説教日:2004年7月18日
聖書箇所:エペソ人への手紙6章18節〜20節
説教題:福音の奥義を


 これまで、エペソ人への手紙6章18節に記されています、

すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。

という戒めについてお話ししてきました。それに続く19節、20節には、

また、私が口を開くとき、語るべきことばが与えられ、福音の奥義を大胆に知らせることができるように私のためにも祈ってください。私は鎖につながれて、福音のために大使の役を果たしています。鎖につながれていても、語るべきことを大胆に語れるように、祈ってください。

と記されています。
 ギリシャ語の原文では、19節にも20節にも、「祈ってください」ということばはありません。ただ、19節の初めにおいて「そして、私のために」と言われていて、その後に、祈るべき内容に当たることが記されています。それで、新改訳は、そのほかの訳もそうですが、「祈ってください」ということばを補っています。ここに「祈ってください」ということばがなくて、ただ19節の初めで「そして、私のために」と言われているだけであることによって、これがその前の18節で、

そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。

と言われていることにつながっていることが、よりはっきりと分かるようになっています。
 パウロは、エペソ人への手紙の読者たちである小アジアのクリスチャンたちが「すべての聖徒のために」心を砕いていることを知っていました。1章15節、16節には、

こういうわけで、私は主イエスに対するあなたがたの信仰と、すべての聖徒に対する愛とを聞いて、あなたがたのために絶えず感謝をささげ、あなたがたのことを覚えて祈っています。

と記されています。ですから、6章18節で、

そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。

と言われているのは、エペソ人への手紙の読者たちがまだしていないことをするようにと戒めているのではなく、すでにそうしていることをさらに励ましているわけです。その際に、このパウロのことばの中心は「目をさましていて」ということにありますから、目を覚ましていることの大切さを強調しています。そして、その「すべての聖徒のために」目を覚まして祈り続けることの中に、自分の働きのための祈りを加えてくれるようにと願っているのです。
 その祈りの内容として19節に記されていることは、

私が口を開くとき、語るべきことばが与えられ、福音の奥義を大胆に知らせることができるように

ということです。この部分の訳し方については、いろいろな意見があるようですが、ほぼこの新改訳の訳文でいいのではないかと思われます。ただ、

私が口を開くとき、語るべきことばが与えられ、

という部分は、

私が口を開くときに、ことばが与えられるように、

ということで、「語るべき」ということばは原文にはありません。
 ここでパウロがエペソ人への手紙の読者たちに

私が口を開くときに、ことばが与えられるように、

と、自分のために祈ってくれるように要請しているのは、自分が主からみことばを委ねられていることを自覚しているからです。具体的には、パウロは「福音の奥義を知らせる」ことのために召されていることを自覚しています。その務めは、自分の考えを述べたり、自分自身を売り込むことによっては成し遂げられません。主から委ねられた「福音の奥義を知らせる」という務めを果たすためには、主が委ねてくださった「ことば」を語らなければならないのです。それで、主がふさわしいことばを与えてくださるように、パウロ自身が祈るとともに、エペソ人への手紙の読者たちにも祈を要請しているわけです。エペソ人への手紙の読者たちは、「すべての聖徒のために」目を覚まして祈り続ける中で、そのようにパウロのために祈ることによって、パウロの「福音の奥義を知らせる」務めに参与することになります。


 このエペソ人への手紙6章19節、20節に記されていることと同じことは、エペソ人への手紙と同じ状況で記されたと考えられるコロサイ人への手紙の4章3節、4節にも記されています。そこでは、

同時に、私たちのためにも、神がみことばのために門を開いてくださって、私たちがキリストの奥義を語れるように、祈ってください。この奥義のために、私は牢に入れられています。また、私がこの奥義を、当然語るべき語り方で、はっきり語れるように、祈ってください。

と言われています。このコロサイ人への手紙4章でも、その前の2節において、

目をさまして、感謝をもって、たゆみなく祈りなさい。

と記されています。3節、4節に記されていることは、やはり、祈りにおいて目を覚ましていることとつながっています。
 ここでも、パウロは自分に委ねられた使命が「キリストの奥義を語る」ことにあると述べています。そのために、コロサイ人への手紙の読者たちが目を覚まして祈り続けるときに、自分たちのために祈ってくれるようにと要請しています。
 これらのことから、エペソ人への手紙の読者たちやコロサイ人への手紙の読者たちが目を覚まして祈り続ける祈りにおいて、パウロが主から自分に委ねられている「福音の奥義を知らせる」こと、あるいは「キリストの奥義を語る」ことのために祈ってもらいたいと願っていることが分かります。 このことから、さらに、目を覚まして祈り続けることと、「福音の奥義を知らせる」ことのために祈ること、あるいは「キリストの奥義を語る」ことのために祈ることのつながりを考えてみたいと思います。
 すでにお話ししましたように、聖書において目を覚ましているように戒められているときの目を覚ましていることは、「主の日」、「主の時」、特に、栄光のキリストの再臨の日をわきまえることから生まれてくる姿勢です。それは、その日がいつであるかをわきまえることではなく、父なる神さまがご自身の永遠の聖定において、私たちの救いの完成のために「主の日」、すなわちイエス・キリストの再臨の日を定めてくださっているということを信じて、その日を待ち望む望みのうちに地上の歩みを歩むことに現れてきます。
 エペソ人への手紙1章3節〜6節に、

私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。それは、神がその愛する方によって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。

と記されていますように、父なる神さまは永遠の聖定において、私たちを「御前で聖く、傷のない者」とし、「イエス・キリストによってご自分の子にしようと」定めてくださっています。
 父なる神さまは、このことを実現してくださるために、御子イエス・キリストを、私たちのための贖い主としてお遣わしになりました。イエス・キリストは私たちの罪の咎を背負って十字架にかかって死んでくださり、私たちの罪を贖ってくださいました。そして、私たちと一つとなってくださった私たちの契約のかしらとして、死者の中からよみがえってくださり、私たちのいのちの源となってくださいました。さらに、天に上って父なる神さまの右の座に着座され、そこから、御霊を遣わしてくださいました。御霊は御子イエス・キリストが成し遂げられた贖いの御業を私たちに当てはめてくださって、私たちの罪をきよめ、私たちをイエス・キリストの復活のいのちによって生かしてくださり、私たちを新しく生まれた者、新しく造られた者としてくださいました。
 コリント人への手紙第二・5章17節には、

だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました。

と記されています。
 これは、ただ単に私たちの心構えが変わったというだけのことではありません。また、私たちの考え方が変わったというだけのことでもありません。私たちが、世の終わりのイエス・キリストの再臨の日に、イエス・キリストによって再創造される新しい天と新しい地にふさわしい存在として、新しく造られているということを意味しています。世の終わりに再臨されるイエス・キリストが再創造される新しい天と新しい地は、今私たちが住んでいる天と地をご破算にして、再び何もない中から造られるのではありません。最初の創造の御業によって造り出されて、神のかたちに造られている人間の罪による堕落のために虚無に服しているこの天と地が、御子イエス・キリストの贖いの御業にあずかって本来の姿に回復されるばかりか、主の充満な栄光のご臨在の場としてふさわしく再創造されるのです。イエス・キリストの再臨の日によみがえる私たちが私たちであることは変わりがないように、新しい天と新しい地が、最初の創造の御業によって造り出された天と地であることには変わりがありません。
 新しい天と新しい地においては、主であられるイエス・キリストが、その充満な栄光のうちにご臨在されます。そして、イエス・キリストにあって父なる神さまが私たちの間にご臨在されます。私たちは、栄光のキリストの御霊に満たされて、御子イエス・キリストにある父なる神さまとの愛にあるいのちの交わりのうちに生きるようになります。私たちがイエス・キリストの復活のいのちにあずかって新しく造られ、新しく生まれているということは、そのような、新しい天と新しい地において生きる者として、新しく造られ、新しく生まれているということを意味しています。このことは、イエス・キリストにあって私たちの現実となっています。
 このことの土台は私たちのうちにではなく、父なる神さまが御子イエス・キリストをとおして成し遂げてくださったことにあります。父なる神さまはすでに御子イエス・キリストの十字架の死によって、私たちの罪のために贖いの御業を成し遂げてくださっています。そして、御子イエス・キリストに栄光をお与えになって、イエス・キリストを死者の中からよみがえらせてくださって、ご自身の右の座に着座させてくださいました。それで、御子イエス・キリストは、父なる神さまからお受けになった御霊を私たちに注いでくださいました。これらすべてのことは、父なる神さまが御子イエス・キリストにあって私たちのために成し遂げてくださったことですが、私たちの外で、今から2千年前になされたものです。これが、私たちがより頼むべき土台です。
 父なる神さまはこのすべてを福音のみことばを通して私たちに明らかにしてくださっています。私たちは、父なる神さまが福音のみことばを通して明らかにしてくださった、私たちの贖い主であるイエス・キリストと、イエス・キリストによって成し遂げられた贖いの御業を信じています。
 このように、父なる神さまが御子イエス・キリストを遣わしてくださったこと、イエス・キリストが十字架にかかって死んでくださり、死者の中からよみがえってくださったこと、そして、イエス・キリストが父なる神さまの右の座から御霊を遣わしてくださったことは、今から2千年前に成し遂げられています。
 その後の歴史においては、イエス・キリストが父なる神さまの御名によって遣わされた御霊が、イエス・キリストの御国の民の間に宿ってくださって、すでにイエス・キリストが成し遂げてくださっている贖いを、イエス・キリストの御国の民に当てはめるお働きをしてくださっています。
 私たちも、その御霊のお働きによって心を開いていただき、福音のみことばにあかしされているイエス・キリストとイエス・キリストの贖いの御業を信じるようになりました。それで、私たちはイエス・キリストを信じる信仰によって義と認められ、父なる神さまの子どもとしての身分を与えられ、実際に、御霊によって「アバ、父。」と呼ぶことによる、父なる神さまとの愛にあるいのちの交わりの中に生きています。
 これは、先ほど言いましたように、私たちが、主がその充満な栄光においてご臨在される新しい天と新しい地において生きる者として、新しく造り変えられ、新しく生まれていることを意味しています。ですから、私たちが新しく造り変えられて、新しく生まれていることは、イエス・キリストの再臨の日に、この古い天と古い地が造り変えられて、新しい天と新しい地となることにつながっており、古い天と古い地が造り変えられて、新しい天と新しい地となることの先駆けとしての意味をもっています。それで、いろいろな機会にお話ししてきましたが、ローマ人への手紙8章18節〜22節には、

今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。

と記されているのです。
 御霊のお働きによって新しく造り変えられ、新しく生まれた私たちが、福音のみことばによってあかしされているイエス・キリストとイエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業を信じて義と認められ、父なる神さまの子どもとされていることは、ここで、

被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。

と言われている、「被造物の望み」が、歴史の中に実現していることを意味しています。
 しかし、

私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。

と言われていますように、栄光の主がその充満な栄光のうちにご臨在される新しい天と新しい地は、いまだ歴史の現実とはなっていません。それは、贖いの御業のご計画を立てておられる父なる神さまが定めておられる、世の終わりのイエス・キリストの再臨の日に、再び来られるイエス・キリストの再創造の御業をとおして実現します。
 ですから、

被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしている

と言われているのです。しかし、これは単なる希望的観測ではありません。「産みの苦しみをしている」ということは、その誕生が確実なことであり、迫ってきているということを意味しています。ですから私たちは、目を覚ましていて、その日、その時を待ち望んでいるのです。
 その時には、私たちの死すべきからだも新しく造り変えられて、栄光のからだによみがえります。それで、続く23節では、

そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。

と言われています。
 私たちの死すべきからだが新しく造り変えられて、栄光のからだによみがえるということは、主の充満な栄光のご臨在の御前に立つのにふさわしい、栄光のからだによみがえるということです。それとともに、同じイエス・キリストの再創造のお働きによって、古い天と古い地も新しい天と新しい地に造り変えられます。
 繰り返しになりますが、これらすべてのことの土台は、人となって来られた永遠の神の御子イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた罪の贖いです。イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりが、私たちだけでなく、全被造物にとって意味をもっているということは、コロサイ人への手紙1章19節、20節に示されています。そこには、

なぜなら、神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ、その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、ご自分と和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。

と記されています。
 このように、イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げられた贖いの御業は、父なる神さまが「御子によって万物を、ご自分と和解させてくださった」ことの根拠となっています。
 エペソ人への手紙1章7節〜10節には、父なる神さまが「御子によって万物を、ご自分と和解させてくださった」ことが、父なる神さまの「みこころの奥義」であるということが明らかにされています。そこには、

私たちは、この御子のうちにあって、御子の血による贖い、すなわち罪の赦しを受けているのです。これは神の豊かな恵みによることです。神はこの恵みを私たちの上にあふれさせ、あらゆる知恵と思慮深さをもって、みこころの奥義を私たちに知らせてくださいました。それは、神が御子においてあらかじめお立てになったご計画によることであって、時がついに満ちて、この時のためのみこころが実行に移され、天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められることなのです。

と記されています。
 6章19節において、パウロが主から委ねられた「福音の奥義を大胆に知らせることができるように」と願っているときの「福音の奥義」は、この父なる神さまの「みこころの奥義」のことです。それは、具体的には、

天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められること

です。それは、先程のコロサイ人への手紙1章19節、20節において、

なぜなら、神はみこころによって、満ち満ちた神の本質を御子のうちに宿らせ、その十字架の血によって平和をつくり、御子によって万物を、ご自分と和解させてくださったからです。地にあるものも天にあるものも、ただ御子によって和解させてくださったのです。

と言われていますように、イエス・キリストの十字架の死によって成し遂げられた贖いの御業を通して実現しています。
 けれどもこのことの最終的な完成は、世の終わりのイエス・キリストの再臨の日まで待たなければなりません。そして、私たちは、父なる神さまの永遠の聖定におけるみこころにおいて定められているその日を、待ち望んでいます。それで、私たちは目を覚ましていて、御霊によって祈り続けます。その祈りの中で、特に、「すべての聖徒のために」目を覚ましていて、忍耐深く祈り続けます。それは、先ほど引用しましたローマ人への手紙8章19節に、

被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。

と記されていますように、

天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められること

という、父なる神さまの「みこころの奥義」は、神の子どもたちが御子イエス・キリストにあって一つに集められることから始まるからです。そして、そのことは、すでに始まっています。エペソ人への手紙3章3節〜6節には、

先に簡単に書いたとおり、この奥義は、啓示によって私に知らされたのです。それを読めば、私がキリストの奥義をどう理解しているかがよくわかるはずです。この奥義は、今は、御霊によって、キリストの聖なる使徒たちと預言者たちに啓示されていますが、前の時代には、今と同じようには人々に知らされていませんでした。その奥義とは、福音により、キリスト・イエスにあって、異邦人もまた共同の相続者となり、ともに一つのからだに連なり、ともに約束にあずかる者となるということです。

と記されています。
 私たちが福音のみことばによってあかしされているイエス・キリストとイエス・キリストによって成し遂げられた贖いの御業を信じていることは、異邦人である私たちがユダヤ人と「共同の相続者となり、ともに一つのからだに連なり、ともに約束にあずかる者」となっているということです。
 この世では民族や文化の間に様々な違いがあります。その違いを造り主である神さまとの関係で見ますと、贖い主の約束を受け継いできたユダヤ人と、その約束を知らされていなかった異邦人の間には決定的な違いがありました。けれども、それは古い契約の下でのことでした。ユダヤ人は古い契約の下で、やがて来るべきものの「地上的なひな型」を委ねられていました。その地上的なひな型の本体は、一つの民族に限られた救いではなく、あらゆる民族と文化に属する者を救うことができる救いをもたらすものでした。それで、新しい契約の下にある私たちは、あらゆる民族や文化の違いという壁を越えて、イエス・キリストにある者として一つに結ばれています。そのことが、

天にあるものも地にあるものも、いっさいのものが、キリストにあって一つに集められること

という、父なる神さまの「みこころの奥義」の実現の第一歩です。私たちはそのようなものとして、「すべての聖徒のために」目を覚ましていて、忍耐深く祈り続けます。
 今この時に、様々な形の迫害による試練と患難の中で苦しんでいる聖徒たちは実に多くいらっしゃいます。また、私たち自身のうちにはなおも罪の腐敗と暗やみが残っています。それで、私たちは罪を犯してしまい、主のみこころに背き、御霊を悲しませてしまいます。私たちはそのような現実の中でうめきながらも、目を覚ましていて、「すべての聖徒のために」祈り続けなければなりません。ローマ人への手紙8章22節では、

私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。

と言われています。その「被造物全体」のうめきの中心に、神の子どもたちのうめきがあるのです。しかし、先ほど言いましたように、それは絶望のうめきではありません。このうめきは「ともに産みの苦しみをしていること」を意味しています。そうであるからこそ、私たちは、世の終わりのイエス・キリストの再臨の日には、父なる神さまの「みこころの奥義」が実現するということをわきまえて、目を覚まして「すべての聖徒のために」祈り続けるのです。
 エペソ人への手紙6章19節において、パウロが、

また、私が口を開くとき、語るべきことばが与えられ、福音の奥義を大胆に知らせることができるように私のためにも祈ってください。

と言って、エペソ人への手紙の読者たちが目を覚まして「すべての聖徒のために」祈り続ける祈りの中で、自分の働きのためにもいることを求めているのは、パウロの個人的な成功を求めてのことではありません。そうではなく、世の終わりのイエス・キリストの再臨の日に父なる神さまの「みこころの奥義」が完全な形で実現するようになることを待ち望んでのことです。そして、世の終わりのイエス・キリストの再臨の日に父なる神さまの「みこころの奥義」が完全な形で実現するようになることを待ち望むことにおいて、パウロとエペソ人への手紙の読者たちが一致しているからです。
 このことのうちに神の子どもたちの祈りの特徴があります。私たちはもちろん、自分たちの個人的な必要のために祈ります。「主の祈り」において、イエス・キリストは、

私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。

と祈りなさいと教えてくださっています。しかし、それに先立って、

御国が来ますように。
みこころが天で行なわれるように地でも行なわれますように。

と祈るようにとも教えてくださっています。世の終わりのイエス・キリストの再臨の日に父なる神さまの「みこころの奥義」が完全な形で実現するようになることを待ち望むことの中で、目を覚まして祈る祈りです。
 それは私たちにも当てはまります。私たちも、「被造物全体」のうめきの中心にある神の子どもとして、みことばの約束にしたがって、世の終わりのイエス・キリストの再臨の日に父なる神さまの「みこころの奥義」が完全な形で実現するようになることを待ち望んでいます。それで、私たちは、目を覚まして「すべての聖徒のために」祈り続けます。そして、自分たちもそのように祈っていただいていることを信じて、ますます、世の終わりのイエス・キリストの再臨の日に父なる神さまの「みこころの奥義」が完全な形で実現するようになることを待ち望む者みつつ、主の御前を歩むようになります。

 


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