手紙の最後に記されている霊的な戦いについての教えは、6章18節〜20節に記されている祈りについての戒めをもって締めくくられていると考えられます。これまで、18節〜20節に記されていることよりも広い観点から、霊的な戦いにおいて、神の子どもたちの祈りがどのような意味をもっているかについてお話ししてきました。
 今日から、もう少し遡ってと言ったらいいでしょうか、神の子どもたちの祈りそのものに焦点を当てて、神の子どもたちの祈りがどのような意味をもっているかについてお話ししたいと思います。今日は、その準備のようなお話で、私たち神の子どもたちが、神さまとどのような関係にあるかということについてお話しします。


 よく、「祈りは呼吸のようなものだ。」と言われます。確かに、そう言われていいほど、人間にとって祈りは自然なものです。人間にとって祈りがそれほど自然なのは、人間が神のかたちに造られているからです。
 人間が神のかたちに造られていることを記している創世記1章26節、27節では、

そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。

と言われています。
 人間が神のかたちに造られていることは、色々な角度から考えることができますが、その中心にあることにつきましては、昨年の2月15日と22日に、『神のかたちの栄光と尊厳性』ということでお話ししましたので、ここでは繰り返すことはいたしません。ここでは私たちの祈りのことをお話ししていますので、それとの関わりのあることだけを取り上げたいと思います。
 神のかたちとしての人間の特性は、人格的な存在であることにあります。人格的な存在であるということは、「自分というもの」をもっているということです。少し難しいことばで言いますと、意志の自由をもっている「倫理的な主体」であるということです。どういうことかと言いますと、たとえば、コンピューターは、膨大な「情報としての知識」を蓄えることができます。けれども、コンピューターには自分の意志がありませんから、どのような知識(情報)を蓄えるかの選択をすることができません。ただ入力されたものを蓄えていくだけです。何らかの「選択」がなされるとしても、それは前もって指示(入力)された基準による「選択」です。
 しかし、人間はさまざまな事情による制限がありますが、自分がこの時、何をするか、あるいは何をしないかを自分で決めることができる「意志の自由」をもっています。そのような意志の自由を与えられているために、人間は自分の在り方について、造り主である神さまに対して責任を負っています。それは目に見える行動だけでなく、何かを知ることにも当てはまります。さらに言いますと、人間は、常にまたあらゆる点において、造り主である神さまに対して責任を負っているものとして存在しています。この点については後でお話しします。
 まず、何かを知ることについての責任ということですが、たとえば、一本の花をどのようなものであると理解するかということにも、自分の意志による選択があります。その花が神さまの御手の作品であると見ることは、もちろん、主の恵みにより、みことばと御霊によって導かれてのことですが、私たちの意志によって選び取った見方です。その花を、神さまの作品でなく、ただ偶然そこにあるだけのものでしかないと見ることも、そのように見る人自身の選んだ見方です。この意味で、私たちすべては、自分のものの見方について、造り主である神さまに対して責任を負っています。
 「1足す1は2である。」ということさえも、親や学校の先生から「入力されたもの」ではなく、私たちが自分で納得して受け入れたものです。親や学校の先生を信頼して受け入れたのですが、受け入れたのは自分自身であり、自分の意志によることです。また、どうして「1足す1は2である。」ということが成り立つのかということについても、私たちは、神さまが、そのようなことから始まってずっと複雑なことに至るまで、見事な秩序と調和のある世界をお造りになったことと、それをわきまえる能力を私たちに与えてくださったことによっていると考えています。そのような考え方も、自分で納得して受け入れているのです。
 ですから、私たち人間は行ないの「善し悪し」についての判断、すなわち、道徳的な判断だけでなく、一本の花をどのように見るか、「1足す1は2である。」ということをどのように考えるかということについても、自分の意志による選択をしています。それで、人間は一本の花をどのように見るか、「1足す1は2である。」ということをどのように考えるかというようなことにおいても、造り主である神さまに対して責任を負っています。その意味で、私たち人間は「倫理的な主体」であると言います。この場合、「倫理的」というのは、「道徳的」ということより広い意味で、造り主である神さまとの関係にあって、神さまに対して責任を負っているということを意味しています。
 よく、英語で「責任」を表わすレスポンシビリティということばは、「応答」を表わすレスポンスと「能力」を表わすアビリティからなっていることばで、「責任」とは「応答する能力」のことである、と言われます。語源やことばの成り立ちから、あることがどのようなことであるかを考えることは、必ずしもいい方法であるとは言えません。しかし、この場合には、「責任」ということについての大切な面を表わしています。確かに、神のかたちに造られている人間は造り主である神さまに対して責任を負っている者として、常に、また、あらゆる点において神さまに「応答」しています。
 この世界のすべてのものは神さまによって造られたものであり、神さまの御手によって支えられています。それで、すべてのものは神さまとの関係において存在しています。神さまと無関係に存在しているものは一つもありません。
 複雑な宇宙のすべての事象も、神さまの御手の支えのうちにあります。詩篇119篇89節〜91節には、

  主よ。あなたのことばは、とこしえから、
  天において定まっています。
  あなたの真実は代々に至ります。
  あなたが地を据えたので、
  地は堅く立っています。
  それらはきょうも、あなたの定めにしたがって
  堅く立っています。
  すべては、あなたのしもべだからです。

と記されていますし、イザヤ書40章26節には、

  目を高く上げて、
  だれがこれらを創造したかを見よ。
  この方は、その万象を数えて呼び出し、
  一つ一つ、その名をもって、呼ばれる。
  この方は精力に満ち、その力は強い。
  一つももれるものはない。

と記されています。
 また、地上に存在するものや生息するすべてのものも、神さまの御手の支えの中にあります。詩篇104篇10節〜15節には、

  主は泉を谷に送り、山々の間を流れさせ、
  野のすべての獣に飲ませられます。
  野ろばも渇きをいやします。
  そのかたわらには空の鳥が住み、
  枝の間でさえずっています。
  主はその高殿から山々に水を注ぎ、
  地はあなたのみわざの実によって満ち足りています。
  主は家畜のために草を、
  また、人に役立つ植物を生えさせられます。
  人が地から食物を得るために。
  また、人の心を喜ばせるぶどう酒をも。
  油によるよりも顔をつややかにするために。
  また、人の心をささえる食物をも。

と記されています。
 悪魔でさえ造り主である神さまとの関係にあって存在しています。悪魔はもともとは優れた御使いとして造られたものです。それが自分の素晴らしさに目がくらんで、神さまの御前に高ぶり、自分が神のようになろうとしたことによって罪を犯し堕落してしまいました。それによって、あらゆる点において神さまに敵対して歩んでいますが、造られたものであることには変わりがありません。悪魔も、神さまの御手の支えがあるからこそ存在できているのです。
 この世界に存在しているすべてのものは、造り主である神さまとの関係を離れては存在できません。そのように、すべてのものが造り主である神さまとの関係にあって存在している中で、神のかたちに造られている人間は「自分というもの」をもっており、自分自身を知っており、自分の在り方を自分の意志と責任で決めることができるものです。その意味で、人間は人格的な存在です。
 当然、人間の造り主である神さまとの関係は、動物たちのように本能的なものではなく、人格的なものです。人間は神さまとの関係の在り方を自分の意志と責任で選び取ることができるように造られています。それで、人間は自分が意識していても意識していなくても、あらゆる点において自分の在り方をもって神さまに「応答」しています。
 先ほど、一本の花を見る例を取り上げましたが、私たちが何気なくこの花を見たとき、私たちはすでに神さまに向かって「応答」しています。神の子どもたちは、改めて意識しなくても、自分の最も深いところにある造り主である神さまに対する信仰において、この花を見ています。同じように、何かを食べるとき、すでに、それが神さまからの賜物であるという、自分の最も深いところにある信仰の確信から、神さまに対して「応答」しています。同じように、私たちにとっては、この一息一息の呼吸が、すでに、信仰に基づく造り主である神さまへの「応答」としての意味をもっています。使徒の働き17章24節、25節には、

この世界とその中にあるすべてのものをお造りになった神は、天地の主ですから、手でこしらえた宮などにはお住みになりません。また、何かに不自由なことでもあるかのように、人の手によって仕えられる必要はありません。神は、すべての人に、いのちと息と万物とをお与えになった方だからです

と記されています。
 人間は自分が神さまの御手によって造られたものであることや、あらゆる点で神さまの御手によって支えられているということを変えることはできません。また、神のかたちに造られていて、自分の意志で神さまとの関係の在り方を選び取ることができる自由を与えられているという事実も変えることはできません。さらに、今お話ししたような意味で、人間は自分が改めて意識しなくても、常に、また、あらゆる点において、造り主である神さまに「応答」している、という事実を変えることもできません。
 しかし、人間は自分の意志と責任で、造り主である神さまを否定することができます。この世界と自分自身が造り主である神さまの御手によって造られたものであることを、否定することができます。そして、常に、また、あらゆる点において、造り主である神さまに「応答」している者として、どのような「応答」をするか、その「応答」の仕方を選び取ることができます。
 詩篇14篇1節では、

  愚か者は心の中で、
  「神はいない。」と言っている。

と言われています。
 この場合、

  心の中で、「神はいない。」と言っている。

ということは、ただ単に、心の中でぶつぶつ言っているという意味ではありません。私たち流に言いますと、心の奥深くに、

  神はいない。

という「一種の信仰」の(本当は、不信仰の)確信があって、すべてのことにおいて、その

  神はいない。

という根本的な確信に基づいて生きているということを意味しています。
 先ほど、神の子どもたちにとっては、一本の花を見ることが、改めて意識するまでもなく、すでに、自分自身の心の奥深くにある造り主である神さまに対する信仰の確信に基づく、神さまへの「応答」となっているということをお話ししました。また、その意味で、一息一息の呼吸が、すでに、神さまへの「応答」としての意味をもっているといいました。同じように、

  心の中で、「神はいない。」と言っている

人々は、何気なく一本の花を見ることが、また、その一息一息の呼吸が、すでに、その人の心の奥深くにある、

  神はいない。

という「一種の信仰」の確信に基づく、神さまへの「応答」になっています。
 このように、

  心の中で、「神はいない。」と言っている

人々、すなわちその人のいちばん奥深くにある確信が

  神はいない。

ということである人々は、常に、また、あらゆる点において、

  神はいない。

という根本的な確信に基づく「応答」を、造り主である神さまに対してしています。一本の花を見るというような、道徳的には決して悪いことであるとは言えないことにおいても、造り主である神さまとの関係においては、そのような「応答」をしているのです。
 その一方で、御子イエス・キリストの贖いの恵みにあずかって、神さまの御許に導かれた神の子どもたちは、常にまたあらゆる点において、心の最も深いところに根差している造り主である神さまへの信仰の確信に基づく「応答」をしています。それは、たとえば、奉仕というような目立った行ないでなくても、その一息一息の呼吸において、すでに、造り主である神さまへの「応答」をしているのです。
 この、神のかたちに造られている人間の最も深いところにある「根本的な確信」が、造り主である神さまに結びついているか、それとも、

  神はいない。

ということにあるかどうかで、神さまに対する「応答」の内容はまったく違ったものになってしまいます。
 ヘブル人への手紙9章14節では、

キリストが傷のないご自身を、とこしえの御霊によって神におささげになったその血は、どんなにか私たちの良心をきよめて死んだ行ないから離れさせ、生ける神に仕える者とすることでしょう。

と言われています。
 御子イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いにあずかって、神さまの御許に帰った神の子どもたちは、その心の奥底からきよめられています。それは、その人に罪がなくなったということではありません。心の奥底からきよめられたということの核心は、心が向かう方向が変わって、神さまの方を向くようになり、神さまに結ばれるようになったことにあります。その「良心」が神さまを中心として働くようになったことにあります。自分の罪をも、神さまを中心にして考えます。その罪が神さまに対する罪であることを認め、神さまの御前に悔い改め、神さまが備えてくださっている御子イエス・キリストによる罪の贖いを信じて、それを受け取ります。
 ですから、クリスチャンと、クリスチャンでない人の根本的な区別は、神のかたちに造られている人間のいちばん奥深いところにあります。それで、その区別は現われた姿からは分からないのです。クリスチャンはまじめであるとか、いい人であるとかいうのは、一般的なイメージであって、そのようなことを基準にして、クリスチャンらしいとか、クリスチャンらしくないとか判断するのは危険なことです。

  心の中で、「神はいない。」と言っている

人々の中に、心暖かくて親切であり、色々な才能を持っていて、人々のために働いている人がたくさんいます。それは、とても素晴らしいことです。なぜなら、それらのよきものは、神のかたちに造られている人間に与えられている賜物が、一般恩恵によって啓発されたものだからです。よく言われることですが、確かに、そのような人々の方が、「頑固で心が狭いクリスチャン」よりは、よほど人間らしいと言うこともできます。神の子どもたちがへりくだって、そのような人々から多くのことを学ばなくてはならないことも確かです。
 そうではあっても、さらに深いところでは、その人々は自分自身に与えられているよき賜物について、

  神はいない。

という確信に基づく「応答」を、造り主である神さまに対してしています。その意味では、人間としてとても優れた人々も、そして、優れた働きをした人々も、造り主である神さまの御前に悔い改める必要があります。
 これまでのお話でお分かりのように、神さまの御前に悔い改めるということは、自分の心が

  神はいない。

という思いを中心として動いていて、神さまに向いていなかったことこそが、そこからあらゆる罪(複数形の罪)が生まれる罪の根っ子(根本的な罪・単数形の罪)であることを認めることから始まります。
 そのような、罪によって心が腐敗した状態は、自分の力できよめることはできません。これまでのお話でお分かりのように、そのような状態では、「善い行ない」自体が

  神はいない。

という「根本的な確信」を表現するものとなってしまいます。それで、その「善い行ない」で罪を増すことはあっても、罪を贖うことはできないのです。
 そのために、自分の罪を悔い改める人は、自分の外に備えられている、御子イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いを信じて受け取らなくてはなりません。それによって、心が神さまに向くようになります。これが、きよめられることの核心にあることです。そして、「良心」が神さまを中心として働くようになるのです。
 このように、悔い改めることは、神のかたちに造られている人間の心のいちばん奥深いところにある根本的な確信の方向が、神さまの方に向くようになり、神さまを中心とするようになることを意味しています。それによって、常にまたあらゆる点において神さまに「応答」している私たちの「応答」が、造り主である神さまに対する信仰の表現となるようになります。
 神の子どもたちの祈りは、いわば、改めて意識して、神さまの御前に立って、神さまとの交わりをするものです。その奥には、贖いの恵みによって、より深いところで心が神さまに向いており、神さまにつながっているという、神のかたちの本来の姿が回復されている事実があります。

 


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