説教日:2003年7月25日
聖書箇所:エペソ人への手紙6章18節〜20節
説教題:鎖につながれた大使(1)


 エペソ人への手紙6章18節〜20節には、

すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。また、私が口を開くとき、語るべきことばが与えられ、福音の奥義を大胆に知らせることができるように私のためにも祈ってください。私は鎖につながれて、福音のために大使の役を果たしています。鎖につながれていても、語るべきことを大胆に語れるように、祈ってください。

と記されています。
 先週は、19節に記されている、

また、私が口を開くとき、語るべきことばが与えられ、福音の奥義を大胆に知らせることができるように私のためにも祈ってください。

というパウロのことばにある「福音の奥義」についてお話ししました。今日は、それに続く20節に、

私は鎖につながれて、福音のために大使の役を果たしています。鎖につながれていても、語るべきことを大胆に語れるように、祈ってください。

と記されていることについてお話ししたいと思います。
 訳としては、ほぼ新改訳の訳でいいのではないかと思われますが、この個所には、いくつか難しい点があります。

私は鎖につながれて、福音のために大使の役を果たしています。

という部分の「福音のために」の「福音の」と訳されていることばは関係代名詞(中性形)ですが、それがその前の「福音」を受けているのか、「このことのために」というように、「福音の奥義を大胆に知らせること」全体を受けているのかはっきりしません。もっとも、どちらであっても「福音のために」ということでまとめられます。
 また、

鎖につながれていても、語るべきことを大胆に語れるように

という部分の「鎖につながれていても」と訳されていることばは、文字通りには「それにあって」(エン・アウトー)ということで、「それ」ということばは中性形か男性形で、「」という女性形のことばを受けてはいません。それで、これは「鎖につながれていて」ということよりは、「鎖につながれて、福音のために大使の役を果たしてい」ること全体を指していると考えられます。
 それで、この個所は、かなりぎこちないのですが、

福音のために、私は鎖につながれて大使となっています。このことにおいて、私が語るべきであるように、大胆に語ることができるように(祈ってください。)

というようになるでしょうか。
 ここで「鎖につながれて」ということは、パウロが囚人として牢獄につながれていることを示しています。


 すでにお話ししましたように、18節〜20節はひとまとまりの戒めです。これは基本的に御霊によって祈るべきことを戒める戒めですが、これに先立つ10節〜17節に記されている霊的な戦いにおいて「神のすべての武具を身に着け」て霊的に武装するようにという戒めを受けています。
 ここでは、霊的な戦いの状況の中で御霊によって祈るために特に大切なことは、

そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。

と言われていますように、「すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈り」つつ「絶えず目をさまして」いることであると言われています。(この場合の「祈り」は、18節冒頭で「すべての祈りと願いを用いて」と言われているときの「願い」と同じことばですが、これが「すべての聖徒」たちのための祈りにおける「願い」を意味していることは明白です。)
 このことには二つのことがかかわっています。一つは、「絶えず目をさまして」いることです。もう一つは、目を覚ましていることは、「すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈り」つつのことであるということです。
 目を覚ましているべきことについては、すでに詳しくお話ししてきました。聖書の中では、目を覚ましているようにと戒められているときの目を覚ましていることは、「主の日」、「主の時」、特に世の終わりの栄光のキリストの再臨の日をわきまえていることから生まれてくる姿勢です。ただし、イエス・キリストの再臨の日がいつであるかは、父なる神さまがご自身の永遠の聖定におけるみこころしたがって定めておられることで、私たちには知らされていません。大切なことは、その日、その時が父なる神さまの永遠の聖定におけるみこころによって定められているということです。そして、その父なる神さまの永遠の聖定におけるみこころの中心は、私たちを御前に聖く傷のない者として立たせてくださり、ご自身の子としてくださることにあります。目を覚ましているということは、福音のみことばに記されている、このことに関する父なる神さまの約束を信頼して、私たちの救いの完成の時であるイエス・キリストの再臨の日を待ち望む望みの中に生きるということです。そのような生き方を神学的なことばを用いて言えば、「終末論的な」生き方ということになります。世の終りのイエス・キリストの再臨の日に、栄光のキリストが私たちの救いを完成してくださることをわきまえて、それにふさわしく生きる生き方です。
 エペソ人への手紙6章18節の文脈では、目を覚ましているということには、もう一つのことがかかわっています。それは、「すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈り」つつ「絶えず目をさまして」いるということです。ここには、自分たちが「すべての聖徒」たちと、イエス・キリストにあって一つであるという意識が見られます。そうであるからこそ、パウロは、「すべての聖徒」たちのための祈りの中に、自分のための祈りを加えてくれるようにと要請しているのです。この時パウロは囚人として牢獄につながれていましたが、自分の解放のための祈りを要請してはいません。パウロの解放はパウロを知る者たちすべてが祈っていることであったでしょうし、そのことはパウロも承知していたでしょうが、パウロは、自分に委ねられている「福音の奥義」を知らせることのための祈りを要請しています。それは、パウロがこの自分に委ねられている「福音の奥義」を知らせることにおいても、「すべての聖徒」たちと一つでありたいと願っていたことを意味しています。(パウロが自分の解放のための祈りを要請していないことにつきましては、後ほどさらにお話しします。)
 これは霊的な戦いの状況に置かれている主の民にとって大切な意味をもっています。4章1節〜6節には、

さて、主の囚人である私はあなたがたに勧めます。召されたあなたがたは、その召しにふさわしく歩みなさい。謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い、平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。からだは一つ、御霊は一つです。あなたがたが召されたとき、召しのもたらした望みが一つであったのと同じです。主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つです。すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのもののうちにおられる、すべてのものの父なる神は一つです。

というパウロの戒めが記されています。
 これはエペソ人への手紙の構成から言いますと、1章〜3章に記されています教理編を受けて、4章から始まる実践編の冒頭に記されている戒めです。ここでパウロはこの手紙の読者たちが主にある一致を保つことを説いています。その書き出しにおいてパウロは、

さて、主の囚人である私はあなたがたに勧めます。

というように、自分のことを「主の囚人である私」と述べています。これは文字通りには「私、主にある囚人」で、パウロが牢獄につながれていることに触れています。それで、これにはどのような意味があるのだろうかという疑問がわいてきます。それについては、後ほどお話しするとしまして、このことを念頭においてお話を続けます。
 一般に、このエペソ人への手紙はエペソにあった教会だけでなく、エペソにあった教会を含めて小アジアにあった諸教会に宛てられた手紙であったと考えられています。そのことに疑問をもつ方々もいますが、少なくとも、この手紙の内容は、ある特定の町の教会に宛てられたというには、あまりにも一般的なものです。このような手紙の中で、そして、4章から始まる実践編の冒頭において、パウロは、何よりもまず主にある一致を保つべきことを説いています。ですから、これは、一つの町の特定の教会だけの一致を求めるものであるというより、より広く、主の民全体の一致、すなわち「すべての聖徒」たちの一致へとつながっていく一致を、それぞれの教会において実現することを視野においての戒めであると理解することができます。
 このことを先週お話ししました「福音の奥義」とのかかわりで見ますと、この主の民全体の一致は、1章10節に記されている、

天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められること

という父なる神さまの「みこころの奥義」の実現の第一歩としての意味をもっています。
 この父なる神さまの「みこころの奥義」の実現のために御子イエス・キリストは十字架の死による罪の贖いを成し遂げてくださいました。そればかりでなく、この父なる神さまの「みこころの奥義」の実現のために、栄光をお受けになって死者の中からよみがえってくださり、父なる神さまの右の座に着座されました。1章20節〜23節に、

神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。

と記されているとおりです。
 復習になりますが、20節、21節に記されている、

神は、その全能の力をキリストのうちに働かせて、キリストを死者の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右の座に着かせて、すべての支配、権威、権力、主権の上に、また、今の世ばかりでなく、次に来る世においてもとなえられる、すべての名の上に高く置かれました。

ということは、詩篇110篇1節に、

  主は、私の主に仰せられる。
  「わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまでは、
  わたしの右の座に着いていよ。」

と記されていることの成就です。それで、エペソ人への手紙1章20節に記されている「すべての支配、権威、権力、主権」は、霊的な戦いにおいて神である主に敵対している暗やみの主権者たちのことです。イエス・キリストが父なる神さまの右の座に着座されたことによって、霊的な戦いにおける勝利は確定しているのです。このみことばの光の下で私たちの置かれている霊的・歴史的な状況を見ますと、暗やみの主権者たちは、いわば、敗走しながら、なおも抵抗を続けています。そして、少しでも主の民に打撃を加えようとしているということが分かります。私たちの目に映る状況は、主の民が全くの窮地に追い込まれているのではないかと思われるような状況です。世界の至る所に迫害の嵐が吹き荒れ、神の子どもたちが厳しい試練にさらされています。けれども、みことばの光は、暗やみの主権者たちが敗走を重ねながら、最後の抵抗をしているという霊的な戦いにおける実体を映し出しています。
 また、エペソ人への手紙1章22節に記されている、

また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、

ということは、詩篇8篇5節、6節に、

  あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、
  これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。
  あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、
  万物を彼の足の下に置かれました。

と記されていることの成就です。この詩篇8篇5節、6節のことばは、創世記1章27節、28節に、

神はこのように、人をご自身のかたちに創造された。神のかたちに彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。神はまた、彼らを祝福し、このように神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」

と記されていることに触れるものです。
 天地創造の初めに、神さまは人を神のかたちにお造りになって、すべてのものを神さまのみこころにしたがって治める使命をお委ねになりました。そのような使命の下に、神のかたちに造られている人間は、神さまがお造りになったこの世界のすべてのものの「かしら」としての立場に置かれています。それは今日も変わっていません。詩篇8篇は、それが人類が造り主である神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまった後にも変わっていないことをあかししています。
 そのような立場に置かれている人間が造り主である神さまに対して罪を犯して御前に堕落してしまったことによって変わったのは、その人間が罪と死の力に捕えられてしまったということです。それによって、罪の自己中心性が強烈に現れてくるようになって、人間は神さまから委ねられたものを、神さまのみこころにしたがって治めるのではなく、自分のために搾取するようになってしまったということです。しかし、それだけではありません。神のかたちに造られている人間を「かしら」とする全被造物が虚無に服するようになっってしまいました。それで、その「かしら」である人間が御子イエス・キリストを通して成し遂げられた贖いの御業によって回復されるなら、全被造物も回復されます。それが、繰り返し引用していますローマ人への手紙8章19節〜22節に、

被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。

と記されていることです。
 エペソ人への手紙1章22節に、

また、神は、いっさいのものをキリストの足の下に従わせ、

と記されていることは、人としての性質をお取りになって来てくださって贖いの御業を成し遂げられ、栄光をお受けになって父なる神さまの右の座に着座されたイエス・キリストにおいて、天地創造の初めに神のかたちに造られた人に委ねられた使命は実現しているということを示しています。つまり、詩篇8篇5節、6節に、

  あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、
  これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。
  あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、
  万物を彼の足の下に置かれました。

と記されていることが栄光のキリストによって成就しているということです。そして、これによって、虚無に服していた全被造物も贖いの御業にあずかって、神の子どもたちとともに回復され、栄光あるものとして再創造されるようになります。それがやがて来たるべき新しい天と新しい地です。
 さらに、エペソ人への手紙1章22節後半と23節には、

いっさいのものの上に立つかしらであるキリストを、教会にお与えになりました。教会はキリストのからだであり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです。

と記されています。ここに記されていますように、霊的な戦いにおける勝利を確定され、全被造物の回復のための贖いの御業を成し遂げられた栄光のキリストは、教会に与えられています。教会は栄光のキリストのからだとして立てられていて、そこにかしらであられる栄光のキリストが御霊によってご臨在してくださっています。
 ですから、教会が栄光のキリストがご臨在してくださるキリストのからだとして存在していること自体が、

天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められること

という父なる神さまの「みこころの奥義」の実現の第一歩としての意味をもっています。
 そのように、

天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって

まったき調和のうちに存在するようになることは、世の終わりのイエス・キリストの再臨の日に、栄光のキリストによって再創造される新しい天と新しい地において、完全な形で実現するようになります。このことに関する父なる神さまの永遠の聖定におけるご計画と、それに基づく約束は確かです。私たちはその約束を信じて主が来られる日を待ち望みます。
 けれども、それまでの間には、霊的な戦いにおいて敗走しつつある暗やみの主権者たちの激しい抵抗が続きます。また、神の子どもたち自身のうちにも罪があって、さまざまな問題を生み出します。そのように、私たちはこの世にある間は、霊的な戦いの状況に置かれています。
 このような霊的・歴史的状況にあって、暗やみの主権者たちが何を狙って働いているかは明白です。それは、栄光のキリストがご臨在してくださるキリストのからだとして存在している教会を破壊することです。それは、この世の権力を用いて、この世に存在している教会を抹殺するという形でなされることもあります。それは、この時代になって特に激しくなってきました。それとともに、教会が栄光のキリストがご臨在されるキリストのからだとしての本質を失ってしまうようにと画策するという形でもなされます。たとえば、教会から罪の贖いによる恵みのメッセージが失われ、心理的な操作による別の種類の「いやし」や「慰め」が語られるようになったり、教会が「聖礼典において表示されている恵みとまことに満ちた栄光のキリストのご臨在」の御許において一つに集められている共同体としての本質を失って、キリスト教的な運動体に変質してしまうようにと画策しているのです。
 特に、

天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められること

という父なる神さまの「みこころの奥義」の実現の第一歩としての意味をもっている教会から、主にある一致が失われてしまうなら、それこそ暗やみの主権者たちが願っていることが実現することになります。
 そのような霊的な戦いの状況の中で、パウロは、エペソ人への手紙の実践編の冒頭である4章1節〜6節において、

さて、主の囚人である私はあなたがたに勧めます。召されたあなたがたは、その召しにふさわしく歩みなさい。謙遜と柔和の限りを尽くし、寛容を示し、愛をもって互いに忍び合い、平和のきずなで結ばれて御霊の一致を熱心に保ちなさい。からだは一つ、御霊は一つです。あなたがたが召されたとき、召しのもたらした望みが一つであったのと同じです。主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つです。すべてのものの上にあり、すべてのものを貫き、すべてのもののうちにおられる、すべてのものの父なる神は一つです。

と戒めているのです。これが、

天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められること

という父なる神さまの「みこころの奥義」の実現にとって大切な意味をもっていることがお分かりのことと思います。
 この一連の戒めの冒頭で、パウロは自分自身のことを、「主の囚人である私」と述べています。これは、文字通りには「私、主にある囚人」です。これには二重の意味があります。一つは、この時パウロが実際に囚人として牢獄につながれていたということです。それは6章22節で、

私は鎖につながれて、福音のために大使の役を果たしています。

と言われていることにつながっていきます。もう一つのことは、パウロは自分が牢獄につながれていることも「主にあって」起っていることであり、主のためのことであると理解しているということです。
 実はこれは、3章1節において、

こういうわけで、あなたがた異邦人のためにキリスト・イエスの囚人となった私パウロが言います。

と記されていることを受けています。ここでパウロは自分のことを「あなたがた異邦人のためにキリスト・イエスの囚人となった私パウロ」と述べています。これはもう少し直訳調に訳しますと、「あなたがた異邦人のためのキリスト・イエスの囚人である私パウロ」となります。このことばにもいくつかのことがかかわっています。一つは、パウロが牢獄につながれているということです。もう一つは、パウロが、このことは自分がキリスト・イエスに捕えられていることの現れであると考えているということです。自分はキリスト・イエスに捕えられているからこそ牢獄につながれている、と理解しているということです。さらにもう一つのことは、パウロは、自分がキリスト・イエスに捕えられている者として牢獄につながれていることは、「異邦人のため」であると考えているということです。
 そして、これに続く2節〜6節には、

あなたがたのためにと私がいただいた、神の恵みによる私の務めについて、あなたがたはすでに聞いたことでしょう。先に簡単に書いたとおり、この奥義は、啓示によって私に知らされたのです。それを読めば、私がキリストの奥義をどう理解しているかがよくわかるはずです。この奥義は、今は、御霊によって、キリストの聖なる使徒たちと預言者たちに啓示されていますが、前の時代には、今と同じようには人々に知らされていませんでした。その奥義とは、福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人もまた共同の相続者となり、ともに一つのからだに連なり、ともに約束にあずかる者となるということです。

と記されています。
 先週お話ししましたように、これも、

天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められること

という父なる神さまの「みこころの奥義」の実現につながっています。
 パウロが囚人として牢獄につながれているのは、パウロが犯罪を犯したからではありません。使徒の働きの後半に繰り返し記されているパウロのあかしを読めば分かりますが、パウロはそれまでパリサイ派に属していて、モーセ律法にかかわるラビたちの規定を人一倍熱心に守って生きてきました。そして、ラビ・ガマリエルのもとで律法を学んだ秀才でした。そればかりか、ローマ人の手によって十字架に付けられて殺されたナザレのイエスが約束の贖い主であるという教えにしたがう者たちを迫害していました。ところが、その迫害の意気に燃えてダマスコに向かうパウロに栄光のキリストが現れてくださいました。
 それは、パウロにとっては、ローマ人の手によって十字架に付けられて殺されたナザレのイエスが栄光の主であり、約束の贖い主であったという衝撃的な啓示でした。この啓示を基にしてパウロは、改めて、旧約聖書に示されている神である主のみことばを読み直しました。神である主の贖いの御業の歴史を捉えなおしました。そして、主の御霊のお導きの基に、アブラハムに与えられた契約の約束は地上のすべての民への祝福の約束であること、そして、古い契約の基にあったイスラエルは、来たるべき主の民の地上的なひな型であることを悟るようになります。からだの割礼は、やはり、地上的なひな型であるイスラエルの民に加えられるためのものであり、まことの割礼は心の割礼で、主の贖いの御業によってその人が内側からきよめられることにあるということも悟るようになります。これらの悟りによって、パウロは、主の贖いの御業がユダヤ人という一つの民族に限られたものではなく、地上のすべての民のためであり、ユダヤ人と異邦人の区別を超えて、すべて父なる神さまが遣わしてくださった御子イエス・キリストを信じる者を罪と死の力から贖い、救い出すものであることを悟るようになりました。
 パウロは、このようなユダヤ人という一民族を越えた救いの福音を伝えたために、人が救われるためには割礼を受けてユダヤ人の共同体に加わり、モーセ律法を守らなければならないと主張していた人々から迫害を受けました。そのことをとおして、主はパウロを異邦人のための使徒として召してくださいました。
 パウロは何度か投獄されていますが、エペソ人への手紙がその中のいつ記されたのかを確定することは難しいことです。いずれにしても、パウロがこのような福音を伝えたために迫害を受けて投獄されたことは確かです。まさにパウロは、「異邦人のためのキリスト・イエスの囚人」であったのです。けれども、パウロはそのことを嘆いてはいません。自分のことを「私、主にある囚人」と述べて、囚人として牢獄につながれていることも、主にあって起っていることを認めて、主に信頼しています。そして、そのことが、かえって主の民の一致のために役立っていることを認めています。また、エペソ人への手紙の読者に祈りの要請をするときにも、自分の釈放のための祈りではなく、「福音の奥義」を知らせる務めのための祈りを要請しています。
 この祈りの要請の中で、パウロは自分のことを福音の宣教のための「大使である」と述べています。この「大使である」ことは名誉なことであって、栄光のキリストから全権を委ねられたものとしての自覚がともなっています。
 それと同時に、パウロは、

私が口を開くとき、語るべきことばが与えられ、福音の奥義を大胆に知らせることができるように私のためにも祈ってください。

というように祈りを要請しています。栄光のキリストから全権を委ねられた大使であるけれども、「福音の奥義」の宣教においては、栄光のキリストが語るべきことばを与えてくださらなければならないことを自覚しています。
 さらには、パウロは自分がただの「大使である」のではなく「鎖につながれている大使である」と述べています。普通ですと、いくら「大使である」といっても、これでは望みがなく、望みはその状態から解放されることだということになります。けれども、パウロはそう考えてはいません。テモテへの手紙第二・2章9節には、

私は、福音のために、苦しみを受け、犯罪者のようにつながれています。しかし、神のことばは、つながれてはいません。

と記されていますように、パウロは「神のことば」とそれを用いて働いてくださる御霊を信頼しています。
 実際、すでにお話ししましたように、パウロは、自分が囚人として牢獄につながれていることが、主にあって起っていることであり、主の民の一致のために用いられていることを自覚しています。そして、それは、ひとえに、「福音の奥義」を知らせることが主の御業であって、主が福音のために囚人となっている自分を用いてくださることによって、主の栄光がさらに豊かに現されることになることを認めているからに他なりません。同じく獄中から記されたピリピ人への手紙の1章12節〜14節には、

さて、兄弟たち。私の身に起こったことが、かえって福音を前進させることになったのを知ってもらいたいと思います。私がキリストのゆえに投獄されている、ということは、親衛隊の全員と、そのほかのすべての人にも明らかになり、また兄弟たちの大多数は、私が投獄されたことにより、主にあって確信を与えられ、恐れることなく、ますます大胆に神のことばを語るようになりました。

と記されています。パウロの投獄のことが知れ渡ったときに起こったことは、私たちの予想を超えたことでした。まさに、主の御業であると言うほかないことが起こっていたのです。

 


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