説教日:1998年11月29日
聖書箇所:エペソ人への手紙6章18節〜20節
説教題:霊的な戦いと祈り(1)


 エペソ人への手紙6章18節〜20節には、祈りについての戒めが記されています。これはそれに先立つ10節〜17節に記されている霊的な戦いについての戒めと深くつながっています。言い換えますと、霊的な戦いについての戒めは、18節〜20節に記されている祈りについての戒めをもって閉じているということになります。このことから、霊的な戦いには、私たちの祈りを欠くことができないことを汲み取ることができます。今日は、霊的な戦いにおける私たちの祈りについて基本的なことをお話しします。


 18節の、

すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。

という戒めでは、「すべて」とか「あらゆる」という意味のことばが4回用いられています。
 それは、「すべての祈りと願い」、「どんなときにも」(直訳「あらゆる機会に」)、「すべての聖徒のために」、「忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい」(直訳「すべての忍耐と願いにおいて」)です。これによって、霊的な戦いに参与する神の子どもたちの祈りが、時間的にも地域的にも限りなく広がっていることが示されています。
 また、18節〜20節はひとかたまりになっていますが、ここで語られている祈りと願いは、基本的に、自分のための祈りや願いではなく、「すべての聖徒のため」の執り成しの祈りです。19節と20節では、パウロは自分をその執り成しの祈りに覚えてくれるように要請しています。
 このような、霊的な戦いにおける祈りの限りない広がりと、それが基本的に「すべての聖徒のため」執り成しの祈りであることを考えますと、1章15節〜23節に記されている、パウロの執り成しの祈りが思い出されます。
 これまで、霊的な戦いを理解するためにどうしても知っておかなくてはならない教えとして、1章20節〜23節の、

神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。

という教えを、繰り返し引用してきました。
 この教えは、栄光のキリストが現在どのような方として存在しておられるのかを明らかにしているもので、霊的な戦いを理解するための土台となる重要な教えです。けれども、これは独立した教えではなく、15節〜17節の、

こういうわけで、私は主イエスに対するあなたがたの信仰と、すべての聖徒に対する愛とを聞いて、あなたがたのために絶えず感謝をささげ、あなたがたのことを覚えて祈っています。どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。

ということばから始まる、パウロの執り成しの祈りの中で語られているものです。
 このパウロの執り成しの祈りの中に出てくる、イエス・キリストが現在どのような方として存在しておられるかについての教えは、1章9節、10節に記されている、

天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められること

という、父なる神さまの「みこころの奥義」が、原則的に実現していることを示しています。イエス・キリストがご自身の十字架の死によって罪の贖いを成し遂げられ、栄光をお受けになって死者の中からよみがえられて父なる神さまの右の座に着座されたことによって、父なる神さまの「みこころの奥義」は原則的に実現しているのです。
 1章に記されていることを全体として見ますと、この父なる神さまの「みこころの奥義」は、「天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが」キリストを「かしら」として完全な調和の中に存在するようになるということになります。これを霊的な戦いの中で見ますと、サタンをかしらとする暗やみの主権者たちは父なる神さまの「みこころの奥義」が実現することを妨げようとして働いているけれども父なる神さまの「みこころの奥義」は実現しているということで、霊的な戦いにおける勝利を意味しています。
 パウロは、読者たちがこのことを理解することができるように、いつも祈っていると告白しています。パウロの視野は、父なる神さまの「みこころの奥義」を中心として宇宙大に広がっています。それを読者たちと分かち合うことができることを祈り求めているのです。それは、また、私たちに対する父なる神さまのみこころでもあります。
 コロサイ人への手紙1章15節〜17節では、

御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。

と言われています。
 「万物は御子にあって造られた」ということは、「万物」が御子のうちにあり、御子との関係にあって存在していることを示しています。また、「万物は ・・・・ 御子のために造られた」ということは、「万物」の存在の目的が御子であり、「万物」は御子との関係において意味と価値をもっているということを示しています。永遠の神の御子イエス・キリストは、「万物」をお造りになった方として、「万物」の存在の源であり目的である方です。
 この世界は秩序と調和の中に存在している美しい世界として、造り主である神の栄光を現わしています。私たちはその美しさと調和の見事さに触れて、心が震える感動を覚えたり、厳粛な気持ちをかき立てられます。それは、この世界が、めちゃくちゃなものの中から何の意味もなく出現したものではなく、永遠にして無限の知恵と御力の神である御子にあって、また御子によって造られたものであり、御子にあって成り立っているからです。このように、御子は「いっさいのもの」の存在の源であり、それを支える土台です。また、御子は「いっさいのもの」の意味と価値の源です。
 この「いっさいのもの」は神のかたちに造られた人間の堕落とともに虚無に服してしまい、本来の意味と価値を失ってしまいました。父なる神さまの「みこころの奥義」は、御子イエス・キリストにあって「天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが ・・・・ 一つに集められる」ことです。それは、「いっさいのもの」が、御子イエス・キリストの贖いをとおして、造られた本来の意味と価値を回復するだけでなく、それをさらに豊かに充満な形で現わすようになるということを意味しています。それによって、父なる神さまの栄光がさらに豊かに現わされるようになるのです。
 先ほどのパウロの執り成しの祈りの中の教えでは、キリストは「いっさいのものの上に立つかしらである」と言われています。普通ですと「かしら」と「からだ」が対応していますので、キリストが「いっさいのものの上に立つかしらである」のであれば、「いっさいのもの」が「キリストのからだ」であると考えたくなります。しかし、23節では、

教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。

と言われています。「いっさいのものの上に立つかしらである」キリストのからだは、教会であるというのです。また、「いっさいのものをいっさいのものによって満たす方」とは、ご自身の十字架の死による罪の贖いを成し遂げて、栄光のうちによみがえって、父なる神さまの右の座に着座された御子イエス・キリストのことです。
 先ほどのコロサイ人への手紙1章15節〜17節のことばで言いますと、御子イエス・キリストは、父なる神さまの栄光を充満に現わすという、この世界が造られた目的を実現してくださり、「いっさいのもの」が造り主である神さまの御前に確かな意味と価値をもつものとなるように、支えてくださり、導いてくださり、整えてくださいます。栄光のキリストは、それを、ご自身の十字架の死による罪の贖いをもって実現してくださいました。コロサイ人への手紙1章19節、20節に、

なぜなら、神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ、その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、ご自分と和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。

と記されているとおりです。
 このように、

教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。

ということは、教会が「キリストのからだ」として、栄光のキリストを「かしら」として戴いているということを意味しています。そして、その栄光のキリストは、ご自身の十字架の死による罪の贖いに基づいて「いっさいのもの」が造り主である神さまの御前に確かな意味と価値をもつものとなるように、支えてくださり、導いてくださり、整えてくださる方なのです。
 それで、「キリストのからだ」である教会は、「いっさいのもの」が造り主である神さまの御前に回復されるという、父なる神さまの「みこころの奥義」の実現を祈り求めるものでなくてはならないのです。

教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。

ということは、現在形で表わされており、常にそうである事実を表わしています。エペソ人への手紙が記された時代の初代教会においてそうであったというだけではなく、いつの時代においてもそうなのです。
 また、このエペソ人への手紙で言われている「教会」は、地上に現われている個々の教会と区別された、一般に「見えない教会」とか「普遍の教会」とか呼ばれる教会のことだけを指しているのではありません。エペソ人への手紙は、そのような区別を念頭において記されてはいません。
 ですから、

教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。

ということは、今日の私たちの間の現実です。
 「それにしては」と、私たちは考えるかも知れません。自分たちの現実を見た時に、この私たちのどこに、「いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところ」と言われているような栄光と、豊かさがあるのかと問われるかも知れません。
 まず考えたいことは、そのような問いかけがどこから出てくるかということです。もし、

教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。

ということが、この世的な権威や、この世的な豊かさの尺度で測られた「豊かさ」や「栄華」が満ちていることを意味していると考えているのであれば、そして、そのような「豊かさ」や「栄華」がないことを問題にしているのであれば、その問いかけの根底にある価値観が誤っています。
 この世的な権威や、この世的な豊かさの尺度で測られた「豊かさ」や「栄華」を求めることは、イエス・キリストご自身が退けられたものです。この点については、マタイの福音書4章8節〜10節や、ルカの福音書4章5節〜8節に記されている、イエス・キリストが悪魔からお受けになった「荒野の試み」の記事を見てください。
 さらに、十字架への道を歩まれたイエス・キリストだけでなく、パウロも、その生涯は福音のために生きることがもたらす労苦の連続でした。たとえば、コリント人への手紙第二・11章24節〜28節では、

ユダヤ人から三十九のむちを受けたことが五度、むちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度あり、一昼夜、海上を漂ったこともあります。幾度も旅をし、川の難、盗賊の難、同国民から受ける難、異邦人から受ける難、都市の難、荒野の難、海上の難、にせ兄弟の難に会い、労し苦しみ、たびたび眠られぬ夜を過ごし、飢え渇き、しばしば食べ物もなく、寒さに凍え、裸でいたこともありました。このような外から来ることのほかに、日々私に押しかかるすべての教会への心づかいがあります。

と言われています。ここには、この世的な権威や、この世的な豊かさの尺度で測られた「豊かさ」や「栄華」は、まったく見られません。
 パウロは、「キリストのからだ」である教会に連なる者であるがために味わっている労苦の連続の中で、なお、

教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。

と告白しています。
 つまり、栄光の「キリストのからだ」である教会に連なる者であるということと、このような、この世の尺度では「惨めなこと」でしかない労苦を味わうことは矛盾することではないのです。それどころか、みことばは栄光の「キリストのからだ」である教会に連なる者にとって、そのような労苦こそが自然なものであると教えています。
 イエス・キリストも、ヨハネの福音書15章19節、20節に記されていますように、

しかし、あなたがたは世のものではなく、かえってわたしが世からあなたがたを選び出したのです。それで世はあなたがたを憎むのです。しもべはその主人にまさるものではない、とわたしがあなたがたに言ったことばを覚えておきなさい。もし人々がわたしを迫害したなら、あなたがたをも迫害します。もし彼らがわたしのことばを守ったなら、あなたがたのことばをも守ります。

と教えておられます。
 栄光の「キリストのからだ」である教会の栄光と豊かさは、この世の栄光の尺度で測られた栄光ではなく、この世の価値観で測られた豊かさではありません。「キリストのからだ」である教会の栄光と豊かさは、父なる神さまの「みこころの奥義」の実現のために、また、「いっさいのもの」が造り主である神さまの御前に確かな意味と価値をもつものとなるために、ご自身が十字架にかかって罪の贖いを成し遂げてくださった栄光のキリストが宿ってくださっていることにあります。これが、教会が栄光の「キリストのからだ」であることの核心です。
 私たちが地上でどのような状態にあろうとも、父なる神さまが栄光のキリストを教会に与えてくださっているということは変わることがありません。それも、キリストを、ただ、遠くにいて、時に応じて助けてくれる助け主のように与えてくださったのではありません。栄光のキリストを教会の「かしら」とし、教会を「キリストのからだ」としてくださるまでに結び合わせてくださったのです。そして、その父なる神さまのみこころに沿って、「かしら」であるキリストはご自身の「からだ」である教会のために、十字架にかかって罪の贖いの御業を成し遂げてくださいました。
 「いっさいのものの上に立つかしらであるキリスト」をもつことは、「万物」をもつこと以上のことです。それは、「いっさいのもの」の存在の源であり、「いっさいのもの」の意味と価値の源である方をもつことです。
 ヨハネの福音書6章38節に記されていますように、「いっさいのものの上に立つかしらであるキリスト」は、

わたしが天から下って来たのは、自分のこころを行なうためではなく、わたしを遣わした方のみこころを行なうためです。

とあかししておられます。そのように、イエス・キリストは父なる神さまの「みこころの奥義」を実現することを目的としておられます。イエス・キリストは、父なる神さまのみこころに従って「万物」をお造りになり、「万物」を保ち、導いておられます。また、父なる神さまのみこころに従って十字架にかかってくださって、私たちのために罪の贖いを成し遂げてくださり、万物を父なる神さまと和解させてくださいました。
 この方を「かしら」としてもつ教会は、この方をとおして成し遂げられていく父なる神さまの「みこころの奥義」の実現に、「からだ」として心を合わせます。それが、「からだ」である教会の存在の最も深いところで、「かしら」であるキリストと一つとなっていることの現われです。
 父なる神さまの「みこころの奥義」を中心として、「かしら」であるキリストと思いと願いをまったく一つにすることこそが、「キリストのからだ」であることの本質的です。なぜなら、人格的な存在である私たちにとっては、そのような思いと願いにおいて一つとなること以上に深い「一体性」はありえないからです。
 そして、私たちが思いと願いにおいて御子イエス・キリストと一つとなっていることは、何よりも、御子イエス・キリストの御名によって祈る祈りに表われてきます。そして、次に、その祈りとともになされる、福音の御ことばをあかしすることに表われてきます。
 ですから、私たちは、「かしら」であるキリストの「からだ」である教会であるという事実の上に立って、

  御名があがめられますように。
  御国が来ますように。
  みこころが天で行なわれるように
    地でも行なわれますように。

と「主の祈り」を祈ります。
 「主の祈り」を祈り、「主の祈り」の精神にそって私たちの祈りを祈ることは、父なる神さまの「みこころの奥義」の実現を祈り求めることです。それは、父なる神さまのみこころを行なうことを生涯の目的とされた御子イエス・キリストと心を合わせることの出発点です。
 私たちは、霊的な戦いという状況の中で、

神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。

という御子イエス・キリストの現実を信じていますので、御子イエス・キリストにあって霊的な戦いの勝利は確定しており、私たちが「主の祈り」によって祈り求めていることは必ず実現すると信じています。

 


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(c) Tamagawa Josui Christ Church