説教日:2004年11月21日
聖書箇所:エペソ人への手紙6章21節〜24節
説教題:主を愛する人々に恵みが(5)


 エペソ人への手紙を締めくくる6章23節、24節には、

どうか、父なる神と主イエス・キリストから、平安と信仰に伴う愛とが兄弟たちの上にありますように。私たちの主イエス・キリストを朽ちぬ愛をもって愛するすべての人の上に、恵みがありますように。

という祝福のことばが記されています。
 これまで、24節に記されている祝福のことばの中で新改訳が「朽ちぬ愛をもって」と訳している部分の問題についてお話ししました。この新改訳が「朽ちぬ愛をもって」と訳している部分は、直訳すれば「不死不滅にあって」となります。そして、このことばは、新改訳のように私たちの愛を説明するものではなく、24節の最初に出てくる祝福の内容である「恵み」とつながっている「不死」あるいは「不滅」という祝福を示していると考えられるということをお話ししました。つまり、「不死」あるいは「不滅」は神さまが与えてくださる祝福を示し、それにつけられた「にあって」という前置詞は、その「不死」あるいは「不滅」が最初に出てくる「恵み」とつながっていて、相互に関連していることを示しているということです。このような理解からこの24節を訳しますと、

恵みと不死不滅が、私たちの主イエス・キリストを愛するすべての人とともにありますように。

となります。
 この「不死」、「不滅」は、神さまの特質です。神さまは他の何者にも依存せず、ご自身で「不死」、「不滅」であられる方です。これに対しまして、造られたものは、ただ神さまに支えられて「不死」、「不滅」なもの、朽ちないものであることができます。
 被造物である人間において不死、不滅なもの、朽ちないものが歴史の現実になったのは、十字架にかかってご自身の民の罪の贖いを成し遂げられた後、死者の中からよみがえられたイエス・キリストにおいてです。そして、私たちはイエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりにあずかっているので、不死、不滅なもの、朽ちないものとしての特質をもつようになっています。


 このこととの関連で、すでにお話ししたことの再確認をしておきたいと思います。天地創造の御業において神さまは、最初の人であるアダムを神のかたちにお造りになりました。最初に造られた状態の人は神のかたちとしての栄光と尊厳をもつ者で、聖さと義のうちにありました。そのうちに罪の性質はありませんでしたから、罪の結果である死もありませんでした。その意味では、この最初に造られた人の状態も「不死」の状態であると言うことができます。けれども、これは、エペソ人への手紙でパウロが述べている祝福である「不死」、「不滅」なもの、朽ちないもののことではありません。この祝福に出てくる「不死」、「不滅」なもの、朽ちないものは、最初に造られた人が到達すべき目標であったのです。
 私たちが親あるいは子として家族の交わりをもっているのは、そこに親子関係があるからです。その親子関係があって、親と子の交わりが成り立っています。また、夫と妻の関係があって、夫と妻の交わりが成り立っています。神さまと人との関係は神さまがお立てになった契約関係で、この契約関係に基いて、神さまと人との交わりが成り立っています。最初の人アダムは、初めから神である主との契約関係の中にあるものとして造られました。
 アダムは神のかたちに造られて、神さまとの愛にあるいのちの交わりに生きるものとして、この世界で神さまを表し、あかしするものでした。アダムは、そのようなものとして、神さまがお造りになったすべてのものを治める使命を委ねられていました。その使命を果たすことを通して、神さまが愛といつくしみに満ちた方であることを、この世界の中で表し、あかしするのです。アダムは、最後まで神さまのみこころに従って、委ねられた使命を遂行することによって、そのことに対する報いとして、被造物としての限界の中でではありますが、充満な栄光に満ちたいのちに入るべきものでした。このことも、主の契約のうちに示されていた祝福の約束でした。そして、この最初の人アダムが入るべき充満な栄光に満ちたいのちにある状態が、エペソ人への手紙6章24節に記されている祝福である「不死」、「不滅」です。
 実際には、アダムは神である主に対して罪を犯して、御前に堕落してしまいました。それで、神さまの契約において約束されていた充満な栄光に満ちたいのちに入るどころが、罪がもたらした死の力に捕えられてしまいました。神のかたちとしての栄光は罪によって腐敗させられ、自己中心的に歪められてしまいました。この後に生れてくる者はすべて、アダムにあって罪を犯し、アダムにあって堕落した者として生れてきます。そのために、神さまのみこころに従うことはありませんし、神さまのみこころに従うこともできません。それで、自分の力によって充満な栄光に満ちたいのちに入ることはできません。
 これに対して、父なる神さまは、無限、永遠、不変の栄光に満ちておられるご自身の御子を私たちの贖い主として備えてくださいました。御子イエス・キリストは、私たちと同じ人の性質を取って来てくださり、私たちの罪をすべてその身に負ってくださって十字架にかかって死んでくださいました。それによって、私たちの罪をまったく贖ってくださいました。すべて父なる神さまのみこころにしたがってのことでした。それで、父なる神さまはイエス・キリストの十字架の死に至るまでの従順に対する報いとして、イエス・キリストを充満な栄光に満ちたいのちによみがえらせてくださいました。それによって、贖われた者たちが、イエス・キリストの復活のいのちに生きるようになるためでした。言い換えますと、イエス・キリストの民が、「不死」、「不滅」なもの、朽ちないものとなるためでした。
 私たちの間では、契約は、おもに取り引きにおけるものです。それで、契約関係と言いますと、取り引きの関係をイメージしてしまいます。しかし、神さまが人に与えてくださった契約は、そのようなものではありません。神さまと人との間には、どのような意味でも取り引きは成立しません。
 ローマ人への手紙11章33節〜36節には、

ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。そのさばきは、何と知り尽くしがたく、その道は、何と測り知りがたいことでしょう。なぜなら、だれが主のみこころを知ったのですか。また、だれが主のご計画にあずかったのですか。また、だれが、まず主に与えて報いを受けるのですか。というのは、すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至るからです。

と記されています。この、

だれが、まず主に与えて報いを受けるのですか。

という問いかけは、そのような者はいないということを強調するための修辞学的な問いかけです。歴代誌第一・29章14節には、主の宮の建設の準備に着手したときのダビデの祈りの一部が記されています。そこでダビデは、

まことに、私は何者なのでしょう。私の民は何者なのでしょう。このようにみずから進んでささげる力を保っていたとしても。すべてはあなたから出たのであり、私たちは、御手から出たものをあなたにささげたにすぎません。

と告白しています。神さまはこの世界のすべてのものをお造りになって、真実にこれを支えてくださっている方です。私たち人間も含めて、この世界のすべてのものは、造り主である神さまにその存在を負っています。私たちはすべてを神さまに負っていますが、神さまは私たちに何も負っていません。まさに、

すべてのことが、神から発し、神によって成り、神に至る

のです。ですから、神さまと人間の関係は、決して取り引きの関係にはなりえないのです。
 そうしますと、神さまが最初の人アダムに、ご自身のみこころに従い通したときに、それに対する報いとして充満な栄光に満ちたいのちを与えてくださると約束してくださったことは、どう考えたらいいのでしょうか。人の従順を条件にして、報いを与えるというのであれば、それは一種の取り引きではないかと言われそうです。しかし、それは、決して、神さまと人との間の取り引きではありません。そのことによって、神さまが何かを人から得るということはないのです。神さまは人から何かを得ようとして、それとの交換において、人に充満な栄光に満ちたいのちを与えることを約束してくださったのではありません。
 このこととの関連で、さらにわきまえておかなければならないことがあります。それは、神さまの創造の御業によって神のかたちに造られた人にとって、神さまのみこころがどのようなものであったかということです。今日の私たちにとっては、神さまのみこころは啓示の書としての聖書に示されています。それは、私たちが人類の堕落後の時代に生きており、私たちの罪が完全にはきよめられていないからです。しかし、最初に神のかたちに造られた時のアダムは、神さまのみこころが記されている書物を見て神さまのみこころを調べたわけではありません。神さまのみこころはその心に記されていました。そのように、神のかたちに造られた人にとって神さまのみこころは、自らの本性と思いに完全に一致していました。ですから、神さまのみこころに従い通すということは、神のかたちに造られている人にとっては、最も自然なことでした。また、人は神さまのみこころが自分にとっても、自分に委ねられたものにとっても恵みといつくしみに満ちたものであることを十分に分かっていたし、感じていたのです。
 人が神さまから委ねられた使命に従って地を耕し、生き物たちのお世話をすることは、自らのうちに与えられたさまざまな賜物を死蔵しないで、有効に発揮することでした。それらの賜物はすべて神のかたちとして造られている自分の愛といつくしみを具体的に表すものとして用いられました。それは、自らのいのちの発露でしたし、それによって文化と歴史が造られていくことは豊かな喜びでした。そして、これらすべてにおいて、神さまのご栄光が映し出され、すべての栄光が神さまに帰せられていくことにこの上ない充足を覚えていたのです。
 神さまのみこころに従うということは、このようなことでした。そして、その本質は今も変わっていません。このような意味をもっている神さまのみこころに従い通すことによって、人は豊かないのちの充実を感じます。そのこと自体で、人は十分な報いを得ているということができます。けれども、神さまがご自身の契約において備えてくださった祝福はそれで終りませんでした。最初の人アダムが、ご自身のみこころに従い通したときに、それに対する特別な報いとして、充満な栄光に満ちたいのちの中に入ることを約束してくださったのです。ですから、このような神さまの契約の約束を取り引きであると考えることはできません。
 それでは、神さまは何のために人に契約を与えてくださったのかということになります。それは、今の説明でお分かりになると思いますが、神さまの一方的な愛と恵みを示し、ご自身の民を充満な栄光に満ちたいのちに導き入れてくださることを約束し、保証してくださるためです。
 すでにいろいろな機会にお話ししてきましたが、神さまの契約が約束し、保証してくださっていることの中心は、神である主が私たちの神となってくださり、私たちが主の民となるという祝福にあります。
 そのことは聖書のいろいろなところに示されていますが、それを最もよく示していると思われる箇所は、レビ記26章11節、12節です。そこには、

わたしはあなたがたの間にわたしの住まいを建てよう。わたしはあなたがたを忌みきらわない。わたしはあなたがたの間を歩もう。わたしはあなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる。

という主のみことばが記されています。
 11節と12節前半に記されている、

わたしはあなたがたの間にわたしの住まいを建てよう。わたしはあなたがたを忌みきらわない。わたしはあなたがたの間を歩もう。

というみことばは、主がご自身の民の間にご臨在してくださって、ともに歩んでくださることを約束してくださっています。この「わたしの住まい」は、イスラエルの民が荒野を旅する時代には主の幕屋を表しています。これは、後の王国の時代には主の神殿として発展します。いずれも、主のご臨在の場所を表す地上的なひな型です。
 また、「歩もう」ということばは強調形(ヒスパエル語幹)で表されていて、「歩き回る」という意味合いを伝えています。これと同じ形は、エデンの園に置かれた人とともに歩んでくださるためにそこにご臨在された主のことを記している創世記3章8節において、

そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である主の声を聞いた。それで人とその妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。

と言われているときに用いられています。これは、人が神である主に対して罪を犯して御前に堕落してしまった直後のことを記すものですが、その時もなお、主はそこにご臨在してくださって人に語りかけてくださっています。それは、ご自身に対して罪を犯した人を悔い改めに導いてくださるための語りかけであり、主の恵みによるご臨在でした。
 これによって示され、約束されている主のご臨在は、ヨハネの福音書1章14節に、

ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。

と記されているイエス・キリストの受肉において成就しています。そして、エペソ人への手紙1章23節に、

教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。

と記されている、栄光のキリストの御霊がキリストのからだである教会にご臨在してくださっていることにおいて、より豊かなものとなっています。そして、最終的には、黙示録21章1節〜4節に、

また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」

と記されていることにおいて完成します。
 このように、主の契約の祝福の一つの面は主がご自身の民の間にご臨在してくださることにあります。
 レビ記26章に戻りますが、12節後半には、

わたしはあなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる。

と記されています。
 これは神である主の契約の祝福のもう一つの面を表しています。これは、主の御前における主の民の身分を表しています。そして、「私」と「あなた」あるいは「あなたがた」という人格的な関係が主とその民の間にあることを示しています。そして、それは、主がご自身の契約において約束し、保証してくださっていることです。これが主と私たちの間の契約関係であり、愛にあるいのちの交わりの基盤です。
 この主の契約に基づく「主」とその「民」の関係とその関係にある交わりは、御子イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いにあずかって罪を贖われ、御子イエス・キリストの死者の中からのよみがえりにあずかって復活のいのちによって生かされている私たちの間では、「父」と「子」の関係とその関係にある交わりにまで深められ、高められています。ガラテヤ人への手紙4章4節〜7節に、

しかし定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。これは律法の下にある者を贖い出すためで、その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです。そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父。」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。ですから、あなたがたはもはや奴隷ではなく、子です。子ならば、神による相続人です。

と記されているとおりです。
 このように、レビ記26章11節、12節には、主の契約の祝福の二つの面が記されています。このことを念頭において、先ほど引用しました黙示録21章3節に記されている天からの声の第一声を見てみたいと思います。それは、

見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。

というものでした。この、

見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、

ということばは、レビ記26章11節と12節前半に記されている、

わたしはあなたがたの間にわたしの住まいを建てよう。わたしはあなたがたを忌みきらわない。わたしはあなたがたの間を歩もう。

という主の契約の祝福の最終的な完成を示しています。そして、天からの声の、

彼らはその民となる。

ということばは、レビ記26章12節後半に記されている、

わたしはあなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる。

ということの最終的な完成を示しています。
 ですから、この、

見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。

という天からの声は、レビ記26章11節、12節に記されている、

わたしはあなたがたの間にわたしの住まいを建てよう。わたしはあなたがたを忌みきらわない。わたしはあなたがたの間を歩もう。わたしはあなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる。

という主の契約の祝福の二つの面が、栄光のキリストの再臨の日に再創造される新しい天と新しい地において最終的に実現し、完成することを示しています。
 このような神さまの契約の祝福の二つの面は、二つの祝福なのではなくて、一つの祝福の二つの面です。それは、主がご自身の契約によって、

わたしはあなたがたの間にわたしの住まいを建てよう。わたしはあなたがたを忌みきらわない。わたしはあなたがたの間を歩もう。

と約束してくださっているように、主が私たちの間にご臨在してくださっているなら、必ず、

わたしはあなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる。

と約束してくださっているように、私たちは主の民、父なる神さまの子どもとされているということです。
 父なる神さまは、ご自身の契約において約束し、保証してくださった祝福を実現してくださるために、ご自身の御子を贖い主として遣わしてくださいました。御子イエス・キリストが十字架にかかって死んでくださって私たちの罪を贖ってくださり、死者の中からよみがえって私たちを復活のいのちによって新しく生かしてくださったのは、この契約の祝福を私たちの間に実現してくださるためでした。
 このことを考えますと、イエス・キリストの誕生の次第を記しているマタイの福音書1章22節、23節に、

このすべての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであった。「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)

と記されていますように、ご自身の民のために贖いの御業を遂行される贖い主の預言された御名が「神は私たちとともにおられる」という意味の「インマヌエル」であったということの意味が理解できます。「インマヌエル」という御名は、主の契約の祝福を表しており、その御名においてお働きになる贖い主は、主の契約の祝福を私たちの間に実現してくださる方であるのです。
 このように、主がご自身の契約において示してくださり、保証してくださっている祝福は、十字架にかかって死んで私たちの罪を贖ってくださり、死者の中からよみがえってくださって私たちを復活のいのちで生かしてくださっているイエス・キリストにあって、私たちの間で実現しています。そして、これは、世の終わりの栄光のキリストの再臨の日に、最終的に完成します。この終りの日にもたらされる主の祝福の完成として、私たちは充満な栄光に満ちたいのちをもつようになります。その充満な栄光に満ちたいのちの特質が、「不死」、「不滅」なもの、朽ちないものであるのです。
 このことを、これまでお話ししたこととのかかわりで見ますと、私たちが「不死」、「不滅」なもの、朽ちないものである充満な栄光に満ちたいのちをもつようになるのは、主がご自身の契約において示してくださり、保証してくださっている、

わたしはあなたがたの間にわたしの住まいを建てよう。わたしはあなたがたを忌みきらわない。わたしはあなたがたの間を歩もう。わたしはあなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる。

という祝福が完成するようになるということを意味しています。それは、今すでに父なる神さまの子とされるまでに主のご臨在の御許に近づけられている私たちが、完全に御子イエス・キリストの充満な栄光に満ちたいのちにあずかって、父なる神さまとの愛にあるいのちの交わりをこの上なく深く豊かなものとしていただくということを意味しています。
 このように、主の契約において私たちに示され、保証されている祝福は、ある一定の状態で止まっているものではありません。それには、さらに深められ、豊かにされていくという面があります。
 このことを念頭において、父なる神さまの永遠の聖定のことを記しているエペソ人への手紙1章3節〜6節に記されていることを見てみましょう。そこには、

私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。それは、神がその愛する方によって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。

と記されています。
 4節において、

神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。

と言われていることは、私たちが父なる神さまのご臨在の「御前」に住まうものであることを示しています。そして、5節において、

神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。

と言われていることは、私たちが父なる神さまの「」としての身分をもつようになることを示しています。
 ですから、エペソ人への手紙1章4節、5節に記されている祝福は、レビ記26章11節、12節に、

わたしはあなたがたの間にわたしの住まいを建てよう。わたしはあなたがたを忌みきらわない。わたしはあなたがたの間を歩もう。わたしはあなたがたの神となり、あなたがたはわたしの民となる。

と記されていて、御子イエス・キリストの贖いを通して成就し、栄光のキリストの再臨によって完成する主の契約の祝福に当たります。
 そうしますと、主がご自身の契約において示してくださり、保証してくださっている祝福は、エペソ人への手紙1章3節で、

神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。

とあかしされている、父なる神さまの永遠の前からの祝福から出ているものであることが分かります。それを主の契約と永遠の聖定の関係ということから見ますと、主の契約は、父なる神さまの永遠の聖定に起源をもっており、永遠の聖定に基づいており、永遠の聖定を歴史の中で実現してくださるために与えられたものであることが分かります。
 そして、このことから、主の契約において私たちに示され、保証されている祝福は、ある一定の状態で止まっているものではなく、さらに深められ、豊かにされていくという面があるということが理解できます。主の契約の祝福は、私たちがまったき意味において父なる神さまの「御前で聖く、傷のない者」となり、「ご自分の子」となるまで深められ、豊かなものとなっていくのです。
 これらのことを踏まえて、エペソ人への手紙全体の構成から見ますと、6章24節に記されている、

恵みと不死不滅が、私たちの主イエス・キリストを愛するすべての人とともにありますように。

という祝福のことばは、1章3節〜5節で、

神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。

とあかしされている、父なる神さまの永遠の前からの祝福とも呼応しており、それがさらに豊かに実現していくことを祈り求めていることが分かります。

 


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