説教日:2004年10月31日
聖書箇所:エペソ人への手紙6章21節〜24節
説教題:主を愛する人々に恵みが(3)


 これまで、エペソ人への手紙6章24節に記されている、

私たちの主イエス・キリストを朽ちぬ愛をもって愛するすべての人の上に、恵みがありますように。

という祝福のことばの中で新改訳が「朽ちぬ愛をもって」と訳している部分の問題についてお話ししました。
 この新改訳が「朽ちぬ愛をもって」と訳している部分は、「不死」、「不滅」、「朽ちぬもの」などを意味することば(アフサルシア)に「にあって」という前置詞(エン)がついているもので、直訳すれば「不死不滅にあって」となります。新改訳はこれを「愛する」を修飾するものと理解して、「不死不滅にあって」「愛する」つまり「朽ちぬ愛をもって愛する」と訳しているわけです。
 これに対しまして、この直訳で「不死不滅にあって」と訳されることばは、最初に出てくる「恵み」とつながっている「不死不滅)」という祝福を示していると考えた方がいいということをお話ししました。「不死不滅)」は神さまが与えてくださる祝福を示し、それにつけられた「にあって」という前置詞(エン)は、その「不死不滅)」がその前に出てくる「恵み」とつながっていて、相互に関連していることを示しているということです。このような理解からこの24節を訳しますと、

恵みと不死不滅が、私たちの主イエス・キリストを愛するすべての人にありますように。

となります。
 この「不死不滅)」は、基本的に、神さまの特質です。神さまは他の何者にも依存せず、ご自身で「不死不滅)」であられます。これに対しまして、造られたものは、ただ神さまに支えられて「不死不滅)」であることができます。
 先週は、被造物である人間において「不死不滅)」なものが歴史の現実になったのは、十字架にかかってご自身の民の罪の贖いを成し遂げられて後、死者の中からよみがえられたイエス・キリストの復活においてであるということをお話ししました。そして、私たちはイエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりにあずかっているということをお話ししました。お話としては、このことをさらにエペソ人への手紙の流れの中で見てみたいと思いましたが、今日は、先週お話ししたことを補足する意味で、それを神さまの契約という観点からお話ししたいと思います。


 造り主である神さまは人をご自身との契約の中にあるものとして神のかたちにお造りになりました。その契約は、一般に「わざの契約」と呼ばれます。人は初めからその契約のうちにあるものとして創造されています。また、それは神のかたちに造られて、神さまがお造りになったすべてのものを治める使命を委ねられている人間に与えられた契約です。その意味では、これは人間だけでなく、神さまがお造りになったすべてのものにかかわる契約です。これらのことから、これは「創造の契約」とも呼ばれます。
 このように、神さまの契約には全被造物にかかわる意味があるのですが、これからのお話では、人間にかかわることに焦点を合わせていきます。
 最初の人アダムはその契約のかしらとして、全人類の代表者の立場にありました。アダムはそのような立場にある者として、契約の神である主のみこころに従い通して、その報いとして与えられるより豊かな栄光に満ちたいのちを獲得すべきものでした。「わざの契約」あるいは「創造の契約」と呼ばれる最初の契約は、人が契約の主であられる神さまのみこころに従い通すことによって、それに対する報いとして、充満な栄光に満ちたいのち、すなわち、永遠のいのちを与えてくださることを約束してくださるものでした。このようにして与えられる、充満な栄光に満ちた永遠のいのちの特性が「不死不滅)」なのです。この「不死不滅)」にある永遠のいのちは、被造物の限界の中でではありますが、神さまの栄光を充満な形で映し出すいのちです。そのいのちのうちにある人間は、神さまとの愛にあるいのちの交わりを限りなく深めることができるのです。そして、これが、神さまが契約を与えてくださったときに意図しておられた祝福です。
 これには、もう一つの面があります。それは、もし人が契約の主であられる神さまのみこころに背いて罪を犯すなら、契約の違反者となるということです。その場合には、契約の違反者に対する刑罰として、人は死の力に捕えられてしまうことになります。
 実際には、アダムは神である主に対して罪を犯して、御前に堕落してしまいました。それによって、神さまの契約の違反者となってしまい、神のかたちとしての本来の栄光を失い、死の力に捕えられてしまいました。それも、全人類を代表する契約のかしらとしてのことでした。そのことは、たとえばローマ人への手紙5章12節に、

そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がったのと同様に、   それというのも全人類が罪を犯したからです。

と記されていることに示されています。これによって、アダムの後に生まれてくるすべての人は、アダムをかしらとする最初の契約ののろいの下に生まれ、死の力に捕えられている者として生まれてきます。そして、自らのうちに罪の性質を宿している者として生まれてきて、実際に罪を犯します。そのようにして、すべての人は罪と死の力に捕えられてしまっており、罪に対する刑罰による滅びへの道を突き進んでいます。残念なことに、生まれながらに罪と死の力に縛られてしまっている人には、その状態が自然で当然な状態であると見えてしまいます。すべての人が例外なく、生まれながらにその状態にありますから、そう思えてしまうわけです。これも自らの罪がもたらす暗やみによることです。
 人類がこのような状態になったとき、神である主は贖い主を備えてくださいました。それが、人の性質を取って来てくださった御子イエス・キリストです。イエス・キリストは、「わざの契約」あるいは「創造の契約」と呼ばれる最初の契約のうちにあるものとしてお生まれになりました。その点では、すべての人と同じです。けれども、イエス・キリストはアダムにあって罪を犯して堕落したものとしてはお生まれになりませんでした。むしろ、イエス・キリストは、アダムと同じように、契約のかしらとしての立場に立たれました。その意味で、イエス・キリストはアダムと対比されています。コリント人への手紙第一・15章45節には、

聖書に「最初の人アダムは生きた者となった。」と書いてありますが、最後のアダムは、生かす御霊となりました。

と記されていて、イエス・キリストは「最初の人アダム」と対比されて「最後のアダム」と呼ばれています。また、47節では、アダムを「第一の人」(「最初の人アダム」の「最初の人」と同じことば)と呼び、イエス・キリストを「第二の人」と呼んでいます。
 「最初の人アダム」は神である主に対して罪を犯して御前に堕落してしまいました。それによって、「わざの契約」あるいは「創造の契約」と呼ばれる最初の契約の違反者となりました。その結果、充満な栄光にあるいのちに入って、神である主との交わりをこの上なく深いものにするどころか、神である主とのいのちの交わりから断たれてしまい、死の力に捕らえられてしまいました。それは、アダムだけのことではありませんでした。アダムをかしらとするすべての人が、アダムにあって罪を犯し、罪責を負う者となってしまいました。これ以降、すべての人がアダムにあって罪を犯し、罪責を負う者として生まれてきて、実際に、罪を犯しています。
 この場合、アダムをかしらとするということは、生物学的にアダムにつながっているということ以上に、アダムを契約のかしらとしているということです。そこにはアダムをかしらとする契約の共同体があるのです。すべての人は、このアダムをかしらとする契約共同体の中に生まれてきます。
 このアダムをかしらとする契約の共同体は、かしらであるアダムにあって、神である主の御前に堕落してしまっており、神さまのご臨在の御許から退けられてしまい、神さまとのいのちの交わりを失ってしまっています。そのために、罪と死の力に捕えられてしまっています。そこでは、罪と死の力をもって支配する暗やみの力が働いてます。その様子が、エペソ人への手紙2章1節〜3節には、

あなたがたは自分の罪過と罪との中に死んでいた者であって、そのころは、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者として今も不従順の子らの中に働いている霊に従って、歩んでいました。私たちもみな、かつては不従順の子らの中にあって、自分の肉の欲の中に生き、肉と心の望むままを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。

と記されています。
 アダムをかしらとする契約共同体はアダムにある全人類をその構成員としていますが、このような状態にあることを指して「この世」と呼びます。
 これに対して、「最後のアダム」として来られたイエス・キリストは、十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従い通されました。その十字架の死によって、アダムにあって罪を犯して堕落していたご自身の民を、最初の契約ののろいである死の力の下から贖い出してくださいましたし、ご自身の民が実際に犯した罪をすべて贖ってくださいました。
 さらに、イエス・キリストは、この十字架の死に至るまでの従順によって「わざの契約」あるいは「創造の契約」と呼ばれる最初の契約を守り通されたのです。そして、それに対する報いとしての祝福により、アダムが目標としていた充満な栄光をお受けになり、死者の中からよみがえられ、「不死不滅)」な方となられました。
 これも、イエス・キリストだけにかかわることではありません。イエス・キリストをかしらとするすべての人がイエス・キリストにあって充満な栄光を受けて「不死不滅)」のもの、すなわち、永遠のいのちをもつものとなるためでした。そのようにして、神さまのご臨在の最も近くにおいて住まい、神さまとの充満な愛にあるいのちの交わりのうちに生きるものとなるためでした。これは、「わざの契約」あるいは「創造の契約」と呼ばれる最初の契約を与えてくださった神さまのみこころを実現することでもあります。
 この「最後のアダム」であるイエス・キリストをかしらとする神さまの契約は、一般に「恵みの契約」と呼ばれます。それは、イエス・キリストをかしらとするすべての者を罪と死の力の下から贖い出すための契約ということから「贖いの契約」あるいは「救済の契約」とも呼ばれます。
 先ほど、アダムをかしらとする契約の共同体があるということをお話ししました。それと同じように、イエス・キリストをかしらとする契約の共同体があります。それは、イエス・キリストがご自身の十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いにあずかっている者たちによって形成される共同体です。イエス・キリストの十字架の死にあずかって罪を贖っていただき、イエス・キリストの死者の中からのよみがえりにあずかって、復活のいのちによって新しく生まれた者たちによって形成されています。
 アダムをかしらとする契約の共同体が罪と死の力の下にあって、暗やみの主権者たちが支配しているのに対して、イエス・キリストをかしらとする契約共同体においては、イエス・キリストが成し遂げられた贖いの御業に基づいてお働きになる御霊がそこにご臨在して、それを導いてくださっています。そのことは、エペソ人への手紙1章23節において、

教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。

と記されています。つまり、イエス・キリストをかしらとする契約共同体とは、栄光のキリストのからだとしての教会のことです。そこには、「いっさいのものをいっさいのものによって満たす方」と言われている栄光のキリストが、御霊によってご臨在してくださって、私たちを治め導いてくださっておられます。これは、また、エペソ人への手紙2章20節〜22節において、

あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となるのであり、このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。

と記されている「主にある聖なる宮」、「神の御住まい」でもあります。
 さらに、イエス・キリストをかしらとする契約共同体は、それを栄光のキリストが御霊によって治めてくださっている所であるという点からは「神の国」と呼ばれます。また、そこに加えられている者たちが神の子どもとされているという点からは、「神の家族」と呼ばれます。ヨハネの福音書10章1節〜18節に記されていますように、イエス・キリストは、この契約共同体をイエス・キリストを牧者とする「羊の群れ」にたとえておられます。
 聖書は、この「恵みの契約」あるいは「贖いの契約」、「救済の契約」の文書です。それで、聖書は、父なる神さまが備えてくださった贖い主であるイエス・キリストをあかししています。ヨハネの福音書5章39節に記されているとおり、イエス・キリストは、ユダヤ人たちに、

あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思うので、聖書を調べています。その聖書が、わたしについて証言しているのです。

と教えておられます。この時にはまだ新約聖書は記されていませんでした。それで、この「聖書」は旧約聖書のことです。イエス・キリストは、旧約聖書がご自身をあかししていることを示しておられます。新約聖書がイエス・キリストをあかししていることは改めて言うまでもありません。ですから、旧約聖書と新約聖書が一貫して、父なる神さまが備えてくださった贖い主であり、ご自身の民の契約のかしらとなられたイエス・キリストをあかししているのです。ちなみに、旧約聖書の旧約は古い契約を表しています。古い契約というのは、「わざの契約」あるいは「創造の契約」と呼ばれる最初の契約のことではありません。それは「恵みの契約」あるいは「贖いの契約」、「救済の契約」の古い契約です。そして、新約聖書の新約は新しい契約を表しています。それは「恵みの契約」あるいは「贖いの契約」、「救済の契約」の新しい契約です。
 イエス・キリストはご自身が十字架におつきになる前の夜に、弟子たちと過越の食事をなさいました。その食卓で、ご自身が十字架の上で流される血が新しい契約を確立する血であることをあかしされました。ルカの福音書22章19節、20節には、

それから、パンを取り、感謝をささげてから、裂いて、弟子たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与える、わたしのからだです。わたしを覚えてこれを行ないなさい。」食事の後、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です。

と記されています。
 古い契約は、その過越の祭りの日の食事のために屠られた「過越の小羊」を初めとするいけにえの動物の血によって確立されていました。それらの動物の血はやがて来たるべきものの地上的なひな型で、永遠の神の御子イエス・キリストが十字架の上で流される血による罪の贖いを表しあかししていました。それで、いけにえの動物の血による契約を「古い契約」と呼び、御子イエス・キリストの血による契約を「新しい契約」と呼びます。
 私たちはアダムを契約のかしらとする人類の一員として生まれてきました。最初の人アダムにあって罪を犯して堕落している者として生まれてきたのです。そのために、造り主である神さまとのいのちの交わりから断たれており、死の力に捕えられている者として生まれてきました。そのような者として、生まれながらに自らのうちに罪の性質を宿しており、日々に罪を犯し続けています。これが、全人類の現実であり、私たちの現実でした。つまり、私たちは「わざの契約」あるいは「創造の契約」と呼ばれる最初の契約の違反者として、その契約ののろいの下に生まれてきて、アダムをかしらとする契約共同体を形成していたのです。アダムの子孫はすべてこのようなものとして生まれてきて、このような人生を歩みます。
 ただし、これには例外があります。すでにイエス・キリストを契約のかしらとしている契約共同体に移されている者の子どもたちは、主の約束によって、イエス・キリストを契約のかしらとしている契約の共同体としての意味をもつ地上にある教会の中に生まれてきます。また、両親がイエス・キリストに対する信仰を告白して、イエス・キリストをかしらとする契約共同体に移されたときには、その両親の下にある子どもたちも、同じ契約共同体の中にある者とされます。これは、その子どもたちが初めから救われているという意味ではありません。その子どもたちが、暗やみの主権者が支配していて「この世」と呼ばれる、アダムをかしらとする契約共同体の中にではなく、栄光のキリストの御霊がご臨在して治めてくださっている、イエス・キリストをかしらとする契約共同体(としての意味をもつ地上にある教会)の中に生まれている、あるいは移されているということです。その中で、福音のみことばに接し、自らの罪を自覚して、イエス・キリストを贖い主として信じる信仰をもつように導かれていくようになるということです。(残念ながら、このイエス・キリストをかしらとする契約共同体を捨ててしまうようになる人々もいます。)
 永遠の神の御子イエス・キリストは、アダムの子孫とは別の形で人としての性質をお取りになられました。私たちと同じ人の性質をお取りになるために、マリヤの胎に宿られましたが、それは御霊の創造的な御業によることでした。そこに、新しい創造の御業とも言うべき御霊のお働きがあったのです。(そのことはルカの福音書1章35節、マタイの福音書1章20節に示されています。)このようにして、御子イエス・キリストがお取りになった人の性質は、罪の性質のない、天地創造の初めに神さまが人を神のかたちにお造りになったときの本来の状態にある人の性質でした。これによって、イエス・キリストはまことの人であられますが、アダムの子孫ではなく、アダムと同じ立場において、最初の契約の下にある方としてお生まれになりました。
 神さまは、このようにしてまことの人となられた御子イエス・キリストをかしらとする新しい契約を与えてくださいました。それは、私たちを、アダムをかしらとする契約共同体の中から贖い出して、御子イエス・キリストを契約のかしらとする新しい共同体に移し替えてくださるためでした。私たちをアダムをかしらとする契約共同体から贖い出してくださるためには、アダムをかしらとしている者たちが受けなければならない罪と罪へのさばきを清算する必要があります。そのために、契約のかしらであられる御子イエス・キリストは十字架の上でいのちの血を流してくださり、私たちを罪と死の力から贖い出してくださったのです。そればかりでなく、父なる神さまは十字架の死に至るまでご自身のみこころに従いとおされたイエス・キリストに栄光をお与えになって、死者の中からよみがえらせてくださいました。これによって、イエス・キリストの死にあずかって罪と死の力の下から贖い出された私たちを、栄光のキリストをかしらとする契約共同体のうちへと導き入れてくださったのです。この栄光のキリストをかしらとする契約共同体においては、すべての者がかしらであるイエス・キリストの復活のいのちにあずかって生きるようになります。その復活のいのちの特質が「不死不滅)」であり、それゆえにそれは「永遠のいのち」と呼ばれます。
 このことは、先ほど引用しましたローマ人への手紙5章12節に続く箇所において、アダムとキリストの対比として示されています。18節〜21節には、

こういうわけで、ちょうど一つの違反によってすべての人が罪に定められたのと同様に、一つの義の行為によってすべての人が義と認められて、いのちを与えられるのです。すなわち、ちょうどひとりの人の不従順によって多くの人が罪人とされたのと同様に、ひとりの従順によって多くの人が義人とされるのです。律法がはいって来たのは、違反が増し加わるためです。しかし、罪の増し加わるところには、恵みも満ちあふれました。それは、罪が死によって支配したように、恵みが、私たちの主イエス・キリストにより、義の賜物によって支配し、永遠のいのちを得させるためなのです。

と記されています。
 父なる神さまは、ご自身の御子を贖い主として備えてくださって、その十字架の死と死者の中からのよみがえりによって贖いの御業を成し遂げてくださっただけではありません。旧約聖書を通して、そのような贖い主を備えてくださる約束を与えてくださり、新約聖書を通して、その贖い主によって成し遂げてくださった贖いの御業を私たちに知らせてくださいました。そして、父なる神さまが備えてくださった贖い主を信じる者たちすべてに、御霊によって、贖いの御業の効果を当てはめてくださって、アダムをかしらとする契約共同体から贖い出してくださり、御子イエス・キリストをかしらとする契約共同体の中に移し替えてくださるのです。
 このように、私たちは、イエス・キリストの十字架の死にあずかって、アダムをかしらとしている契約の共同体から贖い出されています。そして、イエス・キリストの死者の中からのよみがえりにあずかって、イエス・キリストをかしらとしている共同体のうちにある者となるように新しく生まれています。このことを言い換えますと、私たちはイエス・キリストの死にあずかって、アダムをかしらとする古い人に死んでおり、イエス・キリストの死者の中からのよみがえりにあずかって、イエス・キリストをかしらとする新しい人に造り変えられているということになります。私たちが古い人に死んで新しい人によみがえっているということには、アダムをかしらとする契約共同体から贖い出されて、イエス・キリストをかしらとする契約共同体に移されているということがともなっているのです。
 このことは、「恵みの契約」あるいは「贖いの契約」、「救済の契約」のかしらであられるイエス・キリストが新しい契約の礼典としてお定めになった洗礼において表現され、保証されています。先ほど引用しましたローマ人への手紙5章18節〜21節のすぐ後に記されている6章3節〜5節には、

それとも、あなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスにつくバプテスマを受けた私たちはみな、その死にあずかるバプテスマを受けたのではありませんか。私たちは、キリストの死にあずかるバプテスマによって、キリストとともに葬られたのです。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中からよみがえられたように、私たちも、いのちにあって新しい歩みをするためです。もし私たちが、キリストにつぎ合わされて、キリストの死と同じようになっているのなら、必ずキリストの復活とも同じようになるからです。私たちの古い人がキリストとともに十字架につけられたのは、罪のからだが滅びて、私たちがもはやこれからは罪の奴隷でなくなるためであることを、私たちは知っています。

と記されています。
 また、同じことが、先ほど引用しましたルカの福音書22章19節、20節に、

それから、パンを取り、感謝をささげてから、裂いて、弟子たちに与えて言われた。「これは、あなたがたのために与える、わたしのからだです。わたしを覚えてこれを行ないなさい。」食事の後、杯も同じようにして言われた。「この杯は、あなたがたのために流されるわたしの血による新しい契約です。

と記されている、新しい契約のもう一つの礼典において絶えず表示され、保証されているのです。
 私たちが救われるということは、私たちがイエス・キリストを信じる信仰によることですが、それは、私たちの心の中だけで起こることではありません。それは、アダムをかしらとする契約の共同体の中に生まれてきた私たちが、イエス・キリストが成し遂げられた贖いに基づく恵みによって、そこから贖い出されて、イエス・キリストをかしらとする契約共同体の中に移し替えられるということを意味しています。そして、このイエス・キリストをかしらとする契約の共同体の中で、そこにご臨在される栄光のキリストの御霊によって、父なる神さまと御子イエス・キリストとのいのちの交わりの中に生きることができるのです。そのようにしていきるいのちこそ、「不死不滅)」を特質とする永遠のいのちです。

 


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