説教日:2004年9月19日
聖書箇所:エペソ人への手紙6章21節〜24節
説教題:兄弟たちに平和が(2)


 エペソ人への手紙6章21節〜24節には、この手紙の結びのことばが記されています。これは、前半の21節、22節と、後半の23節、24節の二つに分けることができます。前半では、同労者であるテキコをこの手紙の読者たちのもとに遣わすことについての説明を記しています。そして、23節、24節ではこの手紙の読者たちへの祝福のことばを記しています。
 今日は、先週お話ししました23節に記されている読者たちへの祝福のことばについて、先週お話ししたことを補足するお話をいたします。それは、これまでいろいろな機会にお話ししてきたこととの関連でこの祝福のことばを理解しようということです。
 復習になりますが、エペソ人への手紙の最初に記されている挨拶のにおいても、読者たちへの祝福のことばが記されています。それは1章2節に記されていて、

私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように。

というものです。この最初の挨拶の中に記されている祝福のことばでは「あなたがたの上にありますように」というように、読者たちが「あなたがた」と呼ばれて、祝福の対象となっています。
 これに対しまして、最後に記されている祝福では、

どうか、父なる神と主イエス・キリストから、平安と信仰に伴う愛とが兄弟たちの上にありますように。私たちの主イエス・キリストを朽ちぬ愛をもって愛するすべての人の上に、恵みがありますように。

と言われています。最初の祝福の「あなたがた」に当たることばは、23節では「兄弟たち」となっています。この「兄弟たち」が誰であるかということが問題になりますが、普通に読みますと、これは最初の挨拶で「あなたがた」と呼ばれているこの手紙の読者たちのことであるという気がします。けれども、24節では、この「兄弟たち」が「主イエス・キリストを・・・愛するすべての人」と言い換えられています。この「主イエス・キリストを・・・愛するすべての人」というのは、主イエス・キリストを信じているすべての人というのと同じくらい意味が広いものです。それで、ここで言われている「兄弟たち」にも、これと同じような広い意味があると考えられます。とはいえ、これは手紙の結びのことばにおいて語られた祝福のことばですから、この「兄弟たち」の中心にこの手紙の読者たちがあることは確かです。
 ここで、このように意味の広い「兄弟たち」ということばが用いられているのは、これに先立って記されていることを受けているからであると考えられます。その意味で、この「兄弟たち」は、これに先立つ18節に記されている、

すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。

という戒めに出てくる「すべての聖徒」たちのことでもあります。
 先週お話ししましたように、23節の、

どうか、父なる神と主イエス・キリストから、平安と信仰に伴う愛とが兄弟たちの上にありますように。

という願いは、

平安が兄弟たちにありますように。

という願いから始まっています。この場合の「平安」は、ただ単にその人の心のもちようによって変わる「平安」であるだけでなく、父なる神さまがイエス・キリストによって「兄弟たち」の間に生み出してくださる「平和」でもあります。原文のギリシャ語では「平安」と「平和」は同じことば(エイレーネー)で表されます。
 そして、これに続いて、

そして、信仰に伴う愛が、父なる神と主イエス・キリストからありますように。

と言われていますように、父なる神さまがイエス・キリストによって「兄弟たち」の間に生み出してくださる「平和」は、イエス・キリストに対する信仰から生まれてくるお互いに対する愛によって現実のものとなります。そして、「兄弟たち」の間にこのような「平和」があることの何よりの現れは、「すべての聖徒」たちが目を覚ましていて、忍耐の限りを尽くしてお互いのために祈り続けることです。


 これも復習ですが、このように広い意味で捉えられた「兄弟たち」は、イエス・キリストにある神の家族の「兄弟たち」です。この神の家族のことは、2章19節において、

こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです。

と記されています。ここでは、異邦人クリスチャンたちが

もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです。

と言われています。エペソ人への手紙の流れでは、この「神の家族」は、異邦人クリスチャンがイエス・キリストにあってユダヤ人クリスチャンと一つとされて生み出されたものです。ここで、

今は聖徒たちと同じ国民であり、

と言われているときの「聖徒たち」は、ユダヤ人クリスチャンのことです。この「神の家族」は、異邦人がユダヤ人の共同体に吸収されるという形で生み出されたものではありません。そのような民族主義的なものではないのです。この「神の家族」は、ユダヤ人も異邦人も、すべての者がそれぞれの民族文化の違いを保ちつつ、信仰によって、イエス・キリストに結び合わされることによって生み出されたものです。
 2章19節の、

こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです。

ということばはこれで終わっていません。続く20節〜22節に記されていることばも含めて、一つの文となっています。20節〜22節には、

あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となるのであり、このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。

と記されています。20節は分詞で始まっていますが、これは、19節の終りに出てくる「神の家族」を受けて、それを説明して発展させているものであると考えられます。この「神の家族」はイエス・キリストを礎石とし、使徒と預言者たちを土台として、御霊によって建てられている主の神殿であるというのです。つまり、19節の終りに「神の家族」が出てきたことから、「神の家」である神殿のことが語られるようになったということです。そして、人間の手によって作られた地上的なひな型としての神殿に対して、これこそが栄光の主のご臨在される「神の御住まい」であるというのです。それで、父なる神さまは御霊によってこの「神の家族」のうちにご臨在してくださるのです。
 このように、ユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンがともに、また等しくイエス・キリストに対する信仰によって、神の子どもとせられ、神の家族を形成していることが、3章3節以下で「奥義」であると言われています。3章6節には、

その奥義とは、福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人もまた共同の相続者となり、ともに一つのからだに連なり、ともに約束にあずかる者となるということです。

と記されています。
 そして、このユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンがともに、また等しくイエス・キリストに対する信仰によって、神の子どもとせられて神の家族を形成していることが、1章10節に、

天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められること

と記されている父なる神さまの「みこころの奥義」の実現の中心であり、第一歩を記すことであるのです。
 このような、イエス・キリストにある神の家族は、父なる神さまの永遠の聖定に起源をもっています。この手紙の序論に当たる部分の中の1章4節、5節には、

すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。

という父なる神さまの永遠の聖定におけるみこころが記されています。ここでは、父なる神さまが

私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられた

と言われています。
 この「子にしようと」ということばは「養子にしようと」ということを表しています。私たちは父なる神さまに養子として迎え入れていただいたことによって、父なる神さまの子となっています。そして、それは、「イエス・キリストによって」のことであると言われています。これは、そのほかのパウロの手紙においてもそうですが、私たちを、御子イエス・キリストの十字架の死によって、罪と死の力から贖い出してくださり、イエス・キリストの死者の中からのよみがえりにあずからせてくださって、新しく生まれさせてくださり、ご自身の子として受け入れてくださったことを指しています。
 イエス・キリストは、永遠の神の御子であられ、永遠に父なる神さまから生まれておられる方です。それで、御子イエス・キリストは永遠に父なる神さまとの愛の交わりのうちにおられます。そして、このことのゆえに、御子イエス・キリストは父なる神さまをご自身の父とお呼びになる方です。それは、永遠の神の御子が人としての性質を取って来てくださった時にも変わることはありませんでした。御子イエス・キリストはその地上の生涯をとおして、父なる神さまをご自身の父とお呼びになり、親しい交わりのうちに歩まれました。これによって、私たちが住んでいるこの世界の歴史の中に「神の家族」の交わりが実現しました。
 言うまでもなく、私たちはイエス・キリストと同じ意味で父なる神さまの子であるのではありません。私たちはイエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業にあずかって、先に父なる神さまと、人の性質を取って来てくださったイエス・キリストの間に成り立っていた神の家族の交わりに養子として迎え入れていただいたのです。そして、父なる神さまは、私たちが神の子どもとしてご自身との交わりを中心とする歩みを続けることができるようにと、私たちに御霊を遣わしてくださいました。ガラテヤ人への手紙4章4節〜6節に、

しかし定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。これは律法の下にある者を贖い出すためで、その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです。そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父。」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。

と記されているとおりです。
 以前お話ししたことですが、私たちがイエス・キリストにある神の家族に養子として迎え入れられていることには二つの背景があります。
 一つは、その当時のローマ社会の習慣とその考え方です。ローマ社会においては、ある人が養子として迎え入れられると、その人は生まれながらの子すなわち実子と同じように、子としてのすべての権利をもつ者となりました。
 先ほど引用しましたガラテヤ人への手紙4節4節〜6節には、

しかし定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。これは律法の下にある者を贖い出すためで、その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです。そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父。」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。

と記されていました。5節に記されている、

私たちが子としての身分を受けるようになる

ということは、文字通りには、

私たちが養子としての身分を受けるようになる

ということです。そして、これに続く7節では、

ですから、あなたがたはもはや奴隷ではなく、子です。子ならば、神による相続人です。

と言われています。これは、その当時の人々には、それ以上の説明がなくても理解できたわけです。
 私たちがイエス・キリストにある神の家族に養子として迎え入れられていることには、もう一つの、より根本的な背景があります。それは、旧約聖書の背景です。ガラテヤ人への手紙において、先ほど引用しました4章4節〜7節には、私たちが父なる神さまの養子として迎え入れられていることと、それゆえに、私たちが「相続人」であることが記されていました。この場合、私たちが「相続人」であることは、私たちが父なる神さまによって養子として迎え入れられていることによって生まれた権利です。そして、この「相続人」であることは、これに先立つ3章29節において、

もしあなたがたがキリストのものであれば、それによってアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。

と言われています。ここでは、「相続人」であることが「アブラハムの子孫」であることと結び合わされています。
 すでにいろいろな機会にお話ししてきましたが、契約の神である主は古い契約の下で成し遂げられた贖いの御業の歴史の中で、「地上のすべての民族」が主からの祝福を受けるようになるために、アブラハムを召してくださいました。創世記12章1節〜3節には、アブラハムへの召しことが、

その後、主はアブラムに仰せられた。
  「あなたは、
  あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、
  わたしが示す地へ行きなさい。
  そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、
  あなたを祝福し、
  あなたの名を大いなるものとしよう。
  あなたの名は祝福となる。
  あなたを祝福する者をわたしは祝福し、
  あなたをのろう者をわたしはのろう。
  地上のすべての民族は、
  あなたによって祝福される。」

と記されています。
 そして、15章1節〜6節には、相続人としてのアブラハムの子のことについて、

これらの出来事の後、主のことばが幻のうちにアブラムに臨み、こう仰せられた。
  「アブラムよ。恐れるな。
  わたしはあなたの盾である。
  あなたの受ける報いは非常に大きい。」
そこでアブラムは申し上げた。「神、主よ。私に何をお与えになるのですか。私にはまだ子がありません。私の家の相続人は、あのダマスコのエリエゼルになるのでしょうか。」さらに、アブラムは、「ご覧ください。あなたが子孫を私に下さらないので、私の家の奴隷が、私の跡取りになるでしょう。」と申し上げた。すると、主のことばが彼に臨み、こう仰せられた。「その者があなたの跡を継いではならない。ただ、あなた自身から生まれ出て来る者が、あなたの跡を継がなければならない。」そして、彼を外に連れ出して仰せられた。「さあ、天を見上げなさい。星を数えることができるなら、それを数えなさい。」さらに仰せられた。「あなたの子孫はこのようになる。」彼は主を信じた。主はそれを彼の義と認められた。

と記されています。
 このことを受けて、ガラテヤ人への手紙3章6節〜9節には、

アブラハムは神を信じ、それが彼の義とみなされました。それと同じことです。ですから、信仰による人々こそアブラハムの子孫だと知りなさい。聖書は、神が異邦人をその信仰によって義と認めてくださることを、前から知っていたので、アブラハムに対し、「あなたによってすべての国民が祝福される。」と前もって福音を告げたのです。そういうわけで、信仰による人々が、信仰の人アブラハムとともに、祝福を受けるのです。

と記されています。
 ガラテヤ人への手紙3章の文脈では、これは、2節に、

ただこれだけをあなたがたから聞いておきたい。あなたがたが御霊を受けたのは、律法を行なったからですか。それとも信仰をもって聞いたからですか。

と記されており、5節に、

とすれば、あなたがたに御霊を与え、あなたがたの間で奇蹟を行なわれた方は、あなたがたが律法を行なったから、そうなさったのですか。それともあなたがたが信仰をもって聞いたからですか。

と記されている問いかけを受けています。つまり、ここでは、私たちが御霊を受けることをめぐる問いかけがなされているのです。そして、ここでは、私たちが御霊を受けたことが信仰をもって福音のみことばを聞いたことによるのか、律法を行ったことによるのかと問われています。
 そして、その答えとして、9節で、

そういうわけで、信仰による人々が、信仰の人アブラハムとともに、祝福を受けるのです。

と記されています。
 それで、ここで、

そういうわけで、信仰による人々が、信仰の人アブラハムとともに、祝福を受けるのです。

と言われているときの「祝福」は、御霊を受けることにあります。そして、この御霊が、先ほど引用しました4章6節で、

そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父。」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。

と言われているときの「『アバ、父。』と呼ぶ、御子の御霊」であるのです。
 3章では律法を行うことによってはアブラハムに約束された「祝福」を受けることはできないこと、その「祝福」はアブラハムの子として来てくださった贖い主であるイエス・キリストを信じる信仰によって受け取るものであることが示されています。10節には、

というのは、律法の行ないによる人々はすべて、のろいのもとにあるからです。こう書いてあります。「律法の書に書いてある、すべてのことを堅く守って実行しなければ、だれでもみな、のろわれる。」

と記されています。私たちすべては自らのうちに罪の性質を宿しており、実際に罪を犯します。それで、私たちすべては神さまの律法ののろいの下にあります。このことを受けて、13節、14節には、

キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである。」と書いてあるからです。このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです。

と記されています。
 そして、これと同じことが、繰り返しの引用になりますが、4章4節〜6節に、

しかし定めの時が来たので、神はご自分の御子を遣わし、この方を、女から生まれた者、また律法の下にある者となさいました。これは律法の下にある者を贖い出すためで、その結果、私たちが子としての身分を受けるようになるためです。そして、あなたがたは子であるゆえに、神は「アバ、父。」と呼ぶ、御子の御霊を、私たちの心に遣わしてくださいました。

と記されているのです。
 先ほど引用しました3章13節、14節には、

キリストは、私たちのためにのろわれたものとなって、私たちを律法ののろいから贖い出してくださいました。なぜなら、「木にかけられる者はすべてのろわれたものである。」と書いてあるからです。このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです。

と記されていました。終りの部分で、

このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです。

と言われていることは、創世記12章3節に、

  地上のすべての民族は、
  あなたによって祝福される。

と記されていたアブラハムへの約束の成就です。それは、創世記22章18節に記されている、

あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる。

というアブラハムへの約束の成就でもあります。
 ガラテヤ人への手紙3章14節には、

このことは、アブラハムへの祝福が、キリスト・イエスによって異邦人に及ぶためであり、その結果、私たちが信仰によって約束の御霊を受けるためなのです。

と記されていました。イエス・キリストが十字架にかかって「のろわれたもの」となってくださったのは、「アブラハムへの祝福が・・・異邦人に及ぶため」であったと言われています。これによって、異邦人もイエス・キリストに対する信仰によってアブラハムの子孫となり、「約束による相続人」となったのです。同じ3章26節には、

あなたがたはみな、キリスト・イエスに対する信仰によって、神の子どもです。

と記されており、29節には、

もしあなたがたがキリストのものであれば、それによってアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです。

と記されていました。
 これらのことは、エペソ人への手紙6章23節において、

どうか、父なる神と主イエス・キリストから、平安と信仰に伴う愛とが兄弟たちの上にありますように。

と記されていることとつながっています。ここでパウロが御子イエス・キリストにある神の家族の「兄弟たち」のために祈り求めている祝福は、歴史的には、神である主のその一方的な恵みによってアブラハムに与えてくださった祝福から連綿と続いてきた祝福であり、御子イエス・キリストにあって私たちの現実となっています。さらにこの祝福は、1章3節〜6節において、

私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。それは、神がその愛する方によって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。

と記されている、父なる神さまがイエス・キリストにあって私たちに与えてくださっている「天にあるすべての霊的祝福」に根差し、そこから流れ出ている祝福です。そして、この祝福も、御子イエス・キリストにあって私たちの現実となっています。
 パウロが、

どうか、父なる神と主イエス・キリストから、平安と信仰に伴う愛とが兄弟たちの上にありますように。

と祈っているのは、父なる神さまが永遠に私たちのものとしてくださっている「天にあるすべての霊的祝福」が、神の家族の「兄弟たち」の間で、ますます豊かで確かなものとなることを願うものです。この祝福によって、「信仰に伴う愛」によって生み出される「平和」が神の家族の「兄弟たち」の間に行き渡っていって、「兄弟たち」の間で、

神がその愛する方によって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられる

ようになるためです。

 


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