説教日:2004年10月10日
聖書箇所:エペソ人への手紙6章21節〜24節
説教題:主を愛する人々に恵みが(1)


 エペソ人への手紙6章23節、24節には、

どうか、父なる神と主イエス・キリストから、平安と信仰に伴う愛とが兄弟たちの上にありますように。私たちの主イエス・キリストを朽ちぬ愛をもって愛するすべての人の上に、恵みがありますように。

と記されています。これは、この手紙を閉じるに当たっての祝福のことばです。
 すでにお話ししたことで、今日お話しすることにかかわっている一つのことを復習しておきたいと思います。ここに記されている祝福は、23節に記されている祝福と、24節に記されている祝福の二つに分けられます。
 23節に記されている、

父なる神と主イエス・キリストから、平安と信仰に伴う愛とが兄弟たちの上にありますように。

という祝福の冒頭には「平安」が出てきます。また、24節に記されている、

私たちの主イエス・キリストを朽ちぬ愛をもって愛するすべての人の上に、恵みがありますように。

という祝福の冒頭には「恵み」が出てきます。ここには「平安」と「恵み」の組み合わせがあります。言うまでもなく、この「平安」と「恵み」はともに「父なる神と主イエス・キリストから」与えられるものです。
 そして、この「平安」と「恵み」は、この手紙の最初の挨拶である1章2節に記されている、

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように。

という祝福のことばに出てくる、「恵みと平安」に対応していると考えられます。


 これまで23節の、

どうか、父なる神と主イエス・キリストから、平安と信仰に伴う愛とが兄弟たちの上にありますように。

ということばについてお話ししてきました。今日から24節の、

私たちの主イエス・キリストを朽ちぬ愛をもって愛するすべての人の上に、恵みがありますように。

ということばについてお話しします。
 ここには翻訳の上での難しい問題がありますので、今日はそれにかかわることをお話ししたいと思います。もちろん、それはこの問題を考えながら私たちに与えられている祝福を受け止めるためのことです。
 問題は、新改訳で、

私たちの主イエス・キリストを朽ちぬ愛をもって愛するすべての人の上に

と訳されている部分の「朽ちぬ愛をもって」と訳されたことばをどのように理解するかということです。これについてさまざまな意見があります。
 まず、ことばの問題ですが、この「朽ちぬ愛をもって」と訳されたことば(エン・アフサルシア)は、文字通りには、朽ちることがないという意味の「不死にあって」あるいは「不滅にあって」というもので、ここには「」ということばはありません。これを「朽ちぬ愛をもって」と訳したのは、この「不死不滅にあって」ということばが、主イエス・キリストに対する私たちの愛を修飾して説明することばであると理解しているからです。これも一つの有力な解釈です。
 この「不死不滅)」という意味のことば(アフサルシア)が用いられている新約聖書の箇所をいくつか見てみましょう。これは復活のいのちのことを述べているコリント人への手紙第一・15章において何回か用いられています。
 42節〜44節前半には、

死者の復活もこれと同じです。朽ちるもので蒔かれ、朽ちないものによみがえらされ、卑しいもので蒔かれ、栄光あるものによみがえらされ、弱いもので蒔かれ、強いものによみがえらされ、血肉のからだで蒔かれ、御霊に属するからだによみがえらされるのです。

と記されています。42節で「朽ちないもの」と訳されているのがこのことばです。
 また、51節〜54節には、

聞きなさい。私はあなたがたに奥義を告げましょう。私たちはみなが眠ってしまうのではなく、みな変えられるのです。終わりのラッパとともに、たちまち、一瞬のうちにです。ラッパが鳴ると、死者は朽ちないものによみがえり、私たちは変えられるのです。朽ちるものは、必ず朽ちないものを着なければならず、死ぬものは、必ず不死を着なければならないからです。しかし、朽ちるものが朽ちないものを着、死ぬものが不死を着るとき、「死は勝利にのまれた。」としるされている、みことばが実現します。

と記されています。53節と54節で「朽ちないもの」と訳されているのがこのことばです。
 ここには「不死」と訳されていることばも出てきますが、それはまた別のことば(アサナシア)です。
 また、52節にも「朽ちないもの」ということばが出てきますが、これは、53節と54節で「朽ちないもの」と訳されていることばの形容詞(アフサルトス)です。53節と54節で「朽ちないもの」と訳されていることばは名詞です。
 このように、ここでは、「朽ちないもの」と訳されていることば(アフサルシア)は、終りの日のよみがえりによってもたらされる復活のからだにあるいのちを表すのに用いられています。同じことはテモテへの手紙第二・1章10節にも見られます。9節、10節には、

神は私たちを救い、また、聖なる招きをもって召してくださいましたが、それは私たちの働きによるのではなく、ご自身の計画と恵みとによるのです。この恵みは、キリスト・イエスにおいて、私たちに永遠の昔に与えられたものであって、それが今、私たちの救い主キリスト・イエスの現われによって明らかにされたのです。キリストは死を滅ぼし、福音によって、いのちと不滅を明らかに示されました。

と記されています。最後に、

福音によって、いのちと不滅を明らかに示されました。

と言われているときの「不滅」と訳されていることばが、コリント人への手紙第一・15章で「朽ちないもの」と訳されていることば(アフサルシア)です。
 また、先ほど引用しましたコリント人への手紙第一・15節52節に出てきました形容詞(アフサルトス)が用いられている箇所も見ておきたいと思います。
 このことばは、ローマ人への手紙1章23節とテモテへの手紙第一・1章17節では、神さまについて用いられています。ローマ人への手紙1章21節〜23節には、

というのは、彼らは、神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなったからです。彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。

と記されています。この「不滅の神」の「不滅の」と訳されていることばが、コリント人への手紙第一・15章53節と54節で「朽ちないもの」と訳されていることばの形容詞(アフサルトス)です。
 また、テモテへの手紙第一・1章17節には、

どうか、世々の王、すなわち、滅びることなく、目に見えない唯一の神に、誉れと栄えとが世々限りなくありますように。アーメン。

という頌栄が記されています。ここではこのことば(形容詞)は「滅びることなく」訳されています。
 さらにこの形容詞は私たちが受け継ぐ相続財産のことを述べるペテロの手紙第一・1章4節にも用いられています。3節、4節には、

私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。また、朽ちることも汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これはあなたがたのために、天にたくわえられているのです。

と記されています。この「朽ちることも・・・ない」ということば(形容詞)がそれです。
 また、同じ1章の23節には、

あなたがたが新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく、朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです。

と記されています。この「朽ちない種」の「朽ちない」がこのことば(形容詞)で表されています。
 また、3章4節には、

むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人がらを飾りにしなさい。これこそ、神の御前に価値あるものです。

と記されています。この「朽ちることのないもの」がこのことば(形容詞)で表されています。
 これらのことから、この「朽ちることがないこと」を表す(アフサルシアという)ことばは、基本的に神さまご自身の特質であることが分かります。ご自身で「朽ちることがない方」は神さまお一人です。造られたものは、造られたものとしての限界の中で、その神さまの特質にあずかって「朽ちることがない」という特質を与えられているのです。言い換えますと、「朽ちることがない方」であられる神さまに支えられて「朽ちることがないもの」であることができるのです。
 また、この「朽ちることがないもの」であるということは、特に、神のかたちに造られている人間にかかわる特質として描かれています。それは、何よりもまず、十字架の死をもってご自身の民のために罪の贖いを成し遂げて、死者の中からよみがえられてご自身の民の復活のいのちの源となられた御子イエス・キリストご自身に当てはまるものです。イエス・キリストの復活によって「朽ちることがないもの」がこの歴史の現実となっています。栄光のキリストこそが歴史における「朽ちることがない方」の初めであり源です。ですから、「朽ちることがない」という特質は、栄光を受けて死者の中からよみがえられた御子イエス・キリストにあって私たちのものとなります。言い換えますと、「朽ちることがない」という特質は、御霊のお働きによって栄光のキリストに結び合わされている者の特質なのです。そして、栄光を受けて死者の中からよみがえられた御子イエス・キリストは、今、父なる神さまの右の座に着座しておられますから、この「朽ちることがない」という特質は天にあるものの特質であるとも言われています。
 そして、この「朽ちることがないもの」が私たちの間において完成するのは終りの日、すなわち栄光のキリストの再臨の日においてです。
 以上のことを踏まえて、新改訳が、

私たちの主イエス・キリストを朽ちぬ愛をもって愛するすべての人の上に、恵みがありますように。

と訳している祝福のことばを見てみましょう。問題は、直訳で「不死不滅にあって」ということば(エン・アフサルシア)が何を修飾し説明しているかということです。先ほどお話ししましたように、新改訳は、それが私たちの主イエス・キリストに対する愛を修飾し説明していると理解しています。つまり、主イエス・キリストに対する私たちの愛は朽ちることがないということです。
 最初にお話ししましたように、これは、多くの人に受け入れられている解釈です。実際、コリント人への手紙第一・13章8節には、

愛は決して絶えることがありません。

と記されており、13節には、

こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。

と記されています。
 けれども、すでに引用しました「朽ちることがないこと」を表すことば(アフサルシア)やその形容詞が用いられている箇所を見てみますと、それは、本来、神ご自身に当てはめられる特質で、それが私たちに当てはめられるときには、やがて来たるべき時代に属するものとしての復活のからだや天にたくわえられている相続財産などを表しています。
 もちろん、私たちは来たるべき時代のものとなっています。その来たるべき時代のものであることは、栄光のキリストが父なる神さまの右の座から遣わしてくださった御霊によって新しく造られているということを本質としています。私たちはその御霊のお働きによって、十字架にかかってお死にになり、死者の中からよみがえられたイエス・キリストを、父なる神さまが私たちのために備えてくださった贖い主、救い主として信じるようになりました。その信仰によって義と認められ、神の子どもとしての身分を受けています。私たちは御霊によってイエス・キリストに結び合わされており、イエス・キリストとともに死に、イエス・キリストとともによみがえっています。エペソ人への手紙2章4節〜9節には、

しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、罪過の中に死んでいたこの私たちをキリストとともに生かし、―― あなたがたが救われたのは、ただ恵みによるのです。―― キリスト・イエスにおいて、ともによみがえらせ、ともに天の所にすわらせてくださいました。それは、あとに来る世々において、このすぐれて豊かな御恵みを、キリスト・イエスにおいて私たちに賜わる慈愛によって明らかにお示しになるためでした。あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。

と記されています。
 その意味で、私たちはすでに新しい時代のものとしての特質をもっています。けれども、それはまだ完全に実現してはいません。それで、エペソ人への手紙4章22節〜24節に、

その教えとは、あなたがたの以前の生活について言うならば、人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てるべきこと、またあなたがたが心の霊において新しくされ、真理に基づく義と聖をもって神にかたどり造り出された、新しい人を身に着るべきことでした。

と記されていますように、私たちにはなおも、

人を欺く情欲によって滅びて行く古い人を脱ぎ捨てるべきこと

と言われているような一面があるのです。ここで「滅びて行く」と訳されていることば(フセイローの分詞)は、6章24節に用いられている「朽ちることがないもの」を表すことば(アフサルシア)と、動詞と名詞の違いがありますが、意味の上では反対のことを表すことばです。それで、その「滅びて行く」は「朽ちて行く」と訳してもいいのです。
 このように、私たちにはなおも「朽ちて行く」ものを宿しているという一面があります。そのために、私たちの愛にはなおも腐敗の陰があり、私たち自身の罪が生み出している自己中心性が、私たちの愛を歪めてしまっています。それで、ローマ人への手紙12章9節では、

愛には偽りがあってはなりません。

と戒められています。
 すでに引用した新約聖書のいろいろな箇所からうかがえますが、「朽ちることがないもの」を表すことば(アフサルシア)は、このような状態にあるものには用いられていません。ただ、形容詞の場合には、ペテロの手紙第一・3章4節の、

むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人がらを飾りにしなさい。これこそ、神の御前に価値あるものです。

という戒めにおいて、現在の私たちの状態から生まれてくるものについて用いられています。そうではあっても、エペソ人への手紙6章24節では、この形容詞ではなく、「朽ちることがないもの」を表すことば(アフサルシア)の方が用いられています。
 このようなことから、エペソ人への手紙6章24節に記されている、

私たちの主イエス・キリストを・・・愛するすべての人の上に、恵みがありますように。

という祝福のことばに出てくる、直訳で「不死不滅にあって」ということばは、たとえ「愛」というもっとも大切なものではあっても、今の地上の生を生きている私たちから出てくるもののことを説明しているのではないのではないかと思われます。
 ある人々は、この直訳で「不死不滅にあって」ということばは、その直前に出てくる「私たちの主イエス・キリスト」を修飾して説明していると考えています。この理解では、この祝福は、

不死不滅のうちにおられる私たちの主イエス・キリストを愛するすべての人の上に、恵みがありますように。

となります。
 そうしますと、なぜここで「私たちの主イエス・キリスト」のことを「不死不滅のうちにおられる」というように説明しているのか、ということが問われることになります。これに対しまして、エペソ人への手紙においてはイエス・キリストが父なる神さまの右の座に着座しておられるということが強調されていることに注目します。そして、イエス・キリストが「不死不滅のうちにおられる」ということは、栄光のキリストが父なる神さまの右の座に着座しておられるという意味で、天的なところにおられることを、簡潔に言い換えたものであるというのです。
 これには教理的な問題はありません。けれども、この理解に対しては反対論があります。それは、この理解では、栄光のキリストが「不死不滅のうちにおられる」というように、「不死不滅)」を表すことば(アフサルシア)が、栄光のキリストのおられる天的な所を象徴的、比喩的に表しているとされていますが、このことばにはそのような場所的な意味を表す用例がないということです。
 それで、別の人々は、この直訳で「不死不滅にあって」ということばは、最初に出てくる「恵み」を修飾して説明していると考えています。そして、「不死不滅にあって」の「あって」(「ある」)は、この「不死不滅)」(という名詞)を前に出てきた「恵み」(という名詞)につなぐものと理解します。この理解では、この祝福は、

恵みと不死不滅が、私たちの主イエス・キリストを愛するすべての人の上にありますように。

となります。
 おそらくこの理解がいちばん問題が少ないと思われますが、これを支持することの一つは、これに先立つ23節に記されている、

どうか、父なる神と主イエス・キリストから、平安と信仰に伴う愛とが兄弟たちの上にありますように。

という祝福とのつながりです。
 最初に復習としてお話ししましたが、23節に記されている祝福の冒頭には「平安」が出てきます。また、24節に記されている祝福の冒頭には「恵み」が出てきます。そして、ここに見られる「平安」と「恵み」の組み合わせは、この手紙の最初の挨拶において述べられている、
私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように。
という祝福のことばに出てくる、「恵みと平安」に対応していると考えられます。
 このように、この手紙の最後の6章23節、34節に記されている祝福においては、「父なる神と主イエス・キリストから」与えられる「平安」と「恵み」が中心になっています。そして、「平安」のことを述べている23節では、その「平安」とともに「信仰に伴う愛」が与えられるようにと述べられています。24節もこれと同じ形になっているとしますと、24節に記されている祝福は、

恵みと不死不滅が、私たちの主イエス・キリストを愛するすべての人の上にありますように。

というように、「恵み」とともに「不死不滅)」が与えられるようにと述べられていることになるわけです。
 問題は、この24節では「恵み」がいちばん最初に出てきて、「不死不滅にあって」ということばがいちばん最後に出てくるので、二つが離れすぎているということです。そのことは、問題ではありますが、このような理解を否定するほどのものではありません。
 さらに言いますと、この直訳で「不死不滅にあって」ということばを最後にもってくることには意味があると考えられます。それはこのことばを最後にもってくることによって「恵み」との結びつきで「不死不滅)」を強調しているということです。これによって、私たちが「父なる神と主イエス・キリストから」与えられている「恵み」が「朽ちることがないもの」であるということと、その「恵み」が私たちにもたらすものが、「不死不滅)」であること、すなわち、やがて来たるべき時代のものの特質を備えた「朽ちることがないもの」であることを示していると考えられます。
 これは、私たちが祈り求めているものではなく、御霊によって霊感された使徒によって記された祝福として記されているものです。それで、これは、父なる神さまが御子イエス・キリストによって私たちに与えてくださっている祝福を、祈りの形で保証しているものです。しかも、この祝福はエペソ人への手紙を閉じるものとして記されています。
 そのような意味をもった祝福は、直訳で「不死不滅にあって」ということばをもって閉じています。そして、この「不死不滅)」ということば(アフサルシア)は、終りの日の栄光のキリストの再臨によってもたらされる、やがて来たるべき新しい時代のものの特質を表すことばでした。これによって、この祝福は、私たちの目を、栄光のキリストの再臨の日と、栄光のキリストが与えてくださるやがて来たるべき時代に向けさせてくれます。それとともに、それが「父なる神と主イエス・キリストから」与えられている「恵み」によって私たちの現実となることを私たちに確信させてくれるのです。
 このように、エペソ人への手紙はやがて来たるべき時代への確かな望みのうちに結ばれています。

 


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