![]() |
説教日:1999年1月17日 |
今日は、これまでのお話を踏まえたうえでのことですが、私たちが、このように、父なる神さまの「みこころの奥義」の実現を祈り求めることが、霊的な戦いの状況にあっての祈りであるだけでなく、それを越えて、天地創造の初めに、神のかたちに造られた人間に委ねられた「歴史と文化を造る使命」を果たすことにつながっている、ということをお話ししたいと思います。 天地創造の初めに、神のかたちに造られた人間に「歴史と文化を造る使命」が委ねられたということは、創世記1章26節〜28に記されています。そこには、 そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」 と記されています。 このみことばが示していますように、人が神のかたちに造られていることと「歴史と文化を造る使命」を果たすことは、密接に結びついていて、切り離すことができません。神のかたちに造られていて、造り主である神さまの栄光を映し出す存在である人間が「歴史と文化を造る使命」を果たすことによって、この世界が神さまの愛と慈しみを豊かに現わす世界となることが、この使命の趣旨です。 しかし、実際には、人間は、造り主である神さまに対して罪を犯して堕落してしまったことによって、神のかたちとしての栄光を腐敗させてしまいました。 「腐っても鯛」ということわざがあります。その本来の意味からは少し離れますが、どんなに腐ってしまっても、それが鯛であるという事実には変わりがありません。ただ、鯛としての本来の意味をなさなくなってしまうのです。同じように、人間は罪を犯して堕落してしまったけれども、神のかたちに造られているという事実には変わりがありません。ただ、その神のかたちとしての栄光が損なわれ、腐敗したものになってしまったのです。それによって、人間は、造り主である神さまの栄光を映し出すのではなく、人間の罪がもたらした腐敗を現わすものとなってしまいました。ちょうど、腐ってしまった鯛が、腐敗の悪臭を放つものとなってしまったのと同じです。そして、罪によって腐敗してしまった人間の性質の本質は、自分を「神」とするまでの自己中心性にあります。 そのような人間が造り出す歴史と文化は、造り主である神さまの栄光を反映して映し出すどころか、人間の罪の自己中心性を映し出すものとなってしまっています。「歴史と文化を造る使命」の遂行のために与えられているさまざまな賜物と能力は、人間の罪の自己中心性から生まれてくるさまざまな欲望を達成するために用いられてしまっています。その結果、本来は、 生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。 という戒めにしたがって、「地」に秘められている可能性を造り主である神さまのみこころにしたがって開発し、「海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物」たちが豊かないのちに生息するように仕えていく使命そのものが歪められてしまいました。人間は自分に委ねられている「地」や「海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物」を自分のために搾取してしまうものとなってしまいました。 人間が罪によって堕落して神のかたちとしての栄光を腐敗させてしまっても、神のかたちに造られているという事実には変わりがありません。同じように、神のかたちに造られている人間に「歴史と文化を造る使命」が委ねられているという事実にも変わりはありません。 ノアの時代には、神さまは、大洪水によって、それまで人間が築いてきた歴史と文化をおさばきになり、すべてを清算してしまわれました。けれども、それは、人間の罪による腐敗を極限まで現わすに至った歴史と文化を清算されたのであって、神のかたちに造られた人間に「歴史と文化を造る使命」が委ねられているという事実を取り消してしまわれたということではありません。罪による堕落の後においても、人間に「歴史と文化を造る使命」が委ねられているからこそ、ノアの時代に、その使命をめぐってのさばきがなされ、大洪水によってすべてが清算されたのです。 「歴史と文化を造る使命」が人間に委ねられているという事実は、ノアの時代の後の、今日においても変わっていません。そのことは、詩篇8篇3節〜8節の、 あなたの指のわざである天を見、 あなたが整えられた月や星を見ますのに、 人とは、何者なのでしょう。 あなたがこれを心に留められるとは。 人の子とは、何者なのでしょう。 あなたがこれを顧みられるとは。 あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、 これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。 あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、 万物を彼の足の下に置かれました。 すべて、羊も牛も、また、野の獣も、 空の鳥、海の魚、海路を通うものも。 ということばから、はっきりと分かります。この詩篇は人類の堕落の後に、しかも、ノアの洪水の後に記されたものです。そして、この詩篇が記された時代において、人がどのようなものであるかを記しています。 また、新約聖書においても、いくつかの個所がこの詩篇8篇から引用して、人間に委ねられている「歴史と文化を造る使命」が今日に至るまで継続していることとともに、原理的には、イエス・キリストが罪の贖いの御業を成し遂げられてから、栄光をお受けになって死者の中からよみがえられたこと、そして、父なる神さまの右の座に着座されたことによって成就していることを示しています。 その代表的な個所は、ヘブル人への手紙2章5節〜10節です。5節〜8節前半では、次のように言われています。 神は、私たちがいま話している後の世を、御使いたちに従わせることはなさらなかったのです。むしろ、ある個所で、ある人がこうあかししています。 「人間が何者だというので、 これをみこころに留められるのでしょう。 人の子が何者だというので、 これを顧みられるのでしょう。 あなたは、彼を、 御使いよりも、しばらくの間、低いものとし、 彼に栄光と誉れの冠を与え、 万物をその足の下に従わせられました。」 ここでは、詩篇8篇4節〜6節を引用して、人間に委ねられている「歴史と文化を造る使命」が今日に至るまで継続していることを示しています。 そして、続く8節後半〜10節では、 万物を彼に従わせたとき、神は、彼に従わないものを何一つ残されなかったのです。それなのに、今でもなお、私たちはすべてのものが人間に従わせられているのを見てはいません。ただ、御使いよりも、しばらくの間、低くされた方であるイエスのことは見ています。イエスは、死の苦しみのゆえに、栄光と誉れの冠をお受けになりました。その死は、神の恵みによって、すべての人のために味わわれたものです。神が多くの子たちを栄光に導くのに、彼らの救いの創始者を、多くの苦しみを通して全うされたということは、万物の存在の目的であり、また原因でもある方として、ふさわしいことであったのです。 と言われています。これは、「歴史と文化を造る使命」が、原理的には、イエス・キリストが罪の贖いの御業を成し遂げられてから、栄光をお受けになって死者の中からよみがえられたこと、そして、父なる神さまの右の座に着座されたことによって成就していることを示しています。 これまで何度か引用しました、エペソ人への手紙1章20節〜23節も、これと同じことを記しています。そこでは、 神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。 と言われています。 このように、イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによる贖いの御業の完成とともに、神のかたちに造られた人間に委ねられている「歴史と文化を造る使命」は原理的に成就していますが、その最終的な完成は世の終わりのさばきの後に実現します。 コリント人への手紙第一・15章23節〜28節には、 しかし、おのおのにその順番があります。まず初穂であるキリスト、次にキリストの再臨のときキリストに属している者です。それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、国を父なる神にお渡しになります。キリストの支配は、すべての敵をその足の下に置くまで、と定められているからです。最後の敵である死も滅ぼされます。「彼は万物をその足の下に従わせた。」からです。ところで、万物が従わせられた、と言うとき、万物を従わせたその方がそれに含められていないことは明らかです。しかし、万物が御子に従うとき、御子自身も、ご自分に万物を従わせた方に従われます。これは、神が、すべてにおいてすべてとなられるためです。 と言われています。 このコリント人への手紙第一・15章23節〜28節の流れを見てみますと、27節で、 「彼は万物をその足の下に従わせた。」からです。 と、詩篇8篇6節を引用しています。これは、神のかたちに造られた人間に委ねられている「歴史と文化を造る使命」が最終的に達成されるようになることを示しています。 しかし、それに先立つ24節、25節では、 それから終わりが来ます。そのとき、キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、国を父なる神にお渡しになります。キリストの支配は、すべての敵をその足の下に置くまで、と定められているからです。 と言われています。 キリストの支配は、すべての敵をその足の下に置くまで、と定められているからです。 ということばは、詩篇110篇1節の 主は、私の主に仰せられる。 「わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは、 わたしの右の座に着いていよ。」 という、メシヤに関する預言を背景として語られています。ここには敵を足台とするというテーマが出てきます。そして、主がメシヤの敵をメシヤの足台とされると言われています。これによって、神のかたちに造られた人間に委ねられている「歴史と文化を造る使命」の遂行が霊的な戦いの中でなされていることが示されています。 注意すべきことは、この詩篇110篇を背景とする霊的な戦いのことが、詩篇8篇を背景とする「歴史と文化を造る使命」のことよりも先に述べられているということです。このことから、終わりの日の出来事の順序としては、まず、霊的な戦いに対する決着がつけられます。それから「歴史と文化を造る使命」の遂行の完成が達成されるということになります。 この点は、先ほど引用しましたエペソ人への手紙1章20節〜23節でも同じです。20節、21節では、 神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。 と言われていました。 この場合、「天上においてご自分の右の座に着かせて」というのは、先ほどの詩篇110篇1節の、 わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは、 わたしの右の座に着いていよ。 という主のことばの「わたしの右の座に着いていよ。」ということに言及して、それが栄光のうちに死者の中からよみがえられたイエス・キリストにおいて成就していることを述べるものです。そうしますと、それに続く すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。 ということは、詩篇110篇1節の「わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは」という主のことばに言及するものであると考えられます。それで、ここで言われている「すべての支配、権威、権力、主権」は霊的な戦いにおいて贖い主であるキリストに敵対しているものたちを指しているということになります。 ですから、エペソ人への手紙1章20節、21節は、霊的な戦いにおける御子イエス・キリストの勝利の実現を記しています。そして、それに続く22節の、 また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。 ということばの 神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ ということは、「いっさいのものを ・・・・ 足の下に従わせ」というテーマから分かりますように、詩篇8篇6節の成就を示しています。 このように、コリント人への手紙第一・15章23節〜28節においても、エペソ人への手紙1章20節〜23節においても、まず、詩篇110篇1節に預言されているメシヤによる霊的な戦いの勝利が、イエス・キリストにおいて成就していることが語られてから、それに続いて、詩篇8篇6節に記されている、神のかたちに造られた人間に委ねられている「歴史と文化を造る使命」がイエス・キリストにおいて実現していることが語られています。 その二つの個所のうち、エペソ人への手紙1章20節〜23節は、約束されている贖い主よる霊的な戦いの勝利と、神のかたちに造られた人間に委ねられている「歴史と文化を造る使命」が、イエス・キリストにおいて原理的に達成されており、すでに歴史において実現し始めていることを示しています。それに対しまして、コリント人への手紙第一・15章23節〜28節においては、それが世の終わりにおいて完成することが預言的に述べられています。霊的な戦いにおける勝利と「歴史と文化を造る使命」の遂行による歴史の完成には、この二つの面があります。それぞれが、イエス・キリストにあって神の子どもとされている私たちの信仰と希望の土台となっています。 このように、この二つの個所のどちらにおいても、メシヤによる霊的な戦いの勝利がまずあって、それとともに、神のかたちに造られた人間に委ねられている「歴史と文化を造る使命」が達成されるという順序があることが示されています。そうしますと、最終的に実現すべきことは、創造の初めに、神のかたちに造られた人間に委ねられている「歴史と文化を造る使命」が達成されることです。このことは、人間に委ねられている「歴史と文化を造る使命」が、終末に至るまでの歴史においていかに大切なものであるかを示しています。 そして、霊的な戦いも、この「歴史と文化を造る使命」をめぐってなされている戦いです。 造り主である神さまの御前に高ぶって、自らが神のようになろうとした悪魔は、その罪によって堕落して以来、神さまに逆らうことを自らの存在の目的とするようになってしまいました。しかし、悪魔も、もともとは優れた御使いとして造られたものであって、一介の被造物でしかありませんから、無限の栄光の神さまに近づいて、神さまと直接的に戦うことはできませんし、そのようなことはありえません。仮に、悪魔が直接的に神さまに近づくようなことがあるとしたら、そのようなことをした途端に悪魔は神さまの無限の栄光によって滅ぼされてしまいます。悪魔は造られたものとしての限界の中でしか働くことはできません。それで、悪魔は造られたこの世界についての神さまのみこころの実現を妨げることによって、神さまに逆らおうとしています。 その点で、悪魔が注目したのが、神のかたちに造られた人間に「歴史と文化を造る使命」が委ねられたということです。もし人間が神さまに罪を犯して堕落し、委ねられた「歴史と文化を造る使命」を果たすことがなくなれば、造られた世界の歴史に対する神さまのみこころは悪魔の妨げによって実現しないことになってしまいます。それは悪魔の勝利を意味しています。そして、その悪魔のたくらみは、人類の堕落によって成功したように見えました。 これに対して、神である主は、約束の贖い主の贖いの御業によって、人間を本来の神のかたちの栄光をもって神さまの御前に歩む者へと回復してくださることをとおして、「歴史と文化を造る使命」を達成してくださる道を示してくださいました。そして、そのとおりに、御子イエス・キリストを遣わしてくださり、その十字架の死による罪の贖いをとおして、私たちを神のかたちの栄光へと回復し、神の子どもとしてくださいました。 先週、ローマ人への手紙8章19節〜22節をもとにしてお話し |
![]() |
||