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説教日:2004年5月30日 |
この「目をさましていて」ということばは、ギリシャ語ではアグルプネオーということばです。このことばは文字通りには「目を覚ましている」ことを表します。そして、そこから転じて、比喩的に「注意深くある」ことや「警戒している」ことなどを表します。 このことばは新約聖書の中では、ここのほかには三回出てくるだけです。それらの個所を見ながら、「目を覚ましている」ことについて一つのことを考えていきたいと思います。 新約聖書でこのことばが最初に用いられているのはマルコの福音書13章33節です。そこには、 気をつけなさい。目をさまし、注意していなさい。その定めの時がいつだか、あなたがたは知らないからです。 と記されています。 これは、一般に「オリーブ山の教え」と呼ばれている、イエス・キリストの教えの結びの部分に出てくる戒めです。1節、2節に記されていますように、「弟子のひとりが」エルサレム神殿のことで、イエス・キリストに、 先生。これはまあ、何とみごとな石でしょう。何とすばらしい建物でしょう。 と言いますと、イエス・キリストは、 この大きな建物を見ているのですか。石がくずされずに、積まれたまま残ることは決してありません。 とお答えになって、エルサレム神殿の破壊という衝撃的な出来事を預言的にお話しになりました。今日の目からみますと、契約の主の神殿が破壊されてしまうということは、古い契約のもとで与えられたモーセの律法に基づく地上的なひな型が崩れ去ってしまうことを意味しています。それは、新しい契約に基づく本体、本物が実現して、古い契約のひな型がその役割を終えて過ぎ去っていったことを表しています。けれども、弟子たちはこの時には、まだそのような意味を理解することはできませんでしたから、このイエス・キリストのことばはまことに衝撃的なことばであったはずです。それで、3節、4節には、 イエスがオリーブ山で宮に向かってすわっておられると、ペテロ、ヤコブ、ヨハネ、アンデレが、ひそかにイエスに質問した。「お話しください。いつ、そういうことが起こるのでしょう。また、それがみな実現するようなときには、どんな前兆があるのでしょう。」 と記されています。 このようにして始まったオリーブ山でのイエス・キリストの教えは、エルサレム神殿の破壊という、それまでの古い契約のもとでの歴史の終末に関する教えですが、同時にその終末的な出来事と重ね合わせるようにして、世の終わりに起こるべきことを預言的に語ってくださったものです。その教えの結びの部分において、イエス・キリストは、 気をつけなさい。目をさまし、注意していなさい。その定めの時がいつだか、あなたがたは知らないからです。 と戒められたのです。 ここで「目をさまし、注意していなさい」と訳されていることばが、エペソ人への手紙6章18節で「目をさましていて」と訳されているアグルプネオーということばです。ここで新改訳が二つのことばを用いて「目をさまし、注意していなさい」というように訳しているのは、このことばが文字通りに「目を覚ましている」ことを表しているのではなく、比喩的に「注意深くある」ことや「警戒している」ことなどを表していると考えてのことでしょう。 このように、ここで新改訳は説明的な訳をしています。それは、後半の「その定めの時」という訳にも表れています。この「その定めの時」(ホ・カイロス)は、直訳では「その時」です。翻訳された方は、このイエス・キリストの教えに心を注いでおられたのではないかと思われます。 このマルコの福音書13章33節には、原文のギリシャ語の本文に問題があります。それは新改訳の欄外に、 異本に『祈っていなさい』を加えるものがある。 と記されていることに表れています。実際には、この「祈っていなさい」ということばがある写本はかなりたくさんあります。もし、ここに「祈っていなさい」ということばがあったとすれば、 気をつけなさい。目をさまし、注意していなさい。その定めの時がいつだか、あなたがたは知らないからです。 というイエス・キリストの教えは、 気をつけなさい。目をさまし(、注意し)て、祈っていなさい。その定めの時がいつだか、あなたがたは知らないからです。 となって、表されている姿勢はエペソ人への手紙6章18節の戒めに示されている姿勢と同じになります。 この「祈っていなさい」ということばが原本にあったかどうかの判断は難しいのですが、「祈っていなさい」ということばが、14章38節に記されている、 誘惑に陥らないように、目を覚まして、祈り続けなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。 というイエス・キリストの戒めの影響で、後から書き加えられたという可能性は十分考えられます。しかし、「祈っていなさい」ということばがもともとあったとすれば、それが後から取り除かれたという理由は、写筆者が読み飛ばしたということくらいしか考えられません。それで、おそらく、ここには「祈っていなさい」ということばはなかったのではないかと考えられます。 エペソ人への手紙6章18節で「目をさましていて」と訳されているアグルプネオーということばが用いられている二つ目の個所は、ルカの福音書21章36節です。そこには、 しかし、あなたがたは、やがて起ころうとしているこれらすべてのことからのがれ、人の子の前に立つことができるように、いつも油断せずに祈っていなさい。 と記されています。 このイエス・キリストの戒めも、イエス・キリストがオリーブ山で、エルサレム神殿が破壊されることと、その出来事と重ね合わせて世の終わりのことを預言的に語られた時に、その教えの最後に語られた戒めです。それで、この戒めは、先ほど取り上げました、マルコの福音書13章33節に記されている、 気をつけなさい。目をさまし、注意していなさい。その定めの時がいつだか、あなたがたは知らないからです。 という戒めと同じ戒めです。 新改訳では、 しかし、あなたがたは、やがて起ころうとしているこれらすべてのことからのがれ、人の子の前に立つことができるように、いつも油断せずに祈っていなさい。 となっていて、「目を覚ましている」ということばが見当たりませんが、ここで「油断せずに」と訳されていることばが「目を覚ましている」ことを表すアグルプネオーです。しかも、ここでは、このことばが中心の動詞で、「祈っていなさい」は現在分詞です。それでこれを生かして訳しますと、 しかし、あなたがたは、やがて起ころうとしているこれらすべてのことからのがれ、人の子の前に立つことができるように祈りつつ、いつも目を覚ましていなさい。 となります。 このことから、一つのことが分かります。先ほど、 気をつけなさい。目をさまし、注意していなさい。その定めの時がいつだか、あなたがたは知らないからです。 というイエス・キリストの戒めを記しているマルコの福音書13章33節には、「祈りなさい」ということばはなかったと考えられると言いました。それはそのとおりです。しかし、実際には、この時イエス・キリストは、ルカの福音書に記されている戒めから分かりますように、祈りつつ、目を覚ましているようにと戒められたのです。 今日の目から見ますと、マルコの福音書に記されている、 気をつけなさい。目をさまし、注意していなさい。その定めの時がいつだか、あなたがたは知らないからです。 という戒めと、ルカの福音書に記されている、 しかし、あなたがたは、やがて起ころうとしているこれらすべてのことからのがれ、人の子の前に立つことができるように祈りつつ、いつも目を覚ましていなさい。 という戒めが同じ戒めであるとは見えないかもしれません。けれども、マルコの福音書は、私たちには「その定めの時」がいつであるかが分からないということから、目を覚ましているべきことが語られたということを示しています。ルカの福音書は、イエス・キリストが語ってくださった「その定めの時」に起こることから、私たちが守られて、主の御前に立つことができるようになるために、祈りつつ目を覚ましているべきことが語られたということを示しています。この二つの戒めは矛盾しません。それで、実際には、イエス・キリストはマルコの福音書とルカの福音書に記されている二つの戒めを総合したものであったと考えられます。 これら二つの個所では同じイエス・キリストの戒めが別の角度から取り上げられていますが、この戒めから分かることは、私たちが目を覚まして祈り続けることは、終わりの日に栄光のキリストが再びおいでになることとの関連においてのことであるということです。 エペソ人への手紙6章18節で「目をさましていて」と訳されているアグルプネオーということばが用いられているもう一つの個所は、ヘブル人への手紙13章17節です。そこには、 あなたがたの指導者たちの言うことを聞き、また服従しなさい。この人々は神に弁明する者であって、あなたがたのたましいのために見張りをしているのです。ですから、この人たちが喜んでそのことをし、嘆いてすることにならないようにしなさい。そうでないと、あなたがたの益にならないからです。 と記されています。 新改訳では、ここにも「目を覚ましている」ということばは出てきません。ここで、 この人々は神に弁明する者であって、あなたがたのたましいのために見張りをしているのです。 と言われているときの、「見張りをしている」と訳されていることばが「目を覚ましている」ことを表すアグルプネオーです。この部分を直訳しますと、 というのは、この人々は弁明すべき者として、あなたがたのたましいのために目を覚ましているからです。 となります。 ここでは「指導者たち」のことが出てきますが、これに先立って7節では、 神のみことばをあなたがたに話した指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生活の結末をよく見て、その信仰にならいなさい。 と言われています。この7節に記されている「指導者たち」はこの手紙の読者たちに「神のみことば」を語った人々で、すでに召されて主の御許にある人々です。「彼らの生活の結末」というのは、その生涯の最後にどうなったということというよりは、つまり、その最後に立派な死に方をしたということよりは、その生涯全体をとおしてどのように生きたかということにかかわっていると考えられます。その生涯には喜ばしいことばかりでなく、悲しいことも、苦しいこともあったでしょう。また、それらの苦しみや悲しみは外からやって来ただけではなく、自らの罪がもたらした苦しみや悲しみでもあったでしょう。しかし、そのようなことのあった生涯の全体をとおして主の恵みが働いており、最終的には、その恵みのゆえにその「指導者たち」は主のものであることがあかしされているということです。それで、その「指導者たち」の生涯をとおして主の恵みに満ちた栄光が讚えられるのです。 これに対して、17節で、 あなたがたの指導者たちの言うことを聞き、また服従しなさい。この人々は神に弁明する者であって、あなたがたのたましいのために見張りをしているのです。ですから、この人たちが喜んでそのことをし、嘆いてすることにならないようにしなさい。そうでないと、あなたがたの益にならないからです。 と言われているときの「指導者たち」は、この手紙の読者たちの現在の「指導者たち」のことです。当然、この「指導者たち」も「神のみことば」を語る人々です。 ここでは、この「指導者たち」が「神のみことば」を語っていることは当然のこととされていて、「指導者たち」の務めの別の面のことが取り上げられていて、 この人々は神に弁明する者であって、あなたがたのたましいのために見張りをしているのです。 と言われています。この「指導者たち」の関心は、 あなたがたのたましいのために見張りをしているのです。 と言われていますように、自分たち自身にではなく、主から委ねられた人々のたましいに注がれています。 そして、それは、「神に弁明する者」としてのことであると言われています。この「弁明する」というときの「弁明」はロゴスということばで表されています。この場合の「弁明する」ということは、最近よく言われている「説明責任(アカウンタビリティ)を負っている」ということです。原文には「神に」ということばはありませんが、意味は「神に弁明する者」ということです。もちろん、この説明責任は「指導者たち」だけでなく、すべての者が負っています。4章13節には、 造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。私たちはこの神に対して弁明をするのです。 と記されています。ここで「弁明をする」と訳されているときの「弁明」ということばは、先ほどの13章17節で用いられていたロゴスです。ここでは、私たちすべてが説明責任を負っているということが示されています。 私たちは自らのうちに罪を宿しており、日ごとにさまざまな罪を犯しているものです。その私たちが、 造られたもので、神の前で隠れおおせるものは何一つなく、神の目には、すべてが裸であり、さらけ出されています。 と言われている神さまに対して説明責任を負っているというのです。いったい、どのようにしてその説明責任を果たすことができるというのでしょうか。私たちは一方的に神さまから断罪されて終わるだけの者ではないでしょうか。 確かに、私たちはそのような者です。しかし、これに続く14節〜16節には、 さて、私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか。私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。 と記されています。私たちはただこのあわれみ深い「大祭司」だけを頼みとして歩んでいます。そして、「私たちの大祭司」にあって神さまの御前に立ちます。「私たちの大祭司」への信仰の告白だけが、私たちの最終的な説明責任です。 私たちすべてが造り主であり、贖い主であられる神さまに対して説明責任を負っていることを背景として、13章17節では、「指導者たち」のことが、 この人々は神に弁明する者であって、あなたがたのたましいのために見張りをしているのです。 と言われています。 「指導者たち」は、常に目を覚ましていて、主から委ねられた群れの全体とその一人一人に心を注いで主の御前に立ちます。これは、キリストのからだである教会の「指導者たち」の本来の姿です。このような「指導者たち」を与えられている群れは幸いです。 ここでは、このことを踏まえて、この手紙の読者たちに対して、 あなたがたの指導者たちの言うことを聞き、また服従しなさい。 と言われています。 このように、「指導者たち」は目を覚ましていて、主から委ねられた群れの全体とその一人一人に心を注いで主の御前に立ちますが、その際に、 この人たちが喜んでそのことをし、嘆いてすることにならないようにしなさい。 と言われていますように、喜びとともに説明責任を果たすようになる場合もありますし、嘆きとともに説明責任を果たす場合もあるわけです。ここでは、それは「指導者たち」の問題というよりは、その「指導者たち」の指導を受けている人々の問題であると言われています。というのは、すでにお話ししましたように、ここでは「指導者たち」が「神のみことば」を語っていることと、主から委ねられた人々の魂のために常に目を覚ましていることは、当然の前提になっているからです。 もちろん、実際には、「指導者たち」に問題があることは、いくらでもあります。私自身がそのような立場にある者として、そのことは十分に自覚しています。ただ、ここではそのことを問題としてはいません。そのことを問題にしていると、見えなくなってしまうことがあるからです。ここで問題となっているのは、「指導者たち」がどんなに正しく、真実に、また豊かに「神のみことば」を語っているとしても、聞いている人々がそれを受け入れないために、実を結ばないことがあるということです。 たとえば、3章16節〜4章2節には、その意味での警告が記されています。そこには、 聞いていながら、御怒りを引き起こしたのはだれでしたか。モーセに率いられてエジプトを出た人々の全部ではありませんか。神は四十年の間だれを怒っておられたのですか。罪を犯した人々、しかばねを荒野にさらした、あの人たちをではありませんか。また、わたしの安息にはいらせないと神が誓われたのは、ほかでもない、従おうとしなかった人たちのことではありませんか。それゆえ、彼らが安息にはいれなかったのは、不信仰のためであったことがわかります。こういうわけで、神の安息にはいるための約束はまだ残っているのですから、あなたがたのうちのひとりでも、万が一にもこれにはいれないようなことのないように、私たちは恐れる心を持とうではありませんか。福音を説き聞かされていることは、私たちも彼らと同じなのです。ところが、その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした。みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかったからです。 と記されています。 ここでは、3章19節で、 それゆえ、彼らが安息にはいれなかったのは、不信仰のためであったことがわかります。 と言われており、4章2節で、 福音を説き聞かされていることは、私たちも彼らと同じなのです。ところが、その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした。みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかったからです。 と言われていますように、福音のみことばが「説き聞かされている」のに、それを信じて自分に当てはめないことに対する警告が記されています。福音のみことばを自分に当てはめるということは、福音のみことばに示されている主の贖いの恵みに信頼して、主とともに歩むことを基本としています。もちろん、その歩みの中で罪を犯すことがありますが、その罪も福音のみことばの約束にしたがって、きよめていただき、赦していただくのです。 これに対して、「指導者たち」が喜びをもって目を覚ましていることをうかがわせる例もあります。たとえば、ヨハネは、ヨハネの手紙第二・4節〜8節において、 あなたの子どもたちの中に、御父から私たちが受けた命令のとおりに真理のうちを歩んでいる人たちがあるのを知って、私は非常に喜んでいます。そこで夫人よ。お願いしたいことがあります。それは私が新しい命令を書くのではなく、初めから私たちが持っていたものなのですが、私たちが互いに愛し合うということです。愛とは、御父の命令に従って歩むことであり、命令とは、あなたがたが初めから聞いているとおり、愛のうちを歩むことです。なぜお願いするかと言えば、人を惑わす者、すなわち、イエス・キリストが人として来られたことを告白しない者が大ぜい世に出て行ったからです。こういう者は惑わす者であり、反キリストです。よく気をつけて、私たちの労苦の実をだいなしにすることなく、豊かな報いを受けるようになりなさい。 と記しています。 ここでヨハネは、偽りの教理をもって人を惑わす人々がいる中で、自分が心に懸けている人々が、福音の真理のうちを歩み、互いに愛し合っていることを知って喜んでいます。 また、ヨハネの手紙第三・3節、4節においても、 兄弟たちがやって来ては、あなたが真理に歩んでいるその真実を証言してくれるので、私は非常に喜んでいます。私の子どもたちが真理に歩んでいることを聞くことほど、私にとって大きな喜びはありません。 と述べています。 これらのことから、目を覚まして祈り続けるためには、「主の時」をわきまえていなければならないということを受け止めたいと思います。それは、いつ主が再びおいでになるかということ、主の再臨の時がいつであるかを知るようになるということではありません。イエス・キリストが、 気をつけなさい。目をさまし、注意していなさい。その定めの時がいつだか、あなたがたは知らないからです。 と戒めておられるように、「その時」がいつであるかは私たちには知らされていません。しかし、「その時」がいつであるかは分からないけれども、私たちは、福音のみことばのあかしに基づいて、「その時」があることを信じています。そして、「その時」には、主は私たちの救いを完成してくださり、万物を父なる神さまと和解させてくださって、新しい天と新しい地を造り出してくださるために来られるということを信じて待ち望んでいます。そのような意味で「主の時」をわきまえていることが、「目を覚まして祈る」ための条件です。私たちはそのようにして、 御国が来ますように。 と祈ります。 また、そのような意味で「主の時」をわきまえている者は、恐る恐る「主の時」、「主の日」を待つようなことはありません。「主の時」、「主の日」が福音のみことばに約束されている、私たちの救いの完成の時であることを信じて、望みと喜びをもって、 御国が来ますように。 と祈りつつ「その時」を待ちます。 そのような私たちには、「主の時」、「主の日」が突然襲うというようなことはありません。テサロニケ人への手紙第一・5章1節〜8節に、 兄弟たち。それらがいつなのか、またどういう時かについては、あなたがたは私たちに書いてもらう必要がありません。主の日が夜中の盗人のように来るということは、あなたがた自身がよく承知しているからです。人々が「平和だ。安全だ。」と言っているそのようなときに、突如として滅びが彼らに襲いかかります。ちょうど妊婦に産みの苦しみが臨むようなもので、それをのがれることは決してできません。しかし、兄弟たち。あなたがたは暗やみの中にはいないのですから、その日が、盗人のようにあなたがたを襲うことはありません。あなたがたはみな、光の子ども、昼の子どもだからです。私たちは、夜や暗やみの者ではありません。ですから、ほかの人々のように眠っていないで、目をさまして、慎み深くしていましょう。眠る者は夜眠り、酔う者は夜酔うからです。しかし、私たちは昼の者なので、信仰と愛を胸当てとして着け、救いの望みをかぶととしてかぶって、慎み深くしていましょう。 と記されているとおりです。 また、「主の時」は、世の終わりのイエス・キリストの再臨の時だけではありません。私たちは主に対して「説明責任」を負っています。確かに、私たちが最終的に「説明責任」を果たすのは、世の終わりのイエス・キリストの再臨の時です。しかし、主は私たちの地上の生涯において、「時」に応じて私たちに呼びかけてくださり、問いかけてくださいます。それも「主の時」としての意味をもっています。それは、特に私たちが霊的に眠りこけてしまっている時になされることです。主の恵みの取り計らいによる「時」です。私たちはその都度、眠りから覚めて、福音のみことばの約束に基づいて真実な悔い改めをし、再び、ともに目を覚ましてお互いのために、そして、すべての聖徒たちのために祈り続ける歩みを始めることになります。 |
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