説教日:2004年6月6日
聖書箇所:エペソ人への手紙6章18節〜20節
説教題:目をさましていて(2)


 エペソ人への手紙6章18節には、

すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい

と記されています。ここでは、御霊によって祈るようにと戒められています。この戒めは、これに先立つ10節〜17節に記されている、霊的な戦いにおいて「神のすべての武具」をもって霊的に武装するようにとの戒めを受けていると考えられます。御霊によって祈ることは霊的な武具を身に着けることではありませんが、それらの霊的な武具が生かされて、霊的な戦いにおいて有効な戦いをするために必要なことであると考えられます。
 18節後半では、御霊によって祈るために「絶えず目をさまして」いるようにと言われています。そして、それは漫然と目を覚ましているのではなく、「忍耐の限りを尽くし」て、「すべての聖徒のために」祈りながらのことであると言われています。
 先週は、ここに用いられている「目をさましている」ということば(アグルプネオー)が、新約聖書の中でこのほか三つの個所で用いられていますので、それらの個所でどのようなことが言われているかを見てみました。それによって分かったことは、目を覚ましていることは、「主の日」、「主の時」をわきまえていることから生まれてくる姿勢であるということでした。今日も、このことについて、もう少しお話ししたいと思います。
 新約聖書の中では「目をさましている」ことを表すことばは基本的に二つあります。ひとつは、先週取り上げましたアグルプネオーです。これは一般的に寝ないでいることを表します。もう一つは、グレーゴレオーです。このことばは、軍隊などで寝ないで見張りをすることを表します。
 先週取り上げましたアグルプネオーが用いられている三つの個所のうちの一つはマルコの福音書13章33節に記されている、

気をつけなさい。目をさまし、注意していなさい。その定めの時がいつだか、あなたがたは知らないからです。

というイエス・キリストの戒めでした。この戒めは、それに続く34節〜37節に記されている、「たとえ」による戒めの導入となっています。それで、33節〜37節全体を見てみますと、そこには、

気をつけなさい。目をさまし、注意していなさい。その定めの時がいつだか、あなたがたは知らないからです。それはちょうど、旅に立つ人が、出がけに、しもべたちにはそれぞれ仕事を割り当てて責任を持たせ、門番には目をさましているように言いつけるようなものです。だから、目をさましていなさい。家の主人がいつ帰って来るか、夕方か、夜中か、鶏の鳴くころか、明け方か、わからないからです。主人が不意に帰って来たとき眠っているのを見られないようにしなさい。わたしがあなたがたに話していることは、すべての人に言っているのです。目をさましていなさい。

と記されています。
 すぐに分かりますように、この全体が一つのまとまった戒めです。このうち、最初の、

気をつけなさい。目をさまし、注意していなさい。その定めの時がいつだか、あなたがたは知らないからです。

という戒めで用いられている「目をさましている」ということばは、一般的に寝ないで目を覚ましていることを表すアグルプネオーです。そして、それに続く「たとえ」の中に三回出てくる「目をさましている」ということばはグレーゴレオーで、軍隊などで寝ないで見張りをすることを表します。
 ここに記されているイエス・キリストの教えでは、そのような意味合いに違いのある二つのことばが用いられていますが、この二つのことばは同じことを表しています。実際、旧約聖書のギリシャ語訳である七十人訳でも、この二つのことばは同義語として用いられていると言われています。それで、これからはこの二つのことばの区別は考えないで、お話を進めていきます。


 さて、祈りつつ目を覚ましていると言いますと、私たちはすぐにイエス・キリストのゲツセマネの祈りのことを思い出します。それで、イエス・キリストのゲツセマネの祈りのことを見てみたいと思います。
 マタイの福音書26章36節〜46節には、

それからイエスは弟子たちといっしょにゲツセマネという所に来て、彼らに言われた。「わたしがあそこに行って祈っている間、ここにすわっていなさい。」それから、ペテロとゼベダイの子ふたりとをいっしょに連れて行かれたが、イエスは悲しみもだえ始められた。そのとき、イエスは彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、わたしといっしょに目をさましていなさい。」それから、イエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈って言われた。「わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。」それから、イエスは弟子たちのところに戻って来て、彼らの眠っているのを見つけ、ペテロに言われた。「あなたがたは、そんなに、一時間でも、わたしといっしょに目をさましていることができなかったのか。誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」イエスは二度目に離れて行き、祈って言われた。「わが父よ。どうしても飲まずには済まされぬ杯でしたら、どうぞみこころのとおりをなさってください。」イエスが戻って来て、ご覧になると、彼らはまたも眠っていた。目をあけていることができなかったのである。イエスは、またも彼らを置いて行かれ、もう一度同じことをくり返して三度目の祈りをされた。それから、イエスは弟子たちのところに来て言われた。「まだ眠って休んでいるのですか。見なさい。時が来ました。人の子は罪人たちの手に渡されるのです。立ちなさい。さあ、行くのです。見なさい。わたしを裏切る者が近づきました。」

と記されています。
 これは、イエス・キリストがご自身の地上の生涯の最後の夜に、ゲツセマネにおいてお祈りになった時のことを記すものです。この時、イエス・キリストは三度、父なる神さまに祈られました。その際に、弟子たち、特にペテロとゼベダイの二人の子であるヨハネとヤコブに目を覚ましているように命じられましたが、弟子たちはイエス・キリストが祈っておられる間に眠ってしまいました。
 イエス・キリストが最初にお祈りされた後、弟子たちのところに戻ってこられた時のことが、40節、41節に、

それから、イエスは弟子たちのところに戻って来て、彼らの眠っているのを見つけ、ペテロに言われた。「あなたがたは、そんなに、一時間でも、わたしといっしょに目をさましていることができなかったのか。誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」

と記されています。
           *
 41節に、

誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。

と記されていますように、イエス・キリストは弟子たちに「目をさまして、祈ってい」るように戒められました。なぜ「目をさまして、祈ってい」なければならないのかということですが、それについては、「誘惑に陥らないように」と言われています。これは、ただ単に弟子たちが疲れ果てて、眠くなってしまったということではありません。そこには誘惑者の働きがあったのです。そして、後ほどお話ししますように、そこには感覚では捉えることができませんが、壮絶な霊的な戦いが展開されていたと考えられます。
 この時、イエス・キリストは十字架におつきになるために、父なる神さまに祈られました。お祈りになる前のことを記している37節、38節には、

イエスは悲しみもだえ始められた。そのとき、イエスは彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、わたしといっしょに目をさましていなさい。」

と記されています。また、この時のイエス・キリストの祈りのことを記しているルカの福音書22章44節には、

イエスは、苦しみもだえて、いよいよ切に祈られた。汗が血のしずくのように地に落ちた。

と記されています。
 この時は、神である主の贖いの御業の歴史の中で決定的な意味をもっている時でした。もちろん、イエス・キリストはそのことをご存知であられ、ご自身の意志で十字架におつきになるために準備をして、祈っておられます。
 十字架刑は人類が考え出した刑罰の方法の中でも最も残酷なものの一つに数えられています。そのことだけからも、十字架に付けられるということは本当に恐ろしいことでした。しかし、イエス・キリストが味わわれる苦しみは十字架刑そのものがもたらす肉体的苦痛とそれにともなう精神的な苦痛だけではありませんでした。イエス・キリストは私たちの罪の咎をご自身の身に負ってくださいました。そして、私たちの身代わりとなって、私たちの罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りによるさばきを余すところなくお受けになりました。
 この父なる神さまのさばきによる苦しみは、地獄の刑罰による苦しみでした。この地獄の刑罰はイエス・キリストの十字架を除いては、いまだ執行されてはいません。それは世の終わりの最後のさばきにおいて人間の罪を完全に清算されるために執行されるものです。イエス・キリストが十字架にかかってこのような苦しみをお受けになるのは、それによって、私たちの罪をすべて完全に清算してくださるためでした。逆に言いますと、イエス・キリストが十字架にかかってこのような苦しみを受けてくださらなかったなら、私たちの罪は永遠に清算されることがなくなります。それで、私たちは永遠に続く刑罰を受け続けるほかはなくなるのです。
 イエス・キリストは無限、永遠、不変の栄光の神の御子であられます。けれども、今から二千年前に人の性質を取ってきてくださったことによって、私たちと同じ血の通った肉体をもち、人間としての苦しみをご自身も直に体験されました。人として、肉体的にこの上なく残酷な十字架刑による苦しみを味わわれるだけでなく、人として、神さまの聖なる御怒りによる罪の刑罰による地獄の苦しみを味わわれたのです。このような、私たちの想像をはるかに越える苦しみをお受けになるに当たって、イエス・キリストは深い悲しみと恐れに圧倒されてしまわれました。それでも、イエス・キリストは十字架におつきになる道を進まれました。そのために、三度も父なる神さまにお祈りになったのです。
 この三回にわたる祈りがどのような祈りであったかについては、その中心となっていることしか記されていません。最初の祈りのことばがいちばん長いのですが、それは、

わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。

というものです。それで、何となく、一つ一つの祈りは短かったような気がします。しかし、これはイエス・キリストの祈りのエッセンスを記しているものです。イエス・キリストは最初の祈りをなさった後で、ペテロに、

あなたがたは、そんなに、一時間でも、わたしといっしょに目をさましていることができなかったのか

と言われました。それで、その祈りは「一時間」ほど続いたと考えられます。そこに記されているイエス・キリストのことばに表されている一つのことを巡って、イエス・キリストは切に父なる神さまに祈られたのです。それは二番目の祈りと三番目の祈りについても当てはまると考えられます。
 先ほど引用しましたマタイの福音書26章36節〜46節に記されていることを見てみますと、イエス・キリストの祈りに微妙な変化があったことを見て取ることができます。39節に記されている最初の祈りは、

わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。

というものでした。しかし、42節に記されていますように二度目には、

わが父よ。どうしても飲まずには済まされぬ杯でしたら、どうぞみこころのとおりをなさってください。

とお祈りになりました。
 最初の祈りにおいては、まず、

わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。

とお祈りになっておられます。言うまでもなく「この杯」とは、十字架の苦しみのことです。それは、十字架刑そのものの苦しみだけでなく、いやむしろそれ以上に、私たちの罪に対する父なる神さまの聖なる御怒りによるさばきをその身に負われることの苦しみを意味しています。イエス・キリストはできればそのような「」は避けたいとの思いを、率直に父なる神さまに伝えておられます。私たちの罪を贖ってくださるためにはそれを避けることはできないということを十分にご存知であられてのことです。そこに、イエス・キリストの苦しみの深さが表れています。
 しかしイエス・キリストは、続いて、

しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。

とお祈りになりました。このイエス・キリストが言われる「あなたのみこころ」すなわち父なる神さまのみこころは、ご自身の御子イエス・キリストが十字架におつきになることをとおして、私たちの罪を贖ってくださることです。
 このようにお祈りになったイエス・キリストは、二度目には、

わが父よ。どうしても飲まずには済まされぬ杯でしたら、どうぞみこころのとおりをなさってください。

とお祈りになりました。この、

どうしても飲まずには済まされぬ杯でしたら、

ということばは「もし」ということば(エイ)で始まる条件文ですが、これは(エイと直説法の組み合わせで)それが現実であることを表すものです。つまり、イエス・キリストはこれが「どうしても飲まずには済まされぬ杯」であるということをわきまえておられるのです。ですから、この祈りは、父なる神さまのみこころにしたがって「この杯」を飲むことができるようにということを祈る祈りです。イエス・キリストはご自身の思いを父なる神さまのみこころにそわせるために、大変な葛藤の中で祈っておられるのです。
 そして、この祈りは一度では終りませんでした。三度目の祈りを記している44節には、

イエスは、またも彼らを置いて行かれ、もう一度同じことをくり返して三度目の祈りをされた。

と記されています。イエス・キリストは、三度目にも二度目の祈りと同じ祈りを祈られました。
 ヨハネの福音書6章38節〜40節には、

わたしが天から下って来たのは、自分のこころを行なうためではなく、わたしを遣わした方のみこころを行なうためです。わたしを遣わした方のみこころは、わたしに与えてくださったすべての者を、わたしがひとりも失うことなく、ひとりひとりを終わりの日によみがえらせることです。事実、わたしの父のみこころは、子を見て信じる者がみな永遠のいのちを持つことです。わたしはその人たちをひとりひとり終わりの日によみがえらせます。

というイエス・キリストのことばが記されています。そのように、父なる神さまのみこころを行うことを目的とし、喜びとしておられたイエス・キリストも、父なる神さまのみこころにしたがって十字架におつきになるためには、何度も祈られました。
 そのイエス・キリストは弟子たちにも、この時のために目を覚ましているように求められました。37節、38節には、

イエスは悲しみもだえ始められた。そのとき、イエスは彼らに言われた。「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。ここを離れないで、わたしといっしょに目をさましていなさい。」

と記されています。これはイエス・キリストが最初に祈られる前にペテロ、ヤコブ、ヨハネに語られたことばを記すものです。ここでイエス・キリストは、

わたしといっしょに目をさましていなさい。

と言われました。このことから分かりますように、イエス・キリストは弟子たちが「目をさましている」ことを求めておられます。ここには「祈っていなさい。」ということばはありません。ですから、この時、弟子たちにとって大切なことは「目をさましている」ことでした。
 イエス・キリストが最初の祈りをされた後のことを記している40節、41節には、

それから、イエスは弟子たちのところに戻って来て、彼らの眠っているのを見つけ、ペテロに言われた。「あなたがたは、そんなに、一時間でも、わたしといっしょに目をさましていることができなかったのか。誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」

と記されています。このことから分かりますように、弟子たちは漫然と目を覚ましているように命じられたのではなく、目を覚まして祈っているように命じられました。この、

目をさまして、祈っていなさい。

ということばは、直訳では、

目を覚ましていなさい。そして祈っていなさい。

となります。目を覚ましていることと祈っていることが同じだけの重さをもっています。
 ですから、この時のイエス・キリストの戒めの中心は、弟子たちが目を覚ましていることにあります。そして、このように強調されている目を覚ましていることは、ただ眠らないでいることではありません。38節に記されていますように、イエス・キリストは、

ここを離れないで、わたしといっしょに目をさましていなさい。

と言われました。そして、39節に、

それから、イエスは少し進んで行って、ひれ伏して祈って言われた。

と記されていますように、イエス・キリストは弟子たちと一緒にではなく、お一人でお祈りになられました。それは、この時の苦しみと悲しみに満ちたイエス・キリストの祈りを真の意味でともにできる者は一人もいなかったからにほかなりません。イエス・キリストの目前に十字架の死の苦しみが迫ってきていることを理解できる者はいませんでしたし、その十字架の苦しみの恐ろしさを理解できる者はいませんでした。それで、その時のイエス・キリストの苦しみと悲しみの深さを理解し共有できる者もいませんでした。そればかりか、イエス・キリストが、その苦しみと悲しみの極みの中で、なおも、十字架に向かって進んでいこうとしてもだえておられるますが、そのことを理解し共有できる者もいませんでした。このすべてを共有できたのは、この時イエス・キリストが祈っている父なる神さまお一人でした。しかも、その父なる神さまは、十字架におつきになるイエス・キリストの上に、私たちの罪に対する聖なる御怒りを余すところなくお注ぎになろうとしておられるのです。
 このように、この時、弟子たちは、かりに眠ってしまうことがなかったとしても、イエス・キリストとともに祈ることのできる状態にはありませんでした。そうしますと、イエス・キリストが弟子たちに、

わたしといっしょに目をさましていなさい。

と言われたことには、いったい、どのような意味があったのでしょうか。
 それは、先週お話しした「時をわきまえる」ということとのかかわりで理解できます。
 弟子たちは、そして、私たちも、この時のイエス・キリストのうちにあった苦しみと悲しみの深さをとても理解し受け止めることはできません。私たちが経験するどのような苦しみと悲しみも、この時のイエス・キリストのうちにあった苦しみと悲しみに比べようがありません。イエス・キリストは人がこの世で経験するどのような苦しみと悲しみとも比べることができないほどの苦しみと悲しみを経験されました。ですから、イエス・キリストは私たちのどのような苦しみも悲しみも理解し受け止めてくださることがおできになります。けれども、私たちは、このときにイエス・キリストの苦しみと悲しみの底知れない深さをとても理解し受け止めることはできません。
 そうではあっても、弟子たちも、私たちも、この時、イエス・キリストがこのように苦しみと悲しみのあまりにもだえておられる中で、十字架への道を選び取っておられることの意味をくみ取ることはできます。
 もし、イエス・キリストが十字架におつきにならなかったら、私たちの罪のための贖いは成し遂げられず、私たちは罪と死の力に捕らえられたまま永遠に滅び去るほかはなかったのです。永遠に清算しきれない罪のために、神さまの聖なる御怒りの下にあり続けるほかはなかったはずです。
 イエス・キリストが人となってこられる七百年ほど前の預言者であるイザヤは、その書53章4節、5節において、イエス・キリストの苦難について、

  まことに、彼は私たちの病を負い、
  私たちの痛みをになった。
  だが、私たちは思った。
  彼は罰せられ、神に打たれ、苦しめられたのだと。
  しかし、彼は、
  私たちのそむきの罪のために刺し通され、
  私たちの咎のために砕かれた。
  彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、
  彼の打ち傷によって、私たちはいやされた。

と預言しています。そればかりでなく、10節では、契約の神である主のみこころを中心として、

  しかし、彼を砕いて、痛めることは
  主のみこころであった。
  もし彼が、自分のいのちを
  罪過のためのいけにえとするなら、
  彼は末長く、子孫を見ることができ、
  主のみこころは彼によって成し遂げられる。

と預言しています。もし、イエス・キリストが十字架におつきにならなかったら、私たちの罪を贖うために、ご自身の御子を遣わしてくださった父なる神さまのご計画もみこころも成し遂げられなかったということになってしまいます。それは、霊的な戦いという観点から見ますと、神である主の敗北ということを意味します。
 このように、ゲツセマネにおいてイエス・キリストが、

わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。

とお祈りになった時は、神である主の贖いの御業の歴史の中で、決定的に重い意味をもった時でした。
 もちろん、神である主の贖いの御業の歴史の中で、いちばん重い意味をもっている時は、イエス・キリストが実際に十字架におつきになった時ですし、イエス・キリストが栄光をお受けになって死者の中からよみがえられた時です。しかし、実際に、十字架におつきになるまでのイエス・キリストの歩みを見てみますと、ゲツセマネにおいて、まず、

わが父よ。できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください。

とお祈りになり、続いて、

わが父よ。どうしても飲まずには済まされぬ杯でしたら、どうぞみこころのとおりをなさってください。

と繰り返してお祈りになった後は、そのお心は定まり、少しの揺れもなく、まっすぐに十字架に向かって進んでゆかれました。その意味では、このゲツセマネでの祈りの時は、イエス・キリストにとっては、生涯の最後に訪れた最も大きな誘惑の時であったと考えられます。そこに、私たちの思いをはるかに越えた、激しい霊的な戦いが展開されていたのだと思われます。
 サタンは、十字架の意味までは十分に理解できませんでした。それで、この時までは、サタンは十字架を回避するようにイエス・キリストを誘惑してきました。しかし、ひとたびイエス・キリストが十字架に付けられるようになって、人々がつまずき、弟子たちもつまずくようになると、今度は、イエス・キリストを十字架に付けて亡き者にしてしまおうと働いています。そうではあっても、サタンは、この時が、決定的な時であることを察知して働いていました。
 けれども、弟子たちはそのことを悟ることができませんでした。弟子たちは「時をわきまえる」ことができませんでした。ルカの福音書22章45節には、

イエスは祈り終わって立ち上がり、弟子たちのところに来て見ると、彼らは悲しみの果てに、眠り込んでしまっていた。

と記されています。弟子たちは、

悲しみの果てに、眠り込んでしまっていた。

というのです。ですから、弟子たちもイエス・キリストのその夜の教えやゲツセマネでのお姿から何か危機的なものを感じ取っていたわけです。しかし、そのように記したルカも、続く46節では、

それで、彼らに言われた。「なぜ、眠っているのか。起きて、誘惑に陥らないように祈っていなさい。」

と記しています。そして、この直後に、イエス・キリストは捕らえられてしまいます。弟子たちの悲しみは、弟子たちなりの悲しみであったのですが、この時の意味をわきまえてのことではありませんでした。まして、その時のイエス・キリストの悲しみと苦しみの深さに触れての悲しみでもありませんでした。
 この時、弟子たちの霊的な眼は閉じてしまっていました。そのために、弟子たちはイエス・キリストとともに目を覚ましていることはできませんでした。そのために、

誘惑に陥らないように、目をさまして、祈っていなさい。

というイエス・キリストの戒めも空しく、すっかり誘惑者の手の中にはまっていたのです。
 このゲツセマネにおける祈りの記事には、イエス・キリストのご生涯におけるこのような重大な時に、目を覚まして、その時の意味をわきまえることができなかったことに対する弟子たちの痛切な悔いが表れています。そして、そのことが、逆に、主の時に対して、目を覚ましているべきことの大切さのあかしを強めています。
 私たちの生涯の中にも、何度か重い意味をもっている「主の時」があります。主が御霊によって私たちに働きかけてくださり、贖いの恵みに、ますます豊かにあずからせてくださる時です。それは、信仰の決断をすべき時であったり、罪を悔い改めるべき時であったりしますが、どのような時であっても、私たちが目を覚まして、信仰を働かすべき時です。そして、そのような時の最後に、私たちの生涯の終末があり、さらには、世の終わりの日のイエス・キリストの再臨の時があります。そのどちらにおいても、主は贖いの恵みに基づいて、私たちをご自身に近づけてくださいます。
 ですから、私たちは世の終わりの主の日において主の恵みとまことに満ちた栄光が充満なかたちで現されるようになることを待ち望みつつ、この地上の生涯において常に主がその恵みとまことに満ちた御顔を向けてくださっていることを覚えて、目を覚ましていたいと思います。

 


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