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説教日:2004年12月5日 |
このこととのかかわりで言いますと、イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりは、確かに今から2千年前に起こった歴史的な出来事です。その意味ではこれは過去の出来事です。けれども、この出来事は、世の終りに起こるべき出来事の特質をもっています。 どういうことかと言いますと、イエス・キリストはご自身の民の身代わりとなって十字架にかかり、ご自身の民の罪に対するさばきをお受けになりました。これによって、私たちイエス・キリストを信じている者の罪は、すべて完全に贖われています。それで、私たちはこの後、永遠に罪のさばきに遭うことはありません。その意味で、イエス・キリストが十字架の上でお受けになったさばきは、私たちの罪に対する最終的なさばきで、世の終わりに執行されるさばきに当たるものです。 形の上では、イエス・キリストはローマの兵士たちによって十字架につけられて処刑されたのですが、その時に、父なる神さまが私たちの罪に対する聖なる御怒りを御子イエス・キリストの上に注がれて、私たちの罪に対するさばきを執行されました。そのことは、イエス・キリストの十字架のことを記しているマタイの福音書27章45節、46節に、 さて、十二時から、全地が暗くなって、三時まで続いた。三時ごろ、イエスは大声で、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」と叫ばれた。これは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」という意味である。 と記していることに表されています。それはまた、預言者イザヤが、その書の53章4節〜6節において、 まことに、彼は私たちの病を負い、 私たちの痛みをになった。 だが、私たちは思った。 彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。 しかし、彼は、 私たちのそむきの罪のために刺し通され、 私たちの咎のために砕かれた。 彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、 彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。 私たちはみな、羊のようにさまよい、 おのおの、自分かってな道に向かって行った。 しかし、主は、私たちのすべての咎を 彼に負わせた。 と預言的に述べていたところでもあります。 このようにイエス・キリストが十字架の上で私たちの罪を贖うためにお受けになったさばきは、世の終りに人類の罪が最終的にさばかれる時のさばきに当たるものでした。神さまは聖なる方であり、絶対的に義なる方です。神さまの御前には一点の罪も存在することはできません。すべての罪は神さまの御前において、神さまの義の尺度にしたがって完全に清算されます。私たちの罪は、それに相当するさばきを執行することによってのみ清算されます。ところが、私たちの罪はすべて、無限、永遠、不変の栄光の神さまに対する罪であり、その重さも無限です。ですから、どのような被造物も、私たちの罪を贖うことはできません。ただ、ご自身が無限、永遠、不変の栄光の主であられる御子イエス・キリストだけが、私たちの罪を贖うことができますし、実際に、私たちの罪をまったく贖ってくださったのです。 そのようにして、父なる神さまは、十字架にかかられた御子イエス・キリストに対して、私たちの罪へのさばきを執行されました。そして、ご自身の義の尺度にしたがって私たちの罪を最終的に、また、完全に清算されました。けれども、もし人が、父なる神さまが備えてくださった御子イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いを無用なものとして受け取らないとすれば、その人のための罪の贖いはどこにもなくなってしまいます。無限、永遠、不変の栄光の主であられるイエス・キリストのほかに、人の罪を贖うことができる存在はないからです。その場合には、その人自身が罪を清算しなければならなくなります。それは、世の終りに栄光のキリストが再臨されるときに執行されるさばきを受けて清算するほかはないということです。 ですから、すべての人は自らの罪に対する神さまの聖なる御怒りによるさばきを受けることになります。ただ、それには二つの道があるのです。一つは、父なる神さまが備えてくださった贖い主が成し遂げてくださった贖いにあずかって罪を贖っていただく道です。その場合にも、さばきは執行されています。それは、御子イエス・キリストが私たちに代わって神さまのさばきを受けてくださっているからです。もう一つは、自らが神さまのさばきに服して、罪を清算する道です。けれども、その場合には、その人の罪は永遠に清算できないままになってしまいます。 いずれにしましても、御子イエス・キリストの十字架の苦しみは、単なる肉体的な苦しみではありませんでした。そこには、父なる神さまが私たちの罪に対する聖なる御怒りをすべて御子イエス・キリストに注がれたための苦しみがありました。御子イエス・キリストの死は、単なる肉体的な死ではなく、父なる神さまの聖なる御怒りのもたらす霊的な死でもありました。そのようなさばきは、世の終わりの日において執行されるべきさばきであり、それによってもたらされた死は、いわば地獄の死とも言うべき死でした。そのようにして、イエス・キリストの十字架においては、世の終りに起こるべき出来事が起こっていたのです。 そのことは、イエス・キリストの十字架の死に当てはまるだけではありません。イエス・キリストは、十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従いとおされて、そのことに対する報いとして充満な栄光をお受けになって死者の中からよみがえられました。このイエス・キリストの復活も、世の終りに起こるべき出来事であるのです。ヨハネの福音書6章38節〜40節には、 わたしが天から下って来たのは、自分のこころを行なうためではなく、わたしを遣わした方のみこころを行なうためです。わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。 というイエス・キリストのみことばが記されています。イエス・キリストは父なる神さまのみこころを行うために人の性質を取って来てくださいました。その父なる神さまのみこころは、イエス・キリストが、終りの日に、ご自身の民をすべて「永遠のいのち」に生きるものとしてよみがえらせてくださることにあります。 イエス・キリストは、そのように、私たちを「永遠のいのち」をもつ者として、終りの日によみがえらせてくださるために、十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従いとおされて、充満な栄光に満ちたいのち、すなわち復活のいのちを獲得してくださったのです。 ですから、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことは、終りの日に起こることに属しています。そして、私たちはイエス・キリストの死者の中からのよみがえりにあずかって、充満な栄光に満ちたいのちによみがえることによって、「不死」、「不滅」なものになります。その意味で、聖書においては、「不死」、「不滅」というときには、その強調点は、終りの日に完成する状態の方にあるのです。 このように、「不死」、「不滅」の状態は、イエス・キリストの復活のいのちにあずかって、「永遠のいのち」をもつものとして新しく生れることによって私たちの現実となります。それは、私たちがイエス・キリストの復活のいのちにあずかって充満な栄光に満ちたものとなるということを意味しています。けれども、先週お話ししましたように、これはただ私たちが充満な栄光に満ちたものとなるということで終るものではありません。私たちが充満な栄光に満ちたものとなることは、それによって私たちが栄光の主のご臨在の御前に立ち、被造物として考えられる限界の中で最も主のご臨在に近づいて、主との愛にあるいのちの交わりに生きるようになるためのことです。 聖書においては、「永遠のいのち」とは、このような「不死」、「不滅」の状態にあって、主との愛にあるいのちの交わりに生きることにあります。「永遠のいのち」は、ただ単にいつまでも生き続けることではありません。 ヨハネの福音書17章には、十字架につけられる前の日の夜にイエス・キリストが、弟子たちを初めとして、世の終わりまで存続するご自身の民のために祈られた祈りが記されています。その最初の部分が1節〜3節に、 父よ。時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現わすために、子の栄光を現わしてください。それは子が、あなたからいただいたすべての者に、永遠のいのちを与えるため、あなたは、すべての人を支配する権威を子にお与えになったからです。その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。 と記されています。 この祈りは一般にイエス・キリストによる「大祭司の祈り」として知られています。その祈りの最初は、もちろん、「父よ。」という呼びかけです。これは、これに続く、 時が来ました。 ということばに示されていますように、いよいよ次の日には十字架に付けられることをわきまえて祈る祈りのための呼びかけです。 時が来ました。 ということばの「時」には定冠詞がついていて、ご自身が十字架にかかって死ぬべき「時」を指しています。 このことを考えますと、この「父よ。」という呼びかけが、余りに単純で、自然な呼びかけであることに驚かされます。私たちが危機的な状況に直面して祈るときに、このように自然な呼びかけができるでしょうか。この「父よ。」という単純で自然な呼びかけは、イエス・キリストが常日頃から父なる神さまと親しく接してこられたことの現れであると言うほかはありません。 けれども、この祈りにおいては、ご自身のための祈りは祈られていません。一見すると、 あなたの子があなたの栄光を現わすために、子の栄光を現わしてください。 という祈りは、ご自分の栄光が現されることを求めているという意味で、ご自身のための祈りであるかのように見えます。けれども、これは、 あなたの子があなたの栄光を現わすために ということで、父なる神さまの栄光が現れることを目的としています。 この場合、「あなたの子」というように「あなたの」ということばがついているのは、 子の栄光を現わしてください。 の方です。新改訳で、 あなたの子があなたの栄光を現わすために と訳されている方には、写本によって「あなたの」ということばがついているものとついていないものがあります。もともとここにあったのかどうかを判断するのは難しいところですが、本文批評の上では、もともとここにはなかった可能性の方が大きいようです。これに沿って訳しますと、この祈りは、 子があなたの栄光を現わすために、あなたの子の栄光を現わしてください。 となります。 原文のギリシャ語では、 あなたの子の栄光を現わしてください。 ということばが先に出てきます。このことばは少し意外な気がします。というのは、イエス・キリストは「父よ。」という自然で親しい呼びかけで祈りを始められたのに対してご自身のことを「あなたの子」というように、少し距離を置いた感じで呼んでおられるからです。けれども、イエス・キリストがご自身のことをこのような特別な呼び方で呼んでおられるのは3節までで、4節以下では、ご自身のことを「わたし」と呼んでおられます。ですから、この「あなたの子」という呼び方には特別な意味が込められていると考えられます。 この「あなたの子」ということばでは、ご自身が父なる神さまと一つであられることが意識されています。ですから、イエス・キリストは、父なる神さまと一つであられることの栄光が現されることを祈り求めておられるのです。 さらに、この「あなたの子」ということばは、ご自身が父なる神さまの御子であられることを表しています。(「子」は単数形で、定冠詞がついています。)その意味で、このことばは、1章14節に、 ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。 と記されているヨハネのあかしを思い出させます。イエス・キリストは永遠に父なる神さまの御許におられて、父なる神さまと一つであられる「ひとり子」です。このことを、イエス・キリストが父なる神さまに向かって、ことばで表されるとしたら、ご自身のことを「あなたの子」とお呼びになって表されることでしょう。イエス・キリストは、そのような方として、父なる神さまの御許から来てくださいました。 新改訳が、 この方は恵みとまことに満ちておられた。 と訳している部分は、 恵みとまことに満ちた ということばだけです。新改訳はこれを直ぐ前の「ひとり子」を説明するものとしています。しかし、この、 私たちはこの方の栄光を見た。 ということばから始まる14節後半の主題は「この方の栄光」ですから、 恵みとまことに満ちた ということばは「この方の栄光」を説明するものであると考えられます。そうしますと、14節後半は、 私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光で、恵みとまことに満ちていた。 となります。 17章1節に記されている、 子があなたの栄光を現わすために、あなたの子の栄光を現わしてください。 というイエス・キリストの祈りは、1章14節で、 父のみもとから来られたひとり子としての栄光で、恵みとまことに満ちていた。 とあかしされている「恵みとまことに満ちた」栄光が現されることを祈り求めるものです。イエス・キリストの「恵みとまことに満ちた」栄光は、イエス・キリストの十字架において最もはっきりと現されます。そして、その栄光は、父なる神さまが御子イエス・キリストをとおして現してくださるのです。 そのことは、これに続く2節に、 それは子が、あなたからいただいたすべての者に、永遠のいのちを与えるため、あなたは、すべての人を支配する権威を子にお与えになったからです。 と記されている祈りのことばにおいてよりはっきりとしてきます。このイエス・キリストの祈りのことばは、1節に記されている、 子があなたの栄光を現わすために、あなたの子の栄光を現わしてください。 という祈りのことばと並行しています。つまり、同じことを別の角度から述べたものです。具体的に言いますと、 あなたの子の栄光を現わしてください。 ということと、 あなたは、すべての人を支配する権威を子にお与えになった ということが並行しており、 子があなたの栄光を現わすために ということと、 子が、あなたからいただいたすべての者に、永遠のいのちを与えるため ということが並行しています。 ここで、 あなたの子の栄光を現わしてください。 ということと、 あなたは、すべての人を支配する権威を子にお与えになった ということが並行しているということから、御子イエス・キリストの栄光が現されることは、御子イエス・キリストが父なる神さまから与えられた「すべての人を支配する権威」を発揮することにあることが分かります。このようにして父なる神さまが現してくださるイエス・キリストの栄光は、真の意味で、光り輝く主の栄光です。言うまでもなく、それは、この世の栄華のように光り輝くということではありません。 ここでは、御子イエス・キリストが父なる神さまから与えられた「すべての人を支配する権威」を発揮することの目的は、 子が、あなたからいただいたすべての者に、永遠のいのちを与えるため であると言われています。そして、それが、 子があなたの栄光を現わすため と並行しているのです。ですから、御子イエス・キリストは、父なる神さまから与えられた「すべての者に、永遠のいのちを与える」ことによって、父なる神さまの栄光を現されるのです。 これは、先ほど引用しました、6章38節〜40節にに記されている、 わたしが天から下って来たのは、自分のこころを行なうためではなく、わたしを遣わした方のみこころを行なうためです。わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。 というイエス・キリストのみことばに示されていることが実現することによって、父なる神さまの栄光が現されるということでもあります。 イエス・キリストは、まさに、このようにして父なる神さまの栄光を現すために十字架におつきになり、死者の中からよみがえってくださったのです。イエス・キリストが現される父なる神さまの栄光は、イエス・キリストの十字架において最もはっきりとまた豊かに現されています。ですから、ここでイエス・キリストが、 子があなたの栄光を現わすために、あなたの子の栄光を現わしてください。 と祈り求めておられる栄光は、私たちを永遠のいのちに生かしてくださることにおいて現れる栄光です。これこそが、 父のみもとから来られたひとり子としての栄光で、恵みとまことに満ちていた。 とあかしされている「恵みとまことに満ちた」栄光です。それは、私たちを永遠のいのちに生かしてくださるために、十字架に付けられて死の苦しみをも味わわれたほどの愛と恵みに満ちた栄光です。これこそが、真の意味で光り輝く主の栄光です。この世の権力者たちが追い求めて、獲得したと考えた栄光の輝きは、見せかけのものであり、一時的なものでした。そのすべては色あせて消え去っていきました。 このようにしてご自身の民である私たちに与えられる「永遠のいのち」について、イエス・キリストは、17章3節において、 その永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストとを知ることです。 とあかししておられます。ここでは、父なる神さまと御子イエス・キリストを知ることが「永遠のいのち」であると言われています。私たちにとって、父なる神さまを知ることと御子イエス・キリストを知ることは一つのことです。 同じく、イエス・キリストが十字架に付けられる前の日の夜のことを記しているヨハネの福音書14章1節〜7節を見てみましょう。そこには、 あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。わたしの行く道はあなたがたも知っています。」トマスはイエスに言った。「主よ。どこへいらっしゃるのか、私たちにはわかりません。どうして、その道が私たちにわかりましょう。」イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。あなたがたは、もしわたしを知っていたなら、父をも知っていたはずです。しかし、今や、あなたがたは父を知っており、また、すでに父を見たのです。」 と記されています。 イエス・キリストは弟子のトマスの問いかけに答えて、 わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。あなたがたは、もしわたしを知っていたなら、父をも知っていたはずです。しかし、今や、あなたがたは父を知っており、また、すでに父を見たのです。 と言われました。このイエス・キリストの教えに示されていますように、私たちは御子イエス・キリストを知ることによって、父なる神さまを知るのです。それ以外に父なる神さまを知る道はありません。また、御子イエス・キリストを知っているのに父なる神さまを知らないということもあり得ません。 このイエス・キリストの教えを引き出したのはトマスの問いかけです。それは、その前に記されているイエス・キリストの教えを受けたものです。 そのイエス・キリストの教えにおいては「わたしの父の家」すなわち父なる神さまがご臨在される所のことが示されています。そして、 わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。 ということばから分かりますように、私たちもそこに住まうものとしていただくようになるのです。これは、すでに、繰り返しお話ししました、主の契約の祝福が実現することに他なりません。 このことから分かりますように、御子イエス・キリストをとおして父なる神さまを知ることは、私たちが父なる神さまのご臨在の御許に住まうようになることと結びついています。言い換えますと、御子イエス・キリストをとおして父なる神さまを知ることは、御子イエス・キリストにある父なる神さまのご臨在の御許において、父なる神さまとの愛にあるいのちの交わりのうちに生きることの中で、父なる神さまを知ることを意味しているのです。これは、これまでお話ししてきた主の契約の祝福が私たちの間に実現することを意味しています。主の契約の祝福は、主が私たちの間にご臨在してくださり、私たちをご自身との愛にあるいのちの交わりに生かしてくださることと、主が私たちの神となってくださり、私たちが主の民となることにあります。そして、この祝福は、私たちが父なる神さまの子としての身分を受け、子としての身分において父なる神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きるようになることへと深められています。 このように、私たちはイエス・キリストの贖いの恵みにによって、父なる神さまの子としての身分を受け、子としての身分において父なる神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きるようになりました。そして、そのいのちの交わりの中で父なる神さまを親しく知るようになっています。このことは、エペソ人への手紙1章3節〜5節に、 私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。 と記されている、永遠の聖定において定められた父なる神さまのみこころに基づく祝福に他なりません。 |
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