説教日:2004年7月11日
聖書箇所:目を覚ましていて(6)
説教題:エペソ人への手紙6章18節〜20節


 エペソ人への手紙6章18節に記されている、

すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい

という戒めでは、どんなときにも御霊によって祈るべきことと、そのためには絶えず目を覚ましているべきことが語られています。これまで、この戒めにある目を覚ましていることについてお話ししてきました。
 お話を続けるに当たって、おもに先週お話ししたことをまとめておきます。
 聖書のの中で、このように目を覚ましているように戒められているときの目を覚ましているということは、「主の時」、「主の日」、特に、終わりの日のイエス・キリストの再臨の日をわきまえることから生まれてくる姿勢です。
 けれども、マタイの福音書24章36節に記されています、

ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。

というイエス・キリストの教えに示されていますように、私たちには、世の終わりのイエス・キリストの再臨の日がいつであるかは知らされていません。ですから、「主の日」をわきまえるということは、それがいつのことであるかを知るということではありません。むしろ、このイエス・キリストの教えに示されていますように、それがいつの日であるかは知らされてはいないので分からないけれど、父なる神さまがその日を定めてくださっているということを信じて、その日を待ち望むという姿勢で生きることです。
 父なる神さまが「その日、その時」を定めておられるということは、父なる神さまの永遠の聖定におけるご計画に属することです。ですから、父なる神さまが「その日、その時」を定めておられるということは、父なる神さまの永遠の聖定のうちにおけるご計画との関連で理解し受け止めなければなりません。もちろん、私たちは父なる神さまの永遠の聖定をのぞき見ることはできません。私たちにはみことばをとおして私たちに示されていることしか分かりませんし、それを越えてはなりません。
 その父なる神さまの永遠のご計画については、エペソ人への手紙1章3節〜6節において、

私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。それは、神がその愛する方によって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。

と記されています。
 ここでは、父なる神さまが永遠の聖定におけるみこころによって、私たちを「御前で聖く、傷のない者にし」、「ご自分の子にしようと」定めてくださっているということが示されています。それで、私たちは、ただ単に父なる神さまが「その日、その時」を定めておられるということを信じているだけではありません。それが、私たちを「御前で聖く、傷のない者にし」、「ご自分の子にしようと」定めてくださっていることを、最終に実現してくださるためであるということを信じて、「その日、その時」を待ち望んでいるのです。そして、このことから、目を覚ましているという姿勢が生まれてきます。


 先週は、私たちが福音のみことばに約束されていることを誤解して、心から「主の日」を待ち望むことができないことがあるという問題を取り上げました。今日は、それを補足するお話をしたいと思います。
 繰り返しになりますが、それがどのようなことかということは、私自身の経験に照らして言うほかはありませんが、それは、自分はこのままでは栄光の主の御前に立てないというように感じてのことです。しかし、それは自分のよさを頼みとし、自分のよさを主に示して、主の御前に立とうとする思いから出ている感じ方です。私たちが栄光の主の御前に立つことができるのは、私たちのよさによるのではありません。それはまったくイエス・キリストが私たちのために成し遂げてくださった贖いの御業に基づく恵みによることです。
 月ごとに行われる聖餐式において私たちが確かめていることですが、イエス・キリストはご自身が十字架の上で流してくださった血によって、新しい契約を確立してくださいました。イエス・キリストは私たちの契約のかしらとなってくださり、私たちと一つとなってくださいました。そして、私たちの身代わりとなって、私たちの罪を負って十字架にかかって死んでくださいました。これによって、私たちはイエス・キリストのもの、イエス・キリストの御国の民となりました。そして、私たちはそのことに基づく恵みと祝福にあずかっています。
 この世の国家においても、ある国の国民であることによって、そのことに基づく「恩恵」にあずかります。それは、イエス・キリストの御国の民であることにも当てはまります。ただし、ヨハネの福音書18章36節、37節に、

イエスは答えられた。「わたしの国はこの世のものではありません。もしこの世のものであったなら、わたしのしもべたちが、わたしをユダヤ人に渡さないように、戦ったことでしょう。しかし、事実、わたしの国はこの世のものではありません。」そこでピラトはイエスに言った。「それでは、あなたは王なのですか。」イエスは答えられた。「わたしが王であることは、あなたが言うとおりです。わたしは、真理のあかしをするために生まれ、このことのために世に来たのです。真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います。」

と記されていますように、イエス・キリストの御国は「この世のものではありません。」イエス・キリストの御国は血肉の力によって支えられ、血肉の力によって治められる国ではありません。それは福音の真理に基づく御国であり、福音のみことばとそれを用いて私たちを導いてくださる御霊によって支えられ、導かれる御国です。イエス・キリストの御国の民であることから来る「恩恵」も、そのことにかかわるものです。
 福音の真理のみことばは、父なる神さまが永遠の前から私たちを「御前で聖く、傷のない者にし」、「ご自分の子にしようと」定めてくださっていること、そのためにご自身の御子を私たちのための贖い主として立ててくださったこと、そして、御子イエス・キリストはその父なる神さまのみこころにしたがって、まことの人となってこの世にきてくださり、私たちの身代わりになって十字架にかかって死んでくださったことをあかししています。イエス・キリストの御国は、このようにして成し遂げられたイエス・キリストの贖いの御業によって贖われた者たちの御国です。
 その昔、預言者イザヤは、その預言の書において、やがて実現するこの御国の民のことを預言しました。イザヤ書35章8節〜10節には、

  そこに大路があり、
  その道は聖なる道と呼ばれる。
  汚れた者はそこを通れない。
  これは、贖われた者たちのもの。
  旅人も愚か者も、これに迷い込むことはない。
  そこには獅子もおらず、
  猛獣もそこに上って来ず、
  そこで出会うこともない。
  ただ、贖われた者たちがそこを歩む。
  主に贖われた者たちは帰って来る。
  彼らは喜び歌いながらシオンにはいり、
  その頭にはとこしえの喜びをいただく。
  楽しみと喜びがついて来、
  嘆きと悲しみとは逃げ去る。

と記されています。これは、古い契約の下で実現するバビロンの捕囚からの帰還に重ね合わせて、さらにその奥にある究極的な捕囚からの帰還としての、罪と死によって人を虜にしている暗やみの圧制からの解放を預言するものです。贖われた者たちは喜びをもって帰ってきて、栄光の主のご臨在の御前に立ちます。

  彼らは喜び歌いながらシオンにはいり

と言われているときの「シオン」は、そこにエルサレム神殿が建てられていた丘です。それで、

  彼らは喜び歌いながらシオンにはいり

ということは、ただ捕囚の地から帰ってくるというだけでなく、主のご臨在の御前に立って、主を礼拝することができるようになるという喜びを示しています。それこそが、主の契約の民であることの「恩恵」の中心です。
 私たちはイエス・キリストの契約の民として、イエス・キリストの御国に導き入れられています。そして、イエス・キリストの御国の民であることの祝福と恵みにあずかっています。それで、イエス・キリストの十字架の死によって私たちの罪に対するさばきはすでに終わり、私たちの罪はすべて清算されています。ですから、私たちはこの後、永遠に罪に定められることはなく、罪のさばきを受けることはありません。そればかりではありません。イエス・キリストは、ご自身の十字架の死をとおして私たちを罪と死の力から贖い出すという父なる神さまのみこころに最後まで従いとおされました。それによって、私たちのために義を立ててくださいました。私たちはイエス・キリストを信じる信仰によって、イエス・キリストが確立してくださった義にあずかって、義と認められています。
 私たちが栄光の主の御前に立つことができるのは、イエス・キリストがご自身の十字架の死と死者の中からのよみがえりによって成し遂げてくださった贖いの御業にあずかって、義と認められているからです。これは、今も、世の終わりのイエス・キリストの再臨の日においても、また、栄光のキリストによって造り出される新しい天と新しい地においても変わることはありません。
 このことを、いくつかのみことばをとおして見てみたいと思います。
 ヘブル人への手紙10章12節〜18節には、

しかし、キリストは、罪のために一つの永遠のいけにえをささげて後、神の右の座に着き、それからは、その敵がご自分の足台となるのを待っておられるのです。キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。聖霊も私たちに次のように言って、あかしされます。「それらの日の後、わたしが、彼らと結ぼうとしている契約は、これであると、主は言われる。わたしは、わたしの律法を彼らの心に置き、彼らの思いに書きつける。」またこう言われます。「わたしは、もはや決して彼らの罪と不法とを思い出すことはしない。」これらのことが赦されるところでは、罪のためのささげ物はもはや無用です。

と記されています。
 12節では、

しかし、キリストは、罪のために一つの永遠のいけにえをささげて後、

と言われています。ここでは、「一つの」ということばが「永遠のいけにえ」ということばと切り離されて前に出てきて強調されています。それは、これに先立つ11節で、古い契約の下にあった地上的なひな型としての聖所のことが、

また、すべて祭司は毎日立って礼拝の務めをなし、同じいけにえをくり返しささげますが、それらは決して罪を除き去ることができません。

と言われていて、「いけにえ」が複数形であることと対比されています。
 この「一つの永遠のいけにえ」は私たちの罪のために十字架にかかって死んでくださったイエス・キリストご自身のことです。イエス・キリストは私たちの罪のためにご自身を「一つの永遠のいけにえ」としておささげになったのです。古い契約の下で、地上の聖所において繰り返しささげられた「いけにえ」は、この「一つの永遠のいけにえ」を前もってあかしする地上的なひな型でした。
 また、14節では、

キリストは聖なるものとされる人々を、一つのささげ物によって、永遠に全うされたのです。

と言われています。
 ここでは、先ほどの「一つの永遠のいけにえ」の効果が永遠に続くものであることが示されています。この「全うされた」ということば(テレイオオーの完了形)は、すでになされたことの結果がその後も続いていることを示しています。そして、続く「永遠に」ということばによってその効果が永遠に続くものであることが示されています。
 その効果は、いろいろありますが、ここでは、私たちが「聖なるものとされる人々」として永遠に全うされていることが示されています。そして、17節に、

わたしは、もはや決して彼らの罪と不法とを思い出すことはしない。

と記されていますように、私たちの罪が「一つの永遠のいけにえ」によって永遠に清算されていて、私たちは決して罪に問われることはないということです。
 この「一つの永遠のいけにえ」の効果が永遠に続いているということがどのようなことを意味するかはお分かりのことと思います。私たちは、すでに「一つの永遠のいけにえ」によって、「永遠に全うされ」ているのです。そして、このことのゆえに、今、まさにこの時、栄光の主の御前に立って、主を礼拝しています。それは私たちがこの世を去って、主の御許に行くときにも変わりがありません。また、世の終わりの栄光のキリストの再臨の日に、私たちが死者の中からよみがえって御前に立つときにも変わりがありません。さらには、栄光のキリストが再創造される新しい天と新しい地において、栄光の主のご臨在の御前に立つときにも変わりはありません。私たちは「一つの永遠のいけにえ」によって、「永遠に全うされ」ています。
 このことを踏まえて、先ほどの引用に続く19節〜22節に記されているみことばを見てみましょう。そこには、

こういうわけですから、兄弟たち。私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所にはいることができるのです。イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。また、私たちには、神の家をつかさどる、この偉大な祭司があります。そのようなわけで、私たちは、心に血の注ぎを受けて邪悪な良心をきよめられ、からだをきよい水で洗われたのですから、全き信仰をもって、真心から神に近づこうではありませんか。

と記されています。
 言うまでもなく、これは今の私たちに当てはまることです。けれども、

私たちは、イエスの血によって、大胆にまことの聖所にはいることができるのです。

ということは、今の私たちだけでなく、私たちがこの世を去って主の御許に行くときにも当てはまります。また、世の終わりのイエス・キリストの再臨の日に御前に立つときにも、さらには、新しい天と新しい天において、栄光の主のご臨在の御前に立つときにも当てはまります。
 ついでながら、20節では、

イエスはご自分の肉体という垂れ幕を通して、私たちのためにこの新しい生ける道を設けてくださったのです。

と言われていますが、この、イエス・キリストが設けてくださった「新しい生ける道」こそが、先ほど引用しましたイザヤ書35章8節〜10節に、

  そこに大路があり、
  その道は聖なる道と呼ばれる。
  汚れた者はそこを通れない。
  これは、贖われた者たちのもの。
  旅人も愚か者も、これに迷い込むことはない。
  そこには獅子もおらず、
  猛獣もそこに上って来ず、
  そこで出会うこともない。
  ただ、贖われた者たちがそこを歩む。
  主に贖われた者たちは帰って来る。
  彼らは喜び歌いながらシオンにはいり、
  その頭にはとこしえの喜びをいただく。
  楽しみと喜びがついて来、
  嘆きと悲しみとは逃げ去る。

と記されている「主に贖われた者たち」のもので、「聖なる道」と呼ばれる「大路」の実現したもの、新しい契約における成就です。
 このように、私たちは「一つの永遠のいけにえ」によって、「永遠に全うされ」ています。そして、そのことのゆえに、今この時も、また栄光のキリストの再臨の日においても、さらには、新しい天と新しい地においても、「一つの永遠のいけにえ」によって、「永遠に全うされ」た者として、栄光の主のご臨在の御前に立ちます。私たちが今も、またこの後も永遠に頼みとするものは、イエス・キリストが十字架においてささげてくださった「一つの永遠のいけにえ」です。
 コリント人への手紙第一・1章30節、31節には、

しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。まさしく、「誇る者は主にあって誇れ。」と書かれているとおりになるためです。

と記されています。
 私たちが義と認められているのは、イエス・キリストが私たちのために「一つの永遠のいけにえ」となってくださったからです。それで、イエス・キリストは私たちにとって「」となられたと言われています。この「」は、私たちの実質ではなく、栄光の主の御前における私たちの法的な立場です。私たちは自らの罪を「一つの永遠のいけにえ」によってまったく贖っていただいた者として、栄光の主の御前において「」であると宣言されているということです。
 イエス・キリストが私たちのために「一つの永遠のいけにえ」となってくださったことによって、私たちは「聖なるもの」とされています。それで、イエス・キリストは私たちにとって「聖め」となられたと言われています。この「聖め」ということば(ハギアスモス)は「聖め」とも訳せますが、「聖さ」とも訳すことができます。その前の「」にそろえれば「聖さ」です。これに続く「贖い」にそろえれば、「聖め」になります。おそらく、そのどちらの意味をも含むもので、「聖め」による「聖さ」ということでしょう。この「聖さ」は、聖なる神さまの御前における私たちの特質を表しています。私たちが神さまのものとして聖別されているということが、この「聖さ」の本質です。このような神さまとの関係を離れて、私たちの「聖さ」を考えることはできません。
 また、私たちが「主に贖われた者」であるのは、イエス・キリストが私たちのために「一つの永遠のいけにえ」となってくださったからです。それで、イエス・キリストは私たちにとって「贖い」となられたと言われています。この「贖い」は、私たちが罪と死の力をもって支配する暗やみの圧制から贖い出されて、御子の御国に入れられていることを表しています。
 これらに先立って、

しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。

と言われています。これは、私たちはイエス・キリストのうちにあるので、神さまの知恵にあずかり、義と認められ、神さまの御前に聖いものとして立つものとなり、贖われて御子の御国に入れられている、ということを意味しています。そして、この、

しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。

ということは現在形で表されていますので、常に変わらない事実を表しています。私たちは永遠にイエス・キリストのうちにある者であるのです。
 また、私たちがイエス・キリストのうちにあるのは、「神によって」いると言われています。ここでは、この「神によって」ということばが一番前にきて強調されています。私たちは自分の力でイエス・キリストのうちにある者になったのでありません。神さまが、私たちをイエス・キリストのうちにある者としてくださったし、今も、また永遠に、私たちをイエス・キリストのうちにある者として保ってくださっているのです。
 これらのことから、一つのことが見えてきます。
 私たちは今この時、神さまによってイエス・キリストのうちにある者として、そして、そのゆえに「一つの永遠のいけにえ」によって全うされている者として、栄光の主のご臨在の御前に立って、礼拝をしています。それは、この後、私たちがこの世にある間も、この世を去るときにも変わらないことです。さらには、栄光のキリストの再臨の日にその御前に立つときにも変わりませんし、栄光のキリストが造り出される新しい天と新しい地においても変わりません。
 私たちは、そのような者として、今ここで栄光の主の御前に立って、主を礼拝をしています。このことから、もし、私たちがこのままでは世の終わりの栄光のキリストの再臨の日に栄光の主の御前に立てないと思いながら、今ここで栄光の主の御前に立って、主を礼拝しているとしたら、私たちは、大変な思い違いをしているということが分かります。もし私たちが世の終わりの栄光のキリストの再臨の日に栄光の主の御前に立てないのであれば、今ここでも、栄光の主のご臨在の御前に立って、礼拝をすることもできないはずです。逆に、今ここで、栄光の主のご臨在の御前に立って、礼拝をすることができるのであれば、世の終わりの栄光のキリストの再臨の日にも、栄光の主の御前に立つこともできます。すべては、私たちが神さまによってイエス・キリストのうちにある者としていただいており、そのゆえに「一つの永遠のいけにえ」によって、永遠に全うされているからです。
 ですから、私たちは、この時ここで、神さまによってイエス・キリストのうちにある者としていただき、「一つの永遠のいけにえ」によって、永遠に全うされていることを頼みとして、栄光の主のご臨在の御前に立っています。このことが、世の終わりの栄光のキリストの再臨の日に栄光の主の御前に立つようになることにつながっているのです。
 その私たちにとって、目を覚ましているということは、私たち自身が神さまによってイエス・キリストのうちにある者としていただき、「一つの永遠のいけにえ」によって、永遠に全うされているということを、福音のみことばに基づいて信じるということ、そして、そのようなものとして、栄光の主の御前に立って、主を礼拝するということに表れてきます。この礼拝こそが、世の終わりの栄光のキリストの再臨の日に栄光の主の御前に立つようになることにつながっています。ですから、この礼拝を離れて「主の時」、「主の日」をわきまえるということはあり得ません。
 主イエス・キリストの地上の生涯の最後の夜、ゲツセマネにおいて、弟子たちは主とともに目を覚まして祈り続けることはできませんでした。そのことに対する深い痛みとともに、主イエス・キリストの御国の民には、目を覚ましているべきことについての主の戒めが伝えられてきています。私たちは父なる神さまによってイエス・キリストのうちにある者としていただき、「一つの永遠のいけにえ」によって、永遠に全うされているということを頼みとして、栄光の主のご臨在の御前に立ち続けたいと思います。そのようにして、主を礼拝し続けることをとおして、「主の日」を待ち望み続けたいと思います。

 


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