説教日:2004年11月28日
聖書箇所:エペソ人への手紙6章21節〜24節
説教題:主を愛する人々に恵みが(6)


 エペソ人への手紙は6章23節、24節に記されている、

どうか、父なる神と主イエス・キリストから、平安と信仰に伴う愛とが兄弟たちの上にありますように。私たちの主イエス・キリストを朽ちぬ愛をもって愛するすべての人の上に、恵みがありますように。

という祝福のことばをもって終っています。
 これまで、24節に記されている祝福のことばの中で新改訳が「朽ちぬ愛をもって」と訳している部分の問題についてお話ししました。この部分は、直訳すれば「不死不滅にあって」となります。そして、これは、24節の最初に出てくる祝福の内容である「恵み」とつながっている「不死」あるいは「不滅」という祝福を示していると考えられます。この場合、「不死」あるいは「不滅」は、神さまが与えてくださる祝福を示し、それが最初に出てくる「恵み」とつながっていて、相互に関連していることを示しているということになります。このような理解からこの24節を訳しますと、

恵みと不死不滅が、私たちの主イエス・キリストを愛するすべての人とともにありますように。

となります。
 今日は、この祝福としての「不死」、「不滅」について、これまでお話ししたことを踏まえつつ、その補足となることをお話ししたいと思います。
 復習になりますが、「不死」、「不滅」は、本来、神さまの特質です。神さまは他の何者にも依存せず、ご自身で「不死」、「不滅」であられる方です。これに対しまして、造られたものは、ただ神さまに支えられて、また被造物としての限界にあって、「不死」、「不滅」なもの、朽ちないものであることができます。
 そして、被造物である人間において不死、不滅なもの、朽ちないものが歴史の現実になったのは、十字架にかかってご自身の民の罪の贖いを成し遂げられた後、充満な栄光をお受けになって死者の中からよみがえられたイエス・キリストにおいてです。そして、私たちはイエス・キリストの十字架の死にあずかって罪をまったく贖われており、イエス・キリストの死者の中からのよみがえりにあずかって復活のいのちによって新しく生かされているので、不死なもの、不滅なもの、朽ちないものとしての特質をもつようになっています。ただし、新約聖書が不死、不滅なもの、朽ちないものと言うときには、その力点、強調点は、世の終りに栄光のキリストが再臨されて、ご自身の民をよみがえらせ、私たちをご自身の充満な栄光にまったくあずからせてくださるようになる時の状態にあります。
 不死なもの、不滅なもの、朽ちないものというのは、死なない、滅びない、朽ちないというように、ことばとしては「・・・ではない」という消極的な言い方で表されています。けれども、これは神である主が与えてくださった祝福としては、きわめて豊かな祝福であるのです。それは、私たちが世の終りの栄光のキリストの再臨の日に、イエス・キリストの充満な栄光にあずかってよみがえること、充満な栄光に満ちたいのちをもつものに造り変えられることを意味しています。


 これまでのお話の中で十分強調できていなかったかもしれませんが、私たちが不死なもの、不滅なもの、朽ちないもの、栄光あるものとなるということは、それ自体が目的ではありません。それは、私たちが、主の栄光のご臨在の御前にあって、被造物に許される最も近くに近づいて、主との愛にあるいのちの交わりを享受するようになるためのことです。この主との愛にあるいのちの交わりが充満なものとなるということを離れて、ただ単に私たちが不死なもの、不滅なもの、朽ちないものになるということは意味がありませんし、そのようなことはあり得ません。このことを示すために、これまで契約のことをお話ししてきたわけです。
 このように、私たちが御子イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いにあずかって、不死なもの、不滅なもの、朽ちないものとなることは、主の栄光のご臨在の御前において、被造物に許される最も近くに近づいて、主との愛にあるいのちの交わりに生きるようになるためのことです。このことは、私たちが不死なもの、不滅なもの、朽ちないものとなることが、主の契約を通して示されているということと深くかかわっています。
 先週は、レビ記26章11節、12節に記されている、

わたしはあなたがたの間にわたしの住まいを建てよう。わたしはあなたがたを忌みきらわない。わたしはあなたがたの間を歩もう。わたしはあなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる。

という主のみことばに基づいて、主の契約の祝福の中心にあることをお話ししました。主の契約は、主がご自身の民の間にご臨在してくださり、主の民が主との愛にあるいのちの交わりに生きるようになることを約束し、保証してくださっているものです。そして、その主との愛にあるいのちの交わりは、主とその民の間の契約関係の上に成り立っています。それで、主の契約においては、主が、

わたしはあなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる

と約束し、保証してくださっています。
 さらに、主の契約は私たちが主との愛にあるいのちの交わりに生きることを保証してくださるとともに、その交わりが充満な栄光に満ちたものとして深められ、高められることを約束してくださるものです。
 先週は、主の契約は父なる神さまの永遠の聖定において定められたみこころを歴史の中で実現するために与えられているということをお話ししました。父なる神さまの永遠の聖定は、造られたすべてのものの、一つ一つのあり方のあらゆることに関する永遠に変わることがないみこころです。それは無限、永遠、不変の方である神さまご自身のうちにあるもので、私たちがのぞき見ることもできないものです。私たちは、主がそれを啓示してくださったかぎりにおいて知ることができるだけです。そして、先週引用しましたエペソ人への手紙1章3節〜5節には、永遠の聖定において定められている私たちにかかわる父なる神さまのみこころが示されています。そこには、

私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。

と記されています。
 ここには、父なる神さまが、永遠の聖定において、私たちがイエス・キリストにあって「御前で聖く、傷のない者」となり「ご自分の子」となるように定めてくださったということが示されています。それは、私たちを「ご自分の子」としてご自身の御許に近づけてくださるということです。主の契約は歴史の中でこのことを実現してくださるために与えられています。それで、主の契約に約束され、保証されている主のとの愛にあるいのちの交わりは、最後には充満な栄光に満ちたものとして深められ、高められるようになるのです。それは、私たちが父なる神さまの子としての身分を与えられたものとして、ご臨在の御許において、愛にあるいのちの交わりを享受することの完成を意味しています。
 これらのことから分かりますように、主の契約には現在の祝福を保証しつつ、将来の完成に向かうという面があります。言い換えますと、主の契約において約束され、保証されている祝福には現在にかかわる面と将来にかかわる面という二つの面があるのです。先ほど言いましたように、主の契約の祝福は、主が私たちの神となってくださり、私たちをご自身の民としてくださることと、主がご自身の民である私たちの間にご臨在してくださり、私たちとともにいてくださるということを約束し、保証してくださっているものです。そして、このことによって、私たちは主との愛にあるいのちの交わりのうちに生きることができるようになります。このような主の祝福に、現在のこととと将来のことという二つの面があるということです。
 そして、このことは一般にわざの契約と呼ばれている創造の契約と、一般に恵みの契約と呼ばれている救済の契約あるいは贖いの契約のどちらにも当てはまります。それで、そのことを具体的に見てみたいと思います。
 まず、創造の契約のことですが、創造の契約は、この壮大な宇宙をも無限に超越しておられる神さまが、御子にあって無限に身を低くされて、神のかたちに造られた人の間にご臨在してくださり、人が神さまのご臨在の御前において、神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きることができるようにしてくださっていることを約束し、保証してくださるものです。
 実際、天地創造の初めに、神さまは人をご自身のかたちにお造りになって、ご自身のご臨在されるエデンの園に置かれました。人は、そこにご臨在される神である主との愛にあるいのちの交わりに生きていました。それは、創造の御業とともに与えられた最初の契約、すなわち、創造の契約において示され、保証されていたことでした。これは、主が常に神のかたちに造られている人とともにいてくださることを約束し、保証しているものとして、いわば、現在にかかわる面であるということができます。
 創造の契約は、神である主が常に神のかたちに造られた人の間にご臨在してくださるということを約束し、保証してくださっているだけではありませんでした。創造の契約においては、さらに、神のかたちに造られている人が、造られたこの世界を神さまのみこころにしたがって治める使命を果たすことによって、そのことへの報いとして、充満な栄光に満ちたいのちをもつようになることが約束され、保証されていました。そのように、人が神である主のみこころに従い通すことによって充満な栄光に満ちたいのちを獲得することは、先ほどお話ししましたように、それによって、神である主のご臨在の最も近くに近づいて、被造物の限界の中でではありますが、主とのこの上なく深く豊かな愛にあるいのちの交わりにあずかるようになるためです。その意味で、これは主の契約において約束され、保証されている祝福の将来にかかわる面ということができます。
 そして、このような、創造の契約において与えられた祝福の約束と保証は、エデンの園の中央にあった「いのちの木」によって、礼典的(サクラメンタル)に表示されていました。それが礼典的であるということは、それが単なる象徴的なものではなく、主が一方的な恵みによって備えてくださっている祝福の約束を信じて受け取るときに、そこにご臨在してくださる主がその恵みによって、その祝福を現実のものとしてくださるということです。それが象徴的なものであれば、それは人が記憶し思い出すことを助けるだけのものです。礼典的なものには、それを信仰をもって受け取ることがあり、さらに、信仰をもって受け取る者たちの間に主がご臨在してくださって、それによって約束され、保証されている恵みによって、祝福にあずかる者とされるということがあるのです。
 今お話ししたことは、創造の契約において約束され、保証されていた祝福でしたが、それは救済の契約あるいは贖いの契約についても同じことが言えます。救済の契約あるいは贖いの契約も、神である主がご自身の民の間にご臨在してくださって、彼らをご自身との愛にあるいのちの交わりのうちに生かしてくださることを約束し、保証してくださるものです。
 ただ、救済の契約あるいは贖いの契約の場合には、人が神である主に対して罪を犯して、御前に堕落してしまっていることを踏まえています。そのような状態にある人の間に神である主の栄光のご臨在があるなら、人は神である主の栄光に撃たれて滅ぼされてしまいます。それは、この地球のすぐそばに太陽があるようなことで、地球は太陽の熱で焼き尽くされてしまいます。ですから、主に対して罪を犯して御前に堕落してしまっているご自身の民の間に栄光の主がご臨在してくださるためには、主の民の罪が贖われていなければなりません。それで、救済の契約あるいは贖いの契約において示されている、主がご自身の民の間にご臨在してくださるという約束と保証は、主の民のための罪の贖いをも備えてくださることの約束と保証を伴っているのです。
 私たちは御子イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いにあずかって罪を赦されています。そして、イエス・キリストの死者の中からのよみがえりにあずかって復活のいのちに生きるものとしていただいています。それは、私たちが契約の神である主のご臨在の御前において、主との愛にあるいのちの交わりに生きるものとなるためのことでした。それで、私たちは、今、主の栄光のご臨在の御前において、主を礼拝しているのです。
 このことも、新しい契約の礼典である主の晩餐において、礼典的(サクラメンタル)に表示されており、保証されています。主の晩餐のことを記しているマタイの福音書26章26節〜29節には、

また、彼らが食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福して後、これを裂き、弟子たちに与えて言われた。「取って食べなさい。これはわたしのからだです。」また杯を取り、感謝をささげて後、こう言って彼らにお与えになった。「みな、この杯から飲みなさい。これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。ただ、言っておきます。わたしの父の御国で、あなたがたと新しく飲むその日までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。」

と記されています。
 この時イエス・キリストと弟子たちは過越の食事のために食卓に着いていました。主の晩餐は過越の食事において示されていたことを成就するものです。

また、彼らが食事をしているとき、イエスはパンを取り、祝福して後、これを裂き、弟子たちに与えて言われた。

ということは、「彼らが食事をしているとき」ということばに示されているように、これが食事の初めになされていた祝福ではなく、すでに食事が進んでいる時のことであったことを意味しています。つまり、この時には、普通の過越の食事においてはなされることがない、特別なことがなされたのです。それが、新しい契約の礼典としての主の晩餐の制定でした。
 イエス・キリストが、

取って食べなさい。これはわたしのからだです。

と言われ、

みな、この杯から飲みなさい。これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。

と言われた時、イエス・キリストご自身は弟子たちの目の前におられたわけですから、そこで弟子たちに分け与えられたパンとぶどう酒がそのままイエス・キリストのからだや血であるわけではないことは、弟子たちにもよく分かりました。これを今日のことばで言いますと、このパンとぶどう酒はイエス・キリストのからだと血を礼典的(サクラメンタル)に表していたということです。これと同時に、弟子たちには、この主の晩餐はイエス・キリストが定めてくださったものであることと、イエス・キリストご自身によってなされるものであることもよく分かりました。
 そして、そのパンとぶどう酒が何であるかもイエス・キリストによって説明されています。

取って食べなさい。これはわたしのからだです。

と言われているパンは、すでにイエス・キリストご自身によって裂かれています。それは十字架の上で裂かれるようになるイエス・キリストのからだを指しています。弟子たちはそれを食することによって、特別な意味において養われるのです。続いて語られた、

みな、この杯から飲みなさい。これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。

というイエス・キリストのことばは、このぶどう酒はイエス・キリストが流される血を指しており、それが契約の血であり、「罪を赦すために多くの人のために流されるもの」であることが示されています。出エジプト記24章1節〜11節に記されていますが、出エジプトの時代に、主がイスラエルの民をご自身の民としてくださることを約束し、保証してくださる契約を結んでくださったときに、そのために屠られたいけにえの血を祭壇とイスラエルの民に注ぎかけました。イエス・キリストの血はそのことの成就としての意味をもっています。弟子たちは、そのようにしてイエス・キリストが与えてくださった杯から飲むことによって、イエス・キリストが十字架の上で流された血による罪の贖いにあずかり、新しい契約の祝福にあずかる者とされるのです。
 このようにして、主イエス・キリストが定められた新しい契約の礼典としての意味をもつ主の晩餐において、裂かれたパンとぶどう酒は十字架の上で裂かれたイエス・キリストのからだと、十字架の上で流されたイエス・キリストの血と結びつけられています。それを食べそれを飲むことによって、弟子たちは、そして私たちは、イエス・キリストが成し遂げられた贖いの御業にあずかります。このようにして定められた主の晩餐は、この最初の主の晩餐のように、主ご自身が主催してくださり、主ご自身がご自身のからだと血を親しく分け与えてくださるのです。ですから、これが主の晩餐であるためには、主イエス・キリストご自身がそこにご臨在してくださらなければなりません。主の晩餐にとっていちばん大切なことは、そこに栄光のキリストがご臨在してくださって、ご自身の裂かれたからだと流された血を分け与えてくださることです。
 今日、パンとぶどう酒を分け与えるのはみことばの宣教者です。しかし、主のみことばにしたがって、この主の晩餐を守り行うとき、栄光のキリストが、御霊によってそこにご臨在してくださって、これを主催してくださり、私たちをご自身のからだと血にあずからせてくださるのです。私たちは、信仰によって、そこにご臨在してくださる栄光のキリストから、ご自身が十字架の上で裂かれたからだと流された血を受けてそれにあずかります。
 このことに、栄光のキリストのご臨在が私たちとともにあることが示され、保証されています。私たちは、主イエス・キリストのみことばにしたがって主の晩餐を守ることによって、主が贖いの恵みを携えて私たちの間にご臨在してくださっていることを経験します。これは、先ほどお話ししました、主の契約の祝福の現在にかかわる面に当たることです。私たちは救済の契約あるいは贖いの契約の祝福にあずかっています。それで、この契約において約束され、保証されている祝福は、私たちの間に主の栄光のご臨在があるというだけではありません。その主の栄光のご臨在には、私たちの罪のための贖いの恵みが伴っているのです。そのことが、主の晩餐において礼典的に示されています。
 主イエス・キリストが定めてくださった主の晩餐はこれだけで終っていません。イエス・キリストはそれを定めてくださったとき、さらに、

ただ、言っておきます。わたしの父の御国で、あなたがたと新しく飲むその日までは、わたしはもはや、ぶどうの実で造った物を飲むことはありません。

と言われました。

ただ、言っておきます。

ということばは、これからイエス・キリストが語られることが重要なことであるということを示しています。これに続いて語られたことばは、(ウー・メーというように)二つの否定語を連ねることで始まっています。これが最初に置かれていることと二つの否定語が連ねられていることによって、「飲むこと」が「ない」ということがこの上なく強調されています。
 これは、イエス・キリストが弟子たちの間から取り去られてしまうことを明らかにするものです。同時に、

わたしの父の御国で、あなたがたと新しく飲むその日までは、

ということばによって、それが新しい形で回復されることが示されています。そして、それはイエス・キリストの御父の御国が確立される時に実現すると言われています。
 これだけですと、主の晩餐はこの時限りで終ってしまって、後は、イエス・キリストの御父の御国が確立される時に新しい形で回復されるのを待つだけであるかのような印象を受けます。けれども、この主の晩餐について、パウロはコリント人への手紙第一・11章23節〜26節において、

私は主から受けたことを、あなたがたに伝えたのです。すなわち、主イエスは、渡される夜、パンを取り、感謝をささげて後、それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行ないなさい。」夕食の後、杯をも同じようにして言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。これを飲むたびに、わたしを覚えて、これを行ないなさい。」ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。

と記しています。
 ここでパウロは、主の晩餐について、

わたしを覚えて、これを行ないなさい。

という栄光のキリストのみことばを二回記しています。ここには、主の契約にとって大切な「覚える」ということが表されています。古い契約の地上的なひな型においては、過越の祭りにおいて過越の小羊が屠られ、過越の食事が行われることを通して、出エジプトの時代に主がイスラエルの民をエジプトの奴隷の身分から贖い出してくださったことを覚えてきました。それは、過去を振り返るだけでなく、やがて約束の贖い主、メシヤによる最終的な解放を信じて待ち望むという、将来の成就に目を向けるものでもありました。イエス・キリストが十字架の上でご自身のからだを裂き、血を流されたことはそれを成就することでした。そして、そのことを覚える主の晩餐にも、主がすでにご自身のからだを裂き、血を流してくださったことを記憶することとともに、終りの日における祝福の完成を待ち望むことが含まれているのです。
 実際に、主の晩餐はコリントの教会においても行われていたわけです。残念ながら、コリントの教会においては、主の晩餐の意味がまったく無視されてしまっていたために、そこにご臨在しておられた主のさばきを招き、病に倒れた人々やこの世を去った人々もいたのです。それは、主のご臨在がそこにあったことの現れでもあります。
 さらに、パウロは、

ですから、あなたがたは、このパンを食べ、この杯を飲むたびに、主が来られるまで、主の死を告げ知らせるのです。

と述べています。これは、主の晩餐が「主が来られるまで」続けられるものであることを示しています。
 このように、主の晩餐は、世の終わりの栄光のキリストの再臨の日まで続けられるものであることが示されています。そのようにして、主の晩餐が続けられることが主によって定められているということは、栄光のキリストご自身がそこにご臨在してくださって、私たちをご自身の裂かれたからだと流された血にあずからせてくださるということを約束し、保証してくださっているということを意味しています。これは、先ほど言いましたように、主がご自身の民の間にご臨在してくださるという主の契約の祝福の現在にかかわる面に当たります。
 それとともに、終りの日に再臨される栄光のキリストは、神の御国を確立されます。それは、この主の晩餐において私たちに分け与えられている、ご自身の裂かれたからだと流された血によって成し遂げられた贖いの御業に基づいてのことです。終りの日に栄光のキリストが確立される御国においては、主の晩餐において約束され、保証されている祝福としての主との愛にあるいのちの交わりは、さらに充満な栄光に満ちたものとして完成するのです。
 その意味で、主の晩餐において約束され、保証されている栄光の主のご臨在には、将来の完成に向かう面があるのです。これは、主イエス・キリストが十字架の上で流された血による新しい契約の礼典である主の晩餐に関することです。この新しい契約は、救済の契約あるいは贖いの契約の新しい契約のことです。本来、救済の契約あるいは贖いの契約自体に、このような将来の完成に向かうという面があるので、それを成就する御子イエス・キリストの血による新しい契約に将来の完成に向かうという面があるのです。
 これらのことを合わせ見ますと、エペソ人への手紙6章24節に記されているパウロの祝福のことばで祈り求められている「不死」、「不滅」は、私たちが主の晩餐において礼典的(サクラメンタル)に示され、保証されている、栄光のキリストのご臨在にあずかって、主との愛にあるいのちの交わりを享受することの中で私たちに与えられているものであることが分かります。また、この「不死」、「不滅」は、主の晩餐によって約束され、保証されている、栄光のキリストの再臨の日における、主との愛にあるいのちの交わりの完成において、完全な形で実現するものであることが分かります。

 


【メッセージ】のリストに戻る

次へ進む

前へ戻る

(c) Tamagawa Josui Christ Church