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説教日:2004年10月2日 |
この「兄弟たち」は、次の23節で「私たちの主イエス・キリストを・・・愛するすべての人」と言い換えられています。「私たちの主イエス・キリストを・・・愛するすべての人」というのは、イエス・キリストを信じているすべての人というのと同じくらい意味が広いものです。それでこの場合の「兄弟たち」は、この手紙の読者たちを中心においてのことではありますが、この手紙の読者たちを越えて、すべての聖徒たちを含んでいると考えられます。 このことは、この手紙の流れの中からも考えることができます。これに先立つ18節〜20節においては、 すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。また、私が口を開くとき、語るべきことばが与えられ、福音の奥義を大胆に知らせることができるように私のためにも祈ってください。私は鎖につながれて、福音のために大使の役を果たしています。鎖につながれていても、語るべきことを大胆に語れるように、祈ってください。 という祈りに関する戒めが記されています。 18節では、この手紙の読者たちがどんなときにも御霊によって祈るべきことが記されています。そして、「そのためには」「すべての聖徒」たちのために祈りつつ目を覚ましているべきであると言われています。これは、「すべての聖徒」たちのための祈りのうちに目を覚ましていることの中で、御霊によって祈ることができるということを示しています。ここに記されている戒めでは、御霊によって祈る祈りのための視野が「すべての聖徒」たちへと広げられています。そして、このような視野の広がりの中で、「平和」が「兄弟たち」にあるようにと言われているのです。 神の子どもたちが御霊によって祈ることにかかわるパウロの教えとして、すでに何回か取り上げてきましたが、改めて、ローマ人への手紙8章14節〜16節に記されている教えを見てみましょう。そこには、 神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父。」と呼びます。私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。 と記されています。 15節では、 私たちは御霊によって、「アバ、父。」と呼びます。 と言われています。この「アバ、父。」の「アバ」はアラム語を音訳したもので、子どもが父親を信頼して呼ぶ呼び方で、日本語では「お父さん」ということばに当たります。ここでは、御霊は、私たちが父なる神さまを個人的に親しく「お父さん」と呼ぶように導いてくださると言われています。 私たちが「アバ、父。」と呼ぶということは、祈りにおいてのことです。ですから、御霊によって祈るということは、父なる神さまをこのように個人的に親しく「アバ、父。」と呼ぶということから始まる祈りを祈るということです。 古い契約の下にあっては、誰も、父なる神さまに向かって「アバ、父。」と呼ぶことができる者はいませんでした。信仰の父と呼ばれるアブラハムも、国家としてのイスラエルの土台を据えたモーセも、偉大な預言者たちも、神さまに向かって個人的に親しく「アバ、父。」と呼ぶことはできませんでした。父なる神さまをそのように呼んだのはイエス・キリストが初めてでした。新改訳欄外引照にありますように、この「アバ、父。」ということばはマルコの福音書14章36節に出てきます。そこには、 アバ、父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしの願うことではなく、あなたのみこころのままを、なさってください。 というイエス・キリストのゲツセマネの祈りが記されています。イエス・キリストは永遠の神の御子であられますから、人の性質を取ってこられたときも、父なる神さまに向かって個人的に親しく「アバ、父。」と呼びかけられて、親しい交わりをもっておられました。 私たちは自らのうちに罪の性質を宿した者として生まれてきて、実際に、父なる神さまに対して罪を犯しています。そのような私たちが、福音のみことばにあかしされていることにしたがって、父なる神さまがご自身の御子を私たちのための贖い主として遣わしてくださったこと、御子は私たちの罪を贖ってくださるために十字架にかかって死んでくださり、私たちを新しいいのちで生かして下るために死者の中からよみがえってくださったことを信じるようになりました。そのように、私たちが信じたのは、御霊のお導きによることです。御霊が私たちの心を導いてくださって、福音のみことばにあかしされていることを信じることができるようにしてくださったのです。そのようにして信じた私たちは、御子イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いにあずかって、罪を赦され、罪をすべて清算していただいています。そして、死者の中からよみがえられたイエス・キリストの復活のいのちによって生かしていただいています。このすべてが御霊のお働きであり、そのように、イエス・キリストの復活のいのちで生かしていただいている私たちの歩みを導いてくださっているのも御霊です。それで、14節では、 神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。 と言われているのです。この御霊のお導きの中心にあるのが、 私たちは御霊によって、「アバ、父。」と呼びます。 と言われていること、すなわち、父なる神さまに向かって個人的に親しく「アバ、父。」と呼びかけることから始まる祈りによる交わりであるわけです。 16節では、このような御霊のお導きの一つが、 私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。 と言われています。御霊は私たちに自分たちが神の子どもであることを確信させてくださいます。これは、神の御霊のあかしによって、私たちそれぞれが神の子どもであるということを信じるようになるということです。もちろん、それは、御霊が私たちに福音のみことばにおいてあかしされていることを悟らせてくださり、それを信じるように導いてくださることによっています。 14節では、 神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。 と言われています。このことばだけから言いますと、 神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです が、この他に、神の御霊に導かれていない神の子どももいるのかどうかは分かりません。けれども、9節には、 キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。 と記されています。この「キリストの御霊」は「神の御霊」が「キリストの御霊」として私たちのうちに宿ってくださるということを表すものです。ですから、神の子どもはすべて神の御霊をもっているだけでなく、神の御霊をもたない人は神の子どもではありません。そして、神の御霊をもっているが神の御霊に導かれていないという人もあり得ません。それで、神の子どもはすべてに導かれているし、神の御霊に導かれていない神の子どもはいないということになります。 ただ、現実には、神の子どもでも神の御霊の導きを受け入れないことがあります。エペソ人への手紙4章30節に、 神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。 と記されているとおりです。私たちは、私たちを導いてくださり、私たちに自分が神の子どもであることを確信させてくださり、父なる神さまに向かって「アバ、父。」と呼ばせてくださる神の御霊を悲しませることがあるのです。 この、 神の聖霊を悲しませてはいけません。 という戒めは、これに先立つ25節〜26節に記されている、 ですから、あなたがたは偽りを捨て、おのおの隣人に対して真実を語りなさい。私たちはからだの一部分として互いにそれぞれのものだからです。怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。悪魔に機会を与えないようにしなさい。盗みをしている者は、もう盗んではいけません。かえって、困っている人に施しをするため、自分の手をもって正しい仕事をし、ほねおって働きなさい。悪いことばを、いっさい口から出してはいけません。ただ、必要なとき、人の徳を養うのに役立つことばを話し、聞く人に恵みを与えなさい。 という戒めを受けています。これらの一連の戒めを受けて、 神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、贖いの日のために、聖霊によって証印を押されているのです。 と戒められているわけです。 この一連の戒めは、神の子どもたちの共同体、すなわち神の家族にかかわる戒めです。それは、その最初の25節で、 ですから、あなたがたは偽りを捨て、おのおの隣人に対して真実を語りなさい。私たちはからだの一部分として互いにそれぞれのものだからです。 と言われていることにはっきりと表されています。ですから、神の家族の兄弟姉妹たちの関係が損なわれてしまうことによって、神の御霊をもっとも悲しませることになるのです。 これを逆に言いますと、御霊に導かれて歩む歩みにおいては、神の家族における兄弟姉妹たちへの愛が現れてくるということです。それは、ガラテヤ人への手紙5章22節、23節に、 しかし、御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制です。このようなものを禁ずる律法はありません。 と記されていますように、御霊が私たちのうちに結んでくださる実は愛によって集約されるもので、それはすべて、神の家族の交わりのうちに現れてくるものであるからです。 これはまた、主の戒めに沿っています。同じガラテヤ人への手紙5章13節、14節に、 兄弟たち。あなたがたは、自由を与えられるために召されたのです。ただ、その自由を肉の働く機会としないで、愛をもって互いに仕えなさい。律法の全体は、「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」という一語をもって全うされるのです。 と記されているとおりです。 今日お話ししていることとのかかわりで大切なことですが、これらの御霊のお働きは、私たちそれぞれに対するお働きであるという意味では個人的なものですが、これを個人主義的に理解してはならないのです。御霊は、私たちそれぞれが神の子どもであることを確信させてくださいます。そして、私たちそれぞれが父なる神さまに向かって親しく「アバ、父。」と呼びかけるように導いてくださっています。しかし、これは、私たちはそれぞれが父なる神さまに向かって親しく「アバ、父。」と呼びかける神の子どもであり、それゆえに、神の家族の一員であるということを信じるようになるという意味です。 私たちは、信仰は個人的なことであるということを誤解して、個人主義的にとらえてしまいがちです。しかし、御子イエス・キリストが十字架の上で流してくださった血によって確立された新しい契約の書としての新約聖書には、信仰を個人主義的にとらえる教えはありません。また、その逆に、信仰を全体主義的にとらえる教えもありません。私たちそれぞれが御子イエス・キリストにある神の子どもであるということと、それゆえに私たちは神の家族であるということがまったく調和しているのです。 ローマ人への手紙8章の流れをたどっていきますと、28節〜30節には、 神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。 と記されています。 29節で、 神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められた と言われていることや、30節で、 神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。 と言われていることは、私たちそれぞれに当てはまるという意味で個人的なことです。けれども、29節では、 神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められた と言われた後で、 それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。 と言われています。ここには、御子イエス・キリストを「長子」とする神の家族があることが明確に示されています。私たちは御子イエス・キリストを「長子」とする神の家族の一員であるので「御子のかたちと同じ姿」に造り変えられているのです。それは、30節で、 神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。 と言われているプロセスを経て実現しているし、これからも実現していくことです。 御子イエス・キリストが十字架の上で流してくださった血によって確立された新しい契約の下では、古い契約の下にあった地上的なひな型において、いわば視聴覚教材的に示されていたことの本体が現実になりました。それで、私たちはその本体であるイエス・キリストの十字架の死による罪の贖いを信じて実際に罪を赦されています。また、御霊のお働きによってイエス・キリストの復活のいのちによって生かされています。これらすべては私たちそれぞれに起っています。その意味では個人的なことです。けれども、それは、御子イエス・キリストにあって起っていることです。私たちそれぞれが御子イエス・キリストに結び合わされていることによって起っているのです。そして、私たちそれぞれを御子イエス・キリストに結び合わせてくださっているのが御霊のお働きです。 このことをイエス・キリストはぶどうの木とその枝の関係にたとえて教えてくださいました。ヨハネの福音書15章4節〜6節には、 わたしにとどまりなさい。わたしも、あなたがたの中にとどまります。枝がぶどうの木についていなければ、枝だけでは実を結ぶことができません。同様にあなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません。わたしはぶどうの木で、あなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて火に投げ込むので、それは燃えてしまいます。 というイエス・キリストの教えが記されています。 そして、この教えを踏まえて、9節では、 父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛しました。わたしの愛の中にとどまりなさい。 と戒められており、12節では、 わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです。 と教えられています。これを先ほどのローマ人への手紙8章29節のことばに合わせて言いますと、私たちは御子イエス・キリストを「長子」とする神の家族の中で、「長子」であられるイエス・キリストにならって互いに愛し合うように戒められているということになります。 このヨハネの福音書では、20章17節において、十字架の死によってご自身の民のための罪の贖いを成し遂げられてから、死者の中からよみがえられたイエス・キリストが、そのよみがえりの朝に、マグダラのマリヤに言われたことばが記されています。そこには、 イエスは彼女に言われた。「わたしにすがりついていてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないからです。わたしの兄弟たちのところに行って、彼らに『わたしは、わたしの父またあなたがたの父、わたしの神またあなたがたの神のもとに上る。』と告げなさい。」 と記されています。ヨハネの福音書の中では、イエス・キリストが弟子たちのことを「わたしの兄弟たち」とお呼びになり、そのこととのかかわりで父なる神さまのことを「わたしの父またあなたがたの父」とお呼びになったのは、この時が初めてです。このイエス・キリストのことばにも、イエス・キリストの死者の中からのよみがえりによって、イエス・キリストを「長子」とする神の家族が生み出されていることが示されています。 私たちは御霊によってイエス・キリストと結び合わされているので、イエス・キリストとともに十字架につけられて古い自分に死んでおり、イエス・キリストとともによみがえって新しい復活のいのちに生きる者となっています。そこには、御霊によってイエス・キリストと結び合わされている神の子どもの共同体があります。それが神の家族です。私たちが神の子どもとしての身分を与えられており、御霊に導かれて歩み、父なる神さまを個人的に親しく「アバ、父。」と呼びかけることができるのは、私たちがこの神の家族に加えられているからです。このような、信仰の家族という共同体を離れて神の子どもであることを考えることはできません。そして、神の家族にあって兄弟として互いに愛し合うことを離れて、御霊に導かれている神の子どもであることを考えることはできません。 ヨハネはその第一の手紙でこのことを強調しています。4章19節〜5節1節には、 私たちは愛しています。神がまず私たちを愛してくださったからです。神を愛すると言いながら兄弟を憎んでいるなら、その人は偽り者です。目に見える兄弟を愛していない者に、目に見えない神を愛することはできません。神を愛する者は、兄弟をも愛すべきです。私たちはこの命令をキリストから受けています。イエスがキリストであると信じる者はだれでも、神によって生まれたのです。生んでくださった方を愛する者はだれでも、その方によって生まれた者をも愛します。 と記されています。 また、3章11節、12節には、 互いに愛し合うべきであるということは、あなたがたが初めから聞いている教えです。カインのようであってはいけません。彼は悪い者から出た者で、兄弟を殺しました。なぜ兄弟を殺したのでしょう。自分の行ないは悪く、兄弟の行ないは正しかったからです。 と記されています。 私たちが、エペソ人への手紙6章23節に記されている、 どうか、父なる神と主イエス・キリストから、平安と信仰に伴う愛とが兄弟たちの上にありますように。 というパウロの祈りを聞くときに、そして、ここで祈り求められているのは「兄弟たち」が「信仰に伴う愛」をもって互いに愛し合うことによって生み出される「平和」であるということを考えるときに、まず思い出すのは、おそらく、カインが兄弟アベルを殺してしまったことでしょう。それは、人類の罪による堕落の後の歴史における最初の家族に生まれてしまった兄弟への憎しみです。ここでパウロが祈り求めている信仰の家族の「兄弟たち」の間に生み出されている「平和」は「信仰に伴う愛」によって生み出されるもので、どちらも父なる神さまと御子イエス・キリストの恵みによって与えられているものです。それは、人類の堕落の後の歴史において、罪の暗やみが最初に生み出した兄弟への憎しみに対して、御子イエス・キリストにあって父なる神さまが与えてくださっている答えでもあるのです。 カインとアベルの出来事は創世記4章に記されていますが、この出来事から始まって、人類の歴史は、暗やみの主権者の巧妙な働きかけもあって、争いと分裂を繰り返してきました。それは今日に至るまで変わっていません。 そのような歴史の中で、民族、文化のあらゆる壁を越えて、御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業にあずかり、御霊の導きの下に、福音のみことばにあかしされていることを信じ、御子イエス・キリストと一つに結び合わされて神の子どもとされている者たちが、神の家族を形成しているのです。これは、私たちそれぞれが御子イエス・キリストの贖いの御業にあずかって新しいいのちに生きる者となっているということですが、それは、御子イエス・キリストの贖いの御業を土台として形成されている神の家族の歴史が造られているということでもあるのです。私たちが互いに愛し合うことによって、歴史の中に新しい意味をもった神の家族が生み出されており、それが今もここに存在しているということがあかしされます。 |
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