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説教日:2004年12月12日 |
繰り返しの引用になりますが、そのような「不死」あるいは「不滅」が完全な形で実現するようになる終りの日のことを記している黙示録21章1節〜4節には、 また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」 と記されています。 すでにお話ししましたように、3節に記されている、 見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。 という「御座から出る大きな声」は、神である主がご自身の契約において約束してくださった祝福の中心にあることが実現していることを告げています。その祝福の中心は、神さまがご自身の民である私たちの間にご臨在してくださり、私たちは神さまの民となり、そのことにかかわる特権にあずかるようになるということです。 このことは、「聖なる都、新しいエルサレム」のことが16節で、 都は四角で、その長さと幅は同じである。彼がそのさおで都を測ると、一万二千スタディオンあった。長さも幅も高さも同じである。 と言われていることにも示されています。新改訳欄外注には「1スタティオンは185メートル」と記されています。ですから、「一万二千スタディオン」は222万メートル、すなわち2千220キロメートルということになります。これは面積にして492万8千400平方キロメートルになります。日本の総面積が37万7千847平方キロメートルだそうですから、とてつもなく広いものであることが分かります。そればかりでなく、この「都」には高さもあって、それが「一万二千スタディオン」すなわち2千220キロメートルであると言われています。そのような高さの都市というものはあり得ません。もちろん、この「一万二千スタディオン」は比喩的な数字で、12節〜14節に繰り返し出てくるイスラエルの12部族や12人の使徒たちと関連する「12」という完全数と「千」いう多いことを表す完全数を掛けたものです。これによって、完全で主の契約の民のすべてが住まうのに十分な寸法であることを示しています。 そして、 都は四角で・・・長さも幅も高さも同じである。 ということは、それが、主の神殿の至聖所であるということを示しています。主の神殿の至聖所は主の栄光のご臨在のあるところです。「聖なる都、新しいエルサレム」は何よりもまず、主の充満な栄光のご臨在のある所、そこに栄光の主がご臨在される所であるのです。 2節には、 聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来る と記されています。この「新しいエルサレム」は「夫のために飾られた花嫁のように整えられて」いると言われています。また、9節ではこの「新しいエルサレム」のことが「小羊の妻である花嫁」と呼ばれています。 このことから、「新しいエルサレム」が何であるかを理解することができます。というのは、聖書の中では、夫と妻の関係は、一貫して、主とその民の契約関係にたとえられているからです。夫と妻の関係の始まりは創世記2章18節〜25節に記されています。その結論部分に当たる24節には、 それゆえ、男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。 と記されています。これを受けて、エペソ人への手紙5章31節、32節には、 「それゆえ、人はその父と母を離れ、妻と結ばれ、ふたりは一心同体となる。」この奥義は偉大です。私は、キリストと教会とをさして言っているのです。 と記されています。 このことから分かりますように、黙示録21章2節に記されている「夫のために飾られた花嫁のように整えられて」いる「新しいエルサレム」は、新しい契約の共同体であり、キリストのからだである教会のことです。 そうしますと、2節で、 私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。 と言われている「新しいエルサレム」は、人のいない空っぽの町ではありません。すべての主の契約の民によって構成されているキリストのからだである教会です。そして、3節に、 そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。」 と記されているように、そこには充満な栄光に満ちた神である主のご臨在があり、主の契約の民はすべてその御前にあって、神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きているのです。 先ほど、16節に、 都は四角で、その長さと幅は同じである。彼がそのさおで都を測ると、一万二千スタディオンあった。長さも幅も高さも同じである。 と記されていることから、「新しいエルサレム」は何よりもまず栄光の主がご臨在される至聖所であるということをお話ししました。この栄光の主がご臨在される至聖所の本体である「新しいエルサレム」には、すべての主の契約の民が住んでいて、主との愛にあるいのちの交わりのうちに生きているのです。 このことは、2節に、 私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。 と記されていて、「新しいエルサレム」が「神のみもとを出て、天から下って来る」と言われているので分かりにくいかもしれません。「神のみもとを出て、天から下って来る」のであれば、「神のみもと」を離れてしまうのではないかという気がします。しかし、これは、比喩的な表現であって、この「新しいエルサレム」の起源が天にあり「神のみもと」にあるということを意味するものです。 このことを理解するうえで助けとなることが、古い契約の下にあった聖徒たちのことを記しているヘブル人への手紙11章13節〜16節に記されています。そこには、 これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています。もし、出て来た故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。 と記されています。「新しいエルサレム」は主の契約の民が追い求めていた「天の故郷」であり、神さまが備えてくださった天の「都」であるのです。 黙示録21章1節には、 また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。 と記されていますが、「新しいエルサレム」は「新しい天と新しい地」の中心にある都です。そして、「新しい天と新しい地」ということばは「新しい天と新しい地」が神さまの新しい創造の御業によって造られたということを示しています。それは、終りの日に再臨される栄光のキリストによって再創造されるということです。 これは、それまでの古い天と地がご破算になってしまうのではではありません。再臨される栄光のキリストは、まず、古い天と地に巣くっている暗やみの力と人間の罪とその結果生み出されたものが完全に清算されます。これが、19章と20章に記されている最終的なさばきによってなされます。そして、栄光のキリストは、そのように吹ききよめられた天と地を、ご自身の充満な栄光のご臨在にふさわしいものとして新しく造り変えられるのです。 ヨハネの福音書1章1節〜3節に、 初めに、ことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方は、初めに神とともにおられた。すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもない。 と記されていますように、永遠の「ことば」であられる御子は、「初めに」天地創造の御業を遂行されました。そして、1章14節に、 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。 と記されていますように、永遠の「ことば」であられる御子は、ご自身の民を罪と死と暗やみの力の下から贖い出してくださるために、人の性質を取って来てくださいました。そして、十字架の死をもってご自身の民の罪を贖ってくださり、栄光を受けて死者の中からよみがえられたことによって、ご自身の民の永遠のいのちの源となられました。栄光のキリストは、ご自身が成し遂げられた贖いの御業に基づいて、罪を贖われたご自身の民が住まうべき「新しい天と新しい地」を再創造してくださるのです。その「新しい天と新しい地」の中心に 「新しいエルサレム」があります。 黙示録21章2節では、この「新しいエルサレム」が、 夫のために飾られた花嫁のように整えられて いたと言われています。この「飾られた」ということも「整えられて」ということも受動態ですから、「花嫁」が自分でしたことではありません。では、そのように小羊の「花嫁」である教会を飾ってくださり、整えてくださるのは誰でしょうか。それは、この「新しいエルサレム」が、 夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来る と言われていることから推測できます。「新しいエルサレム」は天において、すなわち、神さまの御許において、「夫のために飾られた花嫁のように整えられ」たのです。具体的には、父なる神さまが御子イエス・キリストによってなしてくださることです。それは、夫に対する戒めを記しているエペソ人への手紙5章25節〜27節に、 夫たちよ。キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられたように、あなたがたも、自分の妻を愛しなさい。キリストがそうされたのは、みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるためです。 と記されていることから分かります。 言うまでもなく、ここで、 キリストが教会を愛し、教会のためにご自身をささげられた と言われていることは、イエス・キリストがご自身の民を罪と死と暗やみの力から贖い出してくださるために十字架にかかって死んでくださったことを指しています。 少し話がそれますが、ヨハネの手紙第一・3章16節に、 キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。 と記されていますように、私たちすべてはイエス・キリストが私たちのために十字架にかかっていのちを捨ててくださったことによって示された愛をもって互いに愛し合うように召されています。そのことは、特に、夫と妻の関係における夫に求められていることであるのです。それは、同じエペソ人への手紙5章22節、23節に、 妻たちよ。あなたがたは、主に従うように、自分の夫に従いなさい。なぜなら、キリストは教会のかしらであって、ご自身がそのからだの救い主であられるように、夫は妻のかしらであるからです。 と記されているように「夫は妻のかしらであるからです」。「妻のかしらである」「夫は」は妻のために自らをささげるまでに妻を愛さなければならないのです。それが、「かしら」である者の本来のあり方です。 ちなみに、ギリシャ語の原文では22節で、 妻たちよ。あなたがたは、主に従うように、自分の夫に従いなさい。 と言われているときの「従いなさい」ということばはありません。22節を直訳しますと、日本語としてはまったくおかしいのですが、 妻たちよ。主に、のように、自分の夫に。 となります。それが従うことであることは、そのすぐ前の21節において、 キリストを恐れ尊んで、互いに従いなさい。 と戒められていることによっています。これも先ほどの夫の場合と同じです。私たちすべてが契約の主である「キリストを恐れ尊んで」互いに従うように召されています。その中で特に、夫と妻の関係において妻はかしらである夫に従うように召されています。 いずれにしましても、26節、27節では、教会のかしらであられるイエス・キリストが教会を愛してご自身をささげられたことの目的は、 みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるため であったと言われています。イエス・キリストは、すでに教会を愛してご自身をささげられました。そして、今、御霊によって、 みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるため のお働きを進めてくださっています。ですから私たちは、そのようなイエス・キリストのお働きにあずかっている者として、御霊による栄光のキリストのご臨在の御前に立って、父なる神さまを礼拝しています。 これはすでに私たちの現実になっているのですが、これにはなお完全なものとなっていないという面があります。それは、パウロがコリント人への手紙第二・5章6節で、 ただし、私たちが肉体にいる間は、主から離れているということも知っています。 と告白していることです。 ですから、黙示録21章2節において、 私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。 と言われているのは、イエス・キリストが教会を愛してご自身をささげられたことの目的である、 みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるため ということが完全な形で実現したことを示しています。 そのようにして、終りの日に、栄光のキリストによって、 新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられ るようになることは、キリストのからだである教会が「不死」あるいは「不滅」な状態にあるものとなることを意味しています。 そして、これも、毎回の繰り返しになりますが、エペソ人への手紙5章26節、27節に記されている、イエス・キリストが教会を愛してご自身をささげられたことの目的である、 みことばにより、水の洗いをもって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、ご自身で、しみや、しわや、そのようなものの何一つない、聖く傷のないものとなった栄光の教会を、ご自分の前に立たせるため ということが完全な形で実現するということは、エペソ人への手紙1章3節〜5節に、 私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。 と記されている、父なる神さまの永遠の聖定において定めてくださった祝福が実現するということです。 |
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