エペソ人への手紙6章18節には、
すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい
という戒めが記されています。この戒めは、それに先立つ10節〜17節に記されています霊的な戦いに関する一連の戒めとつながっていると考えられます。この戒めの中心は、御霊によって祈ることと、そのために目を覚ましていることにあります。
これまで、この目を覚ましていることについていくつかのことをお話ししてきました。今日もそのお話を続けたいと思います。
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マタイの福音書24章42節〜44節には、
だから、目をさましていなさい。あなたがたは、自分の主がいつ来られるか、知らないからです。しかし、このことは知っておきなさい。家の主人は、どろぼうが夜の何時に来ると知っていたら、目を見張っていたでしょうし、また、おめおめと自分の家に押し入られはしなかったでしょう。だから、あなたがたも用心していなさい。なぜなら、人の子は、思いがけない時に来るのですから。
と記されています。
これはマタイの福音書24章に記されているイエス・キリストの「オリーブ山での教え」を締めくくる教えの一つです。「オリーブ山での教え」は、エルサレム神殿が破壊されるという古い契約の時代の終わりを告げる出来事のことと、その出来事と重ね合わせるようにして、世の終わりのことを示しています。
どこかで聞いたような気がするとお感じになる方もおられることかと思います。実は、イエス・キリストの「オリーブ山での教え」は、マルコの福音書13章にも記されています。そして、これと同じ締めくくりに当たる教えは、33節〜37節に記されています。それをこの「目を覚ましていて」というお話の中で取り上げたことがあるのです。
今日お話しすることとの関連で注意したいのは、マタイの福音書に記されている「オリーブ山での教え」を締めくくる教えでは、
家の主人は、どろぼうが夜の何時に来ると知っていたら、目を見張っていたでしょうし、また、おめおめと自分の家に押し入られはしなかったでしょう。
という、夜中に「どろぼう」が押し入るということに触れられているということです。ここで、「目を見張っていたでしょう」と訳されていることばが、他の個所で「目を覚ましている」と訳されていることば(グレーゴレオー)です。ですから、この「オリーブ山の教え」を締めくくる教えの一つでは、「主の日」、「主の時」をわきまえて目を覚ましているべきことが、夜中に「どろぼう」が押し入ることをたとえとして用いて示されています。
ルカの福音書12章39節、40節には、
このことを知っておきなさい。もしも家の主人が、どろぼうの来る時間を知っていたなら、おめおめと自分の家に押し入られはしなかったでしょう。あなたがたも用心していなさい。人の子は、思いがけない時に来るのですから。
というイエス・キリストの教えが記されています。これは「オリーブ山の教え」の中で語られたものではありませんが、やはり、夜中に「どろぼう」が押し入るということを用いて「主の日」、「主の時」をわきまえて目を覚ましているべきことが教えられています。
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これと同じことは、さらに、テサロニケ人への手紙第一・5章1節〜11節に記されている教えにおいても示されています。そこには、
兄弟たち。それらがいつなのか、またどういう時かについては、あなたがたは私たちに書いてもらう必要がありません。主の日が夜中の盗人のように来るということは、あなたがた自身がよく承知しているからです。人々が「平和だ。安全だ。」と言っているそのようなときに、突如として滅びが彼らに襲いかかります。ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むようなもので、それをのがれることは決してできません。しかし、兄弟たち。あなたがたは暗やみの中にはいないのですから、その日が、盗人のようにあなたがたを襲うことはありません。あなたがたはみな、光の子ども、昼の子どもだからです。私たちは、夜や暗やみの者ではありません。ですから、ほかの人々のように眠っていないで、目をさまして、慎み深くしていましょう。眠る者は夜眠り、酔う者は夜酔うからです。しかし、私たちは昼の者なので、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの望みをかぶととしてかぶって、慎み深くしていましょう。神は、私たちが御怒りに会うようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになったからです。主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが、目ざめていても、眠っていても、主とともに生きるためです。ですから、あなたがたは、今しているとおり、互いに励まし合い、互いに徳を高め合いなさい。
と記されています。
ここには「主の日」のことをわきまえている主の民のあり方が示されています。この「主の日」は、これに先立つ4章13節〜18節に記されている栄光のキリストの再臨と主にあって眠っている人々のよみがえりについての教えを受けています。ですから、この「主の日」は世の終わりのイエス・キリストの再臨の日のことです。
そして、この「主の日」については、
主の日が夜中の盗人のように来る
と言われています。これは、先ほど引用しましたマタイの福音書24章42節、43節に記されているイエス・キリストの「オリーブ山での教え」や、ルカの福音書12章39節、40節に記されているイエス・キリストの教えとつながっています。マタイの福音書とルカの福音書で「どろぼう」と訳されていることばとテサロニケ人への手紙第一・5章2節で「盗人」と訳されていることばは同じことば(クレプテース)です。ですから、
主の日が夜中の盗人のように来る
という教えは、すでにイエス・キリストの教えの中に示されていたことが分かります。
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テサロニケ人への手紙第一・5章1節〜11節に記されている教えでは、4節、5節で、
しかし、兄弟たち。あなたがたは暗やみの中にはいないのですから、その日が、盗人のようにあなたがたを襲うことはありません。あなたがたはみな、光の子ども、昼の子どもだからです。
と言われています。イエス・キリストの十字架の死による罪の贖いにあずかって暗やみの主権の下から贖い出され、イエス・キリストの復活のいのちにあずかって新しく生まれて、神の子どもとなった者たちにとっては、主の日が盗人のように襲うことはないというのです。
しかし、これは、イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりにあずかって神の子どもとなった者が、イエス・キリストの再臨の日がいつであるか分かるようになるから、主の日が盗人のように襲うことがないということではありません。2節に、
主の日が夜中の盗人のように来るということは、あなたがた自身がよく承知しているからです。
と記されていますように、この手紙の読者たち自身が主の日がいつであるかは啓示されていないということを十分承知しています。パウロはそのことを知っていて、
しかし、兄弟たち。あなたがたは暗やみの中にはいないのですから、その日が、盗人のようにあなたがたを襲うことはありません。
と述べているのです。そして、その理由として、
あなたがたはみな、光の子ども、昼の子どもだからです。
と述べています。この「光の子ども」と「昼の子ども」は同じことを表しています。そして、それがその前に述べられている、
あなたがたは暗やみの中にはいない
ということと対比されています。暗やみの中にいる者は暗やみの子であって、暗やみの子たちには主の日が盗人のように襲うことになるわけです。
エペソ人への手紙5章8節では、新しく生まれて神の子どもとなった者たちのことが、
あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。光の子どもらしく歩みなさい。
と言われています。
この個所についてはすでにお話ししましたが、聖書の中で「光」と「暗やみ」によって、「暗やみ」から「光」へというように、人生の転換があったことを表すときには、二つの面での対比があります。一つは、
あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。
というみことばに示されているように、かつては私たち自身が「暗やみ」であったけれども、今は私たち自身が「光」であるということです。これは、私たち自身のうちにおいて起っている変化です。
もう一つの面は、私たちの属している「領域」の変化です。そこには「光の領域」と「暗やみの領域」の対比があります。「光の領域」は福音の真理が「光」としてその「領域」を照らしており、人々はその「光」のうちを歩みます。ヨハネの手紙第一・1章5節〜7節には、
神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。これが、私たちがキリストから聞いて、あなたがたに伝える知らせです。もし私たちが、神と交わりがあると言っていながら、しかもやみの中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであって、真理を行なってはいません。しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。
と記されています。この「光の領域」には罪がないということではありません。ここでは、福音の真理のみことばにあかしされていまように、「御子イエスの血」が「すべての罪から私たちをきよめ」てくださるのです。コロサイ人への手紙1章13節、14節にも、
神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています。
と記されています。
これに対して「暗やみの領域」では、暗やみがすべてを覆ってしまっています。それは、「暗やみの領域」を動かしているのは、福音の真理に対比される偽りであるということです。もちろん、この「暗やみの領域」を支配しているのは、ヨハネの福音書8章44節で、イエス・キリストが、
悪魔は初めから人殺しであり、真理に立ってはいません。彼のうちには真理がないからです。彼が偽りを言うときは、自分にふさわしい話し方をしているのです。なぜなら彼は偽り者であり、また偽りの父であるからです。
と言われたサタンです。
このように、
あなたがたは、以前は暗やみでしたが、今は、主にあって、光となりました。
と言われているのは、私たち自身がかつては「暗やみ」であったけれども、今は、イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりよる罪の贖いにあずかって「光」となっているということを意味しています。しかし、その奥では、私たちが偽りという暗やみが覆っている「暗やみの領域」から贖い出されて、福音の真理が照らして、そのうちを歩む人々を導いている「光の領域」のうちに導き入れられているということが起っているのです。
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このような、かつては暗やみであった者が、イエス・キリストの十字架の死と死者の中からのよみがえりにあずかって、今は光となっているという対比を念頭において考えますと、「暗やみの領域」のうちにある者にとっては、主の日は盗人のように襲ってくるけれども、「光の領域」にある者にとっては、主の日が盗人のように襲ってくることはないということになります。
それがどのようなことであるかは改めて説明するまでもないことかもしれませんが、その中心にあることをお話しいたします。ペテロの手紙第二・3章10節〜13節には、
しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。このように、これらのものはみな、くずれ落ちるものだとすれば、あなたがたは、どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう。そのようにして、神の日の来るのを待ち望み、その日の来るのを早めなければなりません。その日が来れば、そのために、天は燃えてくずれ、天の万象は焼け溶けてしまいます。しかし、私たちは、神の約束に従って、正義の住む新しい天と新しい地を待ち望んでいます。
と記されています。ここでは、
主の日は、盗人のようにやって来ます。
と言われている一方で、私たちはその日を待ち望んでいると言われています。私たちがその日を待ち望んでいるのは、その日が福音のみことばにおいて示され、約束されている私たちの救いが最終的に完成する日であるからです。
また、ヘブル人への手紙9章26節後半〜28節には、
しかしキリストは、ただ一度、今の世の終わりに、ご自身をいけにえとして罪を取り除くために、来られたのです。そして、人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっているように、キリストも、多くの人の罪を負うために一度、ご自身をささげられましたが、二度目は、罪を負うためではなく、彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。
と記されています。この場合の、
彼を待ち望んでいる人々の救いのために来られるのです。
ということは、イエス・キリストが再び来られることを待ち望んでいる人々の救いを最終的に完成してくださるために来てくださるということです。
私たちの救いはすでに私たちのうちに実現しています。私たちはすでに暗やみの主権の下から贖い出されて、御子イエス・キリストがみことばと御霊によって治めてくださっている御国の民としていただいています。私たちはイエス・キリストの十字架の死にあずかって罪を贖われ、義と認められていますし、イエス・キリストの死者の中からのよみがえりにあずかって新しく生まれています。けれども、この救いにともなう祝福のすべてが私たちのものとなっているわけではありません。私たちは今なお生まれながらの朽ちゆくからだを宿としていますし、自らのうちに罪の性質を宿しており、実際に罪を犯します。イエス・キリストは、私たちを栄光のうちによみがえらせてくださって、私たちをまったくきよめてくださり、御前に立たせてくださるために、再び来てくださいます。それによって、私たちと神さまとの愛にあるいのちの交わりがまったきものとなります。私たちはその時を待ち望んでいます。
このように、福音の真理のみことばの光の下に歩んでいる者たちは、そのみことばにあかしされており、約束されている救いの最終的な完成を待ち望んでいます。それは、栄光のキリストが再臨されて、私たちの救いを完成してくださることを待ち望むということです。そのようにして、イエス・キリストの再臨の日を待ち望んでいる私たちにとっては、主の日が盗人のように襲うことはありません。
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このことはテサロニケ人への手紙第一・5章1節〜11節に記されている教えにも反映しています。8節には、
しかし、私たちは昼の者なので、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの望みをかぶととしてかぶって、慎み深くしていましょう。
と記されています。
お気づきのように、ここでは、霊的な戦いにおける霊的な武具による武装を思わせることが言われています。けれどもそれはエペソ人への手紙6章10節〜17節に記されていることほど詳しくはありません。ここでは、霊的な武具は「胸当て」と「かぶと」の二つしか出てきません。これによって、ここで言いたいことが霊的な武具がどのようなものであるかということではなく、「信仰と愛」と「救いの望み」を身に着けることであるということが分かります。
この信仰と愛と望みは、コリント人への手紙第一・13章13節で、
こういうわけで、いつまでも残るものは信仰と希望と愛です。その中で一番すぐれているのは愛です。
と言われている「いつまでも残るもの」のことです。コリント人への手紙第一・13章13節では、
その中で一番すぐれているのは愛です。
と言われていますように、愛が強調されていて最後に来ています。それは、実際に、「いつまでも残るもの」の中で「一番すぐれているのは愛」だからですし、このコリント人への手紙第一・13章全体をとおして語られていることが愛であるからです。これに対しまして、テサロニケ人への手紙第一・5章8節では、「救いの望み」が最後に来ています。それは、ここで語られていることが主の日のことであるからであると考えられます。私たちは「昼の者」、「光の子ども」として、主の日における「救いの望み」のうちに生きています。
テサロニケ人への手紙第一・5章では、この8節に続く9節、10節では、この「救いの望み」のことがさらに述べられています。そこには、
神は、私たちが御怒りに会うようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになったからです。主が私たちのために死んでくださったのは、私たちが、目ざめていても、眠っていても、主とともに生きるためです。
と記されています。
主の日は救いとさばきの日です。
神は、私たちが御怒りに会うようにお定めになったのではなく、主イエス・キリストにあって救いを得るようにお定めになったからです。
と言われていますように、その日は、私たちが主の聖なる御怒りによるさばきに会う日ではなく、主が私たちの救いを完成してくださる日です。ですから、私たちはただ主の日があるということを知っているだけではありません。また、その主の日をびくびくしながら待っているのでもありません。そうではなくて、すでに私たちのうちに始められている救いの最終的な完成の日を待ち望んでいるのです。それが「救いの望み」を身に着けている者の姿勢です。
また、主の日にイエス・キリストが再臨して、私たちの救いを完成してくださるのは、
私たちが、目ざめていても、眠っていても、主とともに生きるためです。
と言われていることが完全に実現し、永遠に私たちの現実となるということを意味しています。
この10節で、
私たちが、目ざめていても、眠っていても、主とともに生きるためです。
と言われているときの「目ざめていても」ということば(グレーゴレオー)は、一般的な意味で目を覚ましていることを表しているともとれます。そうしますと、「目ざめていても、眠っていても」ということは、「いつも」とか「どのような時にも」という意味になります。また、この「目ざめていても、眠っていても」ということは、地上の生涯において生きている時と、その生涯を終えて主にあって眠っている時を意味しているともとれます。言い換えますと、生きている時も死んでこの世を去った後もということです。
この二つのどちらの意味に取るべきであるかということの判断は難しい気がしますが、ここでの話題が4章13節の、
眠った人々のことについては、兄弟たち、あなたがたに知らないでいてもらいたくありません。あなたがたが他の望みのない人々のように悲しみに沈むことのないためです。
ということばから始まっていますので、これは生きている時も、この世を去った後もということを表していると考えられます。
確かに、5章10節の「眠っていても」ということば(カシュードー)は、4章13節の「眠った人々」の「眠った」ということば(コイマオマイ)とは違います。けれども、10節の「眠っていても」ということばも、人が死んでいる状態にあることを表すために用いられている例があります。たとえば、イエス・キリストが会堂管理者ヤイロの娘をよみがえらせてくださったことを記しているマルコの福音書5章38節、39節には、
彼らはその会堂管理者の家に着いた。イエスは、人々が、取り乱し、大声で泣いたり、わめいたりしているのをご覧になり、中にはいって、彼らにこう言われた。「なぜ取り乱して、泣くのですか。子どもは死んだのではない。眠っているのです。」
と記されています。
いずれにしましても、ここでは、主イエス・キリストが私たちのために死んでくださったのは、私たちが常に、また永遠に主イエス・キリストとともに生きる者となるためであったということが示されています。そして、それは、11節で
ですから、あなたがたは、今しているとおり、互いに励まし合い、互いに徳を高め合いなさい。
と言われていますように、お互いの間における愛となって現れてくるということが示されています。これは、エペソ人への手紙6章18節に記されている、私たちが目を覚ましていてすべての聖徒たちのために祈るということに通じていることです。
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このように、テサロニケ人への手紙第一・5章1節〜11節に記されている教えでは、主の日は盗人のように来るけれども、その日を私たちの救いの完成の日として待ち望んでいる私たちには、その日が盗人のように襲うことはないということが示されています。そのような流れの中で、6節には、
ですから、ほかの人々のように眠っていないで、目をさまして、慎み深くしていましょう。
と記されています。ここでは、「目をさまして」ということとともに「慎み深くしていましょう」と言われています。
この「慎み深くしていましょう」と訳されていることば(ネーフォー)は、7節で、
眠る者は夜眠り、酔う者は夜酔うからです。
と言われているときの「酔う」ということ(メスューオー)と対比される状態を表します。これは基本的には酒に酔うことを表していますが、その他、たとえば富や快楽に酔うというように、あるものに酔いしれている状態になってしまうことも表します。この世の国を象徴的に表す「大バビロン」へのさばきを記している黙示録7章2節には、
地の王たちは、この女と不品行を行ない、地に住む人々も、この女の不品行のぶどう酒に酔ったのです。
と記されています。
今もそうでしょうが、その当時も、この「酔う」ことからさまざまな乱行が生まれてくることが一般的なことであったようです。そのために、「酔う」ことと対比されることばであるネーフォーは「慎み深くしている」ことを表すようになったと言われています。この「慎み深くしていましょう」ということは、先ほど引用しました8節で、
しかし、私たちは昼の者なので、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの望みをかぶととしてかぶって、慎み深くしていましょう。
と言われている中でも用いられています。
このことから、目を覚ましていることが慎み深い生き方とつながっていることを見て取ることができます。それは、目を覚ましていることが、主の日をわきまえることとから生まれてくる姿勢であるからです。そして、主の日をわきまえるということは、主の日にイエス・キリストが再臨されて私たちの救いを完成してくださることを待ち望むことであるからです。
目を覚ましていて、主の日における救いの完成を待ち望む姿勢からは、慎み深くありつつ、聖さを求める生き方が生まれてきます。先ほど引用しました、ペテロの手紙第二・3章10節〜12節には、
しかし、主の日は、盗人のようにやって来ます。その日には、天は大きな響きをたてて消えうせ、天の万象は焼けてくずれ去り、地と地のいろいろなわざは焼き尽くされます。このように、これらのものはみな、くずれ落ちるものだとすれば、あなたがたは、どれほど聖い生き方をする敬虔な人でなければならないことでしょう。そのようにして、神の日の来るのを待ち望み、その日の来るのを早めなければなりません。
と記されていました。また、ヨハネの手紙第一・3章2節、3節にも、
愛する者たち。私たちは、今すでに神の子どもです。後の状態はまだ明らかにされていません。しかし、キリストが現われたなら、私たちはキリストに似た者となることがわかっています。なぜならそのとき、私たちはキリストのありのままの姿を見るからです。キリストに対するこの望みをいだく者はみな、キリストが清くあられるように、自分を清くします。
と記されています。
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