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説教日:1998年12月27日 |
どのような祈りであっても、それが神の子どもの祈りであるなら、父なる神さまの「みこころの奥義」の実現につながる祈りでなくてはなりません。私たちは父なる神さまの愛と恵みによって、御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いにあずかって、神の子どもとされています。父なる神さまは、そのように神の子どもとされている私たちにさらに恵みを注いでくださって、父なる神さまの「みこころの奥義」を知らせてくださっています。 そのことを1章3節〜14節の流れの中で見てみましょう。1章5節では、 神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。 と言われています。 ここで「あらかじめ定めておられたのです。」と言われていますように、私たちが神の子どもとされていることは、父なる神さまの永遠のみこころから出ています。 新改訳は、 愛をもってあらかじめ定めておられたのです。 と訳しています。この「愛をもって」あるいは「愛にあって」(エン・アガペー)ということばが、どこにつながって、何を説明しているかということについては、意見が分かれています。 実は、「愛をもって」ということばは、ギリシャ語原文では4節の最後にあります。けれども、聖書における節の区分は霊感されているわけではありません。新改訳は「愛をもって」ということばを5節冒頭の「あらかじめ定めておられた」にかかるとして、 愛をもってあらかじめ定めておられたのです。 と訳しています。これですと、父なる神さまが私たちに対する愛によって、「ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと ・・・・ あらかじめ定めておられた」ということになります。 これに対して、このことばがギリシャ語原文の区分のとおりに4節に含まれるとする見方がありますが、これにはさらに二つの見方があります。 その一つは新共同訳の理解で、 わたしたちを愛して ・・・・ お選びになりました と、「愛をもって」を「お選びになりました」につなげるものです。しかし、原文ギリシャ語では、この二つのことばは離れすぎています。 もう一つの見方は、「愛をもって」を「聖く、傷のない者」につなげて、 御前に、愛にあって、聖く、傷のない者になるように ・・・・ お選びになりました とするものです。これは、神さまは、私たちが愛のうちにあって「聖く、傷のない者」となるようになるように、私たちをお選びになったと理解するものです。 この最後のものと新改訳の理解のどちらを取るべきかの判断が難しいところですが、いくつかのことから、新改訳の理解の方がいいと思われます。 まず、5章1節には、 ですから、愛されている子どもらしく、神にならう者となりなさい。 と記されています。ここでは、神の子どもであることは父なる神さまに「愛されている」ことであると言われています。神の子どもであること自体が父なる神さまに「愛されている」ことを意味しています。それにわざわざ「愛されている」ということばを加えているのは、「愛されている」ことを強調するためです。それで、新国際訳はこの「愛されている」を「深く愛されている」と訳しています。もちろん、これは2節に記されている、私たちが愛のうちを歩むようになることにつなげるための強調です。しかし、これは決して誇張表現ではありません。父なる神さまがご自身の子としてくださった私たちは、父なる神さまから「深く愛されている」のです。そして、その愛は父なる神さまの永遠のご計画においてすでに表わされています。 また、この「聖く、傷のない者」ということばの組み合わせはエペソ人への手紙の中では5章27節にも出てきます。5章26節、27節には、 キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。 と記されています。これは、1章4節で、 すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。 と言われていることがキリストのからだである教会において実現していることを示しています。そして、5章27節では、「聖く傷のない」ということばだけで「愛にあって」ということばはありません。いわば、「聖く傷のない」ということばがそれ自体で完結していることが示されています。 これらのことから、1章4節、5節でも「愛をもって」を「聖く、傷のない」につなげる必要はないし、むしろ新改訳の本文のように、「愛をもって」を5節につなげて、 神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。 と訳したほうがいいのではないかと思われます。父なる神さまは私たちに対するご自身の愛によって、「ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと ・・・・ あらかじめ定めておられたのです。」 かりに、これをこれとは別の見方のように訳すとしても、神さまが私たちを「ご自分の子にしようと ・・・・ あらかじめ定めておられた」ことが、神さまの愛から出ていることには変わりがありません。 ヨハネの手紙第一・3章1節でも、 私たちが神の子どもと呼ばれるために、 と言われています。私たちが神の子どもとされているのは父なる神さまの愛によることです。そして、神の子どもである私たちは、父なる神さまの愛の中にあります。 アウグスチヌスが生涯の回顧録である『告白』の冒頭で、神である主に向かって、 あなたは私たちを、ご自身に向けてお造りになりました。ですから私たちの心は、あなたのうちに憩うまで、安らぎを得ることはできないのです。(山田 晶訳) と告白しているとおり、私たちの魂は神さまの愛の御懐(みふところ)の中で初めて憩うことができます。 このように、私たちは、神の子どもであることのうちに最終的な慰めと安らぎを見出します。しかし、私たちが神の子どもとされていることには、それより大きな目的があります。そのことが、6節で、 それは、神がその愛する方によって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。 と言われています。 私たちが神の子どもとなることを通して、神さまの「恵みの栄光が、ほめたたえられる」ようになることが、その目的であるというのです。ここには、神さまの栄光の現われを中心とした見方、神中心の見方があります。 今日では、神の子どもたちの間でも、神さまを中心とした見方は衰退しつつあります。それで、私たちが神さまの愛のうちに憩うということは、すぐに受け入れられますが、それが神さまの栄光の現われのためであるということは、余り受け入れられないかもしれません。けれども、私たちが神さまの愛のうちに慰めと安らぎを見出すことと、神さまの愛と恵みの栄光がほめたたえられることは一つのことの裏表です。 先ほどの、アウグスチヌスの『告白』にも、そのことは表われています。もう少し前から引用しますと、 しかも人間は、小さいながらもあなたの被造物の一つの分として、あなたを讃えようとします。それは、おのが死の性(さが)を身に負い、おのが罪のしるしと、あなたが「高ぶる者をしりぞけたもう」ことのしるしを、身に負うてさまよう人間です。 それにもかかわらず人間は、小さいながらも被造物の一つの分として、あなたを讃えようとするのです。よろこんで、讃えずにはいられない気持ちにかきたてる者、それはあなたです。あなたは私たちを、ご自身に向けてお造りになりました。ですから私たちの心は、あなたのうちに憩うまで、安らぎを得ることはできないのです。 となっています。 美しいものを見たときには、賛嘆の声が出てきます。神さまの愛に触れるときには、驚きと賛嘆の思いがわき出てくるとともに、心の奥底からきよめられ、生きる力が与えられるようになります。先ほど引用しました、 私たちが神の子どもと呼ばれるために、 というヨハネのことばには、そのような思いが表わされています。「御父はどんなにすばらしい愛を与えてくださったことでしょう。」の「どんなにすばらしい」と訳されていることばは、文字通りには「どこの国からの」という意味のことばです。これによって、「自分たちの回りにはこのような愛はなかった。」とか「このような愛があるとは信じられない」というような思いを伝えています。それは、ヨハネ自身が、自分が神の子どもとされていることに表われている父なる神さまの愛に、実際に触れているからに他なりません。 この意味で、エペソ人への手紙1章5節、6節で、 神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。それは、神がその愛する方によって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。 とつながっていくことは自然なことです。私たちの間で「神がその愛する方によって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられる」ことがないのであれば、私たちは「ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられた」とあかしされている父なる神さまの愛に、実際には触れてはいない、と言わなければなりません。 続いて、7節では、 私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。 と言われていて、私たちが、実際に、「御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けて」神の子どもとされていることが述べられています。 ここでは、「これは神の豊かな恵みによることです。」と言われていて、私たちが「御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けている」ことが、神さまの豊かな恵みによっていることを確認しています。 ところが、これに続く8節、9節では、 神はこの恵みを私たちの上にあふれさせ、あらゆる知恵と思慮深さをもって、みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました。 と言われていて、「豊かな恵み」によって神の子どもとされている私たちの上にさらにあふれている恵みのことが語られています。 この恵みを私たちの上にあふれさせ と訳された部分は、直訳しますと、 私たちに惜しみなく与えてくださった神さまの恵みの豊かさのとおりに となります。これによって、神の子どもたちに与えられている恵みの豊かさが強調されていますが、それでも十分には表現できていないという思いが伝わってきます。 私たち神の子どもたちに注がれている、それほど豊かな恵みはどこにあるかといいますと、ここでは、 みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました。 ということにあると言われています。 私たちには、イエス・キリストにある父なる神さまの恵みを自分中心に受け止める傾向があります。そのために、イエス・キリストの恵みは、「御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けている」ことにあると考えて終わってしまいがちです。 確かに、私たちが「御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けて」いるのは「神の豊かな恵みによることです」。しかし、8節、9節では、私たち神の子どもたちは「御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けている」という恵みの上に、さらにあふれる恵みを受けていると言われています。そして、そのあふれる恵みは、父なる神さまの「みこころの奥義」を知らされていることにあると言われています。 その上で、9節後半と10節前半で、父なる神さまの「みこころの奥義」について、 それは、神が御子においてあらかじめお立てになったご計画によることであって、時がついに満ちて、この時のためのみこころが実行に移され、 と説明されてから、その中心が、 天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められること にあると言われています。これは、神さまの、御子イエス・キリストによる贖いの御業の目的を示すものです。 同じことが、コロサイ人への手紙1章19節、20節では、 なぜなら、神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ、その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、ご自分と和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。 と言われています。 ローマ人への手紙8章19節、20節で、 被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。 と言われていますように、人間の罪による堕落とともに、「天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが」「虚無に服し」ています。そのために、被造物全体が、荒廃と分裂の痛みと、うめきの中にあります。それが、御子イエス・キリストの贖いの御業によって、造り主である神さまとの本来の関係に回復されるというのです。 御子イエス・キリストによる贖いの御業は、私たちのことばで言いますと、「宇宙大」の意味の広がりをもっています。私たちが神の子どもとして、あふれる恵みを神さまから受けていることの表われは、このような、父なる神さまの「みこころの奥義」を知らされていることと、その実現に参与するように召されていることにあります。 今日、神の子どもたちが、このように大切なこととして示されている父なる神さまの「みこころの奥義」にほとんど関心を示さない理由は、いくつかあると思われます。 一つには、だんだんと認められるようになってきていますが、神の子どもたちが、ことばの上ではどうであれ、実際には、自分を「富ませる」ことに心を奪われてしまっているために、神さまのことも、自分を中心にして考える傾向にあることが考えられます。そうなりますと、先ほど引用しましたアウグスチヌスが告白しているような、神さまを中心にしたときにだけ得られる、主にあって充足することを経験することができない、霊的な飢餓状態に陥ってしまいます。それによって、ますます自分に執着するという悪循環に陥ってしまい、神さまのご計画に対する関心は失われてしまいます。 このような、自分中心的な信仰の姿勢には、もう一つの現われ方があると思われます。 それは、父なる神さまの「みこころの奥義」が宇宙大の広がりをもったものであるのであれば、私たちのように小さな存在にはとても手の届かないことなのではないかという、一種の「無力感」の問題です。宇宙全体の大きさに比べたら、砂粒にも満たない存在である私たちが、父なる神さまの「みこころの奥義」を知ったところで何になるのかという思いが先に来てしまうので、父なる神さまの「みこころの奥義」を理解しようともしないということです。 これは、一見すると、神の子どもたちが自らの限界をわきまえている「謙遜」な姿勢であるように見えます。しかし、それは、主に対する謙遜ではありません。主に対する謙遜は、自分たちが考えている「主のみこころ」を行なって奉仕をすることより前に、主のみこころを尋ね求めて、それを知ろうとすることにあります。 伝道者の書5章1節、2節では、 神の宮へ行くときは、自分の足に気をつけよ。近寄って聞くことは、愚かな者がいけにえをささげるのにまさる。彼らは自分たちが悪を行なっていることを知らないからだ。神の前では、軽々しく、心あせってことばを出すな。神は天におられ、あなたは地にいるからだ。だから、ことばを少なくせよ。 と言われています。 お気づきのことと思いますが、2節の、 神の前では、軽々しく、心あせってことばを出すな。神は天におられ、あなたは地にいるからだ。だから、ことばを少なくせよ。 ということばは、マタイの福音書6章7節〜13節に記されている祈りに関する教えで、イエス・キリストが、 また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。だから、彼らのまねをしてはいけません。あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。だから、こう祈りなさい。 「天にいます私たちの父よ。 御名があがめられますように。 御国が来ますように。 みこころが天で行なわれるように 地でも行なわれますように。 私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。 私たちの負いめをお赦しください。 私たちも、 私たちに負いめのある人たちを赦しました。 私たちを試みに会わせないで、 悪からお救いください。」 と教えておられるのと同じです。 自らを慎んで、まず、みことばに聞くことによって神さまのみこころを知るようになるなら、そのみこころを祈り求めるようになるというのです。しかも、あっせってことばを多くするのではなく、天の御座に着いておられる栄光の主が、そのみこころを行なってくださることを信頼して、確かなことばで祈るようになるというのです。 そのような、神さまのみこころを中心にして、神さまのみこころを祈り求める祈りでは、まず、 御国が来ますように。 みこころが天で行なわれるように 地でも行なわれますように。 というように、神さまの「宇宙大」のみこころの実現を祈り求めるようになります。この点に、私たちが父なる神さまの「みこころの奥義」の実現に参与する道があります。 また、私たちは、父なる神さまの「みこころの奥義」の実現を祈り求め続けるることを通して、「みこころの奥義」に対する理解と関心を深めていただけます。 コロサイ人への手紙1章19節、20節では、 なぜなら、神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ、その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、ご自分と和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。 と言われていました。父なる神さまの「みこころの奥義」が実現するために必要な基盤は、御子イエス・キリストの十字架の死による贖いによって、すべて備えられています。あとは、贖いの御業を成し遂げて栄光をお受けになり、死者の中からよみがえって父なる神さまの右の座に着いておられるイエス・キリストが、それを私たちの間に実現してくださり、終わりの日に、完成してくださるだけです。 実際、それは私たちの間の現実となっていますので、私たちは、「御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けて」神の子どもとされています。その私たちは、父なる神さまの「みこころの奥義」を知らされている神の子どもとして、その実現と完成を祈り求めるようにと召されています。 霊的な戦いは、父なる神さまの「みこころの奥義」の実現を巡る戦いです。霊的な戦いの敵として6章12節に記されている「主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊」は、父なる神さまの「みこころの奥義」の実現を妨げようとして働いています。 これに対して、イエス・キリストはご自身の十字架の死による贖いの御業を通して、原理の上では、父なる神さまの「みこころの奥義」を実現しておられます。そして、今は、父なる神さまの右の座に着座しておられて、神の子どもたちが、父なる神さまの「みこころの奥義」が実現し、完成に至ることを求める祈りに応える形で、贖いの御業を私たちの間に実現しつつ、完成へと導いてくださっておられます。 |
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