説教日:2004年8月15日
聖書箇所:エペソ人への手紙6章18節〜20節
説教題:鎖につながれた大使(4)


 今日は、エペソ人への手紙6章18節〜20節に記されていることを全体的にまとめながら、私たちの信仰の本質にかかわることをお話ししたいと思います。今日は8月15日ですので、第二次世界大戦における敗戦を覚える日です。そのことに直接的に触れることはありませんが、それに関連すると思われることに触れることになります。
 まず、これまでお話ししてきたことの復習ですが、18節には、

すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。

というパウロの戒めが記されています。これは基本的に御霊によって祈りなさいという戒めですが、そのためには、すべての聖徒たちのために忍耐の限りを尽くして願いつつ、目を覚ましているべきであることが示されています。
 この戒めは、その前の10節〜17節に記されている霊的な戦いのために「神のすべての武具」を身に着けて霊的に武装するようにという戒めにつながっている戒めです。霊的な戦いを戦うためには、「神のすべての武具」をもって武装するだけではなく、すべての聖徒たちのために忍耐の限りを尽くして願いつつ、目を覚まして、御霊によって祈り続ける必要があるのです。
 聖書において目を覚ましているように戒められているときの目を覚ましているということは、終りの日に再臨される栄光のキリストが、私たちの救いを完成してくださることを信じて待ち望む姿勢です。終りの日に栄光のキリストがご自身の民のための救いを完成してくださることは、そのまま、霊的な戦いにおける最終的な勝利を意味しています。
 ですから、霊的な戦いは、終りの日における救いの完成を信じて待ち望みつつつ目を覚ましていて、すべての聖徒たちとの祈りによる一致と交わりを保つことによって、戦うべきものなのです。
 そのことは、これに続く19節、20節に記されている、

また、私が口を開くとき、語るべきことばが与えられ、福音の奥義を大胆に知らせることができるように私のためにも祈ってください。私は鎖につながれて、福音のために大使の役を果たしています。鎖につながれていても、語るべきことを大胆に語れるように、祈ってください。

というパウロ自身のための祈りの要請にも表れています。
 原文のギリシャ語では、このパウロの祈りの要請には「祈ってください」ということばはありません。初めに「また、私のために」ということばがあって、その後に祈りの内容が記されています。これによって、パウロは、この手紙の読者たちがすべての聖徒たちのために目を覚まして祈る祈りの中に、自分のための祈りを加えてくれるようにと願っていることが分かります。
 普通ですと、使徒であるパウロのための祈りは特別であると考えたくなります。パウロ自身が20節で、

私は鎖につながれて、福音のために大使の役を果たしています。

と述べています。パウロは、自分が栄光のキリストによって使徒として選ばれて「大使」として遣わされているという自覚をもっています。2章20節で、

あなたがたは使徒と預言者という土台の上に建てられており、キリスト・イエスご自身がその礎石です。

と言われていますように、使徒たちはキリストのからだである教会の土台としての意味をもっています。その意味でパウロは特別な存在であり、その働きも特別なものです。それだけでなく、この時、パウロは囚人として牢獄につながれていました。このことだけでも特別な祈りの課題となります。そうであるのに、パウロは自分のための祈りを優先させてはいません。すべての聖徒たちのための祈りの中で、自分のためにも祈ってくださいと言っています。このことは、霊的な戦いの状況の中では、すべての聖徒たちのために目を覚ましていて、御霊によって祈り続けることがどんなに大切であるかということを示しています。


 パウロは自分に委ねられている使命が「福音の奥義」を知らせることにあるということを自覚しています。それで「福音の奥義を大胆に知らせることができるように」祈ってくださいと言っているのです。繰り返しお話ししていますように、この「福音の奥義」についてのパウロの理解は、エペソ人への手紙の全体にわたって示されています。3章3節〜6節においては、

先に簡単に書いたとおり、この奥義は、啓示によって私に知らされたのです。それを読めば、私がキリストの奥義をどう理解しているかがよくわかるはずです。この奥義は、今は、御霊によって、キリストの聖なる使徒たちと預言者たちに啓示されていますが、前の時代には、今と同じようには人々に知らされていませんでした。その奥義とは、福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人もまた共同の相続者となり、ともに一つのからだに連なり、ともに約束にあずかる者となるということです。

と記されています。パウロはまず、

この奥義は、啓示によって私に知らされたのです。

と述べています。そして、「奥義」の内容について、

その奥義とは、福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人もまた共同の相続者となり、ともに一つのからだに連なり、ともに約束にあずかる者となるということです。

と述べています。
 ここでは、「ともに」という意味の接頭辞(スン)をともなう形容詞が3つ用いられています。一つ目は「共同の相続者」です。これは一つのことば(スングクレーロノモス・形容詞)で表されています。二つ目は「ともに一つのからだに連なり」です。これも一つのことば(スソーモス・形容詞)で表されています。このことばは、ギリシャ語の文献の中でも新約聖書だけに出てくることばで、しかも、ここだけに用いられています。それで、これはパウロが作り出したことばではないかと考えられています。3つ目は「ともに約束にあずかる者」です。これは「ともにあずかっている」ということば(スムメトコス・形容詞)と「約束の」という二つのことばで表されています。これらのことばによって、異邦人とユダヤ人が一つとされていることが示されています。
 そして、これは「福音により、キリスト・イエスにあって」のことであると言われています。これには二つのことがかかわっています。
 第一のことは、異邦人がユダヤ人とともなる相続人であり、同じからだに属しており、ともに約束にあずかっているのは、「キリスト・イエスにあって」のことであるということです。この「キリスト・イエスにあって」ということは大切なことです。これには、さらに二つのことがかかわっています。
 一つは、ユダヤ人も異邦人もイエス・キリストと一つに結び合わされていることによって、ともなる相続人であり、同じからだに属しており、ともに約束にあずかっているということです。これは、否定的な面からみますと、異邦人がユダヤ人の共同体に加えられて一つになるということではないということです。異邦人がユダヤ人に吸収されて、ユダヤ人と一つになるということではないのです。またこれは、ユダヤ人と異邦人が合併・合体して一つになるということでもないということです。あくまでも、ユダヤ人も異邦人も等しくイエス・キリストと一つに結び合わされていることによって、ともなる相続人であり、同じからだに属しており、ともに約束にあずかっているということです。
 これは、ユダヤ人はユダヤ人として、異邦人は異邦人としてのアイデンティティーを保ちつつ、さらには、異邦人の中にもいろいろな民族がありますが、それぞれのアイデンティティーを保ちつつ、イエス・キリストと一つに結び合わされることによって一つとなるということです。
 8月15日を覚えてということとのかかわりで言いますと、ここには、時代、民族、文化の違いを超えて一つとなるという原理が働いています。そのようにしてイエス・キリストと一つに結び合わされることによって成り立っている聖徒たちの群れは、さまざまな時代、民族、文化の中にある人々、またあった人々から成り立っています。そこでは、ユダヤ人であることが優先されるということはありません。時代、民族、文化の違いは否定されませんが、相対化されています。これは、一つの民族が自分たちだけが特別な存在であるとして、他の民族や文化を否定したり、抑圧したり、搾取するこの世のあり方とはまったく違っています。
 「キリスト・イエスにあって」ということのもう一つの意味は、この、

その奥義とは、福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人もまた共同の相続者となり、ともに一つのからだに連なり、ともに約束にあずかる者となるということです。

と言われている「奥義」が、1章10節で、

天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められることなのです。

と言われている父なる神さまの「みこころの奥義」と結びついているということです。すでに繰り返しお話ししてきましたが、事柄の順序としては、

福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人もまた共同の相続者となり、ともに一つのからだに連なり、ともに約束にあずかる者となる

という「奥義」が実現することが、

天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められる

という父なる神さまの「みこころの奥義」が実現することの中心であり、第一歩であるのです。
 以上が「福音により、キリスト・イエスにあって」ということから考えられる第一のことですが、第二のことは、異邦人がユダヤ人とともなる相続人であり、同じからだに属しており、ともに約束にあずかっているのは、「福音により」ということばが示していますように、福音の宣教を通して実現するということです。
 お気づきのことと思いますが、これが6章19節で、パウロが「福音の奥義」を知らせることができるように祈ってくださいと言っていることにつながっています。ですから、パウロが、

また、私が口を開くとき、語るべきことばが与えられ、福音の奥義を大胆に知らせることができるように私のためにも祈ってください。私は鎖につながれて、福音のために大使の役を果たしています。鎖につながれていても、語るべきことを大胆に語れるように、祈ってください。

という祈りの要請をしているのは、最終的には、

天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められる

という父なる神さまの「みこころの奥義」が実現することを見据えてのことであり、そのために、まず、

福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人もまた共同の相続者となり、ともに一つのからだに連なり、ともに約束にあずかる者となる

という「奥義」が実現することを願い求めてのことであるということになります。
 さらには、6章18節で、

すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。

と戒めているのも、「すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし」て願いつつ、目を覚まして、御霊によって祈り続けることも、

福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人もまた共同の相続者となり、ともに一つのからだに連なり、ともに約束にあずかる者となる

という「奥義」が実現すること、さらには、

天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められる

という父なる神さまの「みこころの奥義」が実現することを見据えてのことであるわけです。
 このように、パウロは福音を、

福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人もまた共同の相続者となり、ともに一つのからだに連なり、ともに約束にあずかる者となる

という「奥義」が実現すること、さらには、

天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められる

という父なる神さまの「みこころの奥義」が実現することとのかかわりで理解しています。
 そして、それはパウロだけのことではありません。これはまた、霊的な戦いの究極的な主題でもあります。つまり、暗やみの主権者たちも、自分たちの働きを、

天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められる

という父なる神さまの「みこころの奥義」が実現することとのかかわりで理解しているということです。すでにお話ししたことですので、結論的なことだけを申しますと、暗やみの主権者たちは、突き詰めていきますと、その父なる神さまの「みこころの奥義」が実現することを阻止しようとして働いているのです。
 当然、私たちも、私たちに伝えられた福音を

天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められること

という父なる神さまの「みこころの奥義」が実現することとのかかわりで理解しなければなりません。
 実際、私たちが「主の祈り」において、

  御国が来ますように。
  みこころが天で行なわれるように
  地でも行なわれますように。

と祈るのは、

天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められる

という父なる神さまの「みこころの奥義」が実現することを祈り求めることに他なりません。
 また、イエス・キリストの地上における宣教の初めのことを記しているマルコの福音書1章14節、15節には、

ヨハネが捕えられて後、イエスはガリラヤに行き、神の福音を宣べて言われた。「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい。」

と記されています。イエス・キリストが宣べ伝えられた「神の福音」は、約束の贖い主であられる御子イエス・キリストが来られたことによって「神の国」も来ているということを明らかにするものでした。
 けれども、今日の私たちの回りでは、イエス・キリストがキリストのからだである教会の土台としてお選びになった使徒たちが伝えた「福音の奥義」に関する教えを受け止めることは余りなされていません。まして、パウロのように「福音の奥義」を知らせ、「福音の奥義」の実現にすべてを賭け、すべてをささげるというようなことはほとんどありません。また、「福音の奥義」の実現にすべての聖徒たちのためのとりなしの祈りをもって参与するということも、あまり意識されてなされてはいません。
 それにはいろいろな理由があると思われます。そのおもな理由は、二つあると思われます。
 一つは、私たちの間では、信仰というと私たちの信じる姿勢が中心になってしまっていることでしょう。それは、信仰の「主観主義」です。もう一つは、信仰を自分個人にかかわることと捉えてしまうことでしょう。それは信仰の「個人主義」です。この信仰の主観主義と個人主義が結び合って、自分が熱心にまた真剣に信じていることが大切なことであると感じてしまうのです。これは、私たちの生まれて育った日本の社会に特有の信仰についての感じ方です。何を信じているかということは問題にならないで、とにかく信じているということが大事だとか、さらには、一心に信じることが大事だというような発想があります。
 もちろん、私たちが真剣に信じるということは大切なことです。しかし、信仰の本質を私たちの信じる姿勢にあるとすることは、私たち自身に目を向けることです。私たちの真実な姿勢が神さまを動かすと感じたり、真剣に信じているから大丈夫であると感じたりするのです。けれども、私たちの熱心さや真剣さには、それが私たちの目から見てどんなに心がこもったものであっても、私たちの罪によって腐敗しています。ですから、その真剣さを神さまに認めていただいて、義と認められることはできません。
 聖書に示されている信仰は、私たち自身にではなく、父なる神さまが遣わしてくださった御子イエス・キリストに目を向けて、イエス・キリストとイエス・キリストがなしてくださった御業を信じるものです。私たちの信仰にとって本質的なことは、神さまが福音のみことばにおいて約束してくださっていることを、神さまが御子イエス・キリストを通して、必ず実現してくださるということを信じることにあります。
 そして、それは、個人主義的に捉えられて終わってしまうものではありません。つまり、自分にかかわる約束だけを寄せ集めて、それを信じるということではないのです。そうではなく、父なる神さまが、

天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められること

という「みこころの奥義」を実現してくださることの中で、私たちの救いを完成してくださると信じて、その完成の日を待ち望むのです。もちろん、それは十把一からげの救いということではありません。私たちそれぞれが自分のこととして信じ、それぞれが救いの恵みを受け取ります。けれども、それはより大きな視野で見ると、父なる神さまの「みこころの奥義」が実現していくことの中で起こるのです。それで、私たちは、その父なる神さまの「みこころの奥義」の実現の第一歩が、主の民が時代と民族と文化の壁を越えて一つに結び合わされることにあるということを信じて、すべての聖徒たちのために、目を覚まして御霊によって祈り続けるのです。それは、霊的な戦いの状況の中で、終りの日に栄光のキリストが完成させてくださるようになる歴史の形成に参与することを意味しています。このように、契約の神である主を信じる信仰は、終りの日の救いの完成とともに完成する御国の歴史、主の民の歴史を造る信仰なのです。
 ヘブル人への手紙11章1節、2節には、

信仰は望んでいる事がらを保証し、目に見えないものを確信させるものです。昔の人々はこの信仰によって称賛されました。

と記されています。信仰の本質は、契約の神である主が約束してくださっていることは主ご自身が実現してくださるということを信じて、その実現を待ち望むことにあります。これは、私たちにとっては、まさに終りの日の完成を信じて待ち望む信仰です。
 そして、13節〜16節には、古い契約の下にあった聖徒たちのことが、

これらの人々はみな、信仰の人々として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるかにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり寄留者であることを告白していたのです。彼らはこのように言うことによって、自分の故郷を求めていることを示しています。もし、出て来た故郷のことを思っていたのであれば、帰る機会はあったでしょう。しかし、事実、彼らは、さらにすぐれた故郷、すなわち天の故郷にあこがれていたのです。それゆえ、神は彼らの神と呼ばれることを恥となさいませんでした。事実、神は彼らのために都を用意しておられました。

と記されています。
 ここで古い契約の下にあった聖徒たちが「はるかにそれを見て喜び迎え」ていたと言われている「約束のもの」は、新しい契約の下にある私たちの間で、「福音により、キリスト・イエスにあって」実現して、その第一歩を記しています。
 契約の神である主を信じる信仰は、終りの日の救いの完成とともに完成する御国の歴史、主の民の歴史を造る信仰であるということをうかがわせるものはエペソ人への手紙にも見られます。1章15節〜23節に記されている、パウロのとりなしの祈りを見てみましょう。それは、

こういうわけで、私は主イエスに対するあなたがたの信仰と、すべての聖徒に対する愛とを聞いて、あなたがたのために絶えず感謝をささげ、あなたがたのことを覚えて祈っています。どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。

というものです。
 これまでのお話の中で、しばしば20節〜23節を引用しました。実は、それは、15節から始まっているパウロの祈りの一部です。しかも、この20節、21節の、

神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。

ということばはそれとして独立したものではありません。

神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて

と言われているときの「その全能の力」と訳されていることばは関係代名詞で、19節で、

また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。

と言われているときの「全能の力」と訳されていることばを受けています。この「神の全能の力の働き」と訳されている部分は、「力」を表す三つのことば(エネルゲイア、クラトス、イスクゥス)を連ねる形で表されています。その意味合いの違いを無視して訳せば「神の力の力の力」というような積み上げです。新改訳はその「神の力の力」に当たる部分を「神の全能の力」と訳し、そのまた「力」に当たることば(エネルゲイア)を「働き」と訳しています。これによって、神さまの御力が強調されているのですが、ここでは、その神さまの「全能の力の働きによって」、「神のすぐれた力」が信じる私たちに対して働いているということが示されています。これはもう一つの「力」を表すことば(デュナミス)で表されています。
 そして、そのようにして、信じている私たちに対して働く力を働かせている「神の全能の力」がどのようなものであるかが、20節、21節で、

神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。

と説明されているのです。ですから、ここでは、御子イエス・キリストに対してこのように働いた父なる神さまの「全能の力の働きによって」、信じている私たちに対しても「神のすぐれた力」が働いているということが示されています。パウロは、このような働きをする父なる神さまの御力が私たちに対して働いていることを、私たちが知ることができるようにと祈っているのです。
 ここで大切なことは、神さまの御力は無性格で意味もなく働くエネルギーなのではなく、確かな目的を実現するために働くものです。そして、ここでは、

神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。

と言われていますように、その神さまの「全能の力」は、キリストのからだである教会を建て上げること中心として、

天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められる

という父なる神さまの「みこころの奥義」を実現するために働くものであるということが示されています。
 ですから、パウロが、

また、神の全能の力の働きによって私たち信じる者に働く神のすぐれた力がどのように偉大なものであるかを、あなたがたが知ることができますように。

と祈っているのは、

天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められる

という父なる神さまの「みこころの奥義」を実現するために働く「全能の力の働きによって」、信じている私たちにも「神のすぐれた力」が働いているということを、私たちが知ることができるようにということです。
 パウロは、これに先立つ18節で、

あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、

を知ることができるようにと祈っています。この、

神の召しによって与えられる望みがどのようなものか、聖徒の受け継ぐものがどのように栄光に富んだものか、

ということの「神の召しによって与えられる望み」は、神さまが私たちを召してくださったことによって私たちに与えられている望みのことです。そして、「聖徒の受け継ぐもの」と訳されている部分は、文字通りには「聖徒たちの間にある神の所有」ということで、古い契約の下では、地上的なひな型であるイスラエルが主の所有の民であるという旧約聖書に示されていることを反映しています。それが、新しい契約の下では、ユダヤ人と異邦人からなる聖徒たちが主の所有の民となっているということです。それは、私たち異邦人もユダヤ人とともに、神である主との愛にあるいのちの交わりのうちに生きる者とされていることを意味しています。そして、そのことがどんなに栄光に富んだことであるかを、私たちが知ることができるようにと祈っているのです。
 このことが18節に記されていて、この後に、先ほどお話ししました、父なる神さまの「全能の力の働きによって」、信じている私たちに「神のすぐれた力」が働いているということを、私たちが知ることができるようにという祈りが続いています。それで、父なる神さまの「全能の力の働きによって」、信じている私たちに対して働く「神のすぐれた力」は、「神の召しによって与えられる望み」と私たちが主の所有の民であるということを完全に実現してくださるように働くものであることが分かります。
 ここでも、同じ構造が見られます。父なる神さまの「全能の力の働きによって」、信じている私たちに対して働く「神のすぐれた力」は、「神の召しによって与えられる望み」と私たちが主の所有の民であるということを完全に実現してくださるように働くのですが、その「神のすぐれた力」は、このことからさらに、

天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められる

という父なる神さまの「みこころの奥義」を実現するために働くのです。
 エペソ人への手紙にはパウロのいくつかの祈りが記されていますが、その最初の祈りで、このようなことを祈っているのは、私たちがこれらのことを知ることが、エペソ人への手紙に記されていることを理解するうえで、したがって、私たちの信仰にとって決定的に大切であるからに他なりません。
 この祈りの中で、パウロは、

どうか、私たちの主イエス・キリストの神、すなわち栄光の父が、神を知るための知恵と啓示の御霊を、あなたがたに与えてくださいますように。また、あなたがたの心の目がはっきり見えるようになって、

と祈り始めています。そして、これまでお話ししてきたことを、私たちが知ることができるようにと祈っています。ですから、パウロは、私たちの「心の目」を私たちのうちにではなく、徹底的に、私たちの外に、すなわち、父なる神さまが御子イエス・キリストを通して私たちのためになしてくださっていることに向けさせています。
 私たちがすべての聖徒たちのために忍耐の限りを尽くして願いつつ、目を覚まして、御霊によって祈り続けるのも、すべての聖徒たちが栄光のキリストにあって一つに結び合わされているからですし、その一致が保たれることから始まって、

天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められる

という父なる神さまの「みこころの奥義」が実現されるようになるためです。
 すでにお話ししましたように、聖書において目を覚ましているということは、終りの日に再臨される栄光のキリストが、私たちの救いを完成してくださることを信じて待ち望む姿勢です。栄光のキリストが私たちの救いを完成してくださるということは、同時に、

天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められる

という父なる神さまの「みこころの奥義」を完全に実現してくださるということでもあります。目を覚まして、このことを待ち望むことは、私たちの信仰の特質ですが、これも、私たち自身に目を向けることではなく、父なる神さまが遣わしてくださった贖い主であられる御子イエス・キリストに目を向けて、御子イエス・キリストを信じることです。
 そのように、すべての聖徒たちのために忍耐の限りを尽くして願いつつ、目を覚まして、御霊によって祈り続けることの中で、終りの日に再臨されるイエス・キリストが完成してくださるようになる、御国の歴史、主の民の歴史が造られていきます。ですから、これは、決して今のこの地上における歩みをないがしろにすることではありません。むしろ、私たちは今の地上の生涯において、すべての聖徒たちとの祈りにおける交わりのうちに進められていく福音の宣教を通して造られる御国の歴史は終りの日に完成に至るということを信じています。それで、そのことに対する望みの下に、この地上の生涯の歩みを大切にまた着実に歩むのです。

 


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