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説教日:2004年12月26日 |
これまでは、この「不死」あるいは「不滅」という、神さまの祝福がどのようなことを意味しているかということについてお話ししてきました。それを踏まえて、さらにお話を続けたいと思います。パウロは、ここで「恵み」と相互に関連している「不死」あるいは「不滅」が「主イエス・キリストを愛するすべての人に」あるようにと祈っています。これは、ここでパウロが祈り求めている「恵み」と「不死」あるいは「不滅」を受けるためには、主イエス・キリストを愛さなければならない、それは、イエス・キリストを愛したことに対する報いとして与えられる祝福である、というように受け止められかねません。そうであれば、それはもはや「恵み」ではありませんし、「恵み」によって与えられる「不死」あるいは「不滅」でもありません。このことをどのように考えたらいいのでしょうか。 このことについてお話しする前に、これと関連していると思われる一つのことをお話ししておきたいと思います。 これまでお話ししてきましたように、「不死」あるいは「不滅」は、ご自身の民の罪を贖うために十字架について死んでくださり、充満な栄光を受けて死者の中からよみがえられたイエス・キリストにおいて歴史の現実となりました。死者の中からよみがえられたイエス・キリストのうちには充満な栄光に満ちたいのちがあります。この充満な栄光に満ちたいのちによって生きている状態が「不死」あるいは「不滅」の状態なのです。イエス・キリストは今「不死」あるいは「不滅」の状態にあります。充満な栄光に満ちたいのちのうちにあって父なる神さまの右の座に着座しておられます この「不死」あるいは「不滅」の状態は死者の中からよみがえられたイエス・キリストにおいて歴史の現実となっていますが、それが私たちの間に完全に実現するのは、世の終りのイエス・キリストの再臨の日においてです。世の終りにイエス・キリストは、父なる神さまの右の座に着座された栄光の主として来られて、ご自身の民の救いを完成してくださいます。ご自身が成し遂げられた贖いの御業に基づいて、私たちご自身の民を罪と死の力からまったく解放してくださり、ご自身の充満な栄光に満ちたいのちによって生かしてくださるために、私たちをよみがえらせてくださいます。それによって、私たちはあらゆる点において「不死」あるいは「不滅」の状態になります。 このように、「不死」あるいは「不滅」の状態にあることは、世の終りに栄光のキリストが再臨されて、私たちをよみがえらせてくださり、ご自身の復活のいのちにまったくあずからせてくださることによって、私たちの間の現実となります。「不死」あるいは「不滅」ということの力点は、世の終りにおける完成にあります。その意味において、「不死」あるいは「不滅」の状態となるということは、私たちにとって将来のことであり、私たちが待ち望んでいることです。 そうしますと、ここに一つの疑問が生れてきます。それは、そのように、「不死」あるいは「不滅」の状態が私たちにおいては世の終りのイエス・キリストの再臨の日に完成するのであれば、それは今の地上における私たちの歩みとはほとんど関係がないのではないかという疑問です。 確かに、これまでのお話では、「不死」あるいは「不滅」の状態がどのようなものであるかということをお話しするために、「不死」あるいは「不滅」が終わりの日の栄光のキリストの再臨によって新しく造り出される新しい天と新しい地に住まうようになる者の特性であるということに焦点を当ててきました。けれども、イエス・キリストの再臨の日に私たちが完全な意味で「不死」あるいは「不滅」なものとなるということは、今の私たちの生き方と関係がないどころか、今の私たちの生き方と深くかかわっています。そのことを示している御言葉の教えはいくつかありますが、今日は、その一つを見てみましょう。 ヨハネの手紙第一・3章1節、2節には、 私たちが神の子どもと呼ばれるために、 と記されています。 ここでは、今すでに、父なる神さまの愛によって、神の子どもとされている私たちが、将来どのようなものとなるかということが示されています。 ここには翻訳にかかわる一つの問題があります。1節の最初の部分に「御父」という言葉が出てきますが、2節で「キリスト」と訳されている言葉は、「彼」という代名詞や動詞の3人称・単数形で表されています。それで、文法的には、その「彼」は「御父」を指しているというように考えられます。けれども、御言葉の教えでは、終りの日に「現われ」てくださり、私たちがその「ありのままの姿を見る」ようになるのは、栄光のキリストです。それで、2節の「彼」は、新改訳のように、栄光のキリストを指していると理解しなければなりません。純粋に文法の上では、その「彼」は「御父」を指していると考えられますが、そこで示されている事柄から言いますと、その「彼」は栄光のキリストを指していると考えなければならないのです。 このことから、ここでは、イエス・キリストが父なる神さまと一つであられることが意識されていると考えられます。世の終りには、父なる神さまと一つであられる御子イエス・キリストが現れてくださり、私たちはその「ありのままの姿を見る」ようになるということです。そして、その時、私たちはイエス・キリストの栄光の姿に「似た者」になると言われています。そのことにおいて、私たちが父なる神さまのの子どもであることの本質である父なる神さまとの交わりが、充満な栄光に満ちた、まったきものとなります。このことこそが、私たちが「不死」あるいは「不滅」なものとなるということに他なりません。2節に記されている、 しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。 という言葉はそのことの確かさを述べています。 注目すべきことは、これに続いて、3節で、 キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします。 と言われているということです。この場合も、「キリスト」と訳されている最初の言葉は「彼」であり、二番目の言葉は「その方」です。それで、これがイエス・キリストを指しているのか、それとも、父なる神さまを指しているのか判断するのは難しい気がします。いずれにしましても、これも、父なる神さまとイエス・キリストが一つであるということの現れであることは確かです。 ここでは、世の終りの栄光のキリストの再臨の日に、私たちが栄光のキリストの御姿に「似た者」となることを待ち望んでいる者、すなわち、「不死」あるいは「不滅」なものとなることを待ち望んでいる者は、主が聖くあられるように、自らを聖くすると言われています。 ここで、 キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします。 と言われているときの、 自分を清くします。 ということは、現在形で表されています。ですから、これは命令や戒めではなく、常に変わることがない事実を表しています。しかも、 キリストに対するこの望みをいだく者はみな、 ということでは「みな」という言葉が最初に出てきて強調されています。ですから、ここでは、 キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします。 ということは、神の子どもたちにとっては最も自然で当然のことであるということを示しています。しかも、これは神の子どもたちすべてに当てはまることであって、一部の人々だけに当てはまることではないのです。 ここで言われている聖さについてですが、 キリストが清くあられるように、自分を清くします。 と訳されているときの「清い」という言葉(形容詞・ハグノス)は、もともとは礼拝などの祭儀にかかわる言葉で、神や神に属するものの性質を表していました。それが、さらに倫理的、道徳的に聖いことをも表すようになりました。そして、「自分を清くします」の「清くします」という言葉(ハグニゾー)は、先ほどの「清い」という言葉の動詞の形です。ですから、ここでは、父なる神さまと一つであられる栄光のキリストの聖さが、私たち神の子どもが、 自分を清くします。 というときの聖さの規準であり、目標であることが示されています。それは、2節に、 しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。 と記されていることに照して見れば、ごく自然なことです。 この場合、私たちが「キリストに似た者」となるということが、特に、本来、礼拝などの祭儀における聖さを表わす言葉を用いて、 キリストが清くあられるように、自分を清くします。 と言われていることにも意味があると考えられます。それは、私たちがこのような意味で自らを聖くするのは、神の子どもとして、父なる神さまを礼拝することを中心とした、父なる神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きるものであるからです。いずれにしましても、この、 キリストが清くあられるように、自分を清くします。 という言葉は、基本的には、私たちが神さまとの関係において聖くあることを指しています。これが3節に記されていることをそれ自体において見たときに考えられることです。 それとともに、これには、文脈の中で見たときに考えられることがあります。これに続く4節〜6節には、 罪を犯している者はみな、不法を行なっているのです。罪とは律法に逆らうことなのです。キリストが現われたのは罪を取り除くためであったことを、あなたがたは知っています。キリストには何の罪もありません。だれでもキリストのうちにとどまる者は、罪のうちを歩みません。罪のうちを歩む者はだれも、キリストを見てもいないし、知ってもいないのです。 と記されています。 このことから考えられることは、私たちが、 キリストが清くあられるように、自分を清くします。 と言われていることには、罪から離れるということが含まれているのです。もちろん、それは、5節で、 キリストが現われたのは罪を取り除くためであった と言われていることを土台としています。言い換えますと、私たちが罪から離れるのは、私たちがイエス・キリストの十字架の死によって罪をすべて贖っていただき、御霊のお働きによって罪の力から解放されているからです。ローマ人への手紙6章1節〜4節には、 それでは、どういうことになりますか。恵みが増し加わるために、私たちは罪の中にとどまるべきでしょうか。絶対にそんなことはありません。罪に対して死んだ私たちが、どうして、なおもその中に生きていられるでしょう。それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。 と記されています。また、12節〜14節には、 ですから、あなたがたの死ぬべきからだを罪の支配にゆだねて、その情欲に従ってはいけません。また、あなたがたの手足を不義の器として罪にささげてはいけません。むしろ、死者の中から生かされた者として、あなたがた自身とその手足を義の器として神にささげなさい。というのは、罪はあなたがたを支配することがないからです。なぜなら、あなたがたは律法の下にはなく、恵みの下にあるからです。 と記されています。 ヨハネの手紙第一に戻りますが、このように、私たちが、 キリストが清くあられるように、自分を清くします。 と言われていることには、罪から離れるということが含まれています。これは一見すると道徳的なことのように見えます。確かに、これにはそのような面があります。しかし、これは、それ以上に神さまとの関係にかかわることです。というのは、私たちは自らの罪によって聖なる神さまの御前に堕落し、神さまとの愛にあるいのちの交わりを失い、死と滅びへの道を歩むものとなってしまったからです。 私たちは、イエス・キリストの十字架の死によって罪をまったく贖っていただき、イエス・キリストの死者の中からのよみがえりにあずかって充満な栄光に満ちたいのちによって生きるものとして、新しく生れています。それは、御子イエス・キリストの贖いに基づいてお働きになる御霊によって、父なる神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きるものとなったということを意味しています。それこそが、 愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。 と言われているときの神の子どもの特権の中心です。そして、この神の子どもとしての特権の中心である父なる神さまとの愛にあるいのちの交わりは一時的なものではなく、 後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。 と言われていますように、これは、さらに深められていって、世の終わりの栄光のキリストの再臨のときには、充満な栄光に満ちた愛にあるいのちの交わりとして完成します。 そうであるからこそ、 キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします。 と言われているのです。 先ほどお話ししましたように、これは、常に変わることがない事実を述べているのであって、戒めや命令を記しているのではありません。それくらい、世の終りの栄光のキリストの再臨の日に、私たちが栄光のキリストの御姿に「似た者」となること、すなわち、「不死」あるいは「不滅」なものとなることを待ち望んでいる者たちにとっては、 キリストが清くあられるように、自分を清くします。 ということは、自然なことなのです。 神の子どもとしての歩みを続けている私たちに与えられているすべての戒めの根底には、このイエス・キリストにある事実があります。言い換えますと、私たちに与えられている主のすべての戒めの根底には、私たちが今すでに、父なる神さまの愛によって、御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりにあずかって、罪を贖われ、新しく生れて神の子どもとされているという事実と、終りの日の栄光のキリストの再臨の日には、これがまったきものとなって、私たちがイエス・キリストの栄光のかたちと同じ姿になるということがある、ということです。そして、私たちに与えられている主のすべての戒めは、私たちが主イエス・キリストの恵みによって、父なる神さまとの愛にあるいのちの交わりのうちに留まり続け、それをさらに豊かなものとしていくために与えられているのです。 これは、今お話ししているエペソ人への手紙6章24節で、 私たちの主イエス・キリストを愛するすべての人に、恵みと不死(不滅)がありますように。 と言われていることにも当てはめることができます。ここで言われている「主イエス・キリストを愛するすべての人」は、すでに、父なる神さまの愛と御子イエス・キリストの恵みにあずかって神の子どもとしての身分を受けている人々です。そして、父なる神さまと御子イエス・キリストとの愛にあるいのちの交わりに生きている人々です。そのような神の子どもたちが、自分たちのためにいのちを捨ててくださった「主イエス・キリストを愛する」ことは、最も自然なことなのです。 |
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