説教日:2004年10月24日
聖書箇所:エペソ人への手紙6章21節〜24節
説教題:主を愛する人々に恵みが(2)


 エペソ人への手紙は、6章23節、24節に記されている、

どうか、父なる神と主イエス・キリストから、平安と信仰に伴う愛とが兄弟たちの上にありますように。私たちの主イエス・キリストを朽ちぬ愛をもって愛するすべての人の上に、恵みがありますように。

という祝福のことばをもって閉じています。
 先週は、24節に記されている、

私たちの主イエス・キリストを朽ちぬ愛をもって愛するすべての人の上に、恵みがありますように。

という祝福のことばの中で新改訳が「朽ちぬ愛をもって」と訳していることばの問題についてお話ししました。まず、それをまとめておきましょう。
 この新改訳が「朽ちぬ愛をもって」と訳している部分は、「不死」、「不滅」、「朽ちぬもの」などを意味することば(アフサルシア)に「にあって」という前置詞(エン)がついているものです。直訳すれば「不死不滅にあって」となります。そこには「」ということばはありません。新改訳はこれを「愛する」を修飾するものと理解して、「不死不滅にあって」「愛する」つまり「朽ちぬ愛をもって愛する」と訳しているわけです。
 けれども、先週お話ししましたように、この直訳で「不死不滅にあって」と訳されることばは、最初に出てくる「恵み」とつながっている「不死不滅)」を示していると考えられます。つまり、「不死不滅)」は神さまが与えてくださる祝福を示し、それにつけられた「にあって」という前置詞(エン)は、その「不死不滅)」がその前に出てくる「恵み」とつながっていることを示しているということです。そうしますと、この24節は、

恵みと不死不滅が、私たちの主イエス・キリストを愛するすべての人にありますように。

となります。
 この「不死不滅)」は、基本的に、神さまに当てはめられる特質です。他の何者にも依存せず、ご自身で「不死不滅である方」は神さまお一人です。造られたものはただ神さまに支えられて「不死不滅)」であることができます。そして、そのような意味での「不死不滅)」なものが歴史の現実になったのは、十字架にかかってご自身の民の罪の贖いを成し遂げられて後、死者の中からよみがえられたイエス・キリストの復活においてです。
 私たちの贖い主となるために来てくださった永遠の神の御子は、私たちと同じ人の性質を取って来てくださいました。ただし、その人の性質は罪によって腐敗してはいない、本来の人の性質でした。もしそうでなかったなら、御子イエス・キリストもご自身の罪へのさばきを受けなければならないことになり、私たちの罪に対する刑罰を、私たちに代わって負うことはできなかったはずです。御子イエス・キリストは、その人の性質において、十字架の死に至るまで父なる神さまのみこころに従い通されて、その完全な従順に対する報いとして栄光をお受けになって、死者の中からよみがえられました。これは御子イエス・キリストがお取りになった肉体と霊魂からなる人としての性質において起こったことです。(イエス・キリストの無限、永遠、不変の神としての性質には何の変化もありません。)これによって、「朽ちることがない」人の性質が歴史の現実になりました。今から2千年前のことです。


 このように、「不死不滅)」は、十字架にかかって死んで、3日の後に死者の中からよみがえられたイエス・キリストにおいて歴史の現実となっています。この「不死不滅)」がどのようなものであるかを理解するために、一つのことを考えてみたいと思います。それは、天地創造の初めに、神のかたちに造られた最初の人アダムとその妻エバは、まだこの「不死不滅)」をもっていなかったということです。この「不死不滅)」は、十字架にかかって死んで、3日の後に死者の中からよみがえられたイエス・キリストにおいて初めて歴史の現実になりました。
 このことについては、直接的に「不死不滅)」に触れることはありませんでしたが、すでに、いろいろな機会にお話ししてきました。それで、これまでのお話でお気づきになった方もおられると思いますが、私たちに与えられている祝福を確かめる意味でも、改めて、まとめておきたいと思います、
 天地創造の初めに神のかたちに造られた最初の人アダムとその妻エバがこの「不死不滅)」をもっていなかったということは、アダムとエバが初めから死ぬべきものとして造られていたということではありません。ローマ人への手紙5章12節に、

そういうわけで、ちょうどひとりの人によって罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がったのと同様に、―― それというのも全人類が罪を犯したからです。

と記されていますように、最初の人アダムが神である主に対して罪を犯して、御前に堕落したことによって、罪に対する刑罰として、死が人類の中に入ってきました。最初の人アダムは神のかたちに造られ、神のかたちとしての栄光と尊厳性を与えられてもっていました。その人としての本性には罪がありませんでしたから、その時には、死もありませんでした。アダムは神のかたちに造られた者に与えられていた聖さをもち、神である主の御前に義とされていました。そして、そのゆえに、神である主のご臨在の御前に住まい、主との愛にあるいのちの交わりのうちに生きていました。
 天地創造の初めに神のかたちに造られた最初の人アダムに与えられていたこのような祝福は、贖われているとはいえ、なおも自らのうちに罪を宿している、私たちには想像できないほどの祝福です。そうではあっても、その祝福は、まだ、十字架にかかって死んで、3日の後に死者の中からよみがえられたイエス・キリストにおいて歴史の現実となった「不死不滅)」とは違うものです。言い換えますと、この「不死不滅)」は、最初の人アダムが堕落する前に享受していた祝福をはるかに越える祝福であるのです。
 天地創造の初めに神のかたちに造られた最初の人アダムは、神のかたちとしての豊かな栄光を与えられてもっていましたが、なおも、充満な栄光をもつ者に変えられるべきものでした。そして、そのアダムが到達すべき目標であった充満な栄光をもっている状態が、エペソ人への手紙6章24節においてパウロが祈り求めている「不死不滅)」です。そして、それが十字架にかかって死んで、3日の後に死者の中からよみがえられたイエス・キリストにおいて歴史の現実となっているのです。
 創世記1章26節〜28節には、

そして神は、「われわれに似るように、われわれのかたちに、人を造ろう。そして彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」と仰せられた。神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」

と記されています。
 最初の人アダムは神のかたちに造られて、神さまがお造りになったすべてのものを治める使命を委ねられました。すべてのものを治めるということは、それを自分の思う通りに支配し、自分のためにそれらを利用するということではありません。そうではなく、神のかたちに造られているものとして、造り主である神さまの愛といつくしみを具体的に表すことによってそれらを治めるのです。それは、今の私たちのことばで言いますと、神さまが委ねてくださったすべてのものに仕えていくということです。
 実際、創世記2章15節には、

神である主は、人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。

と記されています。ここで、人がエデンの園を耕したと言われていますが、この「耕す」ということば(アーバド)は基本的には「仕える」という意味のことばです。このことばの名詞形は「しもべ」を意味しています。この時はアダムが神である主に対して罪を犯す前ですから、そこにのろいの陰はありません。その地を耕さなければ収穫がないというようなことはありませんでした。けれども、自らの考えも意志ももっていない植物たちがどんどん育っていくだけですと、園は雑然として荒れてしまいます。それで、人が手を入れて整理していく必要があります。また、地を耕してより豊かな収穫が得られれば、それによって養われている生き物たちのいのちもより豊かに支えられることになります。
 いずれにしましても、人はそのような、仕える働きを通して、見えない神さまを、この世界においてあかしするのです。お造りになったすべてのものを真実な御手をもって支えてくださっている主は、今日の目から見ると、ご自身がお造りになったすべてのものに仕えておられるように見えます。神さまはいのちあるもののいのちを祝福し、すべてのものをそれぞれの特性にしたがって生かしてくださっておられます。しかし、そのお働きは目には見えませんし、感覚ではとらえられません。いわば、縁の下の力持ちのような形ですべてのものを支えてくださっておられます。それこそが造り主である神さまの愛と恵みに満ちた栄光の現れです。神のかたちに造られている人間は、この神さまの栄光を、自分たちの働きを通して映し出してあかしするものです。本来ですと、そのように、造り主である神さまのみこころを中心として、人類の歴史と文化が形成されていったはずです。
 そのように、最初の人アダムは神である主から委ねられた使命を、主のみこころを中心として果たしつつ、愛と恵みの主をあかしする歩みを続けていって、最後に、その従順に対する報いとして、より栄光に満ちたいのちを与えられることになっていました。それによって、最初に神のかたちに造られたときの栄光は、充満な栄光に満ちたものとなるはずでした。それこそが、パウロが「不死不滅)」と言っているものです。
 ですから、この「不死不滅)」は、ただ単に、肉体的に死なないとか、いのちがいつまでも続くというだけのものではありません。それだけでしたら、最初に神のかたちに造られた状態のアダムも「不死不滅)」であったということになります。しかし、「不死不滅)」が表しているのは、神のかたちの栄光が、天地創造の初めに神のかたちに造られた時の豊かな栄光を越えて、充満な栄光を帯びたものとなった状態を意味しています。
 実際には、神のかたちに造られてこのような使命を委ねられている人間は、最後まで神である主のみこころに従って、神である主の愛といつくしみに満ちた栄光を現すことができませんでした。暗やみの主権者であるサタンの誘惑に従って、神である主に背いて、御前に堕落してしまいました。サタンは優れた御使いとして造られたのに、造り主である神さまの御前に高ぶり、自らをを神の位置に据えようとして、その栄光を腐敗させていました。サタンの考える栄光はすべてのものを自分に仕えさせることにあって、自分が仕えることにはありません。すべてのものを自分に仕えさせるためにすべての知恵と力を用いて、自分が仕えるために知恵と力を用いることは決してありません。そのようにして、サタンは愛と恵みに満ちた神である主の栄光とは正反対の腐敗した栄光を栄光であると勘違いしています。
 サタンの誘惑に従って神である主に対して罪を犯して御前に堕落してしまった人間も、神のかたちとしての栄光を腐敗させてしまいました。そのような腐敗した栄光を栄光であると勘違いしている人間の現実をイエス・キリストは明らかにしておられます。マルコの福音書10章42節〜45節に記されているとおり、イエス・キリストは弟子たちに、

あなたがたも知っているとおり、異邦人の支配者と認められた者たちは彼らを支配し、また、偉い人たちは彼らの上に権力をふるいます。

と語られて、そのことを明らかにされた後に、

しかし、あなたがたの間では、そうでありません。あなたがたの間で偉くなりたいと思う者は、みなに仕える者になりなさい。あなたがたの間で人の先に立ちたいと思う者は、みなのしもべになりなさい。人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。

と言われて、神のかたちの本来の栄光が仕えることに現れてくることを示されました。
 神のかたちに造られた人間が造り主である神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまったことによって、神のかたちではなくなったのではありません。堕落の後も人間は神のかたちに造られたものであり続けます。その意味で、人間は神のかたちの栄光を与えられています。けれども、人間はその自分に与えられている神のかたちの栄光を腐敗させてしまっているのです。そこに人間の罪の本質があります。神さまの愛と恵みに満ちた栄光を映し出すものであるはずが、暗やみの主権者の自己中心的に腐敗している栄光を映し出すものになってしまっています。
 このようにして、造り主である神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまっている人間は、神のかたちでありながら、造り主である神さまから心が離れてしまっており、およそ神ならぬものを神としてそれに仕えてしまっています。造り主である神さまから離れてしまっている人間は、ぶどうの木から切り離された枝のようなものです。しばらくの間は生きているように見えても、それは枯れていくだけでしかありません。それと同じように、造り主である神さまから離れてしまっている人間は、しばらくの間は生きているように見えても、死の力にとらえられています。やがて、肉体的な死を迎え、神さまのさばきに服するようになります。
 人間がこのような状態になってしまったことによって、神のかたちに造られている人間が、さらに充満な栄光に満ちたものとなるという、本来の目的を失ってしまいました。今お話ししていることに合わせて言いますと、「不死不滅)」に至ることはなくなってしまったということです。
 人は神さまの愛と恵みとまことに満ちた栄光を映し出すために神のかたちに造られています。そして、神さまの愛と恵みに満ちた栄光を充満な形で現すようになるために、充満な栄光をもつものとなるはずでした。そうなることが、「不死不滅)」に至るということです。
 父なる神さまは、このような状態になってしまったご自身の民のために、ご自身の御子を贖い主として立ててくださいました。御子はその父なる神さまのみこころに従って、人の性質をお取りになって来てくださいました。それは、罪によって堕落してしまった人の性質ではなく、天地創造の初めに神のかたちに造られたときの、本来の人の性質でした。それは、先ほどもお話ししましたように、御子イエス・キリストが私たちの代表者となってくださって、私たちの身代わりになって、私たちの罪に対するさばきを受けてくださるために必要なことでした。ヘブル人への手紙2章14節、15節に、

そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という、死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。

と記されているとおりです。
 今お話ししていることとのかかわりで注目しておきたいのですが、この後の17節、18節には、

そういうわけで、神のことについて、あわれみ深い、忠実な大祭司となるため、主はすべての点で兄弟たちと同じようにならなければなりませんでした。それは民の罪のために、なだめがなされるためなのです。主は、ご自身が試みを受けて苦しまれたので、試みられている者たちを助けることがおできになるのです。

と記されています。栄光をお受けになって父なる神さまの右の座に着座しておられる御子イエス・キリストは、「あわれみ深い、忠実な大祭司」として、「試みられている者たちを助ける」お働きをしてくださっています。いわば、私たちに仕えるお働きをしてくださっているのです。
 そのように、永遠の神の御子である方が、私たちと同じ人の性質をお取りになりました。それは永遠の神の御子であられることを止めたということではありませんし、永遠の神の御子が人に変化したということでもありません。永遠の神の御子であられる方が、人としてこの世を生きることをご自身のこととして経験されるようになったのです。そのようにして、永遠の神の御子であられる方が、人として生まれる経験をされ、罪に満ちているこの世の理不尽さをつぶさに経験され、最後には、十字架につけられて殺される経験をされました。そればかりでなく、十字架の上で、私たちの罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りとそのさばきをすべてお受けになる経験をされました。これによって、私たちの罪はすべて、また、完全に贖われることになりました。コリント人への手紙第二・5章21節には、

神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。

と記されています。また、それに先立つ18節、19節には、

これらのことはすべて、神から出ているのです。神は、キリストによって、私たちをご自分と和解させ、また和解の務めを私たちに与えてくださいました。すなわち、神は、キリストにあって、この世をご自分と和解させ、違反行為の責めを人々に負わせないで、和解のことばを私たちにゆだねられたのです。

と記されています。
 父なる神さまは私たちの「違反行為の責めを」すべてご自身の御子に負わせなさいました。そして、私たちには「和解のことば」を与えてくださいました。それは、私たちが「和解のことば」を委ねられた使者となるためですが、そのためにはまず、私たち自身がその「和解のことば」を受け入れて、御子イエス・キリストによって成し遂げられた贖いにあずかって、罪を赦され、永遠のいのちをもつようになっていなければなりません。
 このような意味をもった御子イエス・キリストの十字架の死には、消極的な意味と積極的な意味の二つの意味があります。
 消極的な意味というのは、いわば負債を返すというものです。私たちは神さまに対して罪を犯しており、その罪のすべてに対するさばきを受けなければなりません。私たちの罪はすべて永遠の刑罰に相当します。なぜなら、私たちの罪はすべて無限、永遠、不変の栄光の主に対する罪であるからです。これは、ただ、ご自身が無限、永遠、不変の栄光の主であられる方だけが贖うことができるものです。実際に、そのような方である御子イエス・キリストは十字架にかかって私たちの罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りによるさばきを余すところなく受けてくださいました。
 これは、私たちの想像をはるかに越える恵みですが、それでも、これは私たちが負っているものを、私たちに代わって返していただいたというべきものです。永遠の刑罰をもってさばかれるべき私たちに対する刑罰を取り除いていただいたということです。その意味で、これは、イエス・キリストの十字架の消極的な意味と呼ばれます。
 イエス・キリストの十字架の積極的な意味というのは、イエス・キリストがその人としての生涯の全体を通して、父なる神さまのみこころに従い通して、そのことに対する報いとして、充満な栄光に満ちたいのち、すなわち復活のいのちを獲得してくださったということです。イエス・キリストの十字架の死がイエス・キリストの従順の頂点であったことは、ピリピ人への手紙2章6節〜11節に、

キリストは、神の御姿であられる方なのに、神のあり方を捨てることができないとは考えないで、ご自分を無にして、仕える者の姿をとり、人間と同じようになられたのです。キリストは人としての性質をもって現われ、自分を卑しくし、死にまで従い、実に十字架の死にまでも従われたのです。それゆえ、神は、キリストを高く上げて、すべての名にまさる名をお与えになりました。それは、イエスの御名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが、ひざをかがめ、すべての口が、「イエス・キリストは主である。」と告白して、父なる神がほめたたえられるためです。

と記されています。
 これは最初のアダムがその生涯を通して神である主のみこころに従い通して、その従順に対する報いとして、充満な栄光に満ちたいのちを獲得すべきであったということに対応しています。最初のアダムは神のかたちに造られて、使命を委ねられていました。最後のアダムである御子イエス・キリストも神のかたちに造られている本来の人間の性質をお取りになって来てくださっただけでなく、使命を委ねられていました。それは、先ほど引用しました、マルコの福音書10章45節に記されている、

人の子が来たのも、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また、多くの人のための、贖いの代価として、自分のいのちを与えるためなのです。

というイエス・キリストのみことばに示されています。最初の人アダムに委ねられていた使命は、自分に委ねられたものたちをさまざまな形で生かすものとして、喜びをもって果たすことのできるものでした。最後のアダムとしてこられた御子イエス・キリストに委ねられた使命は、確かに、私たちご自身の民を生かしてくださるためのものでしたが、身の毛もよだつ死の苦しみを味わわなければ果たすことができないものでした。
 そのようにして父なる神さまのみこころに従い通された御子イエス・キリストは、私たちのために復活のいのち、すなわち、永遠のいのちを獲得してくださいました。この復活のいのちこそが「不死不滅)」と呼ばれるものです。
 十字架にかかって死んで、3日の後に死者の中からよみがえられたイエス・キリストを、父なる神さまが遣わしてくださった贖い主として信じて受け入れている人は誰でも、御霊のお働きによってこのイエス・キリストに結び合わされています。その人はイエス・キリストの十字架の死によって成し遂げられた罪の贖いにあずかっているだけでなく、イエス・キリストのよみがえりにあずかって、その復活のいのちによって新しく生まれており、その復活のいのちによって生かされています。エペソ人への手紙2章4節〜9節には、

しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、―― あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。―― キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。それは、あとに来る世々において、このすぐれて豊かな御恵みを、キリスト・イエスにおいて私たちに賜わる慈愛によって明らかにお示しになるためでした。あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。

と記されています。ここで、このすべてが「恵み」によっていることが強調されていることに注意してください。今お話ししていることとのかかわりで言いますと、ここに「不死不滅)」と「恵み」の結びつきが見られます。
 その意味で、私たちはすでに「恵み」によって「不死不滅)」にあずかっています。けれども、それはまだ完全な形で私たちのものとはなっていません。先週お話ししましたように、新約聖書においては、この「不死不滅)」ということばの力点は、その完成した状態の方にあります。それは、十字架にかかって私たちのための罪の贖いを成し遂げてくださった後に、充満な栄光お受けになってよみがえり、父なる神さまの右の座に着座されて、私たちのための大祭司として仕えてくださっている栄光のキリストが再び来てくださる終りの日に、私たちにおいて完成します。
 6章24節に記されている

恵みと不死不滅が、私たちの主イエス・キリストを愛するすべての人にありますように。

という祝福のことばは、今私たちが受けている祝福がさらに豊かに注がれることを祈り求めるとともに、終りの日に栄光のキリストによってもたらされる完成に私たちの目を向けさせてくれます。

 


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