説教日:1998年2月15日
聖書箇所:エペソ人への手紙6章10節〜13節
説教題:神のかたちの栄光と尊厳性(1)


 今日も、エペソ人への手紙6章10節〜20節に記されている「霊的な戦い」についてのお話を続けます。
 これまで霊的な戦いが神さまの栄光をめぐる戦いであり、実際的には、神のかたちに造られている人間に委ねられた使命を争点としているということをお話ししてきました。そのお話を通して、この神さまがら委ねられている使命を果たすこととについて、一つのことを確認しておかなくてはならないと感じました。
 サムエル記第一・16章7節では、

人はうわべを見るが、主は心を見る。

と言われています。これは、目に見える姿や形や業績を第一にして人や物事を評価することに慣れている私たちが、心に銘記しておかなくてはならないことです。主の評価は人間の評価と違って、目に見える姿や形、あるいは目に見える結果によって左右されることはありません。なぜなら、神さまは、私たちの目に見えることも見えないことも、等しく見ておられるからです。ヘブル人への手紙4章13節には、

造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。

と記されています。
 造り主である神さまが神のかたちに造られている人間に委ねてくださった使命には、目に見える働きやその結果として形に現れてくるもの以上に、その人の神のかたちとしての在り方そのものが深く関わっています。


 これまで繰り返しお話ししましたように、神のかたちに造られている人間は、生きておられる人格的な神さまの栄光を現すように造られています。つまり、神のかたちは、『ウェストミンスター小教理問答書』問4の、

神とは、どんなかたですか。

という問いへの、

神は霊であられ、その存在、知恵、力、聖、義、善、真実において、無限、永遠、不変のかたです。

という答えに沿って言いますと、聖さと義、愛や慈しみを生み出す善、それらを一貫して表し続ける真実といった、神さまの人格的な栄光を映し出すものです。
 神さまから委ねられている使命を果たすことの目的は、この世界において造り主である神さまの栄光を現し、あかしすることにありますが、それは、この神のかたちを通して現されるものです。言い換えますと、その人に与えられている神のかたちとしての栄光と尊厳性を具体的な形で現す働きでないかぎり、その働きが人間の目にどんなに大きなものと見えても、神さまの栄光を映し出すこと、神さまをあかしすることにはならないのです。
 そのことは、創世記1章26節〜28節で、

そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」

と言われていることから十分読み取ることができます。
 この御言葉から分かりますように、まず、人間が神のかたちに造られているという事実があり、次に、その神のかたちに造られている人間に使命が委ねられています。ですから、その使命は、人間が神のかたちに造られているということと切り離して考えることはできません。
 かつて、ある人々は、神のかたちとは、すべてのものを治める使命を委ねられていることにあると考えました。その例は、ソシヌス主義者と呼ばれる人々です。このような考え方は、委ねられている使命を果たす能力のない人は神のかたちではないというような考え方を生み出しかねません。あるいは、使命を果たす能力のある人ほど神のかたちの栄光を豊かにもっているというような考え方を生み出しかねません。これは、今日私たちの回りにある能力主義につながっている考え方です。
 しかし、ここに引用した御言葉は、人間はみな、男も女も神のかたちに造られているということがまずあることを示しています。そして、そのような人間にすべてのものを治める使命が委ねられていると教えています。ですから、人間はその使命を委ねられる前に、すでに神のかたちとして造られています。人間は委ねられた使命を果たすことによって神のかたちになるのではなく、委ねられている使命の遂行の中に神のかたちであることを表現し、神さまの愛や慈しみを現しあかししていくのです。
 これを今日の私たちの状況に当てはめて言いますと、重い障害や年齢を重ねることなど、何らかのことで、一般的に人間に備わっている能力を失ったとしても、その人が神のかたちであり、神のかたちとしての栄光と尊厳性を与えられていることには変わりがない、ということを意味しています。造り主である神さまの御前では、人にどのような能力があっても、あるいはなくても、それ以前に、人は神のかたちであるのです。
 ただし、造り主である神さまの御前でそういうことであるのですが、私たちが、実際に、それをどれほど自分のものとしているかは、深く反省しなくてはなりません。実際に、たとえば重い障害を負っておられる方に接して、その人を単に気の毒な方としてでなく、神のかたちの栄光と尊厳性を担っておられる方として受け入れることができるようになるためには、主の贖いの恵みに包まれて、御霊による導きと訓練を受けることが必要でしょう。
 私たちは自分がどのようなものであるか、どのように理解しているでしょうか。自分の才能を考えて、あれができるこれができると考えたり、性格の上で気が強いとか優しいとか考えることもあります。そのほとんどの場合、他の人に比べて優れていることや劣ることがあると、それが自分を特徴づけていると感じます。歩くことのように、誰にでもできることについては、それが自分の特性であると考えることはありません。歩くことに不自由を感じるようになって初めて、歩けることを重く考えるようになることがあります。
 しかし、改めて考えてみますと、それには私たちの心の狭さが反映しています。私たちにとって大切で重いことは、たとえば、その歩くことのように、私たちすべてが共通してもっていることです。物事を見聞きし、感じ取り、それを味わい、考え、評価し、経験として整理して自らのうちに蓄えていくこと、それによってさらに知識と判断力を深めて知恵のあるものとなっていくことなどは、人間に与えられているとても大切な賜物です。人によって多少の能力の違いはあっても、その多少の違いよりも、そのような賜物が与えられていること自体の方がはるかに重いことです。しかし、残念なことに、実際にはそのこと自体の重さは忘れられて、他人と比べてよくできるかできないかということの方ばかりが問題となってしまって、多少よくできることが肯定され、あまりよくできないことは無視されたり否定されてしまいます。
 私たちにとって本当に重くて大切なことは、皆に共通して与えられている賜物です。その中でもいちばん重くて大切なことは、私たちが人間であるということです。これはもう、誰もが例外なく与えられていることです。よく人権ということが言われますが、その根底には、この人間であること自体の重さがあります。
 たとえ重い障害があって考えたり感じたりする能力がとても弱い人であっても、その人が人間であるということは特別な重さをもっていて、能力の上での違いをはるかに越えています。どうしてそうなるかと言いますと、人間は神のかたちに造られているからです。この神のかたちに造られていることが能力の違い、あるいは能力のあるなしを越えた特別な重さをもっているのです。
 まず、このことを踏まえた上で、人間が神のかたちに造られていることについてもう少し考えてみましょう。
 神のかたちに造られている人間は、生きておられる人格的な神のかたちとして、自分を自分としてわきまえる能力を与えられています。また、自由な意志を与えられていて、自分の在り方を自分の責任で決めることができます。さらには、その自由な意志や物事を考えたり感じたりする知的・情的な能力を含む人格の全体が神のかたちとして、聖さ、義、善(愛と慈しみ)、真実などの人格的な徳を備えたものとして造られています。
 ただ、自分で自分の在り方を決定する能力や、物事を考えたり感じたりする能力があるだけではありません。自分の在り方を決定することや考え方や感じ方が、聖さ、義、善、真実などの人格的な徳によって導かれ、特徴づけられるのです。それが神のかたちの本来の姿です。
 たとえば、誰かが私たちに対して不当な仕打ちをしたとします。そのことに対してどのように反応するかは、私たちが自分自身の責任で決定することです。その際に、本来の神のかたちの姿は、その反応に聖さ、義、善(愛と慈しみ)、真実などの人格的な徳を映し出すようになるということです。
 現実の私たちは罪によってそれらの人格的な徳を腐敗させてしまっていますので、むしろ罪の自己中心性を映し出して、自分もその人への恨みや憎しみなどの攻撃を返してしまうことが多いでしょう。今はそのことはおいておいて、神のかたちの本来の姿を考えます。イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いによって神のかたちの本来の姿を回復していただいている私たちにとって、神のかたちの本来の在り方は決して非現実的なことではありません。私たちの受けた不当な仕打ちに対して、神のかたちの栄光と尊厳性を映し出すように応えることができますようにと、神である主に祈り求めることは大切なことです。そのようなことに対するイエス・キリストのお応えを記しているペテロの手紙第一・2章21節〜24節には、

あなたがたが召されたのは、実にそのためです。キリストも、あなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、あなたがたに模範を残されました。キリストは罪を犯したことがなく、その口に何の偽りも見いだされませんでした。ののしられても、ののしり返さず、苦しめられても、おどすことをせず、正しくさばかれる方にお任せになりました。そして自分から十字架の上で、私たちの罪をその身に負われました。それは、私たちが罪を離れ、義のために生きるためです。キリストの打ち傷のゆえに、あなたがたは、いやされたのです。

と記されています。
 この聖さ、義、善、真実などの人格的な徳は、本来「無限、永遠、不変」の栄光の神ご自身の人格的な徳であり、それが神のかたちに造られている人間にも映し出されています。この意味で、人間は、この世界において造り主である神さまを映し出す栄光を担っています。
 この世界とその中のすべてのものは、神さまによって造られたものであるという点で神さまのものです。もちろん、その中には人間も含まれています。しかし人間は、ただ神さまによって造られたものであるということだけでなく、神のかたちに造られていて、造り主である神さまの人格的な栄光を映し出すものであるという特別な意味で、神さまのものなのです。
 生きておられる人格的な神さまのかたちとして造られている人間は、自分を自分としてわきまえる能力を持っており、自分の在り方を自分の責任で決定する自由な意志も持っています。その意味で、私たちは自分を自分のものと考えています。自分が自分のものであるということは、自分の在り方を自分自身の責任で引き受けて、決定しているということです。そのことは神さまが私たちをそのようなものとしてお造りになったことによっていますから、私たちが自分のことをそのように考えることは神さまのみこころにかなっています。
 しかし、それが私たちのすべてではありません。それは神のかたちの栄光と尊厳性の半分でしかありません。それに劣らず大切なことは、それよりももっと深いところで、造り主である神さまが、ご自身のかたちとしての栄光を担う人間そのものを、ご自身のものであると主張しておられるということです。
 そのことについて教えている御言葉を見てみましょう。創世記9章3節、4節では、

生きて動いているものはみな、あなたがたの食物である。緑の草と同じように、すべてのものをあなたがたに与えた。しかし、肉は、そのいのちである血のあるままで食べてはならない。

と言われています。
 これはノアの時代の洪水の後の新しい歴史の出発点において、神である主が、人間が生き物の肉を食べることを許されたことを記しています。その際に、無限、永遠、不変のいのちそのものであられ、あらゆるいのちの源であり、生き物にいのちをお与えになった神さまが、生き物のいのちの主であることを示しておられます。生き物のいのちは造り主である神さまのものであり人間が自由にしてよいものではないというのです。そのことに関わる具体的な戒めとして、

しかし、肉は、そのいのちである血のあるままで食べてはならない。

という戒めが与えられています。神さまは、そのようにして生き物のいのちの尊厳性を人間に示しつつ、いのちの尊厳性を守っておられます。
 ついでながらに言いますと、

しかし、肉は、そのいのちである血のあるままで食べてはならない。

という戒めは、「エホバの証人」が輸血の禁止の根拠としている戒めの一つです。しかし、この戒めは人にいのちの尊厳性を教え、いのちの尊厳性を守るための戒めです。この戒めの字面だけをとらえて、しかも拡大解釈を加えて、人間のいのちを守るための輸血を禁止するのは、この戒めの趣旨を踏みにじることで、本末転倒も甚だしいものです。
 これに続く5節、6節では、

わたしはあなたがたのいのちのためには、あなたがたの血の価を要求する。わたしはどんな獣にでも、それを要求する。また人にも、兄弟である者にも、人のいのちを要求する。
  人の血を流す者は、
  人によって、血を流される。
  神は人を神のかたちに
  お造りになったから。

と言われています。
 ここで神さまは人間のいのちの尊厳性を宣言し、それを守っておられます。生き物の場合には、その「いのちである血のあるままで」食べてはならないと言われていました。血は流されるけれども、その血を区別して、人間が自由に扱わないように求められていました。しかし、人間の場合には、「いのちである血」そのものが流されてはならないと言われています。その理由は

神は人を神のかたちにお造りになったから。

ということです。
 生き物たちには、神さまがいのちあるものとしてお造りになった「神さまの作品」としての尊厳性があります。それで、神さまは、

しかし、肉は、そのいのちである血のあるままで食べてはならない。

という戒めをもって生き物のいのちの尊厳性を守っておられます。人間にはそのような尊厳性をはるかに越える、神のかたちとしての尊厳性があります。ここで大切なことは、その神のかたちとしての尊厳性は人間のものではなく造り主である神さまのものであるということです。そして、その尊厳性を神ご自身が守っておられるのです。
 また、ヤコブの手紙3章9節、10節では、

私たちは、舌をもって、主であり父である方をほめたたえ、同じ舌をもって、神にかたどって造られた人をのろいます。賛美とのろいが同じ口から出て来るのです。私の兄弟たち。このようなことは、あってはなりません。

と言われています。
 詳しい説明はいらないでしょう。「神にかたどって造られた人」の尊厳性が、讃美をもってほめたたえられるべき神さまの栄光と結びつけられています。
 ここで取り上げられていることは、血を流すことのように肉体的な危害を加えることではなく、言葉をもって人をのろうことです。それは、直接的に神のかたちの尊厳性を攻撃して傷つけることです。それで、神のかたちの本体であられる神ご自身を讚えることと、まったく相容れることがないと言われています。
 ある人を愛しているときには、その人と関わるものやその人を思いださせるものを大切にします。逆に、ある人を憎んでいるときには、そのようなものを蔑んで、壊したり捨てたりします。神のかたちは造り主である神さまを映し出すものです。神のかたちに造られている人間を傷つけ、損なうことは、神のかたちが映し出している神ご自身を蔑むことです。
 このように、私たち人間は神のかたちとしての栄光と尊厳性を担っています。それは、私たちに与えられている、私たちの栄光であり尊厳性です。しかし、繰り返しになりますが、私たちがしっかりと心に留めておかなくてはならないことは、神のかたちの栄光は造り主である神さまの栄光を映し出すものであり、その尊厳性は、神さまがご自身のものとして守っておられるということです。
 これとともに、これとともに、私たちがしっかりと心に留めておかなくてはならないことがあります。それもすでにお話ししたことですが、人間が神のかたちであるということです。人間が神のかたちに造られているということは、人間に神のかたちがあるということではなくて、人間が神のかたちであるということです。この違いをしっかりと理解してください。ですから、人間であれば誰でも、何か特別な能力があるとかないとかに関わらず、神のかたちなのです。
 まず、人間が神のかたちであるという、造り主である神さまの御前においていちばん重い事実があります。この神のかたちの尊厳性は人間の尊厳性ですが、特別な意味で、造り主である神さまの栄光を映し出すものとして、神さまがご自身のものとして守っておられます。
 これに対して、自分で自分の在り方を決定する能力や、物事を考えたり感じたりする能力など、人間に与えられているさまざまな能力は、神のかたちの栄光をこの世界において表現するための手段です。ですから、障害や加齢など何らかのことでその手段が失われても、その人が神のかたちであるという、造り主である神さまの御前における最も重い事実には変わりがありません。言い換えますと、神のかたちの栄光と尊厳性は決して失われてはいないのです。
 かつて「優生保護」という考え方の下に、さまざまな障害を持つ方々が公の手で抹殺されたことがありました。今も、本質においてはそれと同じことが秘かに行われています。それは人間の尊厳性を神のかたちの栄光にではなく、その表現の手段の一つとして与えられている「能力」にあると考えることによっています。
 私たちは神のかたちの栄光と尊厳性を担っています。それは私たちに与えられた栄光と尊厳性ですが、より深いところでは、造り主である神さまが、ご自身のものとして守っておられます。私たちの尊厳性は、他の人が傷つけてはならないのはもちろんですが、私たち自身も、その尊厳性が自分の自由になるものであるかのように考えて、蔑んだり傷つけたりしてはならないのです。


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