説教日:2004年8月8日
聖書箇所:エペソ人への手紙6章18節〜20節
説教題:鎖につながれた大使(3)


 エペソ人への手紙6章18節には、

すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。

という戒めが記されています。すでにお話ししましたように、これは、文法の上からも、文脈の上からも、これとして独立した戒めではなく、それに先立つ10節〜17節に記されている、霊的な戦いのために「神のすべての武具」を身に着けるようにという戒めにつながっていると考えられます。
 これに続いて19節、20節には、

また、私が口を開くとき、語るべきことばが与えられ、福音の奥義を大胆に知らせることができるように私のためにも祈ってください。私は鎖につながれて、福音のために大使の役を果たしています。鎖につながれていても、語るべきことを大胆に語れるように、祈ってください。

というパウロの祈りの要請が記されています。
 ここでパウロは、自分が「福音の奥義を大胆に知らせることができるように」祈ってくださいと言っています。そして、自分のことを「福音の奥義」を知らせるための「大使」であると述べています。この場合の「大使」は、自分を遣わした者から全権を委ねられています。パウロは栄光のキリストから「大使」に任命され、全権を委ねられて遣わされています。けれどもパウロは、こともあろうに「鎖につながれて」いるのです。「鎖につながれて」いるということは、囚人となって牢獄につながれていることを意味しています。それなのに、パウロは自分が「鎖につながれて」いることによって、栄光のキリストから任命された「大使」としての務めが果たせないと考えてはいません。むしろ、そのような状況の中にあっても、「大使」の務めを果たすことができるように祈ってくださいと言っています。パウロにとって、その「大使」の務めを果たすこととは、そのような状況の中にあっても「福音の奥義」を知らせ続けるということです。


 パウロが囚人として牢獄につながれていたのは、十字架に付けられて殺されたイエス・キリストが栄光の主であり、約束の贖い主であるということをあかししていたからです。また、栄光の主の十字架の死によって、信じるすべての者の罪はすべて贖われるので、ユダヤ人も異邦人も等しくイエス・キリストを信じるだけで救われるということを宣べ伝えていたからです。パウロにとって、それはユダヤ人と異邦人がイエス・キリストにあって一つに結び合わされるという「福音の奥義」を知らせることを意味していました。
 しかし、ユダヤ人からすれば、異邦人によって十字架に付けられて殺されてしまったような者が約束の贖い主であるはずがないのです。また、異邦人が主の恵みにあずかるためには、改宗をしていったんユダヤ人の会衆に加えられて、そこでモーセの律法を守る必要があると考えていました。パウロはそのような考え方をしていたユダヤ人から迫害を受けて投獄されるに至りました。
 いずれにしましても、そのようにして、主の民が、時代や文化や民族の違いという壁を越えて、イエス・キリストにあって一つに結び合わせられることは、1章10節において、

天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められること

と言われている、父なる神さまのみこころの奥義が実現することの第一歩です。
 霊的な戦いという視点から見ますと、

天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められること

という父なる神さまのみこころの奥義が実現し始めているということは、暗やみの主権者たちにとっては、霊的な戦いにおける最終的な敗北の時、自分たちに対する主のさばきの執行の時が迫ってきていることを意味しています。それで、暗やみの主権者たちは、最後の、それこそ死に物狂いの戦いを展開しているのです。それが、みことばが示している霊的な戦いの今日における状況です。
 6章12節においては、

私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。

と言われています。これらの暗やみの主権者たちには、武力や政治力や経済力などの血肉の力はまったく通用しません。たとえ核兵器を用いたとしても、暗やみの主権者たちはびくともしません。いくらお金を積んでも、それで暗やみの主権者たちが動かされるわけではありません。ですから、霊的な戦いは血肉の力を頼みとして戦うものではありません。それは、福音のみことばに示されている真理にしたがって生きることにおいて、福音の真理をあかしすることによって戦うものです。
 そして、この戦いは結末の分からないものではなく、御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによる贖いの御業の完成とともに、栄光のキリストの勝利は確定しています。第二次世界大戦のヨーロッパ戦線において、連合軍がノルマンディー上陸作戦を成功させたことによって、連合軍の勝利の流れが確定しました。その後の戦局はナチスが敗走しながら、抵抗を繰り返すというものになりました。それで、ノルマンディー上陸作戦の成功の日のことを、戦局を決定する戦いが戦われた日として「Dディ」と呼びます。霊的な戦いにおける「Dディ」は御子イエス・キリストが十字架におかかりになって、ご自身の民のために罪の贖いを成し遂げてくださった日です。
 これに対して、暗やみの主権者たちは、私たちが福音のみことばのあかしによってではなく、血肉の力を頼みとして戦うようになることを狙って画策してきます。それはいろいろな形でなされますが、パウロが投獄されたのも、そのような意味をもっています。血肉の力においてはパウロはまったく力をもたない囚人となっています。そのことに絶望して、福音のみことばのあかしを放棄してしまえば、それ以上迫害を受けて投獄されるようなことはなかったでしょう。しかしそれは、霊的な戦いにおいては敗北を意味しています。けれども、パウロはこれを血肉の戦いとは考えていませんでした。それで、牢獄につながれていても、栄光のキリストから遣わされた「大使」として「福音の奥義」を知らせ続けることを通して、栄光のキリストが勝利しておられる霊的な戦いに参加していたのです。
 ですから、囚人として牢獄につながれていたパウロがエペソ人への手紙の読者たちに向かって、

また、私が口を開くとき、語るべきことばが与えられ、福音の奥義を大胆に知らせることができるように私のためにも祈ってください。私は鎖につながれて、福音のために大使の役を果たしています。鎖につながれていても、語るべきことを大胆に語れるように、祈ってください。

という祈りの要請をしていることは、パウロが栄光のキリストにあって霊的な戦いの勝利の道を歩んでいることを意味しています。
 この時パウロは、牢獄の中にありました。家庭軟禁であった可能性もありますが、その場合でも自由は制限されていました。そのパウロがこのエペソ人への手紙において、御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業の意味を、宇宙大の視野において捉えて、父なる神さまのみこころの奥義が、

天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められること

にあるということと、それがすでに実現し始めているということを明らかにしています。そして、自分は「福音の奥義」を知らせることを通して、主が贖いの御業に基づいて遂行される宇宙大の回復に参与していると信じています。
 このギャップの大きさに驚かされます。目に見える形としては、狭い空間の中に閉じ込められてしまっています。しかし、信仰の眼は宇宙大の視野において開かれていて、福音のみことばに基づいて、万物の回復の時を待ち望む信仰に生きていました。しかも、パウロはただそれを遠い先のこととして待ち望んでいたのではなく、それは今自分たちの主にある交わりにおいて実現の第一歩を記しており、自分は「福音の奥義」を知らせることにおいてその実現に参与していることを自覚していたのです。
 私たちもなかなか福音のみことばが浸透しないこの国にあって小さな群れを形成しています。そのような状況にあって、宇宙大の視野において信仰の眼を開いて、御子イエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業の意味を受け止めようとしています。そして、実際に、主にあって一つに集められた群れとして、父なる神さまのみこころの奥義の実現にあずかり、福音のみことばのあかしを通してそれに参与していると信じています。そのような私たちにとって、

すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。

という戒めはとても大切なものです。霊的な戦いは栄光のキリストの戦いであり、私たちはそれに参与している者ですから、祈りをもって栄光のキリストに信頼し続けることは決定的に大切なことなのです。
 霊的な戦いは栄光のキリストの戦いであり、私たちはそれに参与しているということを見るために、前にお話ししたことを振り返ることになりますが、いくつかのことを見てみましょう。
 14節〜17節には、「神のすべての武具」が六つ上げられています。それは、「真理の帯」、「正義の胸当て」、「平和の福音の備え」、「信仰の大盾」、「救いのかぶと」、「御霊の与える剣である、神のことば」です。もちろん、これらは「真理」、「正義」、「平和の福音」、「信仰」、「救い」、「神のことば」を、その当時の兵士の武装になぞらえて述べたものです。ですから、霊的な戦いのための「神のすべての武具」は霊的なものであって、人を傷つけ損なうものではありません。むしろそれは人々を福音のみことばにあかしされている恵みによって生かすものです。
 これら六つの武具のうち、「真理の帯」、「正義の胸当て」、「平和の福音の備え」、「信仰の大盾」、「救いのかぶと」の五つは、基本的に防御にかかわるものです。攻撃のための武具は「御霊の与える剣である、神のことば」だけです。
 この「御霊の与える剣である、神のことば」と訳されている部分は、文字通りには「御霊の剣、それは神のことばです」となります。霊的な戦いにおける武装に関する戒めが始まっている10節で、

主にあって、その大能の力によって強められなさい。

と言われていますように、ここに記されている「神のすべての武具」は、みな「」すなわち栄光のキリストが与えてくださるものであると考えられます。「神のすべての武具」という呼び方からしますと、父なる神さまが栄光のキリストを通して与えてくださる武具ということになります。それで、「御霊の剣」というのは御霊が与えてくださる「」ということではなく、御霊がその威力を与え、その働きを有効なものとしてくださる「」ということであると考えられます。
 「神のすべての武具」は霊的な戦いを戦うための霊的な武具ですので、そのすべてが御霊のお働きによって有効なものとされます。そうであるのに、そこで上げられている六つの武具のうち「御霊の剣」としての「神のことば」だけが特に御霊のお働きと関連づけられています。それは、今お話ししましたように、他の武具が御霊のお働きと関係がないからではなく、強調のためであると考えられます。これによって、霊的な戦いのための武具の中で唯一攻撃的な武器である「」としての「神のことば」が、特に御霊のお働きとつながっていることを強調されているのです。「神のことば」が「神のことば」として働くことは「神のことば」とともに、また「神のことば」を通してお働きになる御霊のお働きによっています。私たちがどんなにことばを尽くしても、御霊がお働きにならなければ、誰も「神のことば」において啓示されいていることを理解することも、信じることもできません。それほど、私たちが「神のことば」を恵みの手段として、また霊的な戦いにおける武具として用いることは、御霊のお働きに依存しているのです。
 霊的な戦いにおける武装のことを記している14節〜17節の背景の1つに、イザヤ書11章1節〜5節に記されていますメシヤ預言があります。そこには、

  エッサイの根株から新芽が生え、
  その根から若枝が出て実を結ぶ。
  その上に、主の霊がとどまる。
  それは知恵と悟りの霊、
  はかりごとと能力の霊、
  主を知る知識と主を恐れる霊である。
  この方は主を恐れることを喜び、
  その目の見るところによってさばかず、
  その耳の聞くところによって判決を下さず、
  正義をもって寄るべのない者をさばき、
  公正をもって国の貧しい者のために判決を下し、
  口のむちで国を打ち、
  くちびるの息で悪者を殺す。
  正義はその腰の帯となり、
  真実はその胴の帯となる。

と記されています。
 2節では、約束のメシヤのことが、

  その上に、主の霊がとどまる。
  それは知恵と悟りの霊、
  はかりごとと能力の霊、
  主を知る知識と主を恐れる霊である。

と言われています。「メシヤ」ということばは特定の任務のために「油注がれた者」を指していましたが、やがて、約束された贖い主を指すようになりました。この「メシヤ」に当たるギリシャ語が「キリスト」です。まことのメシヤは物質的な油ではなく御霊によって「油注がれた者」です。
 5節の、

  正義はその腰の帯となり、
  真実はその胴の帯となる。

ということばは、エペソ人への手紙6章14節で、

腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、

と言われていることの背景となっています。
 イザヤ書11章4節後半では、約束のメシヤのことが、

  口のむちで国を打ち、
  くちびるの息で悪者を殺す。

と言われています。この、

  口のむちで国を打ち、

の「」(アレツ)は、文字通りには「」で、この部分は、

  口のむちで地を打ち、

となります。言うまでもなく、これは軍事的な戦いのことではなく、霊的な戦いのことを述べています。「口のむち」と「くちびるの息」は同じものを言い換えたもので、メシヤすなわちキリストのみことばを指しています。この場合には、それが「口のむち」と言われていますように、この地に対するさばきを執行されるみことばです。
 同時に、これは、その前の部分で、

  正義をもって寄るべのない者をさばき、
  公正をもって国の貧しい者のために判決を下し、

と言われていることを受けてのことです。この「国の貧しい者」の「」も「」で、これは「地の貧しい者」です。
 約束のメシヤは、自分自身のうちに頼むところがなく、それゆえに、ひたすら主の恵みに信頼している「寄るべのない者」、「貧しい者」のためにさばきを執行されます。「寄るべのない者」、「貧しい者」たちをしいたげ、搾取している者たちをおさばきになり、彼らの手から「寄るべのない者」、「貧しい者」たちを救い出されます。ですから、このさばきは「寄るべのない者」、「貧しい者」の救いを意味しています。もちろん、これも霊的な戦いにおけることです。それで、この「寄るべのない者」、「貧しい者」は、主の御前に自分の義を立てることはできないことを悟って、贖い主の恵みに頼り続けている者たちのことを指しています。
 この約束のメシヤのさばきが、主の恵みに信頼する者たちの救いを意味していることは、これに続く6節〜10節に、

  狼は子羊とともに宿り、
  ひょうは子やぎとともに伏し、
  子牛、若獅子、肥えた家畜が共にいて、
  小さい子どもがこれを追っていく。
  雌牛と熊とは共に草を食べ、
  その子らは共に伏し、
  獅子も牛のようにわらを食う。
  乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、
  乳離れした子はまむしの子に手を伸べる。
  わたしの聖なる山のどこにおいても、
  これらは害を加えず、そこなわない。
  主を知ることが、
  海をおおう水のように、地を満たすからである。
  その日、
  エッサイの根は、国々の民の旗として立ち、
  国々は彼を求め、
  彼のいこう所は栄光に輝く。

と記されていることからも分かります。
 これは約束のメシヤが成し遂げられる贖いの御業によって、主の民が罪を贖われて救われるだけでなく、造られたすべてのものが、主の贖いの御業を通して回復されるようになることを述べたものです。まさに、

天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められること

という、父なる神さまのみこころの奥義が実現することを預言的に述べたものです。
 イザヤ書11章9節には、

  わたしの聖なる山のどこにおいても、
  これらは害を加えず、そこなわない。
  主を知ることが、
  海をおおう水のように、地を満たすからである。

と記されています。ここで、

  主を知ることが、
  海をおおう水のように、地を満たすからである。

と言われていることは、自動的にそうなるということではありません。それは、約束のメシヤのお働きによって実現することです。ここでは明確に述べられていませんが、その際に、メシヤはご自身の民のあかしを用いてくださいます。主の民は主が成し遂げてくださる贖いの御業に関する福音のみことばを宣べ伝えることにおいてこれに参加するのです。
 このように、霊的な戦いの状況の中で、御霊に満たされて贖いの御業を遂行なさるメシヤご自身が、

  口のむちで国を打ち、
  くちびるの息で悪者を殺す。

というお働きをなさっておられます。私たちは福音のみことばの宣教によって、その主の戦いに参与するように召されています。それで、私たちも「御霊の剣」としての「神のことば」を受け取るようにと戒められているのです。
 これと関連して、黙示録1章12節〜16節を見てみましょう。そこには、栄光のキリストの顕現が黙示文学の表象によって記されています。そこには、

そこで私は、私に語りかける声を見ようとして振り向いた。振り向くと、七つの金の燭台が見えた。それらの燭台の真中には、足までたれた衣を着て、胸に金の帯を締めた、人の子のような方が見えた。その頭と髪の毛は、白い羊毛のように、また雪のように白く、その目は、燃える炎のようであった。その足は、炉で精練されて光り輝くしんちゅうのようであり、その声は大水の音のようであった。また、右手に七つの星を持ち、口からは鋭い両刃の剣が出ており、顔は強く照り輝く太陽のようであった。それで私は、この方を見たとき、その足もとに倒れて死者のようになった。しかし彼は右手を私の上に置いてこう言われた。「恐れるな。わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとのかぎを持っている。そこで、あなたの見た事、今ある事、この後に起こる事を書きしるせ。

と記されています。
 これは、十字架の死をもってご自身の民のために罪の贖いを成し遂げ、栄光を受けて死者の中からよみがえって、父なる神さまの右の座に着座しておられる栄光のキリストが、黙示録の著者であるヨハネにご自身を現してくださったということです。これによって、ご自身のことを、

わたしは、最初であり、最後であり、生きている者である。わたしは死んだが、見よ、いつまでも生きている。また、死とハデスとのかぎを持っている。

とあかしされる栄光のキリストが、ご自身が成し遂げられた贖いの御業に基づいて世の終りまでの歴史を支配しておられる方であられることを示してくださっています。
 今お話ししていることとのかかわりでは、16節で、栄光のキリストの「口からは鋭い両刃の剣が出て」いたと言われています。この「鋭い両刃の剣」は、それが口から出ていたということから分かりますように、栄光のキリストのみことばのことです。ここでは栄光のキリストのみことばが「鋭い両刃の剣」にたとえられていますが、この「」ということば(ロムファイア)は長くて幅のある剣を表しています。これに対してまして、エペソ人への手紙6章17節で、私たちが受け取るようにと言われている「」(マカイラ)は短くて鋭い剣です。
 また、終りの日にさばきのために再臨される栄光のキリストのことを記している19章11節〜16節には、

また、私は開かれた天を見た。見よ。白い馬がいる。それに乗った方は、「忠実また真実。」と呼ばれる方であり、義をもってさばきをし、戦いをされる。その目は燃える炎であり、その頭には多くの王冠があって、ご自身のほかだれも知らない名が書かれていた。その方は血に染まった衣を着ていて、その名は「神のことば」と呼ばれた。天にある軍勢はまっ白な、きよい麻布を着て、白い馬に乗って彼につき従った。この方の口からは諸国の民を打つために、鋭い剣が出ていた。この方は、鉄の杖をもって彼らを牧される。この方はまた、万物の支配者である神の激しい怒りの酒ぶねを踏まれる。その着物にも、ももにも、「王の王、主の主。」という名が書かれていた。

と記されています。15節で、

この方の口からは諸国の民を打つために、鋭い剣が出ていた。

と言われているときの「」は、長くて幅のある「剣」(ロムファイア)です。
 栄光のキリストが長くて幅のある「剣」(ロムファイア)を持っておられることは、栄光のキリストが歴史の主として歴史を治め、そのみことばをもって、救いとさばきの御業を遂行しておられることを意味しています。そして、私たちが霊的な戦いを戦うために「剣」(マカイラ)としてのみことばを、栄光のキリストから受け取ることは、「剣」(ロムファイア)としてのみことばをもって、歴史を治め、救いとさばきの御業を遂行しておられる栄光のキリストの下にあって、栄光のキリストとともに霊的な戦いを戦うからです。
 このような霊的な戦いの状況の中で、私たちは「神のすべての武具」をもって武装するようにと戒められています。その六つの武具のうち五つまでが防御のための武具です。それは、私たちが血肉の力に頼らずに、ひたすら栄光のキリストを信頼して、福音のみことばにとどまり、みことばにしたがって歩むようになるためです。そして、唯一の攻撃的な武器である「御霊の剣」としての「神のことば」を受け取るようにと言われています。「御霊の剣」としての「神のことば」をもって戦うということは、私たちが、御霊に信頼して、福音をあかしすることを意味しています。御霊のお働きを頼みつつ、御子イエス・キリストが十字架の死をもって罪の贖いを成し遂げてくださったことと、ご自身を信じる者を死と滅びの中から贖い出してくださることを、みことばに沿ってあかしするということです。
 そのことは、私たちを召してくださっている栄光のキリストを信じ、信頼して初めて行うことができます。それで、私たちはイエス・キリストにあってすべての聖徒たちと一つに結び合わされていることを自覚し、目を覚ましていて、すべての聖徒たちのために、御霊によって祈り続ける必要があるのです。この祈りは、目に見える信仰の家族が、御子イエス・キリストにあって、御霊による一致と交わりを保つことから始まって、信仰の家族が心を合わせて、すべての聖徒たちのために祈ることへと広がっていきます。
 繰り返しになりますが、これは、

天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められること

という、父なる神さまのみこころの奥義が実現することの第一歩を記すことです。
 その意味で、礼拝における公的な祈りとしての牧会の祈りにおいても、祈祷会における共同の祈りにおいても、さらには、私たちそれぞれが個人的に祈る祈りにおいても、主にあって目を覚ましていて、お互いのために祈り合うことから始まって、すべての聖徒たちのために祈る祈りの広がりがあることが大切です。そのような御霊による一致と祈りの中で、「御霊の剣」としての「神のことば」が、御霊のお働きによってその威力を発揮し、福音のみことばの宣教が進んでいくのです。パウロはそのような理解の下で、エペソ人への手紙の読者たちに、

また、私が口を開くとき、語るべきことばが与えられ、福音の奥義を大胆に知らせることができるように私のためにも祈ってください。私は鎖につながれて、福音のために大使の役を果たしています。鎖につながれていても、語るべきことを大胆に語れるように、祈ってください。

という祈りの要請をしています。

 


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