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説教日:2004年9月12日 |
その当時の手紙の特徴でもありますが、パウロの手紙は、最初の挨拶のことばと最後の挨拶のことばで、その読者たちのための祝福を祈っています。この手紙の最初の挨拶のことばを記している1章1節、2節では、 神のみこころによるキリスト・イエスの使徒パウロから、キリスト・イエスにある忠実なエペソの聖徒たちへ。私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように。 と言われています。ここで、パウロはこの手紙の読者たちに、父なる神さまと御子イエス・キリストからの「恵みと平安」があるようにと祈っています。 読者たちのためにこのような祝福を祈る祈りで始まっているこの手紙は、やはり、読者たちへの祝福を祈る祈りをもって終っています。パウロは最初の挨拶での祈りで、読者たちのために父なる神さまと御子イエス・キリストからの「恵みと平安」を祈り求めていますが、最後の挨拶においても、基本的には、この父なる神さまと御子イエス・キリストからの「恵みと平安」を祈り求めています。日本語では分かりにくいのですが、23節の、 どうか、父なる神と主イエス・キリストから、平安と信仰に伴う愛とが兄弟たちの上にありますように。 ということばは、「平安が」ということばから始まっています。この順序を生かして23節を直訳調に訳しますと、 平安が兄弟たちに、また愛が信仰とともに、父なる神さまと主イエス・キリストからありますように。 となります。もちろん、ここで言われている「平安」も「信仰に伴う愛」も父なる神さまと主イエス・キリストから、「兄弟たちに」与えられるものですから、新改訳の訳に問題はありません。またこのような順序は特別なものではありません。ちなみに、最初の挨拶における祝福の祈りも、その順序を生かして直訳調に訳せば、 恵みがあなたがたに、そして平安が、私たちの父なる神さまと主イエス・キリストからありますように。 となります。 そして、6章24節の、 私たちの主イエス・キリストを朽ちぬ愛をもって愛するすべての人の上に、恵みがありますように。 ということばは「恵みが」ということばから始まっています。ですから、パウロが最初の挨拶で祈り求めた「恵みと平安」が、最後の挨拶で、「平安」と「恵み」という順序になっていますが、その祝福の祈りの中心にあるわけです。 最初の挨拶との関係でもう一つ注目すべきことは、最初の挨拶における祝福の祈りでは、 私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように。 というように、「恵みと平安」が「あなたがたに」あるようにと言われています。これに対しまして、最後の挨拶においては、それが「兄弟たちに」、また、「私たちの主イエス・キリストを・・・愛するすべての人に」あるようにと言われています。 ここで「あなたがたに」と言われないで「兄弟たちに」、また、「私たちの主イエス・キリストを・・・愛するすべての人に」と言われていることは、このエペソ人への手紙が特定の教会に宛てれたものではなく、エペソにある教会も含めて、小アジアの諸教会に宛てて記された手紙であったことの表れであると考えられています。そのこともあるのでしょうが、これにはそれ以上の理由があるのではないかという気がします。というのは、小アジアの諸教会に宛てて記されたと考えられるこの手紙の最初の挨拶においては、この「恵みと平安」が「あなたがたに」あるようにと言われていますから、最後の挨拶においても、それが「あなたがたに」あるようにと言っても、決しておかしくはないわけです。それがわざわざ「兄弟たちに」、また、「私たちの主イエス・キリストを・・・愛するすべての人に」と言い換えられているのには、それなりの理由があると考えられます。 これに関しまして、今日は23節に記されている、 どうか、父なる神と主イエス・キリストから、平安と信仰に伴う愛とが兄弟たちの上にありますように。 という祈りでこの祝福の対象が「兄弟たち」と言われているということに焦点を合わせて、このことの意味を考えてみたいと思います。 この「兄弟たち」ということば(アデルフォイス)は男性・複数形ですので、ここでは「兄弟たち」と訳されています。これには問題がありませんが、このような場合には、この「兄弟たち」ということばは、主イエス・キリストある神の家族たち、つまり「兄弟姉妹たち」を指しています。今日私たちもこれと同じような意味で「兄弟たち」ということばを用いることがあります。もっとも、今日では、そのような意味で「兄弟たち」ということばを用いても、「姉妹たち」は入っていないのかと問われることになってしまいます。 ここでの「兄弟たち」は、基本的には、この手紙の読者たちのことですが、それだけですと、「あなたがた」でよかったはずです。さらに、24節では、この「兄弟たち」のことが「私たちの主イエス・キリストを・・・愛するすべての人」と言い換えられています。この「私たちの主イエス・キリストを・・・愛するすべての人」というのは、この手紙の読者だけのことではありません。これは「主イエス・キリストを信じているすべての人」というのと同じだけの広さをもっています。それで、この「兄弟たち」は、この手紙の読者たちを含めて、イエス・キリストにある神の家族のすべての者を指していると考えられます。それで、これをさらに拡大していけば、この「兄弟たち」には私たちも含まれるようになってくるわけです。 ここで「兄弟たち」ということばが用いられているのは、これに先立って、この手紙の中で述べられていることを反映しています。1章3節〜5節には、父なる神さまの永遠の聖定における祝福のことが、 私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。 と記されています。 ここでは、父なる神さまは、 私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられた と言われています。これがイエス・キリストにある神の家族の原点です。「イエス・キリストによって」父なる神さまの子とされているすべての者は、イエス・キリストにある神の家族であり、お互いに兄弟姉妹です。 これは父なる神さまがイエス・キリストにあって私たちを永遠の祝福をもって祝福してくださっていることを述べています。それが歴史の中で実現して、私たちがイエス・キリストにある神の家族に加えられていることは、2章19節に、 こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです。 と記されています。これは「こういうわけで」ということばからも分かりますが、それに先立って14節〜18節に記されていることを受けています。その14節〜18節には、 キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいまた、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。それからキリストは来られて、遠くにいたあなたがたに平和を宣べ、近くにいた人たちにも平和を宣べられました。私たちは、このキリストによって、両者ともに一つの御霊において、父のみもとに近づくことができるのです。 と記されています。 14節で、 キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、 と言われているときの「二つのもの」は、これに先立つ11節〜13節において、 ですから、思い出してください。あなたがたは、以前は肉において異邦人でした。すなわち、肉において人の手による、いわゆる割礼を持つ人々からは、無割礼の人々と呼ばれる者であって、そのころのあなたがたは、キリストから離れ、イスラエルの国から除外され、約束の契約については他国人であり、この世にあって望みもなく、神もない人たちでした。しかし、以前は遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスの中にあることにより、キリストの血によって近い者とされたのです。 と言われていることを受けています。つまり、この「二つのもの」はユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンを指しています。ですから、14節〜18節には、ユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンがイエス・キリストにあって一つとされているということが記されています。それは、15節後半と16節前半で、 このことは、二つのものをご自身において新しいまた、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。 と言われていますように、ユダヤ人クリスチャンも異邦人クリスチャンもともに、また等しく、イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いにあずかって、父なる神さまと和解させられたことと切り離し難く結び合っています。 そして、18節には、 私たちは、このキリストによって、両者ともに一つの御霊において、父のみもとに近づくことができるのです。 と記されています。この、 両者ともに一つの御霊において、父のみもとに近づくことができる ということは、ローマ人への手紙8章14節、15節に、 神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父。」と呼びます。 と記されていることに通じています。つまり、エペソ人への手紙2章18節で言われている、 両者ともに一つの御霊において、父のみもとに近づくことができる ということは、ユダヤ人クリスチャンも異邦人クリスチャンも「子としてくださる御霊」を受けている神の子どもであり、「御霊によって、『アバ、父。』と呼」ぶ者となっているということを意味しているのです。そして、このことを受けて、19節では、 こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです。 と言われています。 このように、6章23節で、 どうか、父なる神と主イエス・キリストから、平安と信仰に伴う愛とが兄弟たちの上にありますように。 と言われているときの「兄弟たち」は、ユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンがともに、また等しく、御子イエス・キリストの十字架の死によって成し遂げられた罪の贖いにあずかって、父なる神さまの子としての身分を与えられ、御霊の導きによって父なる神さまを親しく「アバ、父。」と呼ぶ神の家族の交わりのうちにあることを踏まえています。 さらに、2章14節では、 キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、 と言われていますし、15節では、 このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、 と言われています。そして、17節では、 それからキリストは来られて、遠くにいたあなたがたに平和を宣べ、近くにいた人たちにも平和を宣べられました。 と言われています。 これらの個所において「平和」と言われているのは、ユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンがともに、また等しく、御子イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いにあずかって、神の家族に加えられていることによって造り出された「平和」です。その意味で、これは神の家族の兄弟たちの間にある「平和」です。実は、この「平和」と訳されていることば(エイレーネー)が、6章23節で、 どうか、父なる神と主イエス・キリストから、平安と信仰に伴う愛とが兄弟たちの上にありますように。 と言われているときの「平安」と訳されていることばです。 先ほどお話ししましたように、この6章23節は、 平安が兄弟たちに(ありますように。) ということば(エイレーネー・トイス・アデルフォイス)で始まっています。これによって、23節に記されているパウロの祝福の祈りにおいては、「平安」が強調されています。「平安」と言いますと、私たちは心に乱れのないこと、心に波風が立っていないことを考えます。そうしますと、それは個人的なことになります。同じ状況でも、ある人は「平安」であると言い、他の人は「不安」であると言います。そのように、「平安」はその人の感じ方であるということになってしまいます。 確かに、聖書で言われている「平安」には、そのような面があります。けれども、今お話ししたことを踏まえて、この、 平安が兄弟たちに(ありますように。) ということばを見てみますと、ここでパウロが祈り求めている祝福としての「平安」は、そのような心に波風が立たないために、心に乱れのない状態としての「平安」ではないことが分かります。この「平安」は、先ほどの2章14節で、 キリストこそ私たちの平和です。 と言われていることに根差している「平和」です。それは、御子イエス・キリストの十字架の死によって成し遂げられた罪の贖いにあずかって、父なる神さまの子としての身分を与えられている神の子どもたちが、父なる神さまとの間にもっている「平和」であり、神の家族に加えられて、御霊によって神の家族の交わりのうちに生きている兄弟たちの間にある「平和」です。そのような、父なる神さまと「兄弟たち」との平和の中にある者として、心の中に揺るがない「平安」があるのです。 ちなみに、父なる神さまとの「平和」については、ローマ人への手紙5章1節には、 ですから、信仰によって義と認められた私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。 と記されています。 このようにエペソ人への手紙6章23節に記されているパウロの祝福の祈りで、 平安が兄弟たちに(ありますように。) と言われているときの「平和」は、父なる神さまが御子イエス・キリストによって与えてくださる「平和」です。それは個人個人に与えられる心の「平安」という以上に、父なる神さまが御子イエス・キリストによって神の家族の「兄弟たち」の間に実現してくださっている「平和」です。繰り返しになりますが、この神の家族の「兄弟たち」とは、エペソ人への手紙の流れの中では、ユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンがともに、また等しく御子イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いにあずかって、神の子どもとしての身分を与えられ、神の家族に加えられていることによる「兄弟たち」です。そのユダヤ人クリスチャンと異邦人クリスチャンたちが、御子イエス・キリストにあって、神の家族の兄弟として一つに結ばれて、互いの交わりのうちに生きることに、父なる神さまと主イエス・キリストから与えられる「平和」の具体的な現れがあるのです。 すでにお気づきのことと思いますが、このことは、この祝福のことばに先立って19節、20節に記されています、 また、私が口を開くとき、語るべきことばが与えられ、福音の奥義を大胆に知らせることができるように私のためにも祈ってください。私は鎖につながれて、福音のために大使の役を果たしています。鎖につながれていても、語るべきことを大胆に語れるように、祈ってください。 というパウロの祈りの要請においてに語られている「福音の奥義」の実現につながっています。 この「福音の奥義」については、すでに繰り返しお話ししてきましたので、今お話ししていることとかかわりのあることだけを取り上げますと、3章6節に、 その奥義とは、福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人もまた共同の相続者となり、ともに一つのからだに連なり、ともに約束にあずかる者となるということです。 と記されています。「福音の奥義」は、異邦人クリスチャンとユダヤ人クリスチャンがともに、また等しく、御子イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いにあずかって、ともにキリストのからだである教会に連なり、一つの神の家族となり、御霊によって父なる神さまとの交わりにあずかるようになることにあります。そして、そのことが、1章10節に、 天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められること と記されている、父なる神さまの「みこころの奥義」の実現の第一歩を記すことになっているのです。 その意味で、この、 平安が兄弟たちに(ありますように。) という祝福のことばは、「福音の奥義」がすべての聖徒たちの間に実現し、ひいては父なる神さまの「みこころの奥義」の実現につながっていく祝福を願うものです。 このように、この手紙の全体をとおして、「福音の奥義」の実現をとおして、父なる神さまの「みこころの奥義」の実現することの意味を明らかにしてきたパウロは、この手紙の読者たちのための祝福を祈り求めるに当たって、ただ単に、読者たちの心の「平安」を祈り求めたのではなく、読者たちが、父なる神さまの「みこころの奥義」の実現の鍵となっている神の家族の「兄弟たち」のうちにあり、その「兄弟たち」の間の「平和」が確かになることを祈り求めたのです。確かに、このことにこそ、父なる神さまと主イエス・キリストからの祝福の中心ががあることがあります。 これらのことを踏まえますと、この 平安が兄弟たちに(ありますように。) という祝福のことばに続いて、 また愛が信仰とともに(兄弟たちにありますように。) と言われていることの意味を理解することができます。 ここでは「愛が信仰とともに」あるいは「信仰に伴う愛」というように、「愛」と「信仰」が組み合わされています。この場合の「愛」は「信仰」と組み合わされていますので、神さまからの愛というよりは、この手紙の読者たちを含めた「兄弟たち」の「愛」のことであると考えられます。そして、ここでパウロは、この「愛」と「信仰」が父なる神さまと主イエス・キリストから与えられますようにと祈っています。確かに、私たちの「愛」と「信仰」は私たちのうちにあるものですが、神さまから与えられたものです。神さまが私たちのうちにその「愛」を芽生えさせてくださり、育み育ててくださっているのです。 これはこの手紙の読者たちを含めた「兄弟たち」に「愛」と「信仰」がないから、それが与えられますようにと祈っているということではありません。1章15節、16節には、 こういうわけで、私は主イエスに対するあなたがたの信仰と、すべての聖徒に対する愛とを聞いて、あなたがたのために絶えず感謝をささげ、あなたがたのことを覚えて祈っています。 と記されています。少なくともこの手紙の読者たちである小アジアの諸教会の「兄弟たち」に主イエス・キリストに対する信仰と「すべての聖徒に対する愛」があるということは、パウロの耳にも入っていました。 それはそれとして、ここでは、「愛」は「すべての聖徒に対する愛」であり、「信仰」は主イエス・キリストに対する信仰であることが示されています。 さらに、3章17節〜19節には、 こうしてキリストが、あなたがたの信仰によって、あなたがたの心のうちに住んでいてくださいますように。また、愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、すべての聖徒とともに、その広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。 というパウロのとりなしの祈りが記されています。 ここで、 愛に根ざし、愛に基礎を置いているあなたがたが、 と訳されている部分は、この訳ですと、この手紙の読者たちの現在の状態を表していますが、 あなたがたが愛に根ざし、愛に基礎を置いて、 というように、パウロの願うところであるとしたほうがよいと思われます。これも、この手紙の読者たちが「愛に根ざし、愛に基礎を置いて」いないということではなく、ますますそうなるようにということです。この場合の「愛」がイエス・キリストの愛なのか、この手紙の読者たちの愛なのか議論のあるところですが、パウロの中ではその区別は意識されていないのではないかと思われます。これに続く「すべての聖徒とともに」ということばとのつながりからしますと、それはこの手紙の読者たちの愛であると考えられますし、さらにその後で、 人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。 と言われていることとのつながりからしますと、それはイエス・キリストの愛であるとも考えられます。それで、これはイエス・キリストの愛に包まれて互いに愛し合う愛ということになります。 いずれにしましても、ここで、パウロは、この手紙の読者たちの「信仰によって」イエス・キリストが、読者たちの心に住んでくださるようになることと、読者たちが「愛に根ざし、愛に基礎を置」くようになることを祈っています。そして、その愛は「すべての聖徒とともに」と言われていますように「すべての聖徒」とのつながりとして現れてきます。その意味で、ここでも、「愛」は「すべての聖徒に対する愛」であり、「信仰」は主イエス・キリストに対する信仰であることが示されています。 このことから、6章23節に記されている祝福の祈りで、パウロが、 また愛が信仰とともに(兄弟たちにありますように。) と祈っているのは、主イエス・キリストに対する信仰によって、「兄弟たち」の「愛」がますます豊かになることを祈っていることが分かります。それは、この「愛」がイエス・キリストにある神の家族の「兄弟たち」の愛として、お互いの交わりをさらに深めることになるためです。それによって、父なる神さまが、ユダヤ人と異邦人の区別、さらには異邦人の間の区別、さらには、それぞれの社会や個人的な事情の違いがありつつもなお、福音のみことばによって一人の主イエス・キリストに結び合わせてくださって、「兄弟たち」の間に実現してくださっている「平和」がさらに堅固なものとなり、さらに広まっていくようになるのです。そして、エペソ人への手紙全体の流れから言いますと、それがひいては父なる神さまの「みこころの奥義」の実現につながっていくのです。 私たちも、ここでパウロが祈っている祝福にあずかっています。私たちも民族、文化、国家の違いをもちつつ、それを超えてイエス・キリストにあるすべての聖徒たちを、神の家族の「兄弟たち」として与えられています。私たちは、すべての聖徒たちのために目を覚まして祈りつつ、この「兄弟たち」の主イエス・キリストに対する信仰とすべての聖徒たちへの愛が増し加わり、「兄弟たち」の間の「平和」がさらに堅固なものとなることを祈り求めたいと思います。それと同時に、ここでともに主を礼拝している目に見える神の家族の間に、そのような信仰に伴う愛が増し加えられて、イエス・キリストにある平和と一致が保たれるように、祈り求めたいと思います。 |
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