説教日:2004年7月4日
聖書箇所:エペソ人への手紙6章18節〜20節
説教題:目をさましていて(5)


 エペソ人への手紙6章18節に記されている、

すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい

という戒めでは、どんなときにも御霊によって祈るようにと戒められており、そのためには絶えず目を覚ましてるようにと言われています。
 聖書の中で目を覚ましているようにと戒められているときの目を覚ましているということは、「主の日」、「主の時」、特に世の終りのイエス・キリストの再臨の時をわきまえていることから生まれてくる姿勢です。
 このことを考えますと、私は個人的なことですが、日本において学んでいた神学校時代のことを思い起こします。それは1960年代の終りにかけてのことですが、その時代の世界の神学的な状況は、イエス・キリストの再臨は神話的なことで、そのようなことが歴史の終りにあるというような信仰は、学問的な批評に耐えない幼稚なもの、単なる希望的観測というような考え方がかなり行き渡っておりました。それにもかかわらず、私たちは世の終りには栄光のキリストの再臨があるということを信じておりました。世界の神学的な状況を知らなかったからというわけではありません。聖書に記されていることをそのまま信じようとしたわけです。もちろん、そのような姿勢が「聖書崇拝」だというように揶揄されていることも知っていました。
 けれども、今から考えますと、そのような聖書に記されていることをそのまま信じようという私たちの意図にもかかわらず、少なくとも私は、聖書にあかしされていることをきちんと受け止めないままに、イエス・キリストの再臨の日があるということだけを信じていました。もちろん、それが世の終りのさばきの時であり、主の民がイエス・キリストの復活にあずかって、死者の中からよみがえる時であると信じていました。そうであるのに、私たちは、「今、再臨があっては困る。」というようなことを、半ば冗談で、そして、半ば本気で言っておりました。
 それは、他の方々のことはよく分かりませんが、私にはやましいものがいっぱいあって、これではとても主の御前に立つことはできないという思いが強かったからです。たとえばマタイの福音書24章45節、46節に記されている、

主人から、その家のしもべたちを任されて、食事時には彼らに食事をきちんと与えるような忠実な思慮深いしもべとは、いったいだれでしょうか。主人が帰って来たときに、そのようにしているのを見られるしもべは幸いです。

というイエス・キリストの教えを読みますと、自分はとてもここで言われている忠実で思慮深いしもべではありえないと感じるほかはなかったのです。それで、聖書のいちばん最後のことばである黙示録22章20節、21節に記されている、

これらのことをあかしする方がこう言われる。「しかり。わたしはすぐに来る。」アーメン。主イエスよ、来てください。主イエスの恵みがすべての者とともにあるように。アーメン。

という、栄光のキリストのあかしのことばと、それに対する応答としてのことば、そして、そのことにかかわる祝福のことばを読んでも、心から「アーメン」とは言いえないものを感じていました。
 しかし、これは聖書に記されていることをそのまま信じるという姿勢ではありませんでした。聖書に記されていることを自分の考え方に合わせて受け止めたためのことでした。今日は、このようなことを念頭において、お話を進めていきたいと思います。
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 先週も取り上げましたマタイの福音書24章には、エルサレム神殿が主のさばきによって破壊されるという、古い契約の下にあった時代の終末を告げる出来事の予告と、それに重ね合わせるようにして語られている歴史の終末のことに関する教えが記されています。これは一般に「オリーブ山での教え」と呼ばれるイエス・キリストの教えで、25章まで続きます。25章には、24章に記されている教えを受ける形で語られた三つのたとえによる教えが記されています。
 この「オリーブ山での教え」は24章29節〜51節に記されている、イエス・キリストが栄光のうちに再臨されることに関する教えにおいて頂点に至ります。このイエス・キリストが栄光のうちに再臨されることに関する教えは、29節〜31節に記されている、

だが、これらの日の苦難に続いてすぐに、太陽は暗くなり、月は光を放たず、星は天から落ち、天の万象は揺り動かされます。そのとき、人の子のしるしが天に現われます。すると、地上のあらゆる種族は、悲しみながら、人の子が大能と輝かしい栄光を帯びて天の雲に乗って来るのを見るのです。人の子は大きなラッパの響きとともに、御使いたちを遣わします。すると御使いたちは、天の果てから果てまで、四方からその選びの民を集めます。

ということばをもって始まっています。
 そして、36節では、

ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。

と言われていて、イエス・キリストの再臨の時は人には知らされていないということが示されています。それは、人間だけでなく、「天の御使いたち」にも知らされていません。さらには、イエス・キリストは「子も知りません」と述べておられます。
 少し話がそれますが、このことから、御子イエス・キリストにも知らないことがあるから、イエス・キリストは全知全能の神ではないという主張がなされることがあります。けれども、イエス・キリストは、「その日、その時がいつであるか」ということが難しすぎてお分かりにならないと言っておられるのではありません。「その日、その時がいつであるか」ということは、何年何月何日のことであるというように、それがいつであるかが示されれば誰にでも分かることです。
 イエス・キリストが「子も知りません」と言われたことは、救いの御業における三位一体の御父、御子、御霊の間の役割分担にかかわることです。そして、「その日、その時がいつであるか」をお定めになることは、救いの御業のご計画をお立てになる役割を担っておられる父なる神さまの役割であって、父なる神さまのご計画にしたがって贖いの御業を成し遂げられる御子イエス・キリストがお定めになることではないということです。
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 私たちは気をつけていませんと、

ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。

というようなことを教えられても意味がないのではないかと思いがちです。そのような不確かなことを言われても、不安になるだけで何の役にも立たないのではないかというように思いがちです。
 しかし、それは、占いか何かのように、明日のことをのぞき見ようとする思いから生まれてくる感じ方です。マタイの福音書6章31節〜34節に記されていますように、イエス・キリストは、

そういうわけだから、何を食べるか、何を飲むか、何を着るか、などと言って心配するのはやめなさい。こういうものはみな、異邦人が切に求めているものなのです。しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。だから、あすのための心配は無用です。あすのことはあすが心配します。労苦はその日その日に、十分あります。

と教えてくださっています。

あすのことはあすが心配します。

というのは変わった言い方です。それは、明日になったらその日のことを心配するようになるということではなく、いつでも、

あすのことはあすが心配します。

という原則が働いているということです。それを言い換えますと、

労苦はその日その日に、十分あります。

ということになります。これは、神さまから自分に与えられている「その日その日」にしっかりと根差して生きるという姿勢を生み出します。そして、このことの奥に、

しかし、あなたがたの天の父は、それがみなあなたがたに必要であることを知っておられます。だから、神の国とその義とをまず第一に求めなさい。そうすれば、それに加えて、これらのものはすべて与えられます。

という、父なる神さまに対する信頼があるのです。ですから、これは、決して、「明日は明日の風が吹く」というような考え方や生き方ではありません。
 このようなイエス・キリストの教えを踏まえて、先ほどの、

ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。

という教えを聞きますとどうなるでしょうか。

子も知りません。

というイエス・キリストのことばに、また、

ただ父だけが知っておられます。

ということばに何を感じ取られますか。
 イエス・キリストは、父なる神さまがご自身のご意志によって定めておられることに対して、もしそれがご自身に示されないのであれば、決して立ち入ろうとはなさらないということが見て取れます。それは、決して、あきらめの思いにおいてではありません。むしろ、父なる神さまが定めておられることであれば、当然、最善のことであり、父なる神さまの恵みとまことに満ちたご栄光が現されるに至るということに対する絶対的な信頼においてのことであります。
 私たちは、父なる神さまの永遠の聖定において定められたご計画のことを知らされています。それは繰り返し取り上げてきましたエペソ人への手紙1章3節〜6節に記されています。そこでは、

私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神はキリストにおいて、天にあるすべての霊的祝福をもって私たちを祝福してくださいました。すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前からキリストのうちに選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。神は、ただみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられたのです。それは、神がその愛する方によって私たちに与えてくださった恵みの栄光が、ほめたたえられるためです。

と言われています。父なる神さまの永遠のご計画において定められていることは、私たちを「御前で聖く、傷のない者に」してくださることであり、「ご自分の子に」してくださることです。そして、そのことを実現してくださるために、ご自身の御子をもお遣わしになり、その十字架の死において私たちの罪をまったく贖ってくださっています。
 その父なる神さまが、私たちの救いをあらゆる点において完全に実現してくださる時をも定めてくださっています。それが、世の終りのイエス・キリストの再臨の時です。私たちはそのようにして父なる神さまが定めてくださっている時が、恵みとまことに満ちておられる父なる神さまのご計画の中にあることを示されています。そして、それが、父なる神さまの御前に最もよい時であることを信じることができます。そのような、御子イエス・キリストに倣う信仰と信頼をもって、

ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。

ということばを聞きますと、これは、私たちにとっては深い慰めのことばとして響いてきます。
 ですから、私たちは「その日、その時」がいつであるかは知らされていないけれども、父なる神さまがそれを定めておられるということを、父なる神さまに対する信仰と信頼において受け止めます。それで、「その日、その時」を待ち望んでいるのです。
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 イエス・キリストの「オリーブ山での教え」においては、これに続く37節〜41節に、

人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。洪水前の日々は、ノアが箱舟にはいるその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。そして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。人の子が来るのも、そのとおりです。そのとき、畑にふたりいると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。ふたりの女が臼をひいていると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。

と記されています。この教えにおいては、イエス・キリストの再臨がノアの時代の大洪水によるさばきをたとえとして語られています。
 前にもお話ししたことがありますが、この洪水前の時代の人々のことをお話になるイエス・キリストの教えにおいては、その時代の人々の悪が極まっていたということには触れられていません。ノアの時代の洪水の前の人々の状態を記している創世記6章5節には、

主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。

と記されています。ここでは、「その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾く」と「みな」、「いつも」、「だけに」ということばを連ねることによって、人々の悪が徹底していた様子が示されています。
 また、11節、12節には、

地は、神の前に堕落し、地は、暴虐で満ちていた。神が地をご覧になると、実に、それは、堕落していた。すべての肉なるものが、地上でその道を乱していたからである。

と記されています。
 このように、創世記の記事では、ノアの時代の洪水前の状況は、神のかたちに造られている人間の悪が極まっていたことが示されています。けれどもイエス・キリストの教えにおいては、このことは取り上げられていません。

洪水前の日々は、ノアが箱舟にはいるその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。

と言われていますように、どの時代のどの文化の人々でも普通にしていることで、生活の中でなくてはならないこと、さらには、神さまが祝福とともに人間に与えてくださっていることが取り上げられています。
 同じことは、

そのとき、畑にふたりいると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。ふたりの女が臼をひいていると、ひとりは取られ、ひとりは残されます。

という教えにも見られます。畑での仕事や臼をひく仕事は、ごく日常の大切な仕事です。
 イエス・キリストはこれらのことを取り上げることによって、私たちが、あの時代の人々の悪が特にひどかったからだというように考える余地をなくしてしまわれました。そして、私たちの思いを大切な一点に向けてくださっています。それは、ノアは「主の日」、「主の時」をわきまえて生きていたけれども、他の人々は「主の日」、「主の時」をわきまえようとはしなかったということです。また、そこで取り上げられている二人の人は、まったく同じ状況で同じ仕事をしていますが、二人はまったく別の世界にすんでいます。それは一人は「主の日」、「主の時」をわきまえて生きているけれども、もう一人は「主の日」、「主の時」をわきまえて生きていないということによっています。
 そして、そのように「主の日」、「主の時」をわきまえて生きることが、目を覚ましていることの根本にある姿勢です。それで、これに続く42節〜44節には、先週も引用しましたように、

だから、目をさましていなさい。あなたがたは、自分の主がいつ来られるか、知らないからです。しかし、このことは知っておきなさい。家の主人は、どろぼうが夜の何時に来ると知っていたら、目を見張っていたでしょうし、また、おめおめと自分の家に押し入られはしなかったでしょう。だから、あなたがたも用心していなさい。なぜなら、人の子は、思いがけない時に来るのですから。

と記されています。
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 先ほどお話ししましたように、私たちは、

ただし、その日、その時がいつであるかは、だれも知りません。天の御使いたちも子も知りません。ただ父だけが知っておられます。

というイエス・キリストの教えにおいて、父なる神さまの恵みとまことに満ちたご計画の完成の時があることをくみ取ります。そして、その父なる神さまのみこころに信頼して「その日、その時」を待ち望んでいます。そして、最初にお話ししたことに合わせて言いますと、これが聖書に記されていることをそのまま信じることから生まれてくる姿勢です。
 けれども、私たちは思い違いをして、すなおに「その日、その時」を待ち望むことができないことがあります。それは、自分自身を見つめたときに、このままでは主の御前に立つことができないと感じるからです。それは一見すると、謙遜な思いであるように見えます。しかしこれは、決して、私たちが謙遜であることの現れではありません。これは、なおも、自分のよさを頼みとして主の御前に立とうとする、福音のみことばのうちに示されている恵みによる救いをどこかで取り違えた考え方に支配されての思いです。
 繰り返しお話ししてきましたように、聖書に記されているみことばには、イエス・キリストが再び来てくださることに対する希望が繰り返し表明されています。どうして、そこに私たちの希望を置くのでしょうか。それは、私たちがもはや自分自身のよさを頼みとして主の御前に立つというような望みをもつことができない者であるからです。このことをパウロの例において見てみましょう。
 パウロは、ローマ人への手紙7章14節、15節で、

しかし、私は罪ある人間であり、売られて罪の下にある者です。私には、自分のしていることがわかりません。私は自分がしたいと思うことをしているのではなく、自分が憎むことを行なっているからです。

と告白し、18節、19節では、

私は、私のうち、すなわち、私の肉のうちに善が住んでいないのを知っています。私には善をしたいという願いがいつもあるのに、それを実行することがないからです。私は、自分でしたいと思う善を行なわないで、かえって、したくない悪を行なっています。

と告白しています。そして24節では、

私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか。

と述べています。
 このように告白するパウロが、どうして、世の終りに再びイエス・キリストがおいでになるということを大胆に待ち望むことができるのでしょうか。言うまでもなく、このような問いかけ自体が間違っています。このように告白するパウロであるからこそ、自らのうちにあるよさを頼みとして主の御前に立とうとすることはなく、ひたすら福音のみことばに示されているイエス・キリストが成し遂げてくださった贖いの御業を頼みとして、その恵みの中に身を置くわけです。そして、この世にある間は、このような自らの罪の深さに対する「うめき」をもって生きなければならない者であるからこそ、イエス・キリストの再臨によってもたらされると約束されている救いの最終的な完成に望みを託しているのです。ピリピ人への手紙3章20節、21節には、

けれども、私たちの国籍は天にあります。そこから主イエス・キリストが救い主としておいでになるのを、私たちは待ち望んでいます。キリストは、万物をご自身に従わせることのできる御力によって、私たちの卑しいからだを、ご自身の栄光のからだと同じ姿に変えてくださるのです。

というパウロの希望の告白が記されています。
          *
 さらに、パウロは、このようなうめきの中での希望の告白が、自分たちのことだけではないことを示しています。ローマ人への手紙8章18節〜25節には、

今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現われを待ち望んでいるのです。それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。私たちは、この望みによって救われているのです。目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。

と記されています。
 ここには、全被造物が「うめき」をもって、神さまの恵みによる回復の時を待ち望んでいることが記されています。そのことの中心に神のかたちに造られていて、すべてのものを治める使命を委ねられていながら、造り主である神さまに対して罪を犯して、御前に堕落してしまっている人間の「うめき」があります。23節では、

そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。

と言われています。
 私たちは、すでにイエス・キリストの十字架の死による罪の贖いにあずかって罪を赦されています。そして、イエス・キリストの死者の中からのよみがえりにあずかって新しく生まれています。それで、私たちのうちにはイエス・キリストの御霊が宿っていてくださいます。そうであるからこそ、自らのうちになおも宿っている罪の深さを痛感してうめいています。それは、世の終りのイエス・キリストの再臨の日に、私たちがイエス・キリストの復活にあずかってよみがえるようになることを待ち望んでの「うめき」です。
 続く24節では、

私たちは、この望みによって救われているのです。

と言われています。この「この望みによって」は、文法的には(与格で)「この望みにあって」とも訳せます。その場合には、私たちは「この望み」のうちにある者として救われているということです。おそらく、これがここでのパウロの意味するところでしょう。私たちは恵みにより信仰によって救われています。その結果、「この望み」のうちに生きる者となっているということです。
 今お話ししていることとのかかわりで言いますと、目を覚ましているということは、「主の日」、「主の時」をわきまえつつ、「この望み」のうちに生きることから生まれる姿勢であるということになります。

もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。

ということばに示されていますように、私たちは、深いうめきとともに、この望みが実現する日を熱心に待ち望んでいます。これは、当てのない望みではありません。イエス・キリストが示してくださっていますように、「その日、その時」は父なる神さまが定めてくださっています。
 黙示録21章1節〜5節には、この望みの実現の様が、

また私は、新しい天と新しい地とを見た。以前の天と、以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。私はまた、聖なる都、新しいエルサレムが、夫のために飾られた花嫁のように整えられて、神のみもとを出て、天から下って来るのを見た。そのとき私は、御座から出る大きな声がこう言うのを聞いた。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものが、もはや過ぎ去ったからである。」すると、御座に着いておられる方が言われた。「見よ。わたしは、すべてを新しくする。」また言われた。「書きしるせ。これらのことばは、信ずべきものであり、真実である。」

と記されています。

 


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