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説教日:2004年6月13日 |
これまで、目を覚ましていることについてのみことばの教えをとおして、目を覚ましていることは、「主の日」、「主の時」をわきまえていることから生まれてくる姿勢であるということをお話ししました。 そして、先週は、目を覚まして祈るべきこととのかかわりで、マタイの福音書26章36節~46節に記されていることに基づいて、イエス・キリストが地上の生涯の最後の夜に、ゲツセマネの園で祈られたことについてお話ししました。 簡単に復習しておきますと、イエス・キリストはご自身が十字架にお付きになって、ご自身の民の罪を贖うために人の性質をお取りになって来られたことをわきまえておられました。同時に、その十字架の死は十字架刑がもたらす苦痛だけでなく、私たちの罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りによる刑罰をお受けになることでもあるということもご存知であられました。 イエス・キリストにとって十字架刑の苦しみはもとより、それ以上に父なる神さまの御怒りによるさばきをお受けになることは耐え難い苦しみでした。永遠に父なる神さまとの無限の愛による交わりのうちにおられる御子イエス・キリストにとっては、父なる神さまの聖なる御怒りをお受けになるということは、何としても避けたい苦しみです。それがどれほどの苦しみであったかを、うまく言い表すことはできません。それは、もはや私たちのことばも、想像も、無限に越えた苦しみです。 けれども、もしイエス・キリストが十字架にお付きにならなければ、私たちの罪の贖いは成し遂げられません。そればかりでなく、御子の十字架死の苦しみをとおして、私たちの罪を贖ってくださるという父なる神さまの永遠のご計画とそのみこころは果たされなくなってしまいます。そうなりますと、それは、霊的な戦いにおいて神である主が暗やみの主権者であるサタンに敗北を喫するということになってしまいます。イエス・キリストはこの二つのことの間で引き裂かれてしまっています。 ゲツセマネでのイエス・キリストの祈りは、そのような永遠の刑罰の苦しみを味わわれることを目前にして、苦しみと悲しみのあまり死ぬほどになっておられるイエス・キリストが、それでも、父なる神さまのみこころにしたがって十字架の死の苦しみを受け入れることができるようにと祈られたものです。しかし、弟子たちは、この時が、神である主の贖いの御業の歴史の中で、また人類の歴史の中で、そのような重大な時であることをわきまえることができませんでした。マタイの福音書26章38節、39節に記されていますように、イエス・キリストは、祈りを始められる前に、ペテロ、ヤコブ、ヨハネに、 わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、わたしといっしょに目をさましていなさい。 と言われました。けれども、弟子たちはイエス・キリストが祈っておられる間に眠ってしまい、目を覚ましていることができませんでした。 この時は霊的な戦いにおいて最も激しい戦いが展開されていたと考えられます。先週は、マタイの福音書26章41節に記されている、 誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。 という、イエス・キリストのことばに、そのことが表れているということをお話ししました。今日はそのことを補足しておきたいと思います。 すでにいろいろな機会にお話ししてきましたが、イエス・キリストの十字架の死は、神である主の贖いの御業の歴史の流れという大きな視野から見ますと、「最初の福音」と呼ばれる創世記3章15節に、 わたしは、おまえと女との間に、 また、おまえの子孫と女の子孫との間に、 敵意を置く。 彼は、おまえの頭を踏み砕き、 おまえは、彼のかかとにかみつく。 と記されていることが文字通り実現することでした。 これは、最初の人アダムとエバを、神である主に対して罪を犯すように誘惑した「蛇」に対するさばきのことばです。ここで「おまえ」と呼ばれているのは、この「蛇」です。けれども「蛇」は神である主がお造りになった生き物ですから、造り主である神さまに対するわきまえもありません。そのような「蛇」が神である主の戒めをめぐって人と論じるというようなことはできません。それで、この「蛇」の背後には目に見えない霊的な存在がいて、この「蛇」を用いてアダムとエバを誘惑したと考えられます。その霊的な存在がサタンです。そして、これは神である主の「蛇」に対するさばきの宣言ですが、当然、これは「蛇」を用いたサタンに対するさばきの宣言であるわけです。 また、この神である主のサタンに対するさばきの宣言の中で、そのさばきは「女の子孫」と呼ばれている贖い主をとおして執行されるということが示されています。この「女の子孫」として来られる贖い主が、人となって来られた永遠の神の御子イエス・キリストです。ここでは、その「女の子孫」として来られる贖い主のことが、 彼は、おまえの頭を踏み砕く と言われています。これによって、神である主のさばきが「女の子孫」として来られる贖い主によって執行されることが示されています。これと調和して、ヨハネの福音書5章22節には、 また、父はだれをもさばかず、すべてのさばきを子にゆだねられました。 というイエス・キリストの教えが記されています。また、27節にも、 また、父はさばきを行なう権を子に与えられました。子は人の子だからです。 というイエス・キリストの教えが記されています。 それとともに、神である主は、先ほどの「蛇」の背後にいるサタンに向かって、 おまえは、彼のかかとにかみつく。 と言われました。このことが最終的に実現したのが、イエス・キリストが十字架に付けられたことです。 そうしますと、同じ15節に記されている、 彼は、おまえの頭を踏み砕く ということ、すなわちサタンに対する決定的なさばきはいつ実現したのでしょうか。それは、 おまえは、彼のかかとにかみつく。 と言われていることが実現した時、すなわちイエス・キリストが十字架にお付きになって、私たち人間の罪に対する父なる神さま聖なる御怒りによるさばきを、余すところなくお受けになった時です。 人の目にはそのようには見えません。しかし、繰り返しお話ししていますが、私たちはこれが血肉の戦いではなく、霊的な戦いであることを忘れてはなりません。ヨハネの福音書12章27節~33節には、 「今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。『父よ。この時からわたしをお救いください。』と言おうか。いや。このためにこそ、わたしはこの時に至ったのです。父よ。御名の栄光を現わしてください。」そのとき、天から声が聞こえた。「わたしは栄光をすでに現わしたし、またもう一度栄光を現わそう。」そばに立っていてそれを聞いた群衆は、雷が鳴ったのだと言った。ほかの人々は、「御使いがあの方に話したのだ。」と言った。イエスは答えて言われた。「この声が聞こえたのは、わたしのためにではなくて、あなたがたのためにです。今がこの世のさばきです。今、この世を支配する者は追い出されるのです。わたしが地上から上げられるなら、わたしはすべての人を自分のところに引き寄せます。」イエスは自分がどのような死に方で死ぬかを示して、このことを言われたのである。 と記されています。 ヨハネの福音書には、ゲツセマネの祈りが記されていません。けれども、 今わたしの心は騒いでいる。何と言おうか。「父よ。この時からわたしをお救いください。」と言おうか。いや。このためにこそ、わたしはこの時に至ったのです。父よ。御名の栄光を現わしてください。 というイエス・キリストのことばに示されていますように、ここにはそれに相当するイエス・キリストの祈りが記されています。これは、イエス・キリストが十字架にお付きになることについて父なる神さまに祈られたことばです。それで、 わたしは栄光をすでに現わしたし、またもう一度栄光を現わそう。 という父なる神さまのことばは、イエス・キリストの十字架の死をとおして父なる神さまの栄光が現されることを示しています。そして、これを受けてイエス・キリストは、 この声が聞こえたのは、わたしのためにではなくて、あなたがたのためにです。今がこの世のさばきです。今、この世を支配する者は追い出されるのです。わたしが地上から上げられるなら、わたしはすべての人を自分のところに引き寄せます。 と言われました。これに続いてヨハネが、 イエスは自分がどのような死に方で死ぬかを示して、このことを言われたのである。 と注釈していることから分かりますように、ここでイエス・キリストは一貫してご自身の十字架の死のことを語っておられます。今お話ししていることとのかかわりで言いますと、イエス・キリストの十字架の死をとおして、 今がこの世のさばきです。今、この世を支配する者は追い出されるのです。 ということが起こります。また、イエス・キリストの十字架の死をとおして、 わたしが地上から上げられるなら、わたしはすべての人を自分のところに引き寄せます。 ということが起こるのです。この場合、 わたしが地上から上げられるなら ということは、ヨハネが注釈していますように、十字架の上に上げられることを指しています。 先ほど言いましたように、ここに記されていることはゲツセマネにおける祈りのことではありません。これはイエス・キリストが十字架にお付きになる数日前のことです。ですから、イエス・キリストは最後の最後になってようやく、ゲツセマネにおいて父なる神さまにお祈りになったのではなく、少なくとも、その公生涯の中で常に父なる神さまにご自身の苦難の死のことをお祈りになってこられて、最後の夜においては、そのすべてを結集される形での祈りを祈られたのであると考えられます。 この12章に記されている祈りはイエス・キリストが十字架にお付きになる数日前のことですから、これをもって、「イエス・キリストの公生涯をとおして」と言うのは早計に過ぎるかもしれません。けれども、たとえば、ヨハネの福音書6章14節、15節には、 人々は、イエスのなさったしるしを見て、「まことに、この方こそ、世に来られるはずの預言者だ。」と言った。そこで、イエスは、人々が自分を王とするために、むりやりに連れて行こうとしているのを知って、ただひとり、また山に退かれた。 と記されています。これは、荒野において、少年がもっていた五つのパンと二匹の魚をもって、男性だけでも五千人の群衆が食べて満足するようにしてくださった御業をなさった後のことです。ここでは、 人々は、イエスのなさったしるしを見て、 と言われています。けれども、26節、26節には、 まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからです。なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。それこそ、人の子があなたがたに与えるものです。この人の子を父すなわち神が認証されたからです。 というイエス・キリストの教えが記されています。 人々は、イエス・キリストのなさったしるしを見ました。けれども、それが、イエス・キリストご自身が、私たちを永遠のいのちに生かしてくださるまことのパンであられる方であることをあかししていることを理解しませんでした。 人々はイエス・キリストの御業を見て、その力に驚嘆しました。そして、イエス・キリストを血肉の力による地上の王国の王としようとしました。イエス・キリストの力によってローマを打ち破って、自分たちユダヤ人を中心とする地上の王国を打ち立てることを願ってのことです。それは、その当時の人々がメシヤに期待していたことにそっています。それは、イエス・キリストにとっては、十字架にお付きになることを回避する道を示すものでもありました。 人々がイエス・キリストを無理やりに自分たちの王としようとしていることを知られて、イエス・キリストはただお一人で山に退かれました。もちろん、それは父なる神さまにお祈りになるためのことでした。同じときのことを記しているマタイの福音書14章23節に、 群衆を帰したあとで、祈るために、ひとりで山に登られた。夕方になったが、まだそこに、ひとりでおられた。 と記されているとおりです。 夕方になったが、まだそこに、ひとりでおられた。 ということばに示されているように、イエス・キリストはかなり長い時間、祈られました。 もしローマ帝国を滅ぼすというだけのことでしたら、イエス・キリストが最後の夜に捕らえられたときのことを記している、マタイの福音書26章52節~54節に記されています、 剣をもとに納めなさい。剣を取る者はみな剣で滅びます。それとも、わたしが父にお願いして、十二軍団よりも多くの御使いを、今わたしの配下に置いていただくことができないとでも思うのですか。だが、そのようなことをすれば、こうならなければならないと書いてある聖書が、どうして実現されましょう。 というイエス・キリストのことばが示していますように、イエス・キリストはローマ帝国を直ちにおさばきになることができます。そして、その力で人々を従わせてご自身の王国を建設することもできます。けれども、それは、十字架を回避して地上の王国を建設することです。それでは、ご自身の民の罪の贖いは成し遂げられず、すべての者は永遠に滅び去ることになります。これは、マタイの福音書4章8節、9節に、 今度は悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、言った。「もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう。」 と記されていますように、イエス・キリストの公生涯の初めに、サタンが示した誘惑と本質的に同じものです。 イエス・キリストは、そのような誘惑の中で、目を覚ましてその誘惑の本質を見て取って、祈っておられます。そのことから、イエス・キリストはその公生涯をとおして、十字架にお付きになるべきことをめぐって、絶えず父なる神さまに祈り続けられたと考えられます。それこそが、霊的な戦いの状況の中で、目を覚ましていること、そして、祈り続けることがどのようなことであるかを具体的に示すことです。 ルカの福音書22章1節~6節には、 さて、過越の祭りといわれる、種なしパンの祝いが近づいていた。祭司長、律法学者たちは、イエスを殺すための良い方法を捜していた。というのは、彼らは民衆を恐れていたからである。さて、十二弟子のひとりで、イスカリオテと呼ばれるユダに、サタンがはいった。ユダは出かけて行って、祭司長たちや宮の守衛長たちと、どのようにしてイエスを彼らに引き渡そうかと相談した。彼らは喜んで、ユダに金をやる約束をした。ユダは承知した。そして群衆のいないときにイエスを彼らに引き渡そうと機会をねらっていた。 と記されています。 1節に言われている「過越の祭り」は、その昔、モーセの時代に、契約の神である主が、エジプトの奴隷として苦しんでいたイスラエルの民をモーセをとおして贖い出してくださった時から始まっています。 出エジプト記5章~12章に記されていますが、主はモーセをとおしてエジプトの王パロに、イスラエルの民をエジプトの地からさらせるようにお命じになりました。しかし、パロはイスラエルの民を去らようとはしませんでした。それで、主は十の災いをもってエジプトの地をおさばきになりました。その十番目のさばきが、エジプトの地にあるすべてのいのちあるものの初子を撃つというものでした。それには例外はありませんでした。ただイスラエルの民には贖いの備えが示されました。過越の夜のために小羊を用意し、その日の夕方にそれを屠って、その血を家の入口のかもいと二本の門柱に塗るようにしたのです。その夜には、その家族が過越の小羊を食しました。過越の小羊を自分たちのものとして受け入れ、それにあずかることを表しています。 そして、その夜、さばきの天使がエジプトの地にある一つ一つの家を回って、すべての初子を撃ちました。しかし、すでにかもいと門柱に血が塗られている家では、すでにさばきが終わっていると見なされて、天使はその家を過ぎ越して行きました。このようにして、過越の小羊は、その家の初子の身代わりとなって血を流したのです。 これはやがて来たるべきことのひな型です。エジプトは暗やみの主権者の下に服しているこの世を表す地上的なひな型です。すべての人は罪を犯して神さまの御前に堕落してしまい、暗やみの主権者の主権の下にとりことなってしまっています。神である主は、そのような状態にあるすべての者の罪をおさばきになります。それと同時に、神である主は過越の小羊によって示されていた贖い主を備えてくださいました。それが人となって来てくださった贖い主であるイエス・キリストです。コロサイ人への手紙1章13節、14節には、 神は、私たちを暗やみの圧制から救い出して、愛する御子のご支配の中に移してくださいました。この御子のうちにあって、私たちは、贖い、すなわち罪の赦しを得ています。 と記されています。 ルカの福音書22章1節に言われている「過越の祭り」は、イエス・キリストが十字架にお付きになった年の「過越の祭り」で、イエス・キリストはその「過越の祭り」の日に十字架に付けられて殺されました。そのようになっていく過程において、3節には、 さて、十二弟子のひとりで、イスカリオテと呼ばれるユダに、サタンがはいった。 と言われています。この時サタンが働いていることが示されています。そして、そのサタンの働きも、サタンの思いを越えて、父なる神さまのご計画とそのみこころの実現のために用いられていくことになります。 この時サタンが働いていたことを示す、もう一つのみことばを見てみましょう。同じルカの福音書22章の47節~53節には、 イエスがまだ話をしておられるとき、群衆がやって来た。十二弟子のひとりで、ユダという者が、先頭に立っていた。ユダはイエスに口づけしようとして、みもとに近づいた。だが、イエスは彼に、「ユダ。口づけで、人の子を裏切ろうとするのか。」と言われた。イエスの回りにいた者たちは、事の成り行きを見て、「主よ。剣で打ちましょうか。」と言った。そしてそのうちのある者が、大祭司のしもべに撃ってかかり、その右の耳を切り落とした。するとイエスは、「やめなさい。それまで。」と言われた。そして、耳にさわって彼を直してやられた。そして押しかけて来た祭司長、宮の守衛長、長老たちに言われた。「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってやって来たのですか。あなたがたは、わたしが毎日宮でいっしょにいる間は、わたしに手出しもしなかった。しかし、今はあなたがたの時です。暗やみの力です。」 と記されています。 47節で、 イエスがまだ話をしておられるとき と言われているのは、その前の45節、46節に、 イエスは祈り終わって立ち上がり、弟子たちのところに来て見ると、彼らは悲しみの果てに、眠り込んでしまっていた。それで、彼らに言われた。「なぜ、眠っているのか。起きて、誘惑に陥らないように祈っていなさい。」 と記されていることを受けています。ゲツセマネにおいてイエス・キリストが三度お祈りになった後に、弟子たちに語っておられた時のことでした。 この時、ユダに率いられて「祭司長、宮の守衛長、長老たち」がやって来たことが示されています。もちろん、そこに「宮の守衛長」がいたことや、 まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってやって来たのですか。 というイエス・キリストのことばから分かりますように、武装した神殿守衛隊を連れてきたわけです。 それで、弟子たちは剣をもって戦おうとしました。そして、実際に、 そのうちのある者が、大祭司のしもべに撃ってかかり、その右の耳を切り落とした。 と記されています。これは、弟子たちが血肉の戦いを始めたということを意味しています。 ヨハネは、その福音書18章10節で、大祭司のしもべの耳を切り落としたのはペテロであったとあかししています。このことは、これに先立つ33節、34節に、 シモンはイエスに言った。「主よ。ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。」しかし、イエスは言われた。「ペテロ。あなたに言いますが、きょう鶏が鳴くまでに、あなたは三度、わたしを知らないと言います。」 と記されていることとつながっています。この「シモン」はペテロのことです。ですから、ペテロが、 主よ。ごいっしょになら、牢であろうと、死であろうと、覚悟はできております。 と言ったのは、口先だけのことではなかったのです。そうは言ったけれどもいざとなったらこわくなって、明け方に鶏が鳴く前に三度、イエス・キリストのことを知らないと言ってしまったのではありません。もし、イエス・キリストがこの時に血肉の戦いを始められたら、ペテロはイエス・キリストとともに戦って死んでもいいと思っていたし、実際にそうしようとしたのです。けれども、イエス・キリストは血肉の戦いを始められませんでした。それどころか、それを否定されました。そして、 しかし、今はあなたがたの時です。暗やみの力です。 と言われて、あっさりと捕らえられてしまいました。このイエス・キリストのことばも、この時に、暗やみの主権者であるサタンが働いていることを示しています。 これは創世記3章15節の主のことばに合わせて言いますと、この時は、 おまえは、彼のかかとにかみつく。 ということがなされる時であるということです。しかし、そのことがなされる時に、すなわち、イエス・キリストが十字架にお付きになって死なれる時に、 彼は、おまえの頭を踏み砕く ということが実現するのです。 しかし、ペテロには、このことが理解できませんでした。自分が戦いを始めれば、イエス・キリストはそれを助けてメシヤとしての御力を発揮してくださると思っていたのに、そのようなことはなかったのです。ペテロは混乱してしまいました。そのような中で、三度もイエス・キリストのことを知らないと言ってしまったのです。ペテロは本当にイエス・キリストが分からなくなってしまったので、イエス・キリストのことを知らないと言ってしまったのであって、決して、ペテロに勇気がなかったのではありません。 今お話ししていることとの関連で言いますと、このすべてのことは、ペテロを初めとする弟子たちが、最も大切な時に、目を覚まして、その時の意味をわきまえることができるように父なる神さまに祈り続けてこなかったことから始まっています。 先週お話ししましたように、ゲツセマネでイエス・キリストが祈られたことを記す記事には、その時に、その時の大切さをわきまえて目を覚ましていることができなかったことに対する弟子たち痛切な悲しみの思いが表れています。それは、その時だけのことではありませんでした。それに続く記事においては、イエス・キリストの御業を最後まで誤解して、血肉の戦いを始めてしまい、それにイエス・キリストが乗ってくださらないので混乱して、三度もイエス・キリストを知らないと言ってしまったペテロの悔いと悲しみが表されています。そのすべては、突き詰めていくと、イエス・キリストとともに目を覚ましていることができなかったことへの悔いと悲しみにつながっています。そして、それは、イエス・キリストが十字架の死への道を回避する誘惑に合われたときに、常に父なる神さまに祈られたことの意味を知ろうとしてこなかった弟子たちの姿勢への悔いと悲しみにつながっています。 このようなことから、霊的な戦いに召されている私たちも、目を覚ましているべきことの大切さを思わされます。そして、主の時をわきまえ、その意味をわきまえることができるようにと、御子イエス・キリストの御名によって、父なる神さまに祈ることの大切さを深く覚えさせられます。また、そのような主の時に示される恵みを受け取りつつ、主のみこころに従うことができるようと、父なる神さまに祈り続けることの大切さを覚えさせられます。 |
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