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説教日:2004年9月5日 |
21節、22節に記されていることのことばの問題については、すでにお話ししましたので繰り返しません。すでにお話ししたことを踏まえてこの部分を直訳調に訳しますと、 さて、あなたがたも私のことや私が何をしているかを知るようになるために、主にあって愛する兄弟であり、忠実な奉仕者であるテキコが、あなたがたにすべてを知らせるでしょう。私は、まさにこのことのために、テキコをあなたがたのもとに遣わしました。それは、あなたがたが私たちのことを知り、彼があなたがたの心を励ますためです。 となります。 ここには、パウロが自分の同労者であるテキコをこの手紙の読者たちのもとに遣わすことについての説明が記されています。繰り返しになりますが、ここで、 私は、まさにこのことのために、テキコをあなたがたのもとに遣わしました。 と言われているのは、パウロがこの手紙を記している時にすでにテキコが遣わされていたということではありません。これはいわゆる「書簡体の不定過去」で、この手紙の読者たちがこれを読む時には、テキコはすでに遣わされているということです。おそらくこの手紙はテキコに託されて届けられたと思われます。その場合には、読者たちがこれを読む時にはテキコがすでに自分たちとともにいるわけです。いずれにしましても、パウロはただこの手紙を読者たちのもとに送っただけでなく、テキコをも読者たちのもとに送っています。 パウロがテキコを遣わすのは、 あなたがたにも私の様子や、私が何をしているかなどを知っていただくために、主にあって愛する兄弟であり、忠実な奉仕者であるテキコが、一部始終を知らせるでしょう。 と記されていますように、パウロの置かれた状況と、その中でパウロがどのように過ごしているかを、テキコが直接この手紙の読者たちに会って伝えるためです。パウロが「鎖につながれて」いる状況でどのように過ごしているかということを手紙に書くとすれば、説明が大変でしょうし、手紙にはより大切な「福音の奥義」にかかわることを記す必要があったわけです。 さらに、パウロがテキコを遣わしたことには、もう一つの目的がありました。 それは、あなたがたが私たちのことを知り、彼があなたがたの心を励ますためです。 と記されていますように、テキコはパウロの近況を伝えるためだけでなく、この手紙の読者たちの「心を励ますため」に遣わされました。これは、テキコ自身がこの手紙の読者たちの「心を励ますため」であったと考えられます。 確かに、 私は、まさにこのことのために、テキコをあなたがたのもとに遣わしました。 ということばと、 それは、あなたがたが私たちのことを知り、 ということばから分かりますように、この手紙の読者たちはテキコをとおしてパウロの様子を知ることによって心に励ましを受けるようになります。この手紙の読者たちが「鎖につながれて」いるパウロのことを心配していたということからすれば、それは当然のことです。 けれども、テキコは、パウロが「鎖につながれて」いるけれども元気に暮らしているということで、この手紙の読者たちの心を励ましただけではありません。それ以上に、パウロが「鎖につながれて」いる状況でもなお、「福音のために大使の役を果たして」いるということを知らせることをとおして、読者たちの心に励ましを与えたと考えられます。それは、ただ単にパウロがしっかり奉仕をしているという、見える姿を伝えることではなく、パウロが宣べ伝えている「福音の奥義」がどのようなものであるかを、伝えることを中心とした励ましであったと考えられます。この手紙とともにテキコが遣わされたいるということから、テキコはこの手紙に記されていることに基づいて、パウロが宣べ伝えている「福音の奥義」を説明したり、教えたりしたと考えられます。先週お話ししましたように、この手紙に記されていることの思想の壮大さと深さを考えますと、それを理解するためには確かな助けが必要です。いずれにしましても、読者たちはテキコの教えをとおして、この手紙でパウロが教えている「福音の奥義」をより深く現実的に悟ることによって、心に励ましを受けるようになるのです。 この手紙の初めの1章3節〜14節において、パウロは父なる神さまの永遠の聖定におけるご計画に表れている祝福について述べています。それは私たちを「御前で聖く、傷のない者」とし「イエス・キリストによってご自分の子」としてくださることに表されています。そして、その永遠のご計画を歴史の中で実行に移してくださるために、私たちを御子イエス・キリストの十字架の血による罪の贖いにあずからせてくださっていることが示されます。さらに、そればかりでなく、その贖いの恵みによって子とされている私たちに、 天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められること というご自身の「みこころの奥義」をも知らせてくださったのです。これは父なる神さまが私たちをご自身の子として扱っていてくださることの具体的な現れです。 このことを受けて、パウロは、1章15節〜23節において、読者たちのための祈りを記しています。15節、16節には、 こういうわけで、私は主イエスに対するあなたがたの信仰と、すべての聖徒に対する愛とを聞いて、あなたがたのために絶えず感謝をささげ、あなたがたのことを覚えて祈っています。 と記されています。そして、具体的な祈りが17節〜23節に記されています。まず、17節〜19節には、 どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。 と記されています。 そして、この 神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを を説明して、20節〜23節に、 神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。 と記されています。 これは、 神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力が 「すべての支配、権威、権力、主権」と呼ばれている暗やみの主権者たちの働きにもかかわらず、 天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められること という父なる神さまの「みこころの奥義」を実現するものであるということと、そのことの中心に「キリストのからだ」である教会の存在があるということを示しています。 ここでは、 天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められること という父なる神さまの「みこころの奥義」を実現するのは「神の全能の力の働き」であることが示されているだけでなく、その「神の全能の力の働き」が「私たち信じる者に働く神のすぐれた力」であることを示しています。御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業には宇宙大の意味があります。その贖いの御業に基づいて、 天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められること という父なる神さまの「みこころの奥義」が実現します。それと同時に、その贖いの御業によって私たち一人一人は確かに罪を贖われ、新しく生まれ、神の子どもとされています。このように、御子イエス・キリストが成し遂げられた贖いの御業に基づいて働く「神の全能の力の働き」が、造られたすべてのものに働いて、すべてのものを回復してくださるとともに、私たち一人一人にも働いて、私たちを神の子どもとして回復してくださるのです。 この17節〜23節全体が読者たちのためのパウロの祈りです。パウロはこのような祈りをもって、この手紙を記しています。実際に、パウロはこの祈りにおいて祈っていることを、この手紙全体において敷衍し説明しています。 パウロはこの手紙を読者たちのもとに送っただけでなく、テキコをも読者たちのもとに遣わしました。それは、父なる神さまの「みこころの奥義」の実現を中心として、御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業の宇宙大の意味を、この手紙を通して教えるだけでなく、さらにテキコの説明やあかしを通して、読者たちによりよく理解させるためであったと考えられます。パウロは、この手紙の読者たちが、テキコの助けによって、この手紙に記されている教えをより深く理解し受け止めることによって、心に励ましを受けるようになることを願っていると考えられます。 神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力 は、暗やみの主権者たちの働きにもかかわらず、必ず、 天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められること という父なる神さまの「みこころの奥義」を実現し、完成に至らせます。その中にあって、パウロも読者たちも、神の子どもとしての身分を与えられ、それぞれの使命と賜物を与えられています。そのようにして、自分たちが父なる神さまの子どもとして「みこころの奥義」の実現に参与しているということを信じることから、心に励ましを受けるのです。 実際、テキコはそのような励ましを与えるのに適した人でした。テキコについては新約聖書のいくつかの個所において触れられていますので、それを見てみましょう。 テモテへの手紙第二・4章12節には、 私はテキコをエペソに遣わしました。 と記されています。また、テトスへの手紙3章12節には、 私がアルテマスかテキコをあなたのもとに送ったら、あなたは、何としてでも、ニコポリにいる私のところに来てください。私はそこで冬を過ごすことに決めています。 と記されています。1章5節には、 私があなたをクレテに残したのは、あなたが残っている仕事の整理をし、また、私が指図したように、町ごとに長老たちを任命するためでした。 と記されていますから、この時テトスは、エーゲ海南端の島であるクレテにいました。そこにテキコが遣わされた可能性があります。それはテトスの仕事を引き継ぐためです。もちろん、アルテマスが遣わされた可能性もありますが、そうであっても、テキコがそのような働きにふさわしい人物であったことは確かです。 これらのことから、テキコは、パウロの同労者として、あちこちの教会において奉仕していたことが分かります。 さらに、使徒の働き20章4節、5節には、 プロの子であるベレヤ人ソパテロ、テサロニケ人アリスタルコとセクンド、デルベ人ガイオ、テモテ、アジヤ人テキコとトロピモは、パウロに同行していたが、彼らは先発して、トロアスで私たちを待っていた。 と記されています。 ここにはパウロが続けている旅の同行者の名前が記されています。このとき、パウロはここに記されている人々を伴ってエルサレムに向けて旅をしていました。5節に、 彼らは先発して、トロアスで私たちを待っていた。 と記されていることから、ここに記されている人々以外に、使徒の働きの著者であるルカもパウロに同行していたことが分かります。ルカは医者として、常にパウロに同行していたのではないかと考えられます。 このことだけを見ますと、パウロは多くの人を引き連れて旅をしていたというようなことになってしまいます。けれどもこのことには理由がありました。それは、ここにこの人々の出身地が記されていることに表れていますので、この人々の出身地について見てみましょう。 「ベレヤ人ソパテロ」の「ベレヤ」はマケドニヤ地方の町です。マケドニヤはその頃アカヤと呼ばれていたギリシャの北にある地方です。また、「テサロニケ人アリスタルコとセクンド」の「テサロニケ」もマケドニヤの町で、ローマ時代にはマケドニヤの首都となっていました。「ベレヤ」と「テサロニケ」はマケドニヤのエーゲ海寄りの地方にありました。「デルベ人ガイオ」の「デルベ」は小アジア(現在のトルコ)のほぼ中心にあって南北に広がっていたガラテヤ地方の南部にあるルカオニヤ(地方)にある町です。「テモテ」は同じくルカオニヤにあるルステラという町の人です。「アジヤ人テキコとトロピモ」の「アジヤ」はガラテヤより西の地方です。 このように、パウロはさまざまな地方の人々を伴って旅を続けていました。ここにパウロの同行者たちの名前だけでなくその出身地が記されているのは、この人々がそれぞれの地方にある主の民を代表しているからであると考えられます。そして、このことは、この旅の目的にかかわっていると考えられます。ただ、ここにはテモテの出身地が記されていません。それは、テモテがどこか特定の町の出身ということでパウロに同行していたのではなく、パウロの全般的な助け手として同行していたからではないかと考えられます。 この旅のことについては、すでに8月1日にお話ししたことの中で触れていますが、復習もかねてお話しいたします。この旅の目的については、使徒の働きにははっきりと記されていません。この旅の発端が、19章21節に、 これらのことが一段落すると、パウロは御霊の示しにより、マケドニヤとアカヤを通ったあとでエルサレムに行くことにした。そして、「私はそこに行ってから、ローマも見なければならない。」と言った。 と記されているだけです。けれども、パウロの手紙のいくつかの個所ではその目的が明らかにされています。 前に取り上げたときにはローマ人への手紙15章25節〜27節を引用しましたので、今日はコリント人への手紙第一・16章1節〜4節を見てみましょう。そこには、 さて、聖徒たちのための献金については、ガラテヤの諸教会に命じたように、あなたがたにもこう命じます。私がそちらに行ってから献金を集めるようなことがないように、あなたがたはおのおの、いつも週の初めの日に、収入に応じて、手もとにそれをたくわえておきなさい。私がそちらに行ったとき、あなたがたの承認を得た人々に手紙を持たせて派遣し、あなたがたの献金をエルサレムに届けさせましょう。しかし、もし私も行くほうがよければ、彼らは、私といっしょに行くことになるでしょう。 と記されています。 ここに記されていることから分かりますように、パウロはさまざまな点において厳しい状況にあったエルサレムにある聖徒たち、すなわち、ユダヤ人クリスチャンたちを支えるために異邦人クリスチャンたちが献げた献金を携えてエルサレムに行こうとしていたのです。 1節には、 さて、聖徒たちのための献金については、ガラテヤの諸教会に命じたように、あなたがたにもこう命じます。 と記されています。「ガラテヤの諸教会」は小アジアの中心にあったガラテヤ地方の諸教会のことです。そこでもエルサレムにいるユダヤ人クリスチャンたちを支えるための献金が集められていました。また、この手紙が宛てられているコリントは当時アカヤと呼ばれていたギリシャの港町ですが、ここでも献金が集められていました。 また、コリント人への手紙第二・8章1節〜6節には、 さて、兄弟たち。私たちは、マケドニヤの諸教会に与えられた神の恵みを、あなたがたに知らせようと思います。苦しみゆえの激しい試練の中にあっても、彼らの満ちあふれる喜びは、その極度の貧しさにもかかわらず、あふれ出て、その惜しみなく施す富となったのです。私はあかしします。彼らは自ら進んで、力に応じ、いや力以上にささげ、聖徒たちをささえる交わりの恵みにあずかりたいと、熱心に私たちに願ったのです。そして、私たちの期待以上に、神のみこころに従って、まず自分自身を主にささげ、また、私たちにもゆだねてくれました。それで私たちは、テトスがすでにこの恵みのわざをあなたがたの間で始めていたのですから、それを完了させるよう彼に勧めたのです。 と記されています。 ここに記されていることから、コリントの教会でエルサレムの聖徒たちを支えるための献金を集めていたのはテトスであったことが分かります。それとともに、マケドニヤの諸教会の信徒たちが「苦しみゆえの激しい試練の中にあっても」また「極度の貧しさにもかかわらず」、エルサレムにある聖徒たちを支えるために、自ら進んでささげ物をささげたいと熱心に願い出たということと、実際に、豊かにささげたということが示されています。 ガラテヤの諸教会とコリントの教会にエルサレムの聖徒たちを支えるための献金をすべきことを教えたパウロも、マケドニヤの諸教会の「激しい試練」と「極度の貧しさ」を見て、そのように教えることをためらっていたのでしょう・・・。ところが、マケドニヤの諸教会の方から、エルサレムの聖徒たちのために献金をしたいと、熱心に願ってきたというのです。それは、マケドニヤの諸教会の信徒たちが、異邦人クリスチャンとしての自覚のもとに、イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業を通して、ユダヤ人クリスチャンたちと一つとされていることの意味を、パウロとその同労者たちのあかしにしたがって受け止めていたことを意味しています。 先ほどのコリント人への手紙第一・16章3節には、 私がそちらに行ったとき、あなたがたの承認を得た人々に手紙を持たせて派遣し、あなたがたの献金をエルサレムに届けさせましょう。しかし、もし私も行くほうがよければ、彼らは、私といっしょに行くことになるでしょう。 と記されていました。この段階では、パウロは自分が直接その献金を携えてエルサレムに行くべきかどうかを考えていたようです。けれども、その段階ですでに、 あなたがたの承認を得た人々に手紙を持たせて派遣し、あなたがたの献金をエルサレムに届けさせましょう。 ということは決めていました。つまり、エルサレムの聖徒たちを支える献金をした教会を代表する人々を遣わすということが大切なことであったのです。パウロはそのようにして主のみこころを求めた結果、自分自身も行くべきであると受け止めたと考えられます。 そして、この前お話ししたときにも引用しましたが、パウロがカイザリヤに滞在した時のことを述べている使徒の働き21章10節〜14節には、 幾日かそこに滞在していると、アガボという預言者がユダヤから下って来た。彼は私たちのところに来て、パウロの帯を取り、自分の両手と両足を縛って、「『この帯の持ち主は、エルサレムでユダヤ人に、こんなふうに縛られ、異邦人の手に渡される。』と聖霊がお告げになっています。」と言った。私たちはこれを聞いて、土地の人たちといっしょになって、パウロに、エルサレムには上らないよう頼んだ。するとパウロは、「あなたがたは、泣いたり、私の心をくじいたりして、いったい何をしているのですか。私は、主イエスの御名のためなら、エルサレムで縛られることばかりでなく、死ぬことさえも覚悟しています。」と答えた。彼が聞き入れようとしないので、私たちは、「主のみこころのままに。」と言って、黙ってしまった。 と記されています。 この記事から分かりますように、パウロは、たとえこのことをなすことによっていのちを失うことになってもかまわないと考えていました。それくらい、異邦人クリスチャンたちが献げた献金を携えてエルサレムに行くことを大切なことと理解するようになっていたのです。 すでに繰り返しお話ししてきましたが、これは福音についてのパウロの理解から生まれてきている姿勢です。パウロは、父なる神さまが御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業を通して、私たちをご自身のものとしてくださったということを信じています。そればかりでなく、父なる神さまは私たちをご自身の子として接してくださって、 天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められること というご自身の「みこころの奥義」を知らせてくださったことに、贖いの恵みが満ちあふれていると理解しています。そして、父なる神さまの「みこころの奥義」の実現の中心に、ユダヤ人と異邦人の区別を越えて、御子イエス・キリストにあって一つに結ばれている神の子どもたちの共同体である教会の存在があることを信じていました。さらに、このために自分が異邦人への使徒として召されていることを自覚していました。パウロは異邦人への使徒として、異邦人クリスチャンたちがエルサレムにいるユダヤ人クリスチャンたちを支えるためにささげた献金を送り届けることにいのちを懸けていたのです。 このことに、先ほど引用しましたコリント人への手紙第一・16章3節において、 あなたがたの承認を得た人々に手紙を持たせて派遣し、あなたがたの献金をエルサレムに届けさせましょう。 と言われていることを合わせて見ますと、一つの大切なことが見えてきます。それは、パウロはただお義援金を送り届けることだけでは十分ではないと考えていたということです。その献金とともに、それをささげた諸教会を代表する人々をもエルサレムに遣わそうとしていました。そして、実際に、その人々が遣わされたのです。それが、先ほどの使徒の働き20章4節に、その出身地とともに名を記されている人々であったわけです。その中に、アジア人テキコがいました。 このことから、この献金の意味が見て取れます。この献金は、お金を送ることで終るのではなく、それをささげた人々自身をささげることでした。その献金をささげた異邦人クリスチャンたちが、ユダヤ人クリスチャンたちに、主にある兄弟としての自分たち自身を与えたのです。これによって、自分たちが、主にあって、ユダヤ人クリスチャンたちと一つであることを、具体的な形で表したのです。それは、エペソ人への手紙に記されている教えに照らして言いますと、 天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められること という父なる神さまの「みこころの奥義」の実現の第一歩を鮮やかに記すことでした。 この献金について、先ほど引用しましたコリント人への手紙第二・8章1節〜5節には、 さて、兄弟たち。私たちは、マケドニヤの諸教会に与えられた神の恵みを、あなたがたに知らせようと思います。苦しみゆえの激しい試練の中にあっても、彼らの満ちあふれる喜びは、その極度の貧しさにもかかわらず、あふれ出て、その惜しみなく施す富となったのです。私はあかしします。彼らは自ら進んで、力に応じ、いや力以上にささげ、聖徒たちをささえる交わりの恵みにあずかりたいと、熱心に私たちに願ったのです。そして、私たちの期待以上に、神のみこころに従って、まず自分自身を主にささげ、また、私たちにもゆだねてくれました。 と記されていました。ここでは、 そして、私たちの期待以上に、神のみこころに従って、まず自分自身を主にささげ、また、私たちにもゆだねてくれました。 と言われています。やはり、それは、自分たち自身を主にささげ、その主にあって、兄弟たちに自分たち自身を与えることであったのです。 アジア人テキコは、このように、パウロの教えの精神をくみ取っていた異邦人クリスチャンとして、イエス・キリストにあって、ユダヤ人クリスチャンたちと一つに結び合わされいていることを見える形で表すための使節として仕えた人です。パウロはそのテキコを、エペソ人への手紙の読者たちのもとに遣わしました。それは、この手紙の読者たちが、この手紙に記されている父なる神さまの「みこころの奥義」の実現を中心とするパウロの教えを、より深く理解するようになることを願ってのことですし、それによって、読者たちが心に励ましを受けることを願ってのことです。 主にある慰めと励ましは、御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられている贖いの御業の宇宙大の意味を理解し、霊的な戦いの状況にあるがために味わうさまざまな試練と苦しみの中にあっても、 天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められること という父なる神さまの「みこころの奥義」が実現しており、やがて栄光のキリストの再臨の日に完成に至るということを信じることから生まれてきます。 私たちも、霊的な戦いの状況にあって、さまざまな痛みと苦しみを経験しています。しかし、そのような状況にあっても、私たちは神の子どもとされており、主にあって、すべての聖徒たちと一つにされています。そして、すべての聖徒たちのために祈ることにおいて、主にある交わりにあずかっています。このことの中にあって、父なる神さまの「みこころの奥義」はすでに私たちの間に実現していることと、御子イエス・キリストの再臨の日に必ず完成するということを信じて、心に励ましを受けて歩みたいと思います。 |
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