説教日:2004年11月7日
聖書箇所:エペソ人への手紙6章21節〜24節
説教題:主を愛する人々に恵みが(4)


 エペソ人への手紙は6章23節、24節に記されている、

どうか、父なる神と主イエス・キリストから、平安と信仰に伴う愛とが兄弟たちの上にありますように。私たちの主イエス・キリストを朽ちぬ愛をもって愛するすべての人の上に、恵みがありますように。

という祝福のことばをもって結ばれています。
 これまで、24節に記されている祝福のことばの中で新改訳が「朽ちぬ愛をもって」と訳している部分の問題についてお話ししました。今日お話しすることとのかかわりで、それを簡単にまとめておきましょう。
 この新改訳が「朽ちぬ愛をもって」と訳している部分は、「不死」、「不滅」、「朽ちぬもの」などを意味することば(アフサルシア)に「にあって」という前置詞(エン)がついているもので、直訳すれば「不死不滅にあって」となります。新改訳はこれを「私たちの主イエス・キリストを愛する」ことを修飾するものと理解して、「私たちの主イエス・キリストを朽ちぬ愛をもって愛する」と訳しています。
 これに対しまして、この直訳で「不死不滅にあって」と訳されることばは、最初に出てくる祝福の内容である「恵み」とつながっている「不死」あるいは「不滅」という祝福を示していると考えた方がいいということをお話ししました。つまり、「不死」あるいは「不滅」は神さまが与えてくださる祝福を示し、それにつけられた「にあって」という前置詞(エン)は、その「不死」あるいは「不滅」がその前に出てくる「恵み」とつながっていて、相互に関連していることを示しているということです。このような理解からこの24節を訳しますと、

恵みと不死不滅が、私たちの主イエス・キリストを愛するすべての人とともにありますように。

となります。
 この「不死」、「不滅」は、神さまの特質です。神さまは他の何者にも依存せず、ご自身で「不死」、「不滅」であられます。これに対しまして、造られたものは、ただ神さまに支えられて「不死」、「不滅」なもの、朽ちないものであることができます。
 被造物である人間において不死、不滅なもの、朽ちないものが歴史の現実になったのは、十字架にかかってご自身の民の罪の贖いを成し遂げられて後、死者の中からよみがえられたイエス・キリストの復活においてです。そして、私たちはイエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりにあずかっているので、不死、不滅なもの、朽ちないものとしての特質をもつようになっています。


 先週は、このことを神さまの契約とのかかわりでお話ししました。今日は、そのお話を踏まえてのことですが、「不死」、「不滅」のことをさらに理解するために、コリント人への手紙第一・15章42節〜55節に記されていることに沿ってお話ししたいと思います。
 コリント人への手紙第一・15章42節〜55節には、

死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、強いものによみがえらされ、血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。血肉のからだがあるのですから、御霊のからだもあるのです。聖書に「最初の人アダムは生きた者となった。」と書いてありますが、最後のアダムは、生かす御霊となりました。最初にあったのは血肉のものであり、御霊のものではありません。御霊のものはあとに来るのです。第一の人は地から出て、土で造られた者ですが、第二の人は天から出た者です。土で造られた者はみな、この土で造られた者に似ており、天からの者はみな、この天から出た者に似ているのです。私たちは土で造られた者のかたちを持っていたように、天上のかたちをも持つのです。兄弟たちよ。私はこのことを言っておきます。血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみなが眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、「死は勝利にのまれた。」としるされている、みことばが実現します。「死よ。おまえの勝利はどこにあるのか。死よ。おまえのとげはどこにあるのか。」

と記されています。
 ここには「死者の復活」のことが記されているのですが、45節に記されている、

聖書に「最初の人アダムは生きた者となった。」と書いてありますが、最後のアダムは、生かす御霊となりました。

ということばを境にして、注目しているものが違っているように思われます。42節〜44節においては、その前の35節〜41節に記されていることとのつながりで「からだ」のことが問題となっています。35節〜41節においては、神さまは創造の御業において、さまざまな秩序に属する「からだ」をお造りになっておられることが示されています。そのような御業をなさった神さまには、すでに最初の創造の御業において造られている種類の「からだ」しかお造りになれなかったのではないはずです。みこころであれば、もっと栄光に満ちた「からだ」もお造りになれたはずです。そのような論理で、復活のからだのあり得ることを述べています。
 神さまは創造の御業において人を神のかたちにお造りになりました。それは、ご自身のご臨在の御前に近づくことができる栄光と尊厳性を帯びた状態にあるものでした。そして、実際に、人は神である主のご臨在されるエデンの園において、主との愛にあるいのちの交わりのうちに歩んでいました。この主とのいのちの交わりのうちにあるものとして、委ねられた使命を果たしていました。そして、神である主がお許しになった試練を通しても、なお、主のみこころに従い通すことによって、その報いとして充満な栄光に満ちたいのちを獲得すべきでした。つまり、神さまは創造の御業において、この充満な栄光に満ちたいのちの状態に人をお造りになったのではなく、神のかたちとしての自らの自由において、主への愛を深めていって、その状態に入るべきものとしてお造りになったということです。
 実際には、人は神である主に対して罪を犯して、御前に堕落し、主との愛にあるいのちの交わりを失い、罪と死の力に捕えられてしまいました。父なる神さまは、そのような状態に陥ってしまった主の民のために、ご自身の御子を通して贖いの御業を遂行してくださいました。御子は私たちと同じ人の性質を取って来てくださり、私たちの罪の咎を負って十字架にかかってくださり、私たちの罪を贖ってくださいました。そのようにして、私たちを死の力と滅びへの道から贖い出してくださいました。そして、ご自身の十字架の死に至るまでの従順に対する報いとして充満な栄光をお受けになり、死者の中からよみがえってくださいました。そのようにして、私たちをご自身の復活のいのちによって生かしてくださったのです。
 ですから、創造の御業によって、さまざまな秩序に属するからだをお造りになった神さまが、御子イエス・キリストがお取りになった人の性質を充満な栄光に満ちたものとしてくださり、それにふさわしいからだをお与えになったことは、創造の御業と矛盾することではなく、かえって、創造の御業の本来の目的を成就することであるのです。
 コリント人への手紙第一・15章42節〜44節に記されていることの根底には、このような論理があります。そして、具体的には、そのことは、45節において、

聖書に「最初の人アダムは生きた者となった。」と書いてありますが、最後のアダムは、生かす御霊となりました。

と記されていることにおいて実現しています。
 コリント人への手紙第一・15章においては、これ以後、つまり、46節〜55節においては、焦点は復活のからだだけではなく、それも含めてですが、充満な栄光にある人の状態に合わされています。
 新改訳では、50節は、

兄弟たちよ。私はこのことを言っておきます。血肉のからだは神の国を相続できません。朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。

となっていて「からだ」ということばが出てきます。しかし、この「血肉のからだ」と訳されたことばは欄外注に「直訳『血と肉』」とありますように(ギリシャ語の順序は「肉と血」)、ここには「からだ」ということばはありません。
 いわばその分岐点になっている45節に記されている、

聖書に「最初の人アダムは生きた者となった。」と書いてあります

ということは、創世記2章7節に、

その後、神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった。

と記されていることを指しています。
 ここには、人が「土地のちりで」形造られたことが記されています。そこに、「土地のちりで」形造られたということからくる「弱さ」があることが示されています。その「弱さ」は、人が罪を犯し得るものであることを意味していますが、「弱さ」があること自体は罪ではありません。
 「土地のちりで」形造られたといっても、神である主が神のかたちにお造りになった人は「ちり」ではありません。土くれから造られた茶わんは、茶わんとして造られたことによって土くれではなくなります。それと同じように、「土地のちりで」神のかたちに造られた人は、それによって、もはや、「土地のちり」ではなくなっています。人は、神である主との愛にあるいのちの交わりに生きるものとなっています。そのことは、神である主が人の「鼻にいのちの息を吹き込まれた」と記されていることにその出発点が示されています。
 けれども、人が神である主に対して罪を犯して、御前に堕落してしまったことによって、人は神のかたちとしての栄光と尊厳性を腐敗させてしまいました。それによって、人は神である主のご臨在の御前から退けられるものとなってしまい、自らも主を神として愛することも敬うこともなくなってしまいました。そのような状態になったことによって、人は「土地のちりで」形造られたものとしての「弱さ」ばかりでなく、罪のもたらす死の力に捕えられてしまっています。そのことが、神である主に罪を犯して御前に堕落してしまった最初の人アダムに対する主のさばきのことばの結論に表されています。それが創世記3章19節に、

  あなたは、顔に汗を流して糧を得、
  ついに、あなたは土に帰る。
  あなたはそこから取られたのだから。
  あなたはちりだから、
  ちりに帰らなければならない。

と記されています。これを言い換えますと、アダムは「朽ちるもの」となったということです。
 これ以降、アダムから出た者はみな、

  あなたはちりだから、
  ちりに帰らなければならない。

という「朽ちるもの」としての特質をもって生れてきます。
 コリント人への手紙第一・15章45節に記されている、

聖書に「最初の人アダムは生きた者となった。」と書いてあります

ということば自体には、アダムが神である主に対して罪を犯して、御前に堕落してしまったことは示されていません。けれども、これには、アダムがそのように神である主に対して罪を犯して、御前に堕落し得るものであったことは示されています。そして、続く46節に、

最初にあったのは血肉のものであり、御霊のものではありません。

と記されていることは、すでに、アダムが神である主に対して罪を犯して、御前に堕落してしまっていることを踏まえています。ここで「血肉のもの」と訳されていることば[プシュキコン(形容詞プシュキコスの中性形)]は、2章14節で、

生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。なぜなら、御霊のことは御霊によってわきまえるものだからです。

と言われているときの「生まれながらの」と訳されていることば(プシュキコス)です。ここでは、このことばは、神である主に対して罪を犯して、御前に堕落してしまっている人の状態を指しています。それで、

生まれながらの人間は、神の御霊に属することを受け入れません。それらは彼には愚かなことだからです。また、それを悟ることができません。

と言われています。
 そして、これに続く15節には、

御霊を受けている人は、すべてのことをわきまえますが、自分はだれによってもわきまえられません。

と記されています。この「御霊を受けている」と訳されていることば(形容詞プニューマティコス)は15章46節に、

最初にあったのは血肉のものであり、御霊のものではありません。御霊のものはあとに来るのです。

と記されているときの「御霊のもの」ということば(中性形のプニューマティコン)と同じことばです。
 ですから、この15章46節においては、2章14節、15節に記されていることに示されているような意味合いで、「血肉のもの」と「御霊のもの」が対比されていると考えられます。言い換えますと、ここでは、最初の人アダムにあって人の性質が罪によって腐敗しており、それゆえに、アダムから出て、アダムにある人がすべて罪による腐敗した人の性質をもっていることが示されていると考えられます。
 この理解は、15章45節で、

聖書に「最初の人アダムは生きた者となった。」と書いてありますが、最後のアダムは、生かす御霊となりました。

と言われているときの、後半で、

最後のアダムは、生かす御霊となりました。

と言われていることとも調和します。
 この、

最後のアダムは、生かす御霊となりました。

ということばは、十字架にかかってご自身の民のための罪の贖いを成し遂げてくださり、その十字架の死に至るまでの従順に対する報いとして充満な栄光をお受けになって死者の中からよみがえられた御子イエス・キリストのことを述べています。
 この「生かす御霊」の「生かす」と訳されたことば(ゾーオポイエオーの現在分詞)は自らが「生きている」ことを表すこともありますが、ここでは新改訳のとおり、「生かす」という意味で用いられています。つまり、充満な栄光をお受けになって死者の中からよみがえられたイエス・キリストがご自身の民を充満な栄光に満ちた復活のいのちをもって生かしてくださることを表しています。
 ここでは、その栄光のキリストが「生かす御霊」となられたと言われています。これは、三位一体の第二位格であられる御子が第三位格であられる御霊になられたという意味ではありません。その点での御子と御霊の区別は永遠に変わることはありません。つまり、存在論的に御子と御霊の区別が曖昧になるというようなことはあり得ないのです。ここで言われているのは、御業を遂行されるうえで御子と御霊が一つとなられたということです。つまり、今お話ししましたご自身の民を復活のいのちをもって生かしてくださるお働きにおいて、栄光のキリストと御霊はまったく一つとなられたということを意味しています。イエス・キリストが充満な栄光をお受けになって死者の中からよみがえられたということは、そのイエス・キリストのうちにいのちの御霊の充満があるということです。それを逆に御霊の側から言いますと、御霊は父なる神さまから充満な栄光をお受けになった御子の御霊として、充満な栄光に満ちたいのちの御霊としてお働きになるということです。このようにして、御子イエス・キリストは、この充満な栄光に満ちたいのちの御霊によって満たされており、その御霊によってご自身の民を生かしてくださる方となられたのです。
 このことを念頭において、45節に、

聖書に「最初の人アダムは生きた者となった。」と書いてありますが、最後のアダムは、生かす御霊となりました。

と記されていることを見てみましょう。後半の、

最後のアダムは、生かす御霊となりました。

ということは、今お話ししましたように、ご自身の民の罪の贖いのために十字架にかかってお死にになり、ご自身の民を充満な栄光に満ちた復活のいのちで生かしてくださるために、死者の中からよみがえられたイエス・キリストのことを記しています。このイエス・キリストと対比する形で、アダムのことが、

聖書に「最初の人アダムは生きた者となった。」と書いてあります

と記されています。その意味では、ここでは、「最初の人アダム」がちりをもって形造られたこと、それゆえに「弱さ」をもっているということだけでなく、その「最初の人アダム」にある者たちが「最後のアダム」による贖いを必要としている状態になっているということを示す面もあるのです。
 さて、15章42節〜55節では、不死、不滅を表すことば(アフサルシア)は4回用いられています。このことばは「朽ちないもの」と訳されていて、「朽ちるもの」と対比されています。その点に注目してみますと、42節では、

朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、

と言われています。また、50節では、

朽ちるものは、朽ちないものを相続できません。

と言われています。そして、53節では、

朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず

と言われており、54節では、

朽ちるものが朽ちないものを着るとき

と言われています。
 [52節では、

死者は朽ちないものによみがえり

と言われていて、この対比がありません。ここでは「朽ちないもの」は形容詞(アフサルトス)で表されています。]
 「朽ちないもの」と対比されている「朽ちるもの」は、42節と50節では名詞(フソラ)で表されています。そして、53節と54節では、形容詞[フサルトン(フサルトスの中性形)]に定冠詞(ト)がつけられて実体化されています。
 ここで注目したいのは、53節と54節では、これにさらに「この」ということを表すことば(トゥート)がついていて「この朽ちるもの」というような言い方がされているということです。この「この」ということば(トゥート)は、53節においても54節においても、もう一つの「死ぬもの」ということばにもついていて「この死ぬもの」というようになっています。ですから、53節、54節では、

この朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、この死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。しかし、この朽ちるものが朽ちないものを着、この死ぬものが不死を着るとき、「死は勝利にのまれた。」としるされている、みことばが実現します。

と言われているわけです。
 このように、「この朽ちるもの」、「この死ぬもの」、さらに「この朽ちるもの」、「この死ぬもの」というように繰り返されていることには意味があると考えられます。
 一つは、神学的な意味というべきものです。それは、この53節、54節に先立つ51節、52節に、

聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみなが眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。

と記されていることとのつながりで考えられることです。ここ(51節、52節)では、栄光のキリストの再臨のときに私たちが「変えられる」ということが繰り返し語られています。そのようにして、変えられるのは、ほかならぬ「この朽ちるもの」、「この死ぬもの」であるということです。言い換えますと、終りの日に再臨される栄光のキリストは、すべてのものを新しくする再創造のお働きをなさいます。それによって、新しい天と新しい地が造り出されます。そうであっても、それは、これまであったものをまったくご破算にしてしまうのではないということです。今のこのいのちを生きている私たちの、私たちとしてのアイデンティティがなくなってしまうのではなく、この私たちが、私たちとしてのアイデンティティをもったままで、新しく造り変えられるということです。もちろん、その根拠は御子イエス・キリストご自身が成し遂げられた贖いの御業にあります。
 「この朽ちるもの」、「この死ぬもの」、さらに「この朽ちるもの」、「この死ぬもの」というように繰り返されていることのもう一つの意味は、いわば実存的なものです。今のこのいのちを生きている私たちは、御子イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業にあずかって罪まったく赦されて、死からいのちに移ってきています。そうではあっても、今なお、完全にきよめられてはいません。自らのうちには罪の性質が残っており、日ごとに罪を犯します。パウロ自身が、ローマ人への手紙7章19節、20節で、

私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。もし私が自分でしたくないことをしているのであれば、それを行なっているのは、もはや私ではなくて、私のうちに住む罪です。

と告白し、24節では、

私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。

とうめいています。ここでも、「この死の、からだ」と言われています。新改訳は「この死の」で句読点を打って、「この」ということば(トゥートゥー・属格)が「」にかかっているという理解を示しています。これは一つの有力な見方です。けれども、ここでは「死のからだ」を一つと見て、それに「この」がかかっていると理解して、「この死のからだ」とした方がいいと思われます。
 いずれにしましても、今地上にある間は、私たちはパウロが「この死のからだ」と呼んでいる「からだ」にあって生きています。それで、日々にうめいています。同じことをパウロは、「この」ということばは用いていませんが、コリント人への手紙第二・5章1節〜5節において、

私たちの住まいである地上の幕屋がこわれても、神の下さる建物があることを、私たちは知っています。それは、人の手によらない、天にある永遠の家です。私たちはこの幕屋にあってうめき、この天から与えられる住まいを着たいと望んでいます。それを着たなら、私たちは裸の状態になることはないからです。確かにこの幕屋の中にいる間は、私たちは重荷を負って、うめいています。それは、この幕屋を脱ぎたいと思うからでなく、かえって天からの住まいを着たいからです。そのことによって、死ぬべきものがいのちにのまれてしまうためにです。,私たちをこのことにかなう者としてくださった方は神です。神は、その保証として御霊を下さいました。

と記しています。
 このようなうめきを覚えているパウロが、コリント人への手紙第一・15章53節、54節で、今の自分たちの状態のことを「この朽ちるもの」、「この死ぬもの」、「この朽ちるもの」、「この死ぬもの」と述べているわけです。それが、「朽ちるもの」であり「死ぬもの」であることを痛感していることが見て取れます。しかし、それは、先ほどのコリント人への手紙第二・5章1節〜5節に記されていることばにおいてもそうでしたが、また、ローマ人への手紙7章に記されていることばにおいても、それに続く8章に記されていることばを見れば分かりますが、絶望の記述ではありません。むしろ、それは、53節に記されている、

この朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、この死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。

ということばに示されているように、希望の中で記されていることです。その希望には確かな根拠があります。それは、45節で、

聖書に「最初の人アダムは生きた者となった。」と書いてありますが、最後のアダムは、生かす御霊となりました。

とあかしされている、「生かす御霊」となられた「最後のアダム」すなわち栄光のキリストにあります。「最後のアダム」はご自身が「朽ちないもの」となられただけでなく、ご自身の民を復活のいのちによって生かしてくださり、「朽ちないもの」に造り変えてくださる「生かす御霊」となられました。

 


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