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説教日:1998年2月22日 |
人間が神のかたちに造られているということは、人間が神のかたちであるということを意味しています。人間の中に神のかたちがあるのではなく、人間が神のかたちなのです。ですから、人間であれば誰でも神のかたちの栄光と尊厳性を与えられています。それが、神さまの創造の御業に表されているみこころです。 人間は肉体と霊魂をもつものとして造られており、肉体と霊魂が一個の人間をかたちづくっています。人間が神のかたちであるということは、肉体と霊魂からなる人間が神のかたちであるということです。霊魂は神のかたちであるが肉体はそうではないというのではありません。 そのことは、先週も引用しました創世記9章5節、6節の、 わたしはあなたがたのいのちのためには、あなたがたの血の価を要求する。わたしはどんな獣にでも、それを要求する。また人にも、兄弟である者にも、人のいのちを要求する。 人の血を流す者は、 人によって、血を流される。 神は人を神のかたちにお造りになったから。 という神さまの言葉からも分かります。「人の血を流す」という、肉体を損なうことは、そのまま神のかたちの尊厳性を犯すことになるのです。 確かに、マタイの福音書10章28節に記されている、 からだを殺しても、たましいを殺せない人たちなどを恐れてはなりません。そんなものより、たましいもからだも、ともにゲヘナで滅ぼすことのできる方を恐れなさい。 というイエス・キリストの教えに示されていますように、肉体と霊魂は区別することができます。しかし、肉体を軽視したり否定したりする教えは、御言葉の教えではありません。 罪の結果としてもたらされた死が肉体に及んで「肉体的な死」が起こります。それによって、肉体と霊魂は一時的に分離します。しかし、ヨハネの福音書5章28節、29節には、 このことに驚いてはなりません。墓の中にいる者がみな、子の声を聞いて出て来る時が来ます。善を行なった者は、よみがえっていのちを受け、悪を行なった者は、よみがえってさばきを受けるのです。 というイエス・キリストの教えが記されています。世の終わりに実現するイエス・キリストの再臨の時には、創造の初めからそれまでの歴史において生まれたすべての人間が、からだをもってよみがえります。それは、人間が肉体と霊魂からなる本来の姿において、そして、人間の本来の在り方を示す神さまの基準にしたがって、神である主のさばきを受けるようになるためです。 私たちは、『ウェストミンスター小教理問答書』問1への答えに沿って、 人のおもな目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです。 と告白しています。人間に委ねられている使命を果たすことは、ここで告白されている「人のおもな目的」すなわち、造り主である神さまが人をお造りになった目的を実現することと一致しています。 あらゆるものは造り主である神さまの栄光を現すものとして造られています。今この宇宙は、1秒に地球を7回り半する速度で進む光が150億年かかって到達する先まで広がっていると言われています。この宇宙の広大さとその中に起こっているさまざまな不思議な現象は、これをお造りになって支えておられる神さまの知恵や力や真実さをあかししています。 しかし、宇宙そのものは生きていませんから、その事実を知りません。これに対して、神のかたちに造られている人間は、この宇宙の広大さとその中に起こっているさまざまな不思議な現象から、造り主である神さまの知恵と力と真実さに満ちた栄光を汲み取ることができます。さらには、それを通して神さまの栄光をほめ讚えることができます。 そればかりではありません。神のかたちに造られている人間は、ただ単に、知恵や力や真実さといった造り主である神さまの人格的な特性のいくつかを映し出しているだけではなく、被造物のレベルにおいてですが、神さまの人格そのものを、しかも直接的に映し出すものとして造られています。言い換えますと、人間は、生きておられる神さまご自身をあかしするものとして神のかたちに造られているのです。 人間が神さまの人格そのものを直接的に映し出す神のかたちとして造られているので、人間も人格的な存在であるのです。神のかたちに造られている人間は、聖さと義、愛や慈しみを生み出す善、それらを一貫して表し続ける真実といった、神さまの人格的な栄光を直接的に映し出すものです。自分自身が人格的な存在として造られているので、神さまの人格的な栄光を直接的に映し出すことができるのです。 私たちが何を考えても、また何をしても、そのすべてにおいて、神さまの人格的な栄光を直接的に映し出すことになります。それが、神のかたちに造られている私たちの本来の姿です。私たちが思うこと考えることなすことのすべては、本来、神さまの人格的な栄光を映し出すものとしての意味をもっています。そのことは、人が神のかたちに造られて以来、今日まで変わっていません。 現実の人間は、罪を犯して堕落してしまっているために、神さまの人格的な栄光を映し出しているとはいえません。しかし、壊れたテレビが「ノイズ画像」しか映し出さなくても、それが本来、映像を映し出すものであることには変わりがありません。その「ノイズ画像」は、本来、映像であるはずのものです。それと同じように、神のかたちに造られている人間は、本来、神さまの人格的な栄光を直接的に映し出すものとして造られています。 罪によって腐敗している神のかたちは、イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いを通して本来の姿に回復されます。このことについては、後でお話しします。 このように、造り主である神さまご自身をあかしするものとして造られていることに、神のかたちに造られている人間の栄光と尊厳性があります。また、どのような働きであっても、それが神のかたちとしての栄光と尊厳性を表現するものでないかぎり、神さまの栄光を映し出し、神さまをあかしすることにはなりませんから、委ねられた使命を果たすことにはなりません。 先週詳しくお話ししましたように、また、先ほど引用しました創世記9章5節、6節の御言葉から分かりますように、神のかたちに造られている人間の栄光の尊厳性は、神さまがご自身のものとして守っておられます。 人間が神のかたちに造られているのですから、その栄光と尊厳性は人間に与えられています。それは人間のものです。同時に、神のかたちの栄光は、造り主である神さまの人格的な栄光を直接的に映し出す栄光です。その尊厳性は、神さまの人格的な栄光を映し出すものとしての尊厳性です。それで、その尊厳性は神さまがご自身のものとして、何ものも冒してはならないものとして守っておられます。 その意味で、私たちは、他の人のことだけでなく、自分に与えられている神のかたちとしての栄光とその尊厳性を傷つけてはなりません。 先週も引用しましたヤコブの手紙3章9節、10節では、 私たちは、舌をもって、主であり父である方をほめたたえ、同じ舌をもって、神にかたどって造られた人をのろいます。賛美とのろいが同じ口から出て来るのです。私の兄弟たち。このようなことは、あってはなりません。 と言われています。 これは、基本的には、他の人の神のかたちとしての尊厳性を傷つけることに触れているものです。しかし、同時に、「主であり父である方をほめたたえる」ことが自分自身の神のかたちの尊厳性の表現であれば、「同じ舌をもって、神にかたどって造られた人をのろう」ということは、自らの神のかたちの尊厳性を傷つけることです。 神のかたちとしての栄光と尊厳性は神さまのものであって、何ものもそれを傷つけてはならないということとの関連で、「自殺」が造り主である神さまに対する罪であるということが理解されます。 しかし、ここには、それに劣らず大切なことで、それ以上に注意深く受け止めなくてはならないことがあります。それは、私たちの罪は、それがどんな罪であっても神のかたちとしての栄光の尊厳性、造り主である神さまがご自身のものとして守っておられる尊厳性を傷つけるものであるということです。それは、ほかの人の神のかたちとしての栄光と尊厳性を傷つけ、損なうという以上に、私たち自身の神のかたちとしての栄光と尊厳性を傷つけ、損なうということです。 そのことは、先ほどヤコブの手紙3章9節、10節の御言葉との関連でお話ししたことからも推察されるように、人間が神さまの人格的な栄光を直接的に映し出すものであることによっています。罪は、神のかたちである人間が映し出す神さまの人格的な栄光を傷つけることです。 人間は、生きておられる人格的な神のかたちとして、自分を自分としてわきまえる能力を与えられていますし、物事を考えたり感じ取ったりする能力を与えられています。また、自由な意志を与えられていて、自分の在り方を自分の責任で決めることができます。 それらの能力は人間が神のかたちであることをこの世界において表現するための手段として、造り主である神さまが与えてくださったものです。ですから、先週もお話ししましたように、重い障害や年齢を重ねることなどによってそのような能力が失われたとしても、その人が神のかたちであることと、神さまがその尊厳性をご自身のものとして守っておられることには変わりありません。 そのことを再確認した上でお話しすることですが、本来の状態、つまり、創造の初めに神さまが人を神のかたちにお造りになったときの状態にあっては、人間が考えることも、感じることも、行なうことも、すべて神のかたちの栄光を表現していました。言い換えますと、自分の在り方を決定する意志の働きや、物事に対する考え方や感じ方が、聖さ、義、善、真実という人格的な徳によって導かれ、特徴づけられていたのです。この聖さ、義、善、真実という人格的な徳は、本来「無限、永遠、不変」の栄光の神ご自身の人格的な徳であり、それが神のかたちに造られている人間にも映し出されるものです。 そのような状態にあったときの人間の考え方や感じ方、さらには、自分自身の在り方に対する意志の決定は、造り主である神さまのみこころと一致していました。なぜなら、造り主である神さまのみこころは、ご自身の聖さ、義、善、真実という人格的な徳の表現であるからです。 ヨハネは、ヨハネの手紙第一・3章4節において、罪がどのようなものであるかをまとめて、 罪を犯している者はみな、不法を行なっているのです。罪とは律法に逆らうことなのです。 と言っています。 言うまでもなく、ここで「不法」というのは、神さまが示してくださった「律法」を基準にして言われることで、「律法」にそわないことです。念のために申しますと、「律法」は、私たち人間に対する神である主のみこころを表すものです。ここでは、そのような意味で 罪とは律法に逆らうことなのです。 と言われています。 では、その逆の「律法」を守ることを考えてみますと、律法学者やパリサイ人の例のように、ただ「律法」の字句をきちんと守っていればよいということではありません。たとえば「山上の説教」におけるイエス・キリストの教えから明らかなように、私たちの内側の在り方から、神さまのみこころに一致していなくてはなりません。 その神さまのみこころは、神ご自身の聖さ、義、善、真実という人格的な徳が具体的な事柄に対して表現されたもので、それを私たち人間に示しているのが「律法」です。当然、神さまのみこころに一致するためには、私たちのうちにも聖さ、義、善、真実という神さまの人格的な徳が宿っていなくてはなりません。 ヨハネが 罪とは律法に逆らうことなのです。 と言っているのは、単に「律法」の字句を守っていないということではなく、もっと深いところまで遡って神さまのみこころと一致していない状態を意味しています。 ヨハネは、また、ヨハネの手紙第一・1章8節、9節において、 もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。 と言っています。 ここには「罪」という言葉が3回出てきますが、ある使い分けがなされています。最初の「もし、罪はないと言うなら」の「罪」は単数形で「罪の性質」を表しています。後の2回は複数形で、実際に犯してしまう「さまざまな罪」を表しています。このような使い分けは、人間には「罪の性質」があるから、実際に「さまざまな罪」を犯しているという人間の現実を反映しています。 罪は思いと言葉と行ないにおいてさまざまな形で現れてくるだけでなく、私たち人間のうちには、それらの「さまざまな罪」を生み出す「罪の性質」があります。 罪とは律法に逆らうことなのです。 というのは、ただ単に「さまざまな罪」のことだけを言っているのではなく、人間の内側にある「罪の性質」のことも言っているのです。 神の子どもたちは、罪は行いとして現れてくるものだけではなく、心ひそかに抱く怒りや憎しみなどのように、実行に移されていない悪い思いも罪であるということを知っています。しかし、実行に移されないままに終わった悪い思いも、先ほどの分類で言いますと、実際に犯してしまう「さまざまな罪」です。よく、パリサイ人や律法学者は外側に現れた形だけを整えただけだと言われることがありますが、それは単純化し過ぎです。彼らは心の中にある思いも律法の字句通りに整えようとしていました。彼らのの問題は、その奥にある「罪の性質」にまで遡って考えなかったことです。 人間の内側にある「罪の性質」は、それらの心ひそかな悪い思いを生み出す源であって、それらの「心のうちにあるさまざまな罪」よりも深いところにあります。 このことをこれまでお話したことに合わせて言いますと、人間の内側にある「罪の性質」とは、神のかたちに造られている人間に与えられている聖さ、義、善、真実という人格的な徳が汚染され腐ってしまっている状態のことです。あるいは、そのような人格的な徳を宿している人格そのものが腐敗してしまっている状態のことです。その結果、もはや神ご自身の聖さ、義、善、真実という人格的な徳を映し出すことがなくなっしまっている状態のことです。 このように、私たちの「罪の性質」は神のかたちの栄光を腐敗させています。そして、神のかたちの栄光の尊厳性は、造り主である神さまがご自分のものとして守っておられます。「罪の性質」は、その神さまがご自身の栄光に関わるものとして守っておられるものを腐らせてしまうものです。人間の罪に対する神さまのさばきの本質は、このことのうちにあります。私たち人間の罪は、神さまの栄光に関わる神のかたちの尊厳性を損なうものであるので、「永遠の刑罰」に価するのです。 イエス・キリストが「永遠の刑罰」としての意味をもつ十字架の死をもって私たちの罪を贖ってくださったということは、神さまの栄光に関わる神のかたちの尊厳性を損なってしまった私たちの罪を清算してくださったということです。また、ご自身の血をもって私たちの罪を聖めてくださったということは、私たちが腐敗させてしまった神のかたちの栄光を私たちのうちに回復し、再び、聖さ、義、善、真実という神さまの人格的な特性の栄光を映し出すものとしてくださったということです。 さて、これらのことを、私たち人間に与えられているざまな「能力」との関わりで考えてみましょう。私たちに与えられているさまざまな「能力」は、本来、聖さ、義、善、真実という神ご自身の人格的な特性の栄光を映し出している神のかたちの栄光をこの世界において表現するための手段です。ですから、すべての能力は、聖さ、義、善、真実という人格的な徳によって導かれなくてはなりません。 しかし、罪によって私たちの聖さ、義、善、真実という人格的な特性が腐敗してしまったことによって、人間のさまざまな能力は、腐敗してしまった人格的な特性を表現するものとなってしまいました。そのようにして表現されるものが、「実際に犯されるさまざまな罪」です。 「実際に犯されるさまざまな罪」は、目に見える形で現れてくるものも、実行に移されないままになっているひそかな思いも、神のかたちが腐敗してしまっており、その栄光が失われ、その尊厳性が損なわれていることをこの世界に具体的に表現しています。 一般恩恵の下にある人間は、聖霊の一般的な感化啓発によって、自らの尊厳性が傷つけられそこなわれていることをどこかで感じています。しかし、造り主である神さまに対する罪を認めることがない人々の間では、人間の尊厳性はさまざまな能力にあると考えられています。それで、それらの能力が十分ではないので、人間としての尊厳性も十分ではないとか、それらの能力が失われることによって、人間としての尊厳性も失われると感じています。 このような考え方がありますので、さまざまな能力を身に付けることによって優れた人間になれると考えて、そのための教育に奔走してきました。さまざまな能力が「開発」されてきました。普通の能力では十分ではないと感じて、「超能力」を身に付けようとする人々まで現われてきました。 その結果は、今日見る通りです。能力主義、機能主義の歯車によって、神のかたちの栄光を担う人格そのものが破壊されている現実があります。人間に与えられているさまざまな能力は、本来、聖さ、義、善、真実という人格的な特性、特にその集約である愛を表現するための手段です。それなのに、ある能力を身に付けたと自負する人々が、その能力を誇り、人を蔑むことがあります。あるいは、逆に、それらの能力において劣ることが引け目となって、自分自身を蔑んでしまうこともあります。残念なことに、教会さえも、そのような能力主義的、機能主義的な発想の影響を受けているのではないかと感じられることもあります。 人間の尊厳性を傷つけ損なうのは、そのような能力が足りないことや能力が失われることではなく、神のかたちそのものを内側から腐敗させている罪です。 それで、いくらさまざまな能力を「開発」しても、その人のうちに神のかたちの栄光と尊厳性は回復されません。神のかたちの栄光と尊厳性を腐敗させてしまっている人間の罪は、ただ御子イエス・キリストの十字架の死によってだけ贖われます。そして、イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いに基づいて働かれる、御霊の新しい創造のお働きによってだけ、私たちのうちに神のかたちの本来の栄光と尊厳性が回復されます。コリント人への手紙第二・3章18節には、 私たちはみな、顔のおおいを取りのけられて、鏡のように主の栄光を反映させながら、栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられて行きます。これはまさに、御霊なる主の働きによるのです。 と記されています。 その御霊のお働きは、すでに私たちに対してなされていますが、最終的な完成はイエス・キリストの再臨の日に、私たちすべてが御子イエス・キリストにこの上なく似た者とされる時に実現します。ヨハネの手紙第一・3章2節に、 愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。 と記されているとおりです。その日には、神のかたちの栄光と尊厳性が、私たちの間のあらゆる能力の差をはるかに越えた充満な形で現わされるようになるでしょう。 |
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