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説教日:2004年8月22日 |
まず、ことばの問題をいくつかお話ししておきますと、この、 あなたがたにも私の様子や、私が何をしているかなどを知っていただくために、主にあって愛する兄弟であり、忠実な奉仕者であるテキコが、一部始終を知らせるでしょう。テキコをあなたがたのもとに遣わしたのは、ほかでもなく、あなたがたが私たちの様子を知り、また彼によって心に励ましを受けるためです。 ということばは、新改訳では二つの文になっていますが、ギリシャ語の原文では一つの長い文です。22節は、21節に出てくる「テキコ」を受けている関係代名詞(対格)で始まっています。とはいえ、これを関係代名詞のない日本語に訳すときには、こんがらがってしまいますので、二つの文に分けて訳すほかはありません。 ここでは、最初に、 あなたがたにも私の様子や、私が何をしているかなどを知っていただくために と言われていますが、この「あなたがたにも」の「にも」ということばが何を意味しているかということについて、いろいろな見方がなされているようです。これは、エペソ人への手紙の読者たちの他にも、知らせたい人々がいるからこのように言っているのではないか、そうであれば、それは誰なのかというようなことです。これについては、他に知らせたい人々は、これとほぼ同じ時期に記されたと考えられるコロサイ人への手紙の読者たち、すなわちコロサイの教会の信徒たちであるという見方があります。これに対して、この「あなたがたにも」の「にも」は「あなたがた」にかかるのではなく、「(何々)もまた」ということで、「私の様子や、私が何をしているかということも知っていただくために」ということだという見方もあります。 ここでは、「あなたがたにも」と言っていると考えられますが、それで「あなたがた」の他にも誰か知らせたい人がいるということを言おうとしているとは考えられません。日本語でもそのような言い方をしますが、自分のことを「あなたがたにも」知っていただきたいというときには、「あなたがた」の他に誰かのことを考えているわけではありません。自分のことを自分が知っていて、それを「あなたがたにも」知っていただきたいという感じです。 もう一つのことですが、この、 あなたがたにも私の様子や、私が何をしているかなどを知っていただくために と言われているときの、 私が何をしているか ということばは、ギリシャ語の文字通りの訳です。このことばは、しばしば、慣用表現として、 私がどのようにしているか ということを表すことがあるようです。それで、囚人として牢獄につながれているパウロは、いろいろなことができなかったから、何をしているというより、そのような状況でどのようにしているかということの方が、ぴったりするという意見もあります。けれども、これをどちらかに決めることは難しい気がします。 また、私が口を開くとき、語るべきことばが与えられ、福音の奥義を大胆に知らせることができるように私のためにも祈ってください。私は鎖につながれて、福音のために大使の役を果たしています。鎖につながれていても、語るべきことを大胆に語れるように、祈ってください。 ということばに示されていますように、パウロは牢獄につながれていて何もできなかったわけではありませんし、それがいわゆる「家庭軟禁」であった可能性もありますので、 私が何をしているか ということでも十分意味は通じます。 また、22節には、 テキコをあなたがたのもとに遣わしたのは と記されています。これはすでにテキコが遣わされていることを表しています。この「遣わした」は不定過去形ですので、過去形で訳されています。けれども、これはいわゆる「書簡体」の不定過去形で、過去のことを表していると考えなくていいのです。後ほど取り上げますが、コロサイ人への手紙4章8節には、これと同じことがまったく同じことばで記されています。そこでは、 私がテキコをあなたがたのもとに送るのは と、過去形でなく訳されています。 これらは、ことばの問題ですが、エペソ人への手紙6章21節、22節の、 あなたがたにも私の様子や、私が何をしているかなどを知っていただくために、主にあって愛する兄弟であり、忠実な奉仕者であるテキコが、一部始終を知らせるでしょう。テキコをあなたがたのもとに遣わしたのは、ほかでもなく、あなたがたが私たちの様子を知り、また彼によって心に励ましを受けるためです。 ということばを全体としてみますと、これとほぼ同じことばが、エペソ人への手紙とほぼ同じ時期に記されていると考えられているコロサイ人への手紙4章7節、8節にも出てきます。そこには、 私の様子については、主にあって愛する兄弟、忠実な奉仕者、同労のしもべであるテキコが、あなたがたに一部始終を知らせるでしょう。私がテキコをあなたがたのもとに送るのは、あなたがたが私たちの様子を知り、彼によって心に励ましを受けるためにほかなりません。 と記されています。 これら二つのことばはとてもよく似ています。特に、後半のことば、つまり、エペソ人への手紙ですと、6節22節に記されている、 テキコをあなたがたのもとに遣わしたのは、ほかでもなく、あなたがたが私たちの様子を知り、また彼によって心に励ましを受けるためです。 ということばと、コロサイ人への手紙ですと、4章8節に記されている、 私がテキコをあなたがたのもとに送るのは、あなたがたが私たちの様子を知り、彼によって心に励ましを受けるためにほかなりません。 ことばは、新改訳の訳文では少し違っていますが、原文のギリシャ語では、用いられていることば一つ一つも、その順序や文法的な形も、まったく同じです。それを直訳しますと、 私は、まさにこのことのために、テキコをあなたがたのもとに遣わします。それは、あなたがたが私たちのことを知り、彼があなたがたの心を励ますためです。 となります。 まったく同じことばがエペソ人への手紙とコロサイ人への手紙に出てくるということから、どちらかがもう一つのものを写したのではないかと考えられています。ただ、どちらがどちらを写したのかは判断しがたいところがあります。また、二つの手紙が同じ時に記されたとすれば、どちらにも同じことばを記したということになります。 その前のことばを見てみますと、エペソ人への手紙では6章21節ですが、 あなたがたにも私の様子や、私が何をしているかなどを知っていただくために、主にあって愛する兄弟であり、忠実な奉仕者であるテキコが、一部始終を知らせるでしょう。 となっており、コロサイ人への手紙では4章7節ですが、 私の様子については、主にあって愛する兄弟、忠実な奉仕者、同労のしもべであるテキコが、あなたがたに一部始終を知らせるでしょう。 となっています。これらの訳に反映していますように、文としては、コロサイ人への手紙の方が整っています。そのために、エペソ人への手紙のことばの方がもともとのもので、コロサイ人への手紙のものがそれを整えて用いているという見方もあります。けれども、コロサイ人への手紙の方が先に記された可能性を否定することはできませんし、先ほども言いましたように、この二つの手紙は同じ時に記された可能性があります。 このようなことをお話しすべきか、かなり迷いましたが、このこととの関連で、一つのことをお話ししておこうと思います。エペソ人への手紙の文体(ことば遣い、表現方法などの特徴)には、他のパウロのものとされている手紙の文体と違うところがあります。たとえば、他のパウロの手紙では用いられていなくて、エペソ人への手紙だけに用いられていることばがいくつもあるということや、同じことばがコロサイ人への手紙で用いられているのとは違った意味で用いられているということです。また、同じことがコロサイ人への手紙とは異なる神学的な視点から記されているということもあります。これらのことから、エペソ人への手紙はパウロが記したのではなく、パウロ以外の、パウロの同労者か弟子の「ある人」がパウロの名で記したものであると考える人々がいます。(福音派の学者たちの中にもいます。)そして、その「ある人」としてテキコ、オネシモ、ルカなどの名が挙げられています。 そのように考える人々にとっては、エペソ人への手紙とコロサイ人への手紙にまったく同じことばや、似ていることばが出てくるのは、その「ある人」がこのエペソ人への手紙をパウロ的であることを示すために、コロサイ人への手紙のことばを用いているということになります。これをより一般的に言いますと、他のパウロのものとされている手紙と同じ思想や文体がエペソ人への手紙に見られることについては、それはパウロ的に記されたためのものであると説明されることになります。ただ、もし、その「ある人」がパウロ的であろうとするなら、それと分かる文体の違いには気をつけるのではないかという疑問も出てきます。 この文体に違いがあるということは、著者が違うということを示す可能性がありますが、同じ人の記したものでも、記している事柄や目的の違いなどによって変わることがありますので、十分注意する必要があります。特に、エペソ人への手紙はどこか特定の教会に宛てて記されたものではありませんし、特定の教会にあった特別な問題を意識して記されたものでもありませんので、パウロのほかの手紙と違う目的と性格をもっています。 もちろん、その当時の文書には、宗教的なものでも、偽名で「それ風に」記されたものがありました。けれども、私は、そのようなことば遣いや表現の仕方の特徴の違いという問題以上に重要なことは、エペソ人への手紙に記されていることに見られる思想の壮大さと、思索の深さであると考えています。これが今日特にお話ししたい、私たちの信仰の特質と私たちに与えられている恵みにかかわっています。 すでにお話ししてきたことですが、エペソ人への手紙の著者は、自分が宣べ伝えている福音を、1章10節に記されている、 天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められること という父なる神さまの「みこころの奥義」の実現という宇宙大の回復と完成とのかかわりで理解しています。言い換えますと、イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業には宇宙大の意味があるということと、それが具体的にどのようなことであるかを理解しています。そればかりでなく、それを、自らに委ねられた福音の宣教に当てはめているのです。 また、これまでお話ししてきたことですので、具体的な説明は省きますが、エペソ人への手紙では、1章20節、21節で、 神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。 と言われていますように、初めから、イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業の宇宙大の意味をめぐって、霊的な戦いが展開されていることが示されています。暗やみの主権者たちは、 天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められること という父なる神さまの「みこころの奥義」の実現を阻もうとして働いているのです。 さらに、エペソ人への手紙の著者は、その宇宙大の回復と完成の中心にキリストのからだである教会があるということを踏まえて教会論を展開しています。また、そのように宇宙大の意味をもっているキリストのからだである教会において、ユダヤ人と異邦人の違い、さらには、異邦人の間での民族的な違いがありつつ、なおも栄光のキリストに連なっているということにおいて、お互いの間に平和と一致があることの意味をくみ取っています。 この点について、これまでエペソ人への手紙3章3節〜6節に記されていることを取り上げてきましたが、ここでは、2章11節〜16節に記されていることを見てみましょう。そこには、 ですから、思い出してください。あなたがたは、以前は肉において異邦人でした。すなわち、肉において人の手による、いわゆる割礼を持つ人々からは、無割礼の人々と呼ばれる者であって、そのころのあなたがたは、キリストから離れ、イスラエルの国から除外され、約束の契約については他国人であり、この世にあって望みもなく、神もない人たちでした。しかし、以前は遠く離れていたあなたがたも、今ではキリスト・イエスの中にあることにより、キリストの血によって近い者とされたのです。キリストこそ私たちの平和であり、二つのものを一つにし、隔ての壁を打ちこわし、ご自分の肉において、敵意を廃棄された方です。敵意とは、さまざまの規定から成り立っている戒めの律法なのです。このことは、二つのものをご自身において新しいひとりの人に造り上げて、平和を実現するためであり、また、両者を一つのからだとして、十字架によって神と和解させるためなのです。敵意は十字架によって葬り去られました。 と記されています。 ここでは、まず、古い契約の下では、異邦人は地上的なひな型としての意味を与えられていたイスラエルの民とは違って、「キリストから離れ、イスラエルの国から除外され、約束の契約については他国人」であったことが示されています。そして、「キリスト・イエスの中にあることにより、キリストの血によって」ユダヤ人と異邦人の間の一致と交わりが実現し、ともに神さまとの交わりのうちに生きる者とされていることが示されています。 そして、19節〜22節には、 こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです。あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。この方にあって、組み合わされた建物の全体が成長し、主にある聖なる宮となるのであり、このキリストにあって、あなたがたもともに建てられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。 と記されています。 一般に、この部分は20節から引用されます。そして、教会がイエス・キリストを礎石とする使徒と預言者という土台の上に建てられた「主にある聖なる宮」、「神の御住まい」であるということが示されていると言われます。それは、そのとおりです。20節〜22節では新たに神殿のテーマが出てきます。けれども、文法の上では、19節〜22節が一つの文で、19節がその中心です。その19節では、 こういうわけで、あなたがたは、もはや他国人でも寄留者でもなく、今は聖徒たちと同じ国民であり、神の家族なのです。 と言われています。20節〜22節はこれとして独立した文ではなく、19節とつながっています。ですから、教会はイエス・キリストを礎石とする使徒と預言者という土台の上に建てられた「主にある聖なる宮」、「神の御住まい」であるのですが、それは、ユダヤ人と異邦人がイエス・キリストにあって「神の家族」となっているということがその根底にあるのです。 エペソ人への手紙の著者は、このような、イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業には宇宙大の意味があるという理解のもとで、自分が異邦人たちのための使徒として召されていることを自覚しています。 エペソ人への手紙の著者は、このような「福音の奥義」において示されたイエス・キリストの贖いの御業の宇宙大の意味について、3章3節において、 この奥義は、啓示によって私に知らされたのです。 とあかししています。 これに対して、「ある人」がパウロの名前を使ってエペソ人への手紙を記したと考える人々は、その「ある人」はパウロの経験と見えることを述べたり、パウロの主張と思われることを主張したりするはずだから、 この奥義は、啓示によって私に知らされたのです。 と主張してもおかしくないと言うことでしょう。つまり、 この奥義は、啓示によって私に知らされたのです。 ということも、パウロ的な主張であるということになるのです。けれども、そのような考えには無理があります。 これまでお話ししてきましたようなエペソ人への手紙に記されている救済論や教会論の宇宙大の視野と、それが主の聖徒たちのあり方にどのようにかかわっているかということに対する深い洞察は、もう、パウロに似せて創作するというようなレベルをはるかに超えています。確かに、イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業の宇宙大の意味については、ローマ人への手紙8章18節〜22節に、 今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。 と記されています。ここでは、神の子どもたちの出現が全被造物の回復の鍵であるということが示されています。 また、コロサイ人への手紙1章13節〜20節には、 神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています。御子は、見えない神のかたちであり、造られたすべてのものより先に生まれた方です。なぜなら、万物は御子にあって造られたからです。天にあるもの、地にあるもの、見えるもの、また見えないもの、王座も主権も支配も権威も、すべて御子によって造られたのです。万物は、御子によって造られ、御子のために造られたのです。御子は、万物よりも先に存在し、万物は御子にあって成り立っています。また、御子はそのからだである教会のかしらです。御子は初めであり、死者の中から最初に生まれた方です。こうして、ご自身がすべてのことにおいて、第一のものとなられたのです。なぜなら、神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ、その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、ご自分と和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。 と記されています。ここでは、イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによる贖いの御業が万物の回復という意味をもっていることが示されていますし、 神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して ということばに示されていますように、霊的な戦いも視野に入っています。 けれども、これらは、ローマ人への手紙やコロサイ人への手紙の中で取り扱われている、それぞれの教会の問題とのかかわりで触れられているだけです。「だけ」というのは言い過ぎかもしれません。けれども、それに比べるとエペソ人への手紙においては、その贖いの御業の宇宙大の意味の中心にある神の子どもたちの出現のことが、父なる神さまの永遠の聖定にまでさかのぼって明らかにされています。父なる神さまは永遠の聖定において、神の子どもたちを御前に聖く傷のないものとして立たせてくださり、ご自分の子としてくださるように定めてくださっています。この父なる神さまの永遠の聖定におけるご計画に基づいて、歴史における贖いの御業の意味が明らかにされています。その中で、先ほどの、 天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められること という父なる神さまの「みこころの奥義」が実現すべきことが示されています。これは、世の終りに栄光のキリストが再臨されるときに、栄光のキリストが完成してくださることを述べたもので、歴史全体を包むものですし、歴史の目的を示すものでもあります。そこから、先ほどお話ししたような、霊的な戦いの状況の中でのキリストのからだである教会の存在の意味と、キリストのからだである教会が建て上げられるための福音の宣教の意味が明らかにされていきます。 このように、イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業の宇宙大の意味の全体像を組織立てて、しかも、歴史の全体を見通しつつ、明らかにしているのはエペソ人への手紙だけです。エペソ人への手紙に記されていることを理解して初めて、ローマ人への手紙やコロサイ人への手紙に記されている、イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業の宇宙大の意味の全体像が見えてくるのです。言い換えますと、まず、エペソ人への手紙において示されているようなイエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業の宇宙大の意味の全体像に対する理解があって、ローマ人への手紙やコロサイ人への手紙において、贖いの御業の宇宙大の意味が触れられているということです。 これは、エペソ人への手紙がローマ人への手紙やコロサイ人への手紙の前に記されたという意味ではありません。まだそのことを記していないとしても、パウロの中には、このエペソ人への手紙において明らかにされているような、贖いの御業の宇宙大の意味の全体像への理解があったということです。エペソ人への手紙に記されていることは、それほどの壮大な視野をもった思想と、深い思索から生み出されたものです。もちろん、それは人間の考えから出たものではなく、御子イエス・キリストにある父なる神さまの啓示によって明らかにされたことですが、その啓示を受け止めるためには、それだけの壮大な視野における思想と深い思索が必要であるわけです。 このエペソ人への手紙に記されていることに表されているような壮大な思想と思索の深さをもった人物がパウロ以外にいたとすると、そして、パウロがエペソ人への手紙を記したのではないとしますと、その人は、少なくとも、パウロに匹敵するか、もしかするとパウロ以上の壮大な思想をもって深い思索をしていた人であると言わなければなりません。というのは、このような壮大な思想と深い思索は、ただ単に、パウロ風に手紙を書いて作り上げられるというものではないからです。実際、イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業の宇宙大の意味ということに関しては、エペソ人への手紙は、誰もがパウロのものと認めるローマ人への手紙やコロサイ人への手紙などに表されていることをさらに越えて、父なる神さまの永遠の聖定におけるみこころから始まって、終末論的な視野における父なる神さまの「みこころの奥義」の実現を踏まえつつ、その全体像に迫っていますから、それだけの理解をもっている人にして初めて、エペソ人への手紙を記すことができたと言わなければなりません。そのような人物は、新約聖書のどこかに名を残しているはずですが、異邦人への宣教に重荷をもっていた人で、これほどの思想の広さと思索の深さをもっていた人は、パウロ以外には見当たりません。 そのようなわけで、私はエペソ人への手紙の著者はパウロであると信じているのですが、今日お話ししたいことは、その結論ではありません。このような、壮大な思想と深い思索に満ちたエペソ人への手紙はパウロにしか記せないと言うほかはないのですが、エペソ人への手紙に記されていることを理解することは、私たちにもできるということです。パウロは御霊の「霊感」というお働きに導かれてエペソ人への手紙を記しました。私たちは御霊の「内的な照明」というお働きに導かれて、そこに記されていることを理解します。 そして、私たちはエペソ人への手紙を通して父なる神さまが示してくださっていることを理解し、受け止めて、私たちがここに「神の家族」として、また、イエス・キリストを礎石とする使徒と預言者という土台の上に建てられた「主にある聖なる宮」、「神の御住まい」として存在し、私たちの間にご臨在される神さまを礼拝していることには、「福音の奥義」が実現していることとしての意味があることを信じるのです。そして、この「神の家族」が、父なる神さまの「みこころの奥義」の実現の第一歩を記すものでありつつ、終りの日における主の民の贖いの完成と、万物の回復の完成のあることを告げるものであると信じています。 「心に励ましを受けるために」というお話の主題とのかかわりで言いますと、パウロは同労者であるテキコを遣わして、テキコをとおして、エペソ人への手紙の読者たちの心に励ましを与えたいと願っています。そのような励ましの根本には、エペソ人への手紙において明らかにされていることへの理解があると言わなければなりません。それは私たちも同じです。私たちは父なる神さまの天における永遠の祝福にあずかっており、歴史の中では、御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業にあずかって、ここに「神の家族」を形成しています。そして、父なる神さまの「みこころの奥義」が実現していることをあかしするものとして召されています。このめしも父なる神さまの永遠の祝福の現れです。これらのことが、今この地上にあって主の民として歩んでいる私たちへの慰めと励ましの源です。 |
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