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説教日:2005年1月2日 |
これまでお話ししてきましたように、「不死」あるいは「不滅」は、本来、神さまの特質です。神さまは何者のも依存しないで、ご自身で「不死」あるいは「不滅」な方です。これに対して造られたものは、造り主である神さまに支えていただいて、しかも被造物としての限界の中で、「不死」あるいは「不滅」なものであることができます。ここでパウロが祈り求めている「不死」あるいは「不滅」は、神のかたちに造られている人間に当てはまる「不死」あるいは「不滅」です。この「不死」あるいは「不滅」は、すでに、イエス・キリストにおいて歴史の現実となっています。 イエス・キリストは永遠の神の御子であられます。永遠の神の御子としてのイエス・キリストは、ご自身で「不死」あるいは「不滅」な方です。この永遠の神の御子が、私たちの罪を贖ってくださるために人の性質を取って来てくださいました。もちろん、それは罪の性質のない本来の人の性質です。それによって、私たちと同じまことの人となられ、ご自身の民の罪を贖うために、十字架にかかって死んでくださいました。そして、充満な栄光を受けて死者の中からよみがえられました。今から2千年前のことです。 イエス・キリストが十字架にかかって死なれたのも、死者の中からよみがえられたのも、まことの人としてのことです。永遠の神の御子が、その人としての経験において、私たちの罪に対するさばきによる死の苦しみを経験されたのです。そして、その十字架の死に至るまでの従順に対する報いとして充満な栄光に満ちたいのちを受けてよみがえられたのです。これによって、人間に当てはまる「不死」あるいは「不滅」が、今私たちが生きているこの歴史の中で実現しています。 死者の中からよみがえられたイエス・キリストのうちには充満な栄光に満ちたいのちがあります。この充満な栄光に満ちたいのちによって生きている状態が「不死」あるいは「不滅」の状態です。そして、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたのは、その十字架の死によって罪を贖ってくださったご自身の民を、さらにご自身の復活のいのちによって生かしてくださるためです。それを言い換えますと、ご自身の民を「不死」あるいは「不滅」なものとしてくださるためです。 そのように、私たちがイエス・キリストの復活のいのちによって新しく生かされて、「不死」あるいは「不滅」なものとなることは、私たちが父なる神さまと御子イエス・キリストとの愛にあるいのちの交わりに生きるようになるためのことです。そして、私たちが父なる神さまと御子イエス・キリストとの愛にあるいのちの交わりに生きることが、永遠のいのちの本質です。 このように、私たちに当てはめられる「不死」あるいは「不滅」の状態は死者の中からよみがえられたイエス・キリストにおいて歴史の現実となっていますが、それが私たちの間に完全に実現するのは、世の終りのイエス・キリストの再臨の日においてです。イエス・キリストは、今、父なる神さまの右の座に着座しておられますが、世の終りに再び来られて、ご自身の民の救いを完成してくださいます。ヘブル人への手紙9章28節に、 キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。 と記されているとおりです。 その時、イエス・キリストはご自身が成し遂げられた贖いの御業に基づいて、私たちをご自身の復活のいのちによってよみがえらせてくださいます。それによって、私たちは「不死」あるいは「不滅」なものになります。このように、私たちが「不死」あるいは「不滅」なものとなることは、世の終りの栄光のキリストの再臨の時に完成します。それで、聖書の教えにおいては、「不死」あるいは「不滅」ということの力点は、世の終りにおける完成の方にあります。 けれども、それは力点の違いであって、福音の御言葉は、これとともに、私たちが「不死」あるいは「不滅」なものとなることがすでに始まっているということを示しています。私たちはすでにイエス・キリストの復活のいのちによって生きるものとして新しく生れており、永遠のいのちの本質である父なる神さまとの愛にあるいのちの交わりのうちに生きるものとなっているということです。 死者の中からよみがえられたイエス・キリストは「不死」あるいは「不滅」の状態にあります。充満な栄光に満ちたいのちのうちにあって父なる神さまの右の座に着座しておられます。このことは、イエス・キリストを信じている私たちのあり方を決定しています。というのは、イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりは、ご自身のためではなく、私たちご自身の民の贖いのために成し遂げられたことだからです。イエス・キリストの民は、すべて、一人の例外もなく、イエス・キリストの死とよみがえりにあずかっているのです。先週も引用しましたエペソ人への手紙2章4節〜6節には、 しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、 と記されています。また、ヨハネの福音書5章24節に記されていますように、イエス・キリストも まことに、まことに、あなたがたに告げます。わたしのことばを聞いて、わたしを遣わした方を信じる者は、永遠のいのちを持ち、さばきに会うことがなく、死からいのちに移っているのです。 と教えられました。 このこと、すなわち、私たちが「不死」あるいは「不滅」なものとなっているということは、もしイエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりが私たちが生きている歴史の事実でなかったら、単なる「お話」でしかありません。そのようなことを信じることは空しいことです。それで、コリント人への手紙第一・15章13節〜17節には、 もし、死者の復活がないのなら、キリストも復活されなかったでしょう。そして、キリストが復活されなかったのなら、私たちの宣教は実質のないものになり、あなたがたの信仰も実質のないものになるのです。それどころか、私たちは神について偽証をした者ということになります。なぜなら、もしもかりに、死者の復活はないとしたら、神はキリストをよみがえらせなかったはずですが、私たちは神がキリストをよみがえらせた、と言って神に逆らう証言をしたからです。もし、死者がよみがえらないのなら、キリストもよみがえらなかったでしょう。そして、もしキリストがよみがえらなかったのなら、あなたがたの信仰はむなしく、あなたがたは今もなお、自分の罪の中にいるのです。 と記されています。 そのように、私たちの信仰は、イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりという歴史の事実と、そのことをあかししている福音の御言葉に基づいています。 イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりは、今から2千年前に地上のエルサレム郊外で起こったこととして歴史の事実です。しかし、それは、単なる過去の歴史の事実ではありません。それは、世の終りに起こることが歴史の中で起こったというべき特別な意味をもった出来事です。このことはいろいろな機会にお話ししてきましたので、簡単にまとめておきます。イエス・キリストが十字架の上で死んでくださったのは、ご自身の民の罪に対する神さまの聖なる御怒りによるさばきをお受けになってのことでした。イエス・キリストが十字架の上でお受けになったさばきは、主の民の罪を完全に清算するものでした。それで、イエス・キリストが十字架の上でお受けになったさばきは、世の終りに執行される最後のさばきに当たるものでした。 また、イエス・キリストの死者の中からのよみがえりは、十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従いとおしたことに対する報いとしてお受けになった充満な栄光に満ちたいのちを受けてのよみがえりです。イエス・キリストが充満な栄光に満ちたいのちを受けて死者の中からよみがえられたのは、ご自身の民をその充満な栄光に満ちたいのちによって生かしてくださるためでした。その意味で、イエス・キリストの死者の中からのよみがえりは、ご自身の民のよみがえりの第一歩であると同時に、その土台であるのです。先ほど引用しましたコリント人への手紙第一・15章13節〜10節に続く20節〜22節には、 しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。というのは、死がひとりの人を通して来たように、死者の復活もひとりの人を通して来たからです。すなわち、アダムにあってすべての人が死んでいるように、キリストによってすべての人が生かされるからです。 と記されています。そして、主の民のよみがえりは世の終りのイエス・キリストの再臨の日に起こります。 このように、イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりは、世の終りにおいて起こる出来事と同じ意味をもっている出来事でした。単に、世の終りに起こることを象徴する出来事なのではなく、世の終りに起こることが実際の歴史的な出来事として起こったということです。世の終りに起こることの決定的な土台が、今から2千年前に据えられているということです。それで、実際に、イエス・キリストを信じている者の罪は贖われています。また、イエス・キリストを信じて罪を贖われている者は、イエス・キリストの復活のいのちによって新たに生まれ、「不死」あるいは「不滅」なものになっています。 大切なことは、これらすべてのことは、すでに父なる神さまが御子イエス・キリストをとおして成し遂げてくださったことであって、私たちは父なる神さまの愛と一方的な恵みによって、それにあずかっているだけであるということです。 これらのことを踏まえて、改めて、エペソ人への手紙6章24節に記されている、 私たちの主イエス・キリストを愛するすべての人に、恵みと不死(不滅)がありますように。 というパウロの祝福の言葉を見てみましょう。この祝福は、主の「恵み」と相互に関連している「不死」あるいは「不滅」が「私たちの主イエス・キリストを愛するすべての人に」あるようにということを祈り求めるものです。 この場合、「私たちの主イエス・キリストを愛する」ということは、旧約聖書においてしばしば出てくる契約の神である主を愛することに当たります。というのは、聖書に記されている神さまの祝福は、神さまの契約の枠の中で与えられるものであるからです。 マタイの福音書22章34節〜40節には、 しかし、パリサイ人たちは、イエスがサドカイ人たちを黙らせたと聞いて、いっしょに集まった。そして、彼らのうちのひとりの律法の専門家が、イエスをためそうとして、尋ねた。「先生。律法の中で、たいせつな戒めはどれですか。」そこで、イエスは彼に言われた。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』これがたいせつな第一の戒めです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです。律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。」 と記されています。 ここには、いちばん大切な戒めについてのイエス・キリストの教えが記されています。 イエス・キリストは、「第一の戒め」は、 心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。 という戒めであると言われました。これは、旧約聖書の申命記6章5節に記されている戒めです。そして、「第二の戒め」は、 あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。 という戒めであると言われました。これは旧約聖書のレビ記19章18節に記されている戒めです。 イエス・キリストはさらに、 律法全体と預言者とが、この二つの戒めにかかっているのです。 と言われました。これは、旧約聖書に記されている主のすべての戒めは「この二つの戒め」によってまとめられるということ、そして、主のすべての戒めは「この二つの戒め」に沿って理解し受け止められなければならないということを意味しています。これによって、「この二つの戒め」は特別なもので、これと並列する「第三の戒め」のようなものはないことが分かります。 また、「この二つの戒め」は区別され、そこには「第一の戒め」と「第二の戒め」という順序がありますが、互いに切り離すことができません。というのは、 心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。 という「第一の戒め」を守っている人は、必ず、 あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。 という「第二の戒め」を守るからです。言い換えますと、自らの隣人を自分自身のように愛していない人が「心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして」神である主を愛しているということは決してあり得ないことだからです。ヨハネの手紙第一・4章20節にも、 神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。 と記されています。 エペソ人への手紙6章24節において、 私たちの主イエス・キリストを愛するすべての人に、恵みと不死(不滅)がありますように。 と記されているときの、「私たちの主イエス・キリストを愛するすべての人」とは、 心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。 という「第一の戒め」を守っている人々のことです。そして、その人々は、 あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。 という「第二の戒め」を守っている人々です。 その意味で、エペソ人への手紙の最後にパウロが記している、 私たちの主イエス・キリストを愛するすべての人に、恵みと不死(不滅)がありますように。 という祝福では、「私たちの主イエス・キリスト」が、 心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。 という「第一の戒め」に出てくる「あなたの神である主」に当たる方であるとされています。そして、「第一の戒め」に出てくる「神である主」は契約の神である主のことですから、パウロが記している、 私たちの主イエス・キリストを愛するすべての人に、恵みと不死(不滅)がありますように。 という祝福も主の契約の祝福のことであるということになります。もっとも、神さまの祝福はすべて神さまの契約に基づいています。(この点についてはいくつかの疑問が予想されますが、それについては触れないことにします。) 先ほどの、 心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。 という「第一の戒め」においては、神さまのことが「あなたの神である主」と言われています。これは、すでに、神である主とイスラエルの民の間に契約関係があることを踏まえています。そして、その契約関係は、エジプトの奴隷であったイスラエルの民を、神である主が一方的な恵みによって贖い出してくださって、ご自身の民としてくださったことによって確立されています。ですから、「第一の戒め」は、イスラエルの民が全身全霊をもって神さまを愛したら、神さまがイスラエルの民を救ってくださって、ご自身の民としてくださるというものではありません。神さまがご自身の一方的な愛と恵みによってイスラエルの民を奴隷の身分から贖い出してくださって、ご自身の契約の民としてくださったので、その契約の神である主を愛するようにという戒めです。 これと同じように、 私たちの主イエス・キリストを愛するすべての人に、恵みと不死(不滅)がありますように。 という祝福では、イエス・キリストのことが「私たちの主イエス・キリスト」と呼ばれています。これは、すでに、イエス・キリストが、ご自身の一方的な愛に基づく恵みによって、私たちをご自身の契約の民としてくださっているということを示しています。 イエス・キリストの地上の生涯の最後の夜にイエス・キリストは弟子たちと過越の食事をされました。その時のことを記しているマタイの福音書26章26節〜29節には、 また、彼らが食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福して後、これを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取って食べなさい。これはわたしのからだです。」また杯を取り、感謝をささげて後、こう言って彼らにお与えになった。「みな、この杯から飲みなさい。これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。ただ、言っておきます。わたしの父の御国で、あなたがたと新しく飲むその日までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。」 と記されています。 これは、今日「主の晩餐」と呼ばれている聖礼典が主イエス・キリストご自身によって執行され、定められたことを記すものです。そして、これは「主の晩餐」が過越の食事の成就であることを意味しています。古い契約の下においては、主の契約の民の地上的なひな型であるイスラエルの民はエジプトの奴隷の状態にありました。過越の食事は、そのイスラエルの民がエジプトから贖い出されて奴隷の身分から解放されて、主の契約の民とされたことを記念するものでした。これに対しまして、「主の晩餐」は古い契約の下での地上的なひな型によってあかしされていたまことの贖いの御業が成就していることが示されています。イエス・キリストが十字架において流された血による贖いによって、それを信じている私たちが罪と死の力から贖い出されて、ご自身との愛にあるいのちの交わりに生かされているということです。そして、私たちが主イエス・キリストとの愛にあるいのちの交わりに生きることができるために、主が私たちとともにいてくださること、私たちの間にご臨在してくださることが保証されています。 パウロが、 私たちの主イエス・キリストを愛するすべての人に、恵みと不死(不滅)がありますように。 と述べている祝福において「私たちの主イエス・キリストを愛するすべての人」と言われているのは、このように、イエス・キリストの血によって罪と死の力から贖い出されて主の契約の民とされ、主との愛にあるいのちの交わりのうちに生きるものとされている人々です。そして、そのいのちの交わりの中で、主の恵みによって支えられて、主を愛し、兄弟を愛している人々です。 ですから、 私たちの主イエス・キリストを愛するすべての人に、恵みと不死(不滅)がありますように。 という祝福は、決して、私たちが「私たちの主イエス・キリストを愛する」ことを条件として、そして、私たちが「私たちの主イエス・キリストを愛する」ことの報いとして「恵みと不死(不滅)」が与えられるということを述べているのではありません。 父なる神さまは、すでに主イエス・キリストによって私たちに贖いの恵みを注いでくださり、その恵みによって私たちを「不死」あるいは「不滅」なものとしてくださって、ご自身との愛にあるいのちの交わりに生きるものとしてくださっています。この祝福は、世の終わりの完成の時まで、この恵みが私たちの間でますます豊かなに溢れるようになることを祈り求めるものです。そして、これまでお話ししてきたことから分かりますように、それは、私たちが主イエス・キリストの恵みに包まれて父なる神さまとの愛にあるいのちの交わりを深めて、父なる神さまを愛するようになることと、兄弟たちとの交わりを深めて、兄弟たちを愛するようになることに現れてきます。 |
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