説教日:1999年1月10日
聖書箇所:エペソ人への手紙6章18節〜20節
説教題:霊的な戦いと祈り(3)


 エペソ人への手紙6章18節〜20節には、それに先立つ10節〜17節に記されている霊的な戦いについての戒めにつながっている、祈りについての戒めが記されています。これまで、エペソ人への手紙全体の流れを見ながら、霊的な戦いの中で祈りがどのような意味をもっているかについてお話ししてきました。その要点は、神の子どもたちの祈りは、基本的に、父なる神さまの「みこころの奥義」の実現と完成のために祈るものであるということでした。
 1章8節〜10節では、イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いの恵みにあずかって神の子どもとされている私たちに、さらにあふれさせてくださった恵みについて、

神はこの恵みを私たちの上にあふれさせ、あらゆる知恵と思慮深さをもって、みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました。それは、神が御子においてあらかじめお立てになったご計画によることであって、時がついに満ちて、この時のためのみこころが実行に移され、天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められることなのです。

と言われていました。このように神の子どもたちに示されている父なる神さまの「みこころの奥義」の実現と完成のために祈ることに、神の子どもの祈りの特徴があります。


 このことは、6章19節、20節で、パウロが、

また、私が口を開くとき、語るべきことばが与えられ、福音の奥義を大胆に知らせることができるように私のためにも祈ってください。私は鎖につながれて、福音のために大使の役を果たしています。鎖につながれていても、語るべきことを大胆に語れるように、祈ってください。

と言って、自分のための執り成しの祈りを要請していることの中にも表われています。
 パウロは、自分のことを

私は鎖につながれて、福音のために大使の役を果たしています。

と述べていますが、その務めは「福音の奥義を大胆に知らせること」であると言っています。この「福音の奥義」は、1章9節、10節に記されている父なる神さまの「みこころの奥義」のことです。
 このことからも、「福音のための大使」として栄光のキリストから遣わされているパウロの視野の広さが見て取れます。
罪の自己中心性からは、「他の人はどうであっても、自分さえ幸せであればよい」というような思いが生まれてきます。その「自分」が、もう少し拡大して「自分の家族さえ幸せであれば」というように家族や、「自分の国が繁栄しさえすれば」というように国家になることはあっても、基本的に自分が中心であることには変わりがありません。
 パウロは、この「自分の」を極限にまで拡大して「自分の存在する宇宙のすべてが調和のうちにあるようになれば」と考えているのではありません。そうではなく、イエス・キリストの十字架の血による罪の贖いにあずかって罪の自己中心性から解放された者として、父なる神さまの「みこころの奥義」を中心として考えるように変えられているのです。
 その場合、「自分」は自分のものであり、「自分の家族」も自分のものであるけれど、「自分の国」までは自分のものとは言えず、みんなのものである。まして「自分の住んでいる世界」は自分のものではなく神のものである、というような発想であるのではありません。2章10節に、

私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをもあらかじめ備えてくださったのです。

と記されているように、何よりも自分自身が神さまの御手の作品でああると告白しています。
 コリント人への手紙第一・6章19節、20節には、

あなたがたのからだは、あなたがたのうちに住まれる、神から受けた聖霊の宮であり、あなたがたは、もはや自分自身のものではないことを、知らないのですか。あなたがたは、代価を払って買い取られたのです。ですから自分のからだをもって、神の栄光を現わしなさい。

と記されています。
 神の子どもたちは、自分自身も、自分の家族も、自分の国家も、そして、自分が住んでいる世界のすべてのものも、神さまの御手によって造られたという意味で、神さまのものであると理解しています。また、そうであるからこそ、すべてのものが、

天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められる

という、父なる神さまの「みこころの奥義」のうちにあると理解しています。そして、この父なる神さまの「みこころの奥義」が実現することによってだけ、罪の自己中心性によってもたらされている、自分さえよければと考えるところにある「自分」と「他の人々」の間の分裂を初めとして、「家」と「家」との分裂、「国」と「国」との分裂、さらには、「人間」と「自然」の分裂などが、最終的に解消されると信じています。
 その根本にあるのが、この前も引用しました、コロサイ人への手紙1章19節、20節の、

なぜなら、神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ、その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、ご自分と和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。

というみことばに示されている、御子の血による贖いが、造られたすべてのものを包んでいるという事実です。御子の血による贖いを通して、すべてのものが神さまとの和解による平和と調和のうちに存在するようになります。
 そして、神の子どもたちの贖いのことは、これに続く21節、22節で語られていて、

あなたがたも、かつては神を離れ、心において敵となって、悪い行ないの中にあったのですが、今は神は、御子の肉のからだにおいて、しかもその死によって、あなたがたをご自分と和解させてくださいました。それはあなたがたを、聖く、傷なく、非難されるところのない者として御前に立たせてくださるためでした。

と言われています。つまり、父なる神さまの「みこころの奥義」を中心として福音を見てみますと、御子イエス・キリストの十字架の血による罪の贖いに基づく福音は、神さまがお造りになったすべてのものを包み込み、その回復と完成を実現するものであるのです。その宇宙大の贖いの中に、エペソ人への手紙1章4節、5節で、

神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。

とあかしされており、ローマ人への手紙8章29節で、

なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。

とあかしされている、私たち人間の回復と、父なる神さまの子どもとして、御子イエス・キリストに似た者となることの完成があるのです。
 エペソ人への手紙6章18節では、

すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。

と言われています。
 ここでは、「すべての聖徒のために」祈ることが戒められているだけであって、父なる神さまの「みこころの奥義」の実現と完成を祈り求めるようにとは言われていません。しかし、「すべての聖徒のために」祈ることは、

天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められる

という父なる神さまの「みこころの奥義」の実現と完成を祈り求めることと深くつながっています。
 そのことは、今日のお話も含めて、これまでお話ししてきたことからお分かりのことと思いますが、改めて、前回も少し触れましたローマ人への手紙8章19節〜22節に基づいてお話ししたいと思います。そこでは、

被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。

と言われています。
 このことばは、造り主である神さまの御前に罪を犯して堕落してしまった最初の男女に語られたさばきの宣告を背景にして記されています。創世記3章16節〜19節には、

  女にはこう仰せられた。
  「わたしは、あなたのみごもりの苦しみを
  大いに増す。
  あなたは、苦しんで子を産まなければならない。
  しかも、あなたは夫を恋い慕うが、
  彼は、あなたを支配することになる。」
  また、アダムに仰せられた。
  「あなたが、妻の声に聞き従い、
  食べてはならないと
  わたしが命じておいた木から食べたので、
  土地は、あなたのゆえにのろわれてしまった。
  あなたは、一生、
  苦しんで食を得なければならない。
  土地は、あなたのために、
  いばらとあざみを生えさせ、
  あなたは、野の草を食べなければならない。
  あなたは、顔に汗を流して糧を得、
  ついに、あなたは土に帰る。
  あなたはそこから取られたのだから。
  あなたはちりだから、
  ちりに帰らなければならない。」

と記されています。
 ここには、人間における「産みの苦しみ」と、ちりに帰らなければならない人間の「虚無」が語られています。これに対して、ローマ人への手紙8節19節〜22節では、全被造物の「虚無」と「産みの苦しみ」が語られていました。この二つの「虚無」と「産みの苦しみ」は、神のかたちに造られている人間が、造られたすべてのものを治める使命を委ねられていることにおいてつながっています。
 どういうことかと言いますと、創世記1章28節に、

神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」

と記されていますように、人間は、造られたすべてのものを造り主である神さまのみこころに従って治める使命を委ねられています。ですから、被造物は神のかたちに造られている人間をかしらとして、人間との一体性のうちに置かれています。それで、人間が罪を犯して堕落したことによって、人間との一体性にある被造物にもその結果がおよび「被造物が虚無に服した」のです。ということは、かしらである人間が、神さまとの関係において本来の姿を回復することがあるなら、やはり、人間との一体において、被造物たちも回復されることになるわけです。その意味で、

被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。 ・・・・ 被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。

と言われています。
 また、エバに対するさばきとして、「産みの苦しみ」が増すことが語られていました。しかし、そのさばきのことばは、恵みのことばともなります。というのは、それに先立つ創世記3章15節では、人間を罪へと誘った「蛇」の背後にある存在であるサタンに対して、サタンが「蛇」を用いたので神である主も「蛇」をお用いになって、

  わたしは、おまえと女との間に、
  また、おまえの子孫と女の子孫との間に、
  敵意を置く。
  彼は、おまえの頭を踏み砕き、
  おまえは、彼のかかとにかみつく。

という、さばきを宣言されたからです。
 これは、神である主が「女の子孫」を用いて、「蛇」の背後にある存在であるサタンに対するさばきを執行されるという宣言です。
 ですから、エバに語られた、

あなたは、苦しんで子を産まなければならない。

というさばきのことばは、それに先だって語られている「女の子孫」として来られる「贖い主」の約束を信じる者にとっては、「産みの苦しみ」の中にあってなお「贖い主」が与えられる望みを示すものです。ローマ人への手紙8章22節では、この「産みの苦しみ」にあっての望みが、人間との一体性に置かれている全被造物にも適用されて、

私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。

と言われています。
 このように、御子イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いを通して全被造物をご自身と和解させてくださる神さまのご計画の実現と完成には順序があります。まず、神のかたちに造られている人間が罪を贖われて、神の子どもとしての栄光の姿に回復されなくてはなりません。
 エペソ人への手紙でも、この順序は踏まえられています。すでにお話ししましたように、1章20節〜23節では、

神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。

と言われていて、

天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められる

という父なる神さまの「みこころの奥義」がイエス・キリストにあって、原理の上で実現しているだけでなく、実際に私たちの間で実現し始めていることが示されています。その実現の第一歩は、神の子どもたちが、「キリストのからだ」である教会において一つに集められていることであり、そこに、栄光のキリストが宿ってくださることです。
 ローマ人への手紙8章19節で、

被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。

と言われているときの「神の子どもたちの現われ」は、栄光のキリストのからだとして一つにされている「神の子どもたちの現われ」のことに他なりません。
 この意味での父なる神さまの「みこころの奥義」のことが、エペソ人への手紙3章6節では、

その奥義とは、福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人もまた共同の相続者となり、ともに一つのからだに連なり、ともに約束にあずかる者となるということです。

と言われています。これに続いて、7節では、

私は、神の力の働きにより、自分に与えられた神の恵みの賜物によって、この福音に仕える者とされました。

と、パウロが受けた使命のことが告白されています。
 そして、6章19節では、その自覚の下に、

また、私が口を開くとき、語るべきことばが与えられ、福音の奥義を大胆に知らせることができるように私のためにも祈ってください。

という、執り成しの祈りを要請しているわけです。
 「福音の奥義を大胆に知らせる」ことによって、人間的な要因の違いなどから生まれる、さまざまな分裂と反目の痛みと嘆きのうちにあった人々が、御子イエス・キリストの血による罪の贖いによる神さまとの和解の上に立って、栄光のキリストのからだである教会に結ばれ、イエス・キリストにある一致が生み出されていきます。
 しかし、それは、決して自動的に起こることではなく、神の子どもたちが「すべての聖徒のために」祈り続けることの中で実現していきます。この点で、「すべての聖徒のために」祈り続けることと、父なる神さまの「みこころの奥義」が実現することを祈り求めることは深く結び合っています。
 パスカルは、『パンセ』の中で人間のことを「考える葦」と呼びました。そのことを記す断章347と348では、次のように言われています。

   (347)
 人間はひとくきの葦にすぎない。自然のなかで最も弱いものである。だが、それは考える葦である。彼をおしつぶすために、宇宙全体が武装するには及ばない。蒸気や一滴の水でも彼を殺すのに十分である。だが、たとい宇宙が彼をおしつぶしても、人間は彼を殺すものより尊いだろう。なぜなら、彼は自分が死ぬことと、宇宙の自分に対する優勢とを知っているからである。宇宙は何も知らない。
 だから、われわれの尊厳のすべては、考えることのなかにある。われわれはそこから立ち上がらなければならないのであって、われわれが満たすことのできない空間や時間からではない。だから、よく考えることを努めよう。ここに道徳の原理がある。
   (348)
 考える葦。
 私が私の尊厳を求めなければならないのは、空間からではなく、私の考えの規整からである。私は土地を所有したところで、尊厳を増すことにならないだろう。空間によっては、宇宙は私をつつみ、一つの点のようにのみこむ。考えることによって、私が宇宙をつつむ。
(前田陽一、由木康訳)

 パスカルは、人間は考えることによって宇宙をつつむ。そして、そこに人間の尊厳性があると言っています。まさに、そのとおりです。
 しかし、神の子どもたちは、祈りにおいて、それを越えた人間の尊厳性を表わします。神の子どもたちは、

天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められる

という父なる神さまの「みこころの奥義」の実現を祈り求めることにおいて、造られたすべてのものが「滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられ」ることを願い求めます。そして、そのように祈ることをとおして、全被造物の回復に関わる父なる神さまのご計画の実現に参与します。
 ですから、私たちも、御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの完成とともに、父なる神さまの「みこころの奥義」が実現する条件はすべて整えられていることを心に留め、目を覚まして「すべての聖徒のために」祈り続けたいと思います。

 


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